一人称単数

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163912394

感想・レビュー・書評

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  • 独特の世界観の村上ワールド
    エッセイにも似た、過去を懐かしむような短編集

  • ちょっと不思議な短編集。
    言葉の並び音が気持ちいい。
    正直、まだ理解しきれてないのだけど、故に何回も読んでみたくなる、不思議。まぁ、読まないけども。
    著者本人の事だったりする?話もあり。
    「品川猿の告白」が奇妙な感じで面白かった。

  • 【あらすじ】
    「女のいない男たち」以来6年ぶりに発表される短篇小説集。収録作は以下の通り8作。「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」(以上、「文學界」に随時発表)「一人称単数」(書き下ろし)。

    ・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

    夢なのか現実なのか、掴みどころのないエピソードが8篇…という感じです。読んでいたら、こちらが違う世界へ引き摺り込まれそうな気持ちになりました。

  • 言語化できない、何かしら鮮烈なものがどれも残る。象徴としてではなく、そのものとしていったん受け入れてみたい。理性でガッチリ固められた思考の次元が変わるかもしれない。

    ヤクルトの話しは、沁みた。

  • 短編集なのでサクサクと好きな時間にひとつずつ読んだ。文中に知らない曲名が出れば(村上春樹さん作品には私にとってよくあること。)某有名動画サイトで検索して聴いたりしながら。一人称単数の世界・・不思議な気持ちになり最後はちょっとモヤモヤ感が残った。でも何故か嫌いじゃない。想像力が掻き立てられる作品。もう一度読んでみよう。

  • 村上春樹の作品をきちんと読んだのは多分これが初めて。
    音楽についての話は自分にはまったく馴染みのないものだったけれど、わからないからと言ってことさら退屈だったり敬遠したくなるようなものではなかった。
    人が自分の好きなものについて語っているのを聴くともなしに聴いているような。聴くことを強要される感じがなかったから心地よくもあったのかもしれない。

    同じスワローズファンとして「ヤクルト・スワローズ詩集」は何度も頷きながら読んだ。年代こそ違えど、詩の内容は現在のスワローズにも通ずる部分がたくさんあった。

    "どうしてこんなチームを僕は応援することになったのだろう。
    それこそなんというか宇宙規模の謎だ"

    スワローズファンなら誰もが共感できる一節だと思う。
    「ヤクルト・スワローズ詩集」に出会えただけでも、この本を手に取ってよかったと思えた。

  • 村上春樹さんの6年振りの短編集、どれも読みやすくてとても面白かったです。印象的だったのは『クリーム』の中で老人が語った「中心がいくつもある円」の話です。図形として思い浮かべようとするとなんのこっちゃ??ですが、なんとなくこの本の短編小説全てがその円のいくつもの中心みたいだな、と感じました。『ヤクルト・スワローズ詩集』は大笑いしました。小説というか詩集というか、エッセイテイストですね。村上春樹さんがヤクルト・スワローズファンなのは知っていましたが、阪神ファンでもなく巨人ファンでもないところが村上春樹さんらしいというか、そのらしさが全ての作品に溢れているのだな、と今回しみじみ思いました。『品川猿の告白』は別の短編集『東京綺譚』の『品川猿』のその後の話のようなので品川猿を再読してから読みました。あれ?追放された山は高尾山ではなかったのか?高尾山では近すぎて帰ってくるかもしれないからもう少し遠くの高崎山になったのか?とか想像するのも楽しかった。もう悪さしないと言ってたのに結局悪さしたんですね。
    最後の表題作『一人称単数』はインパクト大ですね。「恥を知りなさい」うう、なんという恐ろしい呪いの言葉なのでしょう。こんなの理不尽すぎる。だけど、こういう理不尽に既視感を覚えるのは何故なのでしょう。
    エンディングの無いストーリーが私自身の中でこれからも膨らんでいく…というような読後感でした。

  • 8篇の短編小説集のうち、
    ・ウィズ・ザ・ビートルズ
    ・「ヤクルト・スワローズ詩集」
    ・謝肉祭
    ・品川猿の告白
    の4篇は「文學界」で読んでたものだった。
    でも、また新鮮な気持ちでこのあとのオチはなんだっけ?
    記憶が薄らいでたので面白く読了。
    繰り返し読んでも面白い小説ってすごい。
    いつも最後がちょっと衝撃的で、人生初のガールフレンドが自殺してたり、クラシックに造詣が深い理知的な醜女(ひどい表現だけど)詐欺師だったり、思い出を胸にひっそり群馬の温泉地で暮らすと言っていた品川猿がまた悪さを働いたり(確定ではないけど)とさすがこうきたかとうならせるラストだった。
    書き下ろしの”一人称単数”もミステリアスでもっと長く続きがありそうな感じでもっともっと読みたくなった。

  • 読書に興味を持ち始めた若い頃に何を読めばいいのか分からずとりあえず手に取ったのが村上春樹だった。正直なところ面白さの半分どころか3分の1ほどしか理解できていなかったが、当時の自分は周りの人たちに村上春樹が好きだと公言していた。

    有名な人だし、毎年のようにノーベル文学賞の話題に挙がる人だから面白くないわけがないと思っていた。だから初期の作品から割と新しめの作品まで片っ端から読んだ。1973年のピンボール、ねじまき鳥クロニクル、ノルウェイの森、どれも面白いと思うことにしていた。

    それから20年近く経ち、さまざまな小説を読んできて漸く分かったことがある。
    それは、村上春樹の小説はメタファーに隠された意味を深く読み解くところに楽しみを見出すことができないと、魅力は半減してしまうということだ。

    言葉をそのままの意味で捉えても、前後の文章と繋がらず、意味が分からないことが多い。ダブルどころかトリプルミーニングにもなっているのではないかと思われるような言葉や仕掛けがそこら中にあるのだ。何か意味があるように見せかけて実は何も意味がないのかも知れない。そんなことを読者に考えさせるのも村上春樹の力なのだろう。

    勿論、中にはあまり深読みしなくても抜群に面白い作品もある。例えば「海辺のカフカ」の上巻(下巻は深読みが必要だ。)や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は最高におすすめだ。

    今回の短編集に関して言えば、深読みが必要な作品は半分程度の割合だ。ふとした成り行きで一夜を共にすることになった、短歌をつくっている女性とのエピソードである「石のまくら」、ある女の子から招待されたピアノ演奏会の、会場近くの公園で出会った奇妙な老人が印象的な「クリーム」は、さまざまな解釈で読むことができそうだ。

    もう一つの魅力は文章から醸し出される独特の雰囲気だろう。現実と非現実が交差する幻想的且つ、ノスタルジアを感じさせる文章。いつの間にかクセになってしまい、ページを繰る手が止まらなくなるのだ。世の中にハルキストと呼ばれる人たちが沢山いることに納得できる、不思議な魅力がある。

    この感覚は先ほどの二作と、若き日にジョークで書いた架空の批評と同じタイトルのレコードを、中古レコード店で見つけてしまう「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」、ビートルズのLPを大事そうに胸に抱えていた1人の女の子と、人生で初めて付き合った女の子とその兄との思い出を語る「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」から特に感じられるだろう。

    僕の記憶に残っている女性たちのなかでいちばん醜い女性との交流と、大学時代のダブルデートで知り合ったあまり容姿がぱっとしない女の子とのエピソードを描く「謝肉祭(Carnaval)」の最後にはこんな一文がある。

    「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。」

    これは今回の短編集のすべての作品に共通する本質を捉えた一文でもある。村上春樹自身の人生におけるさまざまな体験に、あってもおかしくない、でも、現実にはあり得ない虚構を混ぜ込んだ8作。(小説というよりもエッセイに近い「ヤクルト・スワローズ詩集」は除くべきかもしれない。)

    村上春樹の魅力を存分に堪能出来る一冊である。

  • 久々の村上春樹作品。やっぱり素晴らしい。
    心に留まる言葉や文章。更に深読みして考察が次から次へと頭の中で交錯して、いくらでも語れてしまう。
    今まで長編も短編もエッセイもほぼ網羅してきた私としては、ここに来て、すごいの出してきたな、という感想。

    若き時代から年老いた今までを思い返している。
    エッセイを読んでいる人ならば、誰もがこの主人公「僕」や「私」が村上春樹本人であることは間違いなく明らか。

    これは、エッセイ?自伝まとめ?私小説的終活?と不安に思えてしまうほど、リアリティがあり、非現実的な不可思議さもあって、物語に入り込んでしまう。

    「石のまくらに」
    「クリーム」
    「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
    「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
    「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
    「謝肉祭(Carnaval)」
    「品川猿の告白」
    「一人称単数」(書き下ろし)

    以上の8編で構成されており、リアルと非リアルの狭間で、どこからフィクションなのか境目が曖昧で戸惑う感覚に陥る。

    「僕」がおそらく意識せず知らぬ間に、当時の彼女達を傷つけたであろう後悔や懺悔的なものを感じさせる。
    そんな自分を戒めるため、最終編で、70過ぎた自分が気取ってる訳では無いが、ネクタイを締めスーツを着て1人でバーで酒を飲んでいると、見知らぬ女性に「恥を知りなさい」と責め立てられ、自虐的に締め括られている。

    ●石をまくらに
    一夜を共に過ごした、名前も忘れた彼女の短歌の歌集だけが手元に残る。
    歌集に収められていた短歌の多くは死(斬首)のイメージを追い求めていた。
    ”石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは/流される血の/音のなさ、なさ”
    “たち切るも/たち切られるも/石のまくら/うなじつければ/ほら、塵となる”

    死んでしまって、そのうち忘れ去られても、それらの言葉達は、身を切り、血を流して、何かの形で後世残される。
    当時の僕は、彼女を助けられなかった。

    ●クリーム
    公園で過呼吸になった自分に老人から「中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや(中略) そういう円を、きみは思い浮かべられるか?」と訊ねられる。
    これは暗喩で、全ての村上春樹が生み出した作品の事では無いだろうか。
    小説の核が幾つもある。それらから膨らんだり、合体されたりして、数々の短編や長編の作品となっている。
    中心となる核は沢山あるけれど、そこに外周は持たない。

    ”でもそれはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう。(中略)たとえば心から人を愛したり、なにかに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰あるいは信仰に似たものを見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け入れることになるのではないかーそれはぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。”

    ● チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
    自分の空想のなかでしか無いはずのものが、現実に存在した。しかし、入手し損ねた。まやかしにあったような出来事。

    ● ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles
    好きでも嫌いでも、常に耳にしてきた、ビートルズ全盛期時代。
    当時の彼女の家で、何故か引きこもりの彼女の兄と2人きりになってしまい、僕は芥川龍之介の「歯車」の「飛行機」を朗読した。
    「歯車」は芥川龍之介の最後の作品で、自死後に刊行されている。心を病んで、不眠症になり、薬が手放せない。そんな「僕」が主役の私小説。
    最後は、「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」と締め括られている。
    「歯車」を読めば分かるが、今回の短編集の作風が、この「歯車」に寄せてきている、もしくは意識している気がするのは、私だけだろうか?
    「僕」が死と向き合う私小説と言う意味合いで。

    その数年後、元彼女の自殺を兄から聞かされた僕は、処女作「風の歌を聴け」や「ノルウェイの森」を描くキッカケとなったのでは無いのだろうか。
    彼女を理解し救う事は出来なかった僕。

    ● 「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
    野球に詳しくないけれど、今までのエッセイから、作者が生粋のヤクルトファンであることは知っている。
    “人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。”
    “僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって、片端から謝りたくなってしまう。「すみません。あの、これ黒ビールなんですが」と”
    こんなところが、皮肉めいて好きだ。

    ● 謝肉祭(Carnaval)
    50代の僕が40歳の女性F*とクラシックの演奏会で知り合う。
    僕は彼女のことを、「僕が記憶している中でももっとも醜い女性だった」としつこく形容する。
    どこがどうと直接的な説明をしないのは、作品を読んだ誰かが不快に感じたり悲観したりしないよう気遣いであろうか。
    それともテーマとなる「謝肉祭」の素顔を決して見せない「仮面」を意識しているのかもしれない。

    (荒っぽい逆の意味で)その醜さを美しさの象徴である「ヴィーナスの誕生を想起させる」とまで形容された絶世の醜女F*は、話が上手で頭の回転も速く、音楽の趣味も良い、演奏の出来や演奏者の体調までも的確に指摘する程の鋭い感性の持ち主で、服装の好みが良く、身に着けているジュエリーも完璧で、実に魅力的な女性なのだ。
    代官山の緑に囲まれた瀟洒な3LDKのマンションに暮らし、アキュフェーズのハイエンドのプリメインアンプにリンの大型のスピーカーとCDプレーヤーまで揃えている。

    僕とF*は、無人島に持っていくピアノ音楽をひとつだけ選ぶとしたら、シューマンの「謝肉祭(Carnaval)」を選ぶ、と言うことで意見が一致し意気投合する。

    「シューマンはもともと分裂的な傾向があり、その上、若い頃に罹った梅毒により、頭がだんだん正常でなくなった。謝肉祭は初期の作品だから、彼の内なる妄想である悪霊たちははっきりとは顔を出してはいない。
    が、至る所に陽気な仮面をかぶったものたちが溢れている。 
    でもそれはただの単純に陽気な、カルナヴァルじゃない。
    この音楽には、やがて彼の中で魑魅魍魎になってゆくはずのものが次々に顔を見せているの。
    ちょっと顔見せみたいに、みんな楽し気な仮面をかぶってね。
    あたりには不吉な春先の風が吹いている。そしてそこでは血の滴るような肉が全員に振る舞われる。
    謝肉祭、これはまさにそういう種類の音楽なの 」

    「私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きてゆくことはとてもできないから。
    悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある、どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。
    そしてシューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることが出来た─仮面と素顔の両方を。なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。仮面と素顔との息詰まる狭間に生きた人だったから」
    と彼女は語る。

    数々の謝肉祭を聴き、「ルビンシュタインのピアノは人々のつけた仮面を力尽くで剝いだりしない。彼のピアノは風のように仮面と素顔との狭間を優しく軽やかに吹き抜けていく」と僕は結論付ける。

    実際、彼女には別の裏の顔があり、最後には高齢者を狙った資産運用詐欺事件の犯人としてハンサムな夫と共に逮捕される。
    そして、僕が詐欺に引っ掛からなかったのは、彼女自身を見た目では判断せず、仮面の裏の素顔を見透かされてるようなそんな気がしたからでは無いだろうか。

    ● 品川猿の告白
    ”テーマ?そんなものはどこにも見当たらない。ただ人間の言葉をしゃべる老いた猿が群馬県の小さな町にいて、温泉宿で客の背中を流し、冷えたビールを好み、人間の女性に恋をし、彼女たちの名前を盗んでまわったというだけのことだ。そんな話のどこにテーマがあり、教訓があるだろう?”

    嗚呼やっぱりこれらは、フィクションか、と言う確信と共に安堵しながらも、挑戦的なものを感じる。
    そして、なるほど、そうか。
    自分が「僕(私)」主人公になって、今までの人生の様々の苦難に手を加えてフィクションに仕立て上げ昇華させる方法があったか。と目から鱗。
    ノンフィクションは特定の誰かを傷つけるけれど、フィクションは誰も傷つけようがない。
    私も何か残せれるのでは無いかと僭越ながら思ってしまう。

    ●一人称単数
    村上春樹と言えば、洒落た格好をしてジャズの流れるバーのカウンターでひとりギムレットを飲む。そんな気取ったイメージが一人歩きしている。
    見知らぬ50代の女性から「恥を知りなさい」と身に覚えのない口撃を受ける。
    何とも自虐的な締めくくりである。
    ただ、一人称単数に回帰したことで、新たな村上春樹が生み出されるのではないかと期待も持たされる。

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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