新装版 テロルの決算 (文春文庫) (文春文庫 さ 2-14)
- 文藝春秋 (2008年11月7日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (373ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167209148
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
山口二矢が壇上で演説中の社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺するまでを描いたノンフィクション。最初に読んだとき、その鮮烈さに手が震えました。一人の男の人生にのめりこんでいき、最後の一瞬に瞬間に凝縮していく。少年の短い人生を描きながら、最後は時代を切り取ることに成功している。この本をきっかけに、私は沢木作品を読み漁り、ニュージャーナリズム的手法を研究しました。
-
私が何人かの夭逝者に心動かされていたのは、必ずしも彼らが「若くして死んだから」ではなく、彼らが「完璧な時間」を味わったことがあるからだったのではないか。
-
ノンフィクション作家・沢木耕太郎の初期の代表作。
日本社会党の重鎮・浅沼稲次郎と、浅沼を刺殺することとなる少年・山口二矢。あまりにも対照的な二人の思想と生き方を克明に浮かび上がらせた傑作です。
とにかく圧巻なのはその取材力。政治的な色彩の濃い、そしてそれがゆえに容易に歪められがちな事件を、著者は確かな熱意と冷静な目をもって執拗に追っていきます。一読すれば、浅沼と二矢を語るにあたって本書が未だ欠かせない理由が理解出来ましょう。
構成も素晴らしい。浅沼稲次郎と山口二矢の生涯を対比させ、また合間合間に彼らをめぐる時代を描く手腕は並大抵のものではありません。やや硬質な文体も緊張感を高めるのに一役買っています。著者の視線に導かれ、読者は二矢の狂熱に、浅沼の「闇」に踏み込んで行かざるを得ません。
一気読み保証。
お勧めです。 -
61歳の政治家である浅沼稲次郎と、
17歳の右翼活動青年である山口二矢。
この二人を掘り下げて書いていくことで、
最後の刺殺の瞬間が劇的に感じられた。
浅沼の愚直で行きつくところまで行きついた政治人生、
山口が思い切ったことをやらねばならないと決断した心境
読んで色々思うところはある。
でもそれを言葉にしようとすると非常に難しい。
あまりこのような思想に関して、私が考えて来なかったからだと思う。
ただ山口がとった刺殺という行動を私は認められなかった。それだけ。 -
一瞬の殺人事件で交錯する山口二矢と浅沼稲次郎の物語の掘り下げ方に感服
-
やはり、沢木耕太郎は凄いよ!と心の奥で噛み締められた。浅沼稲次郎の暗殺事件を扱ったルポ作品。背後関係やその時の人々の感情など、文章を形作るエッセンスの一つ一つに、綿密な取材の成果を感じた。どうやったらここまで綺麗に書けるのだろう。
長年、苦労に苦労を重ねて社会党委員長となった浅沼稲次郎と、右翼少年の山口二矢。浅沼からは普段の笑顔とその裏の悲しみが根底に感じられる。山口二矢からは、彼が夭折したこともあって、清楚な感じ、凛とした感じがする。この二人の人生を平行線で追うことで、この作品は展開している。山口はたかが17歳。だけども浅沼は戦前からの運動家。経験も何もかも違うのに、この二人の生き様からには運命的なものが感じられた。感じさせられたのかもしれないけど笑。
沢木氏はあとがきに、夭折した人間が生きていたら、今は⚪︎⚪︎歳だと想像することは出来づらいというようなことを言っていた。死ぬということは、その人を神格化することってよく言うけど、山口も浅沼もその点で同じだったのかもしれない。ただ死んで終わりじゃなくて、現実はどこまでも続いていく。面白いなあ。
ところで、山口二矢は僕の中で安重根と重なった。安重根も伊藤博文の殺害後は、凛とした佇まいだったらしい。山口と被る。思考を持つ暗殺者は皆そうやって達観するのか、はたまたただただ神格化されただけなのか。暗殺者と暗殺者に触れた人にしか分からない話ということで。 -
高校生だった。
当時ファンだった歌手が、歌番組で「沢木耕太郎」の名を口にした。
歌手が「読んだ」と言っていた本は、この本ではなかったが、当時高校生だった私には単行本を買う金銭的余裕はなかった。
「沢木耕太郎」の本で自分の財布の中身で買える本、その中から私は「テロルの決算」を選んだ。もちろん「テロル」のなんたるかも知らずに。
難しかった。
政治的なことも思想的なことも何もかもに無知であった高校生の私にとって、この本はひどく難しかった。
ページを行きつ戻りつしながら長い日数をかけて読んだ。
子どものころから本を読むことは好きだったが、当時の私は両親と兼用で、西村京太郎や山村美沙といった推理小説を読んでいた。2時間程度で読めてしまうそれまでの本と違い、なかなか読み進めることができなかった。
それまで途中で読むことをあきらめた本はない。意地で読んでいたといってもいいだろう。
私には「テロルの決算」の文章がひどく「冷めて」いるように感じられた。
そしてその「冷めた」文章がそれまで読んでいた本との違いだったように思う。物語のどの登場人物に対しても等分に冷たい温度で書かれていると感じた。
私が感じる温度が変わるのは、終章を読み終える頃だった。
「冷めて」いた文章が暖かく私に触れてきた。
ずっしりとした手ごたえ、ただ読んでいただけなのにずっしりと重いものが胸にのしかかってきたような感覚。初めてのノンフィクションだった。
「テロルの決算」を読んだことで、それ以降の読書の傾向が激変した。
読める限りの「沢木耕太郎」の本を読み、ノンフィクションに目を向けるようになった。
それまでより真面目に新聞を読むようになった。自分の無知を埋めたいと切実に思った。
その後数年、就職面接などで本について訊かれるたびこの本の名前を出していた。感銘を受けた本として。それは25年以上を経過しても変わってはいない。 -
山口二矢と浅沼稲二郎をめぐる物語。