一人称単数

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163912394

感想・レビュー・書評

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  • タイトルになっている作品を含む8つの短編集。
    村上春樹さんの過去や要素を感じ取れる部分がある作品が多く、大抵自分とある女性との関わりについての話が多かった。
    春樹さんぽい不思議さはあるが、短編なのでさらっと読める。
    個人的には「石のまくらに」と「ウィズ・ザ・ビートルズ」がよかった。

  • 面白かった!村上さんの作品は現実のようで、いつも違う世界に連れて行ってくれる。
    今見てる世界と、隣り合わせの世界が並行してる感じ。
    なんなんだろう?この独特の世界。

    1番好みは品川猿かな。
    石のまくらには、村上さんらしいハレンチさを感じた
    (大家さんと僕の大家さんの受け売りだけど)。

    一人称単数も、なんかモヤモヤ感がわかる。
    そんな記憶がないのに何故か反論できない感じ。

  • 村上春樹の久しぶりの短編集。遊び心がいつもより少し多めに含まれているような印象を受ける。タイトルの『一人称単数』が示す通り、収められた八編の短編はすべて一人称で語られる。

    村上春樹が、自身が書く小説の人称のスタイルを意識的に変えてきたことはよく知られている。まず、デビュー以来しばらくは一人称のみで小説を書いている。『風の音を聞け』も『羊をめぐる冒険』も『ダンス・ダンス・ダンス』も、そして大ベストセラー『ノルウェイの森』も一人称で書かれていた。『神の子どもたちはみな踊る』で初めて三人称で書くことが試みられ、その後『海辺のカフカ』から長編小説も三人称で書くようになり、一人称の限界を越えた小説世界を描くことができるようになったという。そしてまた、いまのところ最新の長編小説『騎士団長殺し』では「新しい一人称の可能性みたいなものを試す」としてまた一人称の語りに戻っている。そうした流れの中でのこの新しい短編集『一人称単数』である。

    2017年に出版された川上未映子との対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中でも人称について、かなり突っ込んだ話がされている。その中で、「四十代の半ばくらいまでは、例えば「僕」という一人称で主人公を書いていても、年齢の乖離はほとんどなかった。でもだんだん作者の方が五十代、六十代になってくると、小説の中の三十代の「僕」とは、微妙に離れてくるんですよね。自然な一体感が失われていくというか、やっぱりそれは避けがたいことだと思う」と年齢的な側面から、これまでの一人称への違和感が語られている。また、村上春樹の一人称の使われ方が他のいわゆる一人称小説とは少し違うという川上の指摘に対して、「それは私小説的なファクターがあるかないかという問題だと思う。僕の場合、そういうファクターはほぼまったくないから」と返している。

    そういった過去の作品に対して、この短編集では私小説的なファクターがおそらくあえて意図的に出されたものとなっている。つまり、作者自身の年齢と思しき人物(=話者)が、自らの若かりし二十歳のころのことに起きた過去の出来事について振り返るという構造になっているものが多い。『石のまくらに』『クリーム』『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』『ウィズ・ザ・ビートルズ』『ヤクルトスワローズ詩集』などがそうだ。特に『ヤクルトスワローズ詩集』では、話者が「村上春樹」であるということまで言っている ―― もちろん、それでもこれはエッセイではなく小説であり、本当の村上春樹とは違うわけだが。この辺りの構成が、私小説的村上短編小説の新しい味わいでもある。

    それでは、短編集に収められた個々の短編について見ていくこととする。※ネタばれ多数につき注意。

    ①『石のまくらに』
    「僕」がその当時やっていたアルバイトの仕事を辞めていく同僚女性の送別会の帰り、自宅の小金井まで帰るのが遠いからと言って「僕」のアパートがあった中央線の阿佐ヶ谷でその女性と一緒に降り、一夜と共にする。そして、その後は二度と会うこともなく、顔もよく思い出せない(月光に照らされた彼女の肉体と鼻の横に並ぶ二つのほくろだけは覚えているという表現がいかにも村上春樹らしい)。彼女は短歌を詠んでいて、「歌集」を一冊自費出版しているのだが、ある日、後で送ると言っていたその「歌集」が送られてくる。その「歌集」のタイトルが『石のまくらに』である。「石のまくら」は冒頭と最後に置かれた彼女の短歌に象徴的なものとして出てくる。

    たち切るも/たち切られるも/石のまくら
    うなじつければ/ほら、塵となる

    石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは
    流される血の/音のなさ、なさ

    「十九歳の頃の僕は、自分の心の動きについてほとんどなにも知らず、当然のことながら、他人の心の動きのことだってろくにわからなかった」と「僕」は言う。それでは、今の「僕」はわかっているのだろうか。おそらく、多くの他人の心の動きに触れてはきたが、わからないということがよくわかった程度なのかもしれない。十九歳のときにどうしていればよかったのかも、今もまだわからないのではないか。そして、そういう問いがもう意味がないということはわかるようになったということなのかもしれない。

    ところで、「石のまくら」という言葉で、どういうものを思い浮かべるだろうか。川の小石を詰めた枕というものが実際の商品としてはあるのだが、自分が「石のまくら」という言葉で思い浮かべたのは固く黒くひんやりとした大きめの石だ。もちろんそんなものをまくらに寝る人はいないのだが、寝るときにも深層意識に届かせるかのように、まくらのように側に置く「石」=「意志」を象徴しているのかもしれない。そして、その固さに拒まれているように感じているのだろうか。
    575調の短歌において6音節の「石のまくら」は声に出すとある種のごつごつとした違和感がある。あえて「石のまくら」をタイトルにも選び出した意図は、それなりに読者に解釈を期待するものでもある。違和感のある6音節の最初の1音節を除くと「しのまくら」となるが、村上春樹にとっておなじみの「死」につながっていると解釈することすら可能なのかもしれない。そう思うと先の二編の短歌は強く死を意識させるもののように感じる。「僕」への誘いの夜と、送られてきた歌集は、彼女の救いを求める声であったのかもしれない。それは抑えられた声であった。覚えておいてほしいと求める彼女に対して、「僕」は何ひとつ応えることもできず、またそのことにも気が付いてさえいなかったのかもしれない。その後の彼女の「死」さえも。

    他にも印象的な短歌がいくつか仮構の歌集から小説の中で取られて紹介されている。短歌というフォーマットをそっと小説内に挿入する試みによって、若さのわからなさと、そして歳を取ることによってそのわからなさが意味をなくしていくことが小説として表現されているかのようだ。

    あと、武蔵小金井は遠くないよ(小金井住人より)。

    ②『クリーム』
    ピアノ教室で一緒だったそれほど仲のよくなかった女の子から、浪人中の「ぼく」にリサイタルの招待状が届く。指定された日時に行った指定された神戸の山の上の会場の扉には鍵がかかっていた。いつまで待っても誰も来る気配すらない。要するに少なくとも結果としては騙されたわけだが、なぜそうなったのか「ぼく」にはよくわからない。そして、手持ち無沙汰になり、時間つぶしに寄った近くの公園での老人との会話が小説の肝になる。会話の中で出てくる『クレム・ド・ラ・クレム』、フランス語でクリームの中のクリームという意味で、人生の最良のものを指すという。

    そこに意図や原因があるのかもしれないが、それを知ることに意義があるのかもわからない、そういった理不尽な出来事というものがある。公園の老人は、「中心が無数にあり外周のない円」について考えるように若い「ぼく」に言う。それこそがクリームであり、それ以外に大事なことはないと。論理的にはありえないけれども、何かしらその論理を超えたところにあるかもしれない何か ―― その重要なものを探し続けることが人生にとって重要だと。それが何だったのかは当然書かれないし、それは見つかることを期待されているものではないのだ。開かれないリサイタルのように。そして、そのおかげで会うことになった老人との会話のように。

    ここで何か引っ掛かりがあるとすると、この老人があえて「クレム(creme)」というフランス語を使ったことと、一方でこの短編のタイトルが「クリーム」となっているところである。小説を読む上で、そういった引っ掛かりは重要なキーであるのかもしれない。例えば、そこにフランス語の「クリム(crime)」=罪を読み取ることは深読みすぎだろうか。長き人生において何かしら知らず他人に対して犯していた罪(crimeよりもsinの方が合うような気もするが)、はこの短編集を貫く主題のひとつであるようにも思うのだ。

    「要するにぼくは、好奇心というものの正しい扱い方を、あちこちに頭をぶっつけながら学習する途上にあったということになるだろう」―― そのころは何しろ時間は十分にありそうに思えたし、きっと自分がわからないけれども世の中ではよく知られていることが山ほどあると思っていた。そして、歳を取った後に、そのころの自分をそういう風に振り返るのだ。

    ちなみに二つ目のこの短編だけが「ぼく」という平仮名が使われているが、他の短編では漢字の「僕」が使われている。理由は、考えてみたけれども、よくわからない。読みに注意することということとフランス語のつながりを見るのであれば、「ぼく」= beaucoup(たくさん)という示唆を読み取ってもよいのかもしれない。そこには、無数の可能性の中心としての「ぼく」があり、それによって仮に把捉される無数の周辺があり、それでもそこにはやはり核となるもの=「クリーム」がある、という構造なのだろうか。そう考えるのもまた自由だよね。

    ③『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』
    「僕」が大学の学生のときに、チャーリー・パーカーの架空のアルバム(何と言ってもバードはすでに亡くなっているし、ボサノヴァを吹くなんて想像できない)についてのアルバム評を同人誌に寄稿する。それは結構面白く書けていて、パロディとしては上質なものの部類に入る。その後に出てくる、ニューヨークの古レコード屋で『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』というレコード盤を見つける話や夢の中でバードが『コルコヴァド』を吹いてくたりといったエピソードが村上春樹らしい。
    言葉のもつ不思議な力と、事実の不確実さを表現しているのだろうか。

    村上春樹の「架空の作品」ということでは、『風の歌を聴け』で架空の作家デレク・ハートフィールドを登場させた前科もあり、後で出てくる『ヤクルトスワローズ詩集』の件にもつながる。面白い小品。

    ④『ウィズ・ザ・ビートルズ』
    ビートルズのアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を胸に抱えて高校の廊下を走る少女。1964年に彼女とすれ違った高校生の「僕」は彼女に恋をしているのだけれど、その姿を二度と見ることがない。心に沁みつくような若い時代の不思議な記憶というものがある。その心象イメージは、何か特別なものであるわけではないが、心の奥の鈴を鳴らすような何かだ。

    「かつての少女たちが年老いてしまったことで悲しい気持ちになるのはたぶん、僕が少年の頃に抱いていた夢のようなものが、既に効力を失ってしまったことをあらためて認めなくてはならないからだろう。夢が死ぬというのは、ある意味では実際の生命が死を迎えるよりも、もっと悲しいことなのかもしれない。ときとしてそれは、ずいぶん公正ではないことのようにさえ感じられる」ー― この短編集に通底するモティーフが繰り返される。それは可能性の不可避な喪失と、あったかもしれない過去に対する公正さ、だ。

    初めて付き合ったガールフレンドの家に待ち合わせの時間に「僕」が行くと、彼女の家には彼女の兄を除き誰もいない。しばらく家で待つ間、その兄が自分は記憶をなくす疾患を抱えているのだという印象的な話をする。「記憶」は村上春樹の中でずっと抱え込まれているテーマだ。そしてその後、「僕」はたまたま持っていた芥川龍之介の『歯車』を朗読する。『歯車』は、芥川が自殺をする直前に書いた小説だ。女の子に言われた時間に行っても不在で、代わりに想定をしていない誰かと印象的な話をするというのは『クリーム』と同じ構図だ。その後、六甲山の上でそのガールフレンドには別れを告げることになり、それから二度と会うことはない。

    それから十八年後に兄と再会し、その当時のガールフレンドが今から三年前に自殺したことを告げられる。その理由は誰にもわからないという。
    記憶と公正さと、その残酷さ。他人のわからなさ、についての小説。とても、村上春樹らしいと感じた短編。

    ⑤『ヤクルトスワローズ詩集』
    1982年『羊をめぐる冒険』を出す三年前に500部を自費出版した『ヤクルト・スワローズ詩集』。500部ほど印刷したが、ほとんど売れなかったが、すべてに「村上春樹」のサインをしており、今では貴重なコレクターズ・アイテムになっているという。どうやら作り話らしいが、神宮球場で小説家になるという啓示を受けたというエピソードはとても有名なので、一応話が通っていて、くすり、と笑いを誘う感覚を生む。

    『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』での架空のレコードの話があることとも絡んで、面白くチャーミングな小噺。

    なお、ヤクルトスワローズのサイトに「「ヤクルト・スワローズ詩集」より」という村上春樹のエッセイが掲載されている。そこには、この小説の一部とほぼ重なる内容が、小説内にも登場した「右翼手」という詩とともに記載されている。
    https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/fanclub/honorary_member/murakami
    また、糸井重里とのショートショート集『夢で会いましょう』でも「オイル・サーディン」「スクイズ」「スター・ウォーズ」「チャーリー・マニエル」「ビール」の五編が「ヤクルト・スワローズ詩集」から抜粋されたという体裁をとっている。ヤクルト・スワローズの存在と出会いは村上春樹にとって、とても大切な何かなのだ。

    ⑥『謝肉祭 (Carnival)』
    シューマン作曲の『謝肉祭 (Carnival)』が好きだということで意気投合した「醜い」女性の話。醜いが、人間として魅力的でないわけではない。「その方が彼女の本質により近く迫る」という理由であえて「醜い」という表現を使うという。村上春樹の小説としてはどこかテイストが変わった小説だと感じた。モデルになるような女性が実在していたのだろうかとも訝る。

    ⑦『品川猿の告白』
    村上春樹の短編集『東京奇譚集』に収められた短編の中に、同じく人の言葉をしゃべり、名前を盗む『品川猿』という作品がある。こちらの方も再読してみた。
    あの猿にはこういう過去と、その後の人生(猿生?)があったのかと思って読むと楽しい。『東京奇譚集』の『品川猿』を知っている読者とそうでない読者では明らかに味わいが違う小説だが、そこはあえて語られず、読者に委ねられている。ここでの、ああ分かっているよという感覚は、作者と読者のある種の信頼関係が感じられて、読者としてとても心地よい。

    ちなみに『東京奇譚集』の『品川猿』は三人称で語られた小説である。学生時代を思い出すという話でもあり、自殺が出てくる話でもある。語り手のみずきに対して「みずきさんはこれまで、嫉妬の感情というものを経験したことがありますか?」とその後に自殺をする松中優子が問いかける印象的なシーンがある。村上春樹のその後の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』や『女のいない男たち』で嫉妬がテーマに挙げられることから考えても重要で印象的な短編である。

    ⑧『一人称単数』
    短編集のタイトルにもなっている短編で、この短編だけが短編集のために書き下ろされた作品である。また、この短編だけ「私」という人称が使われている。このことは他の短編と違う位置づけの短編――他の短編のアンカーともなる位置にある――であることを示していると言っていいだろう。
    前述の『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中で、「僕の感覚からいくと、「私」というのは、どちらかといえば観察する人なんです。「僕」という人間は、たとえば『羊をめぐる冒険』のときが典型的なんだけど、いろんな周囲の強い力に導かれたり、振り回されたりすることになる」と「僕」と「私」の違いを自ら説明している。なお、その対話の後に書かれた長編小説『騎士団長殺し』では「私」が使われている。
    (過去作品でも『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、「世界の終わり」では「僕」、「ハードボイルドワンダーランド」では「私」が使われている)

    「私」はたまたまバーで会った見知らぬ女性に、自分の記憶にないことで詰められ、彼女の共通の知り合いに不愉快な思いをさせたということで「恥を知りなさい」と言われる。バーを出た「私」の前には、入ってきたときの街とは違う街が広がる。バーで女性に声を掛けられる前に、「私」は「そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?」と自問している。「他でもないこの私」という単独性について、柄谷行人が固有名とともに『探求II』で思考したが、名前について象徴的に語る『品川猿』についての話をこの短編に加えた理由が何となくわかるような気がした。

    確かに人生には無数の選択がある。特に若いころには、そうでなかった可能性がたくさんあるように思えるのだ。また、思いもかけない形で、「恥を知れ」と言われても仕方ない形で誰かの人生に影響を与えてしまっていることもあるのかもしれない。可能性としての人生は、「中心が無数にあり外周のない円」だ。『石のまくらに』の「僕」は歌集を送ってくれた女の子にとり返しのつかないひどいことをしてしまったのかもしれない。『クリーム』の「ぼく」はピアノ教室の女の子にひどいことをしたために、嘘のリサイタルで仕返しをされたのかもしれない。『ウィズ・ザ・ビートルズ』の元ガールフレンドは、「僕」の仕打ちのために十何年か後に自らの命を絶たなければならなかったのかもしれない。『謝肉祭』の「醜い」女性に「僕」の名前が利用されて名前も知らない誰かを深く傷つけてしまったのかもしれない。いまここの私の単独性は狭さのゆえであり、またいくばくかの残酷性を必然的に含むような形でしか成り立たないものなのかもしれない。

    村上春樹が父との関係に触れた『猫を棄てる 父親について語るとき』の中で次のようなある種の人生観に触れている。

    「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」

    『一人称単数』のそれぞれの物語の底を流れるモチーフとして、振りかえられた父との関係も含めて歳を経て得られたある種の人生観があるといえるのかもしれない。

    たくさんの仕掛けが仕込まれている楽しい短編集。また、あらためて自分が村上春樹のファンなのだなとわかった。またしばらく経った後でも、もう一度いろいろな読み方ができそうだ。

    • kinya3898さん
      大変面白くかつ興味深く拝読しました。
      フォローさせていただきます。
      よろしくお願いします。
      大変面白くかつ興味深く拝読しました。
      フォローさせていただきます。
      よろしくお願いします。
      2020/08/08
    • 澤田拓也さん
      kinya3898さん、コメントありがとうございます。コメント入るととてもうれしいです!
      こちらもフォローさせていただきました。よろしくお願...
      kinya3898さん、コメントありがとうございます。コメント入るととてもうれしいです!
      こちらもフォローさせていただきました。よろしくお願いします!
      2020/08/08
  • 短篇集好きゆえに少し甘めに。
    少し不思議なエッセンスが随所に散りばめられ、全八話どれも良かった。
    中でもウィズビートルズと品川猿の、淡々と進むやりとりが好きだ。

  • 前作の短編『女のいない男たち』しか読んだことがないためそれとの比較しかできないのですが、どのお話も読みやすく面白かったです。
    「謝肉祭」は『女のいない〜』に近いちょっとしたホラー感があります。
    特に好きなのは「クリーム」です。例によって抽象的でよく分からないんですが、あり得そうな設定とあり得ない(であろう)展開が不思議と心に残ります。
    最後の「一人称単数」に出てくるバーは、もしや「木野」に出てくるあのバー、、?
    なんてつい前作との繋がりを考えてしまいました。
    全作品を通して、"不思議な過去の記憶のコレクション"、そんな感じがしました。
    また読み返すと思います。

  • 毎度思うことではあるのだけれど、村上氏の作品には難解な、というより凝りすぎて一周回って意味が無くなってしまったような無意味な比喩が散見されるが、やはりこういうところがこの人の魅力なのだろうな、と。

    そこはかとないユーモアというか、彼独特の諧謔、人をどこか小馬鹿にしたような、からかうような、そういうシニカルなレトリック。
    例えば四阿のベンチの老人の関西弁のような。

    幾多の村上春樹チルドレンと呼ばれる方々が模倣し、しかしその殆どが救いようの無い劣化コピーと思える、そのまさに業の塊みたいなものを今回も同じように感じた。

  • 作者自身(と思われる)を主人公にした短編集。どの作品もフィクションなのかノンフィクションなのか、その境目がぼんやりしているところが読者の想像力を書き立てる。

    いずれの作品も何か劇的な展開がある訳ではないのだが、作者の無駄のない流麗な文章の流れが心地よく、気持ちよくページを繰ってしまう。

    作品のタイトルではないが、夜中に静かな音楽とお酒と共に一人静かに読みたくなる一冊。

  • 村上春樹自身であると思われる「私」を主人公に据えた、全8作から成る短編集。
    高校生の時に初めてノルウェイの森を読んだ際、ファンタジーに近い現実感の希薄さが自分には合わないと感じ、あまり好きになれなかったのだが、その理由をしっかり言語化出来なかった。
    そのまま苦手意識を持ったままでいるのは嫌だったので、刊行されている作品は殆ど全て読んできたのだけど、今でもなぜ?と聞かれれば、よく分からないけど苦手としか答えられない。

    今作も導入から村上春樹節が全開で、登場人物、会話、関係性全てにおいて、読者の期待を裏切らない。
    ただ、作品が進むにつれて、そういった要素が薄れていくような感覚があり、「私」が体験したちょっと不思議なお話しなどが顔を出す。
    段々読みやすくなっていくことで、良い意味で拍子抜けした部分もあったが、全て読みきると、やはり感想を言語化しづらいモヤモヤとしたものが残っていることに気づいた。

    短い作品ばかりなので、カフェなどでサクっと読んでしまうのが良いと思う。重い作品などを読んだ後なら、心が少し軽くなるような気がする。

  • レビューも沢山あるので、幾つかお気に入りのお話だけ紹介。
    ややネタバレ含むので、以下注意。



    「クリーム」は、とても好意を抱かれているとは思えなかった連弾相手からリサイタルの案内状を受け取る。主人公も不思議に思いながら、花束を抱えて赴いた所、会場には鍵がかかっていて、誰もいなかったというストーリー。

    もちろん、ここから、まだ続きはあるのだけど。
    この、「何かを間違えたのだろうか?」を問うお話が、私は好きなのだと思う。

    大人になると、学生時代に得たような、わかりやすい分岐点はあまり生じないことを知った。
    けれど、毎日を真っ直ぐに進んでいる中で、ふと、ぽっかりと落とし穴が開いていたとしたら。
    そして、そこにまんまと自分が嵌ってしまったとしたら。

    どうしてそれを回避出来なかったんだろう?
    自分がそれを受けなければならなかったのか?
    と、きっと分岐点を探そうとするように思うのだ。
    探したからと言って、今が変わらないとしても。

    同じく「一人称単数」では、「鏡」から同名の短編小説との重なりとして、スーツを着た自分が鏡に写る姿を見て、何か自分ではない感覚を覚える所が似ているなぁと思った。

    そしてたまたまバーで隣になった見知らぬ女性から、自分の知らない自分の悪事を暴露されそうになり、逃げかえってしまう。
    身に覚えのないことなのに、直面したくないという思いが、分岐点の存在を匂わせる。

    私は割と信じやすい方なので、誰かの背景を、もう一つの顔をあまり意識せず来たように思う。
    だから、その人の顔が凝縮された告発めいたメールなんかが届いた話を聞くと、急に自分が見ているもののあやふやさに困惑してしまう。

    そう言いながらも、私は私で自分にとって都合の良い世界を勝手に統合して成立させていることも分かっている。

    そのつぎはぎが明らかになった時、本当の世界の住人からすると、私は鏡の向こうの誰かになってしまうのかもしれない。

  • 新作とのことで手に取った本作。
    久々に読む村上春樹さん。

    村上春樹さんの実体験?をベースにしてファンタジー化したような、実験的な作風の短編集。

    何かしらの結論に向かって書かれているわけではない。
    読み手に委ね、自由に感じれば良い。
    そうそう、ザ「純文学」ってこんな感じだったなと…読みながらそんなことを思いました。

    ヤクルトスワローズ詩集とか、品川猿の告白とか、けっこう好きな作品はありました。
    が、若干作品によってバラつきがあるかな…とも感じました。

    個人的に一番ハマったのは「品川猿の告白」( ̄▽ ̄)

    お風呂で背中を流してくれて、人間の女性に恋して、そして名前を盗んでそれを密かに愛でる猿…究極のプラトニック…何か素敵な設定だなぁと、ニヤニヤしながら読みました(*´∇`*)

    大人ファンタジー…良いですね。

    <印象に残った言葉>
    ・歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。かつては少年であった自分が、いつの間にか老齢といわれる年代になってしまったことではない。驚かされるのはむしろ、自分と同年代であった人々が、もうすっかり老人になってしまっている……とりわけ、僕の周りにいる溌溂のした女の子たちが、今ではおそらく孫二、三人いるであろう年齢になっているという事実だ。(P73)

    ・はい、私はあくまで猿ですが、決して下品な真似はいたしません。愛する女性の名前を自分のものにする-それだけで十分なのです。それはたしかに性的な悪行ではありますが、また同時にどこまでも清くプラトニックな行為でもあるのです。(P203、品川猿)

    <内容(「Amazon」より)>
    6年ぶりに放たれる、8作からなる短篇小説集

    「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。

    収録作
    「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」(以上、「文學界」に随時発表)「一人称単数」(書き下ろし)

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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