- Amazon.co.jp ・本 (265ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480067357
感想・レビュー・書評
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2010年に起きた、シングルマザーの育児放棄による餓死事件のルポ。
本のカバーそでに書かれた紹介文を引用する。
《二〇一〇年夏、三歳の女児と一歳九カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢。子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた…。なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかったのか。それは母親一人の罪なのか。事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから、幼児虐待のメカニズムを分析する。現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして、女性の貧困を問う渾身のルポルタージュ。》
いまも記憶に新しいこの凄惨な事件で、マスメディアはこぞって母親を非難した。
一度マンションに戻って2児の死を確認したあと、その日の夜にも男友達と会ってセックスをした、などということまで公判で明らかになり、世間の非難をさらに増幅させた。
私も当時の報道を見て憤りを覚えた1人だが、裁判で母親が一貫して殺意を否認し、「いいママになりたかった」「いまも子どもたちを愛している」と証言していることを知り、怒りよりも当惑の念を覚えた。「愛情のかけらもない鬼母」というイメージと、その証言はあまりにかけ離れていたからだ。
女性ルポライターの手になる本書は、轟々たる非難を浴びた母親の側に立ち、彼女の心に分け入ることで、事件の謎を解きほぐしていくものだ。
『ルポ 虐待』というタイトルは、むろん事件の犯人である母親の子どもへの虐待を指すが、それだけではない。彼女が幼・少女期に受けた虐待も意味するダブルミーニングなのだ。
彼女(本書の中では「芽衣さん」という仮名になっている)は、幼いころに実母からネグレクトされ、父親と再婚した継母にもネグレクトされる。さらには少女時代に、つるんでいた暴走族仲間から輪姦される被害にも遭っている。
父親は著名なラグビー指導者だが、シングルファザーとなってからも仕事に夢中で、「芽衣さん」をかえりみない。父からも、半ばネグレクトに近い扱いを受けていたのだ。
「芽衣さん」は人格崩壊寸前の過酷な日々を生きてきた「サバイバー」であり、そのせいで解離性障害に陥っていたと、弁護側の依頼で心理鑑定をした精神科医は言う。ただし、その鑑定は裁判でしりぞけられ、殺意を認定したもう一人の医師の鑑定が採用される(そのため、懲役30年の判決が下った)。
著者は、解離性障害と鑑定した医師の意見に与して、本書を書いている。
「芽衣さん」が犯した罪と、にもかかわらず一貫して殺意を否定している謎は、彼女が解離性障害であると考えれば、すんなりと解ける。
著者は公判の傍聴を重ね、当事者や周辺の人々にも丹念に取材をしている(「芽衣さん」当人には一度だけ面会取材をするが、その後は彼女から面会を拒否される)。
そして、ルポの中で「鬼母」のイメージを突き崩し、虐待がもたらした精神病理や周囲の人々の冷たさ、そしてシングルマザーとなってからの貧困に追いつめられていった悲しき母の姿を、鮮やかに浮かび上がらせる。
物書きの大切な役割の一つは、世間一般の見方に対するオルタナティブを提示することだ。もっぱら「鬼母」として語られる「芽衣さん」のもう一つの顔を明らかにしていく本書は、その役割を見事に果たすものである。
もっとも、著者はあまりにも母親に感情移入しすぎではないかという気もする。ノンフィクションの枠を踏み越え、彼女の心の奥まで勝手に斟酌している部分も散見するし……。
そうした瑕疵はあるものの、力作ルポであることは間違いない。悲しい事件だから読み進めるのもしんどい本だが、それでも最後まで読まずにはいられない吸引力をもっている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
有名な大阪2児置き去り死事件。事件の報道を読む限りでは身近なことととして感じることはなかった。読み始めてすぐ、これは今よく見聞きする若者の生い立ちや家族関係の環境が不幸にも重なった、身近な事件だと感じるようになった。加害者となった若き母親が、些細な問題も解決する能力を持ち得なかった事情を著者が丁寧に細かく追うことで、私たちは肯定はできないが周りの優しさや勇気がもう少しあれば事件を防ぐことは可能であったことを理解できる。周囲の「誰かが何とかすればいい」という自己保身が、彼女を追い詰め、幼い子どもたちを死に導いてしまった。読了したさらに遠くにいる私たちは、同じように「誰かが何とか…」ではなく、「私たちにできることは何か」を考えるべきだと感じた。
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いかに女性が、女性だけが、女であること、妻であること、母であることを強いられているか実感しました。
あまりに切ないし、他人事じゃない。-
「強いられているか」
男は母にはなれないけど、一緒に子育ては出来る筈ですよね。でも仕事に時間を奪われて、それを言い訳にするんでしょうね(ス...「強いられているか」
男は母にはなれないけど、一緒に子育ては出来る筈ですよね。でも仕事に時間を奪われて、それを言い訳にするんでしょうね(スミマセン)。そんな社会の歪みが弱いところに負担を強いている。辛い話です。。。2014/04/03
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小説つみびとを読んだ後にこっちを読みました。
こっちの方が母親中心の話になっていて小説ほどたくさんの人間が出てきてないからわかりやすかったかも。
元夫が被害者面してるのが一番腹が立った。ほんと糞オブ糞の夫なのに裁判で何他人事みたいに言ってんだこいつ?って思った。
母親だけが加害者ではない。この親子に少しでも関わった全員が加害者だと強く感じた。
被害者は死んでしまった子供だけだよ。
こういう事件が何度も何度も起こっているけど果たして社会は、公的機関は学習しているのか?
日本はもう他人に気を配れない貧しい国になっているんだと思った。 -
著者は芽衣さんにかなり感情移入しているようで周りの他者に責任を問えないかという視点がいたるところに見受けられるように思います。
ただ本人が重要なタイミングで更生のチャンスが与えられていたにもかかわらず自ら捨て去っている事には病気や生い立ちを理由に責任追及をしていないように感じます。
著者のスタンスとしてあえて追及しないようにしているのかもしれませんが。
再発防止は可能なのかという視点で読み進めましたが個人情報保護が過剰に取り沙汰される現代においては自ずから限界があるのかなと感じました。
仮に自分がこの業務に携わった時果たして何ができるのか。
自分の中で全く答えは出ませんでしたがこの事件は忘れないようにしないといけないと強く感じました。 -
3月の終わりに『永山則夫 封印された鑑定記録』を読んだとき、まだ読んでなかったけれど、『ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件』は、たぶん同じような本なのだと思った。そして、4月半ばに『ルポ 虐待』を読んだあと、もういちど『永山則夫』を読んだ。
二つの本は、やはり似ていた。
"母"の呪いにさいなまれるという点では、『ルポ 虐待』は、『障害のある子の親である私たち』にも似ている気がした。母はこうあらねばならない、親なのだからこうすべきだといった呪い、「やさしく愛情にみちたお母さん」という呪いが、母でもある女性をくるしめることがある。
2010年の夏、幼い2人の子どもの死体が大阪市内のマンションで発見された。2人の母親は「子どもを放置して男と遊び回っていた」とものすごい非難を受けていた(私はあとから頼まれてこの事件の発覚当時の新聞記事を図書館で集めたこともあって、よけいに印象に残っている)。
複数のメディアが、母親の芽衣さん(仮名)に拘置所で接見し「なぜ子どもたちを放置したのか、どんな気持ちだったのか」と尋ねている。そのひとつ、事件発覚から半年以上が経った時点でのインタビューで報じられた芽衣さんの「肉声」は「考えても考えても、自分がやったこととは思えない。なぜこうなってしまったのか、自分の中でもまだ整理ができていないんです」(『週刊現代』2011年3月5日号)というものだった。
「なぜ、わが子をネグレクトして亡くしたのか。答えを見出すには、自分自身に向き合う長く厳しい作業が必要だろう。治療の力を借りなければ、自分を取り戻すことはできないのではないか」(p.13)と著者は考え、芽衣さんに初めて会ったときに踏み込んだ話はしなかった。
著者と会った理由を「子どもたちの仏前にお菓子を供えてくださったと手紙にあったからです。お礼がいいたくて」(p.7)と語った芽衣さんとは、その後何度か拘置所を訪ねたものの面会はかなわなかったそうだ。著者がそれから芽衣さんの姿を見たのは一審の法廷。
大阪地裁でおこなわれた7日間の裁判員裁判(一審)で、芽衣さんは懲役30年の判決を受けた。芽衣さんは上告したが、二審判決は控訴棄却、「殺意はなかった」とさらに上告したものの、2013年の春に最高裁は上告を退ける決定をし、懲役30年の判決は確定した。児童虐待死事件としては例をみない年数である。
著者は、芽衣さんとは会えないまま、事件の経緯を追い、芽衣さんの人生をたどる。芽衣さんが夫と子ども2人と暮らした町を歩き、実父や元夫、近所の人たちや友人たちの話を聞き、裁判での証言をまじえて、芽衣さんの生育歴を記していく。
若い結婚をして、間もなく妊娠した芽衣さんは「早くママになりたかった」と心理鑑定で語ったという。芽衣さんは、離婚を考えてはいなかったが夫の親を交えた話し合いで離婚は決まってしまい、自分は育てられないという声をあげられないまま、芽衣さんが幼い2人の子を引き受けることになっていた。
ひとりでの子育ては、芽衣さんに「見捨てられた幼少期の自分」を強く感じさせたのだろう。まるでかつての自分を見るようなわが子の姿から芽衣さんは目をそむけ、その姿から逃げるのに必死だった。「自分」を直視できず、夢の世界に逃げた。それが瞬く間に50日という放置の時間となった。
悲劇の真因は、芽衣さんが「よい母親であること」に強いこだわりを持っていたことだ、と著者は書く。
▼だめな母親でもいいと思えれば、助けは呼べただろう。「風俗嬢」の中には夜間の託児所にわが子を置き去りにして、児童相談所に通報される者がいる。立派な母親であり続けようとしなければ、そのようにして、あおいちゃんと環君が保護されることもあったのかもしれない。
だが、芽衣さんは母親であることから降りることができなかった。
自分が持つことができなかった立派な母親になり、あおいちゃんを育てることで、愛情に恵まれなかった自分自身を育てようとした。
だからこそ、孤独に泣き叫ぶ子どもに向き合うことができなかった。人目に晒すことは耐え難かった。母として不十分な自分を人に伝えられず、助けを呼べなかった。
結婚当初、芽衣さんの自尊心を支えたのは、家庭であり、夫の存在、健康に育つ子どもたちだった。不安で自信のない芽衣さんは、あらん限りの努力をしてその虚像を支えようとした。だが、頑張りは長くは続かない。理想の姿が崩れかけた時、それでも持ちこたえて、関係を持続することよりも、別の世界に飛んだ。それが芽衣さんが幼い時から長い時間をかけて習慣としてきた困難への対処方法だったからだ。(pp.255-256)
その芽衣さんの姿は、努力するものの空回りして疲れ切ってしまい果ては身ひとつで逃げ出す、というパターンを繰り返した永山則夫に重なってみえる。愛情や褒められることや尊重されること、そういった頑張れるエネルギー源となるものを芽衣さんも、ほとんど持てていなかった。
永山則夫が当初の鑑定では語らなかったことを、3、4年経ってからようやく石川医師の前で語ったように、時間をかけなければ芽衣さんの心にも、事件の真相にも迫ることはできないだろう。芽衣さんのケースは、一審の裁判はわずか7日間、事件発覚から3年足らずで判決が確定している。
永山則夫の鑑定で石川医師が全身全霊で永山の人生と向き合ったように、芽衣さん自身が自分の人生を振り返り、たどり直すことに伴走できる人がいれば、そして時間があったならと思う。
▼芽衣さんは最後まで、母親であり続けることを望み、殺意を否定した。
芽衣さんは、離婚の話し合いの場で、「私は一人では子どもは育てられない」と伝えることができれば、子どもたちは無惨に死なずにすんだ。その後も、あらゆる場所で、私は一人では子育てができないと語る力があれば、つまり、彼女が信じる「母なるもの」から降りることができれば、子どもたちは死なずにすんだのではないかと思う。そう、問うのは酷だろうか。だが、子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる。(p.265)
芽衣さんは私と同じ誕生日だった。下に妹が2人というのも同じ。この本では妹さんたちの話は出てこなかったけれど、姉の起こした事件のことを、妹たちはどう思って見たのだろうと、ちょっと考えた。
(4/14了) -
良書だと思います。
当たり前に考えたら、起こりえないことが起こった場合(この場合、母が子をこんな目に合わすなど、愛してるいたらあり得ない)こんな異常なことができる精神状態になってしまう経緯に興味があります。
もちろん、罪は果てしなく重い。
でも、鬼畜母、極刑、と叩いているだけじゃ、何も変わらないと思う。
罪のない子ども達が、今この瞬間も闇の中に飲み込まれようとしている。
私も4歳の娘がいます。
子を持ってしみじみ思うのは、親が幸せでなければ、子を幸せにすることはできないということです。
物心両面の基盤を失った母親が、なお変わらず子に愛を注ぎ守っていけるか...
自分だって同じ状況になれば、他人事ではないかもしれません。