一九八四年〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

制作 : トマス ピンチョン 
  • 早川書房
4.09
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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200533

感想・レビュー・書評

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  • 物事を自由に考える事と考えを巡らす事。時にその考えが他者を否定したり、他者に不利益をもたらす事を想像する事。想像しようと思ってなくても勝手に頭に浮かんで来てしまう。そんな事は口に出したり行動に移さなければ犯罪とは呼べない。

    本作品において、これは思考犯罪と呼ばれ極刑に値します。


    戦争とは領土を争うためや、潰された面子の回復、主義主張の対立により発生するもので有るべきで、戦争の勝利により何かしらの利益が無くてはならないかと思う。

    作中の世界では長い長い戦争が行われております。世界の覇権を競うわけでは無く戦争のための戦争がダラダラと続けられております。


    希望に満ちた話はありません。


    作中の様な世界になってほしくはない。自由の素晴らしさを理解しているつもりではある。しかし作中の世界が必ずしも悪いという言葉で片付けられるものでも無いと同時に思う。

  • どこからか金木犀の香が漂ってくる
    ある秋の日に読み始めた

    書かれている状況が
    あまりにつらくて、何度か本を閉じて
    ちょっと(頭の中の)口直しの為にかなり軽い目のエッセイを読んでいたりした

    そして
    読み終えた日は
    空一面に秋のうろこ雲が広がっている
    それこそ ニッポンの秋日和の休日だった

    もし 冬の寒々とした氷雨の降りしきる日に
    読んでいたら ちょっと辛さを通り越して
    手が出なかったかもしれない

    「平和省は戦争を遂行し
     真理省は噓をつき
     愛情省は党の脅威になりそうな人物を片っ端から拷問し殺していく」

    読めば読むほど
    こんな国を作りたがっている
    現代のこの国の未来の話ではないか
    と思ってしまった

    ディストピアは想像の産物として
    妄想のままであって欲しい

  •  政府に不都合な記録全てをそのつど書き換え歴史を思うがままに改竄し、党員同士の監視により不穏分子は可能性の段階から排除していく管理社会。最小限度まで語彙を削減し言語表現を破壊することで人間の思考範囲を狭めようとする試みに加え、対立項を(矛盾していると知りながら)両方とも受け入れる思考法の醸成など、恐ろしい政策てんこ盛り。
     
     それらの目的はみな人間の思考(精神)をいかに支配するかに集約されており、偽りの服従さえも許さない、権力欲のおぞましさを描いている。
     そしてなお不気味なのは、独裁者自体はただのシンボルに過ぎず、こうした残酷な社会を延々と機能させ続けているのは他ならぬ国民なのだというところにある。
     
     恐怖と憎悪がいかに容易く人間を壊し、空っぽになるまでぐちゃぐちゃに壊された精神がどのように洗脳を受け入れていくかを描くことで、人間の「精神」に対する無根拠の信頼に懐疑を投げかけているところがえぐい。
     
     いっぽう解説を読んでなるほどと思ったのは、附録の「ニュースピークの諸原理」がオールドスピークで、未来の視点から書かれているところに、道徳的秩序の回復と救済がほのめかされているということ。決して道徳的な人間性を否定するだけでなく、簡単に歪んでしまう人間性を踏まえた上で、私たちにできることはあるのだという希望を残しておくところに、この作品の本質はあるのだと思いたい。

  • 冒頭から圧倒された。凄まじい圧迫感。ひたすら怖かった。
    言語を作り変えるという発想も、過去の書き換えも、全て狂気に溢れている。
    ついでに、もう、大きな栗の木の下でを平常心では聞けない。

    最後に解説を読んで、少しだけ救いを感じた。


    …読後に同僚と話して、ある意味我々の職場も一緒じゃん、ということに気づき愕然。

  • 「自分が間違っていることはわかっている。だが間違っている人間でいたいのだ」ー 435ページ

    この敗北に向かっても突き進まなければいけないという心性はなんなのだろう。既定路線を敢えて変えてしまおうということは割合狂気的なことというか、まあこういうのを説明する便利な概念が「運命」ということになるのだろうか。特に本書の場合、「運命」に立ち向かおうとすること自体が受け入れられないのだから、結末はこうなってしかるべきということになっているのがうまい。

    受け入れられない運命と受け入れてしまうという運命、そのどちらも採用したくない時に人は第三極の存在を常に願うものであるということの表現が特に秀逸。

  • 恐ろしい本であると思う。第2次大戦直後に約40年後の未来を想定して書かれた物語。世界は全体主義一色に染まり、生活のすべて、表情に至るまで徹底的に市民は監視されている。貧困層には国の自作自演による直接的な脅威(ミサイルを自国内に撃ち込む!)によって、仮想敵への憎悪を膨らませ、自国のいかに正統なるかを唱えるいびつな国粋主義を植え付ける。知識層にはいつでも思想そのものを監視されているが故の、いつ誰からとも想像がつかない、拘束と教化への目に見えない恐怖で統制をとる。

    原著者の執筆当時にはその思想的勢力を拡大し、世界中のインテリ層に浸透していった共産主義、全体主義の行きつく先を見通した、きわめてスリリングな物語である。この話はすべてではないにせよ、中国における文化大革命に見られるように、現実となった部分もあるのだ。

    物語の終わりはあまりにも無情だ。
    かつて非常なる困難を乗り越えながら愛し合った男女はすでに感情をなくした。自由を願ったがゆえに、壮絶な教化を受けた男は、いずれその頭に銃弾を撃ち込まれることを知っており、またそれを望んでいる。果たして彼への教化は果たされたのだろうか。私は、あくまで自由の精神が彼の心の片隅に無意識にでも残ったまま死を迎えてほしいと思う人間である。

  • 最近、世の中を「ジョージ・オーウェルの 1984 に描かれたような」と評する言質を耳にすることが多いのだが、当の 1984 (Nineteen Eighty-Four)を読んだことがなかったので、読んでみた。そこに描かれるのは、「寡頭制集産主義」と呼ばれる恐怖と憎悪と基礎にした階級社会である。

    この殺伐としたストーリーには陰々滅々とさせられるが、「附録 ニュースピークの諸原理」を前向きに捕えたトマス・ピンチョンの解説で多少は救われる。またピンチョンは「批評家連中が面白がってやる、おそらく一分かそこらのちょっとした気晴らしにしかならないゲーム」と自嘲しながらも、やはり現代において全体主義、精神の腐敗、権力中毒が着実に進行している(つまり、「ジョージ・オーウェルの 1984に描かれたような」という形容が当たっている)ことを指摘する。たとえば、Internet もピンチョンによれば(あるいは Nicholas Carr によれば)「奇妙な髭を蓄えた前世紀の古風な圧制者が夢見るほかなかった大規模な社会コントロールを約束」するものだ。Google が「党中枢」になることを決意した場合、我々はプロールにならざるを得ないのであろうか。

  • 村上春樹の1Q84のタイトルの元ネタ本だな~という認識で
    読み始めた本。

    人間と社会に対する、徹底した冷徹な視点に背筋が寒くなりました。

    拷問と再教育を受ける主人公が、既に物質への支配は完全である
    という党幹部のオブライエンに反駁すると、オブライエンは言う
    「われわれは精神を支配しているから、物質を支配しているのだ。
    現実は頭蓋の内部にある。君も徐々に分かってくるだろう、ウィンストン。
    われわれに出来ないことは何一つない。不可視にだってなれるし、
    空中遊泳も出来る・・・われわれが自然界の法則を作っているのだ」
    徹底的に思考と精神を支配、管理することによる権力の維持。

    50年以上前に構想された思考管理の方法は、徹底した監視と拷問、洗脳による再教育ですが、現代ではどうでしょうか。
    心理学的な分析に基づくマーケティング、意図的に作出された貧困、
    合法的に追いつめられた精神と、1つしかないと思わせられた将来
    などなど。方法は違えど、同様のことは様々に行われているようです。

  • なんか有名だったので読了。
    めちゃくちゃ好きな作品だったのでもっと早く手を出しておけばよかったと若干後悔すらしている。
    このお話のタイトルは1984年だが今現在行われている政策やブームにも近しいことが言えるのではないかと思えることが多く、ビックブラザーも私たちが特定の「なにか」として認識していないだけで着実に私たちの過去を歪めていっているのではないかと思った。
    個人的に特に気になったのは『反セックス主義』と『ニュースピークによる言葉の短縮』の2つ。
    『反セックス主義』では快楽の為の性行為を禁止し人工受精を推奨していた。作中でこの政策によって起こっている取り上げられていたのは「性欲の不解消による鬱憤を特定の人物・物への敵対行動に向けさせることで大衆をコントロールすること」だったが、私はそれともう1つ「家族という繋がりを薄めることで行方不明者への関心を削ぐこと」があると考えた。党は不都合な思考をもつ人間を行方不明にし「もともといなかった」ことにするが、もし人と人との関係が濃いと消えた人間に関係のある人間がその人が消えたことに執着し捜索をはじめてしまう恐れがある。人間の関係を希薄にするということは悪巧みをする人にとって都合の良いことであり、現在も同じことが起こりはじめているのではないかと私は考えた。
    『ニュースピークによる言葉の短縮』では既存の語彙を破壊し簡単な語彙のみに絞ることで思考することを抑制しようとしていた。これは現在の社会でも若い世代の子たちが「エモい」「卍」「アツい」といった複数の意味をもつ言葉を使っており、私はこれらが一部の若者のみに流行っているため今は問題ないがこれらが老若男女問わず使いはじめると同じ現象に陥ってしまうのではないかと考えた。
    現代においても問題提起が出来る上に世界観も素晴らしい為とても面白い作品だなと感じた。

    あと、読んでる最中にずっと白髪のおじいちゃんが脳内でヤイヤイと叫んでた。

  • 当時、友人に勧められて読んだけど社会の歪みへの提言のような、庶民としての憤りや静かな怒りが淡々と伝わってきた。読んでくうちに辛くなって閉じたくなるほどだけど、今こそ読んでおきたい名著であろう。

    また再読しよう。

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著者プロフィール

1903-50 インド・ベンガル生まれ。インド高等文官である父は、アヘンの栽培と販売に従事していた。1歳のときにイギリスに帰国。18歳で今度はビルマに渡る。37年、スペイン内戦に義勇兵として参加。その体験を基に『カタロニア讃歌』を記す。45年『動物農場』を発表。その後、全体主義的ディストピアの世界を描いた『1984年』の執筆に取り掛かる。50年、ロンドンにて死去。

「2018年 『アニマル・ファーム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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