読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫 ハ 46-1)

  • 筑摩書房
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感想 : 170
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480097576

感想・レビュー・書評

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  • 教養文庫シリーズを持つ出版社6社の共同企画「チチカカコヘ」から2冊目。何とも人を食ったようなタイトルだけれど、ハウツー本などではまったくなく、その正体は至極真面目な読書論であり、教養論。
    食べものには「完食」があるが、果たして本には「完読」があるのか、あるとしたらその定義は何か。ここから始まる展開は、古今東西の名作(漱石のあの名作も)を題材にして進む。こじつけでも屁理屈でもない。本を読まないことは、膨大な書物の海にのみ込まれることなく、「教養」への恐怖に負けることなく、自己を律するための活動なのだ。本書を読んだ今となっては「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なので」あり、ひいては「自分自身を語ることなのである」という指摘に、素直にひれ伏してしまう。
    と言いつつ、この本を読んでしまったことは、大いなるパラドックスであることにふと気づく。それどころか、本書を読んで更なる読書欲が湧いてきたのは一体どういういうことか。著者のお叱りを受けそうではあるけれど、そんなお叱りならいくらでも受けよう。

  • タイトルからして邪道だと感じたが、なるほど、精読に拘泥するのも危険なことだと納得。
    読書量と読みたい本の量の釣り合いが取れない矛盾に1つの解を与えた。

    書物がどれだけ曖昧で不確定なものかよくわかる。

    訳者のあとがきが要点を上手くまとめているので、そこだけ読んでも本書を大体理解できる。

    でも、自分自身、文学の世界に染まりたい人間なので本書を実践することは難しい。
    自分の読書は娯楽としての読書であって、教養人になるための読書ではない。読書は一期一会。限られた書物の中で本の世界観を楽しみたい。それが、今の心情。

  • 著者のピエール・バイヤール氏はフランスの文学者・精神分析家。
    本書は2007年にフランスで発表され、フランスの代表紙「ル・モンド」をはじめとする多くの新聞・雑誌で取り上げられて、たちまちベストセラーとなった。更に、同年中にドイツ語訳・英語訳が刊行され、2008年夏現在、15ヶ国語に翻訳されている。日本では、2008年に出版され、2016年に文庫化。
    『読んでいない本について堂々と語る方法』という題名に加え、章立ても、第1部:未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって・・・)、第2部:どんな状況でコメントするのか、第3部:心がまえ、となっているが、具体的なハウツーを期待して読むと当てが外れる。
    各部を構成する4つの章はそれぞれ、ポール・ヴァレリー、ウンベルト・エーコ、モンテーニュ、バルザック、夏目漱石、オスカー・ワイルドら、古今東西の一人の作家の作品からとったエピソードを中心に展開され、読書・書物に関する著者の思想が語られている。
    著者は確かに、「読まなくてもいいのだ」、「本は読んでいなくてもコメントできる」と説き、「読んでいることがかえって障害となることもある」とまで言うが、それは、書物至上主義が「書物というものは、というよりその本質をなす理念的なテクストというものは、客観的に同定できる不動の対象であり、また勝手な改変が許されない不可侵の対象である」という書物観を伴い、自己表現の自由、ひいては創造の自由を抑圧しかねないことへ警鐘を鳴らしているのだ。
    そして、“読書”とは、読者側の事情によって変わりうる主観的なもので、読書においては読者が能動的な役割を果たすのが当然であるとし、また、“書物”とは、それを話題にする人たちの「あいだ」にある、即ち、「出会い」の産物なのだと述べ、それ故にこそ、我々は「読んでいない本について堂々と語」っていいのだと言うのである。
    刺激的な題名とは裏腹に、読書とは何か?書物とは何か?を深く掘り下げ、考えさせてくれる一冊ではなかろうか。
    (2017年10月了)

  • 開始: 2022/7/13
    終了: 2022/7/15

    感想
    読んでる最中から違和感はあったが、自宅の本棚を確認したところもう一冊本書があった。読んでいない本についての本を読んだが読んではいなかった。

  • 本の裏に「本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでないほうがいいくらいだ」とあるように、本当に読まなくてもコメントでき、しかも罪悪感にかられず、堂々とすべしという主張が書かれている本。
    同じ本を読んでいる者同士が集まって話していても、それぞれの「内なる書物」によって、脳内で書き換えられてしまっているので、かみ合わないし、別にいいのだよ、ということ。
    読んでない本について語ることが創造的活動というのはそう・・・なのか、そうかも。うーん、色々考えさせられる本です。

  • 『読んでいない本について堂々と語る方法』という書名だと単に見栄を張りたいだけの輩が好んで読みたがりそうだが、熱心な読書家、精読を重んじる真摯な読書家にこそ読まれるべき本だと思う。

  • ブンゲイ批評(批評)
    かかった時間150分くらい

    痛快。
    「読んでいない本について堂々と語る方法」というが、「読んでいない」ことのグラデーションを語り、「完璧に読んだ本がないように、完全に読んでいない本はない(存在を知った時点でそれはもうある意味で読んでいる)」と主張する。おもしろい。

    一貫して、本はそれをとおして自分を語るためにある、と述べている。自分を語るという究極の創造的行為において、本の細部に埋没することはむしろ害悪だとさえ言う。おもしろい。

    バイヤールの〈書物〉と〈図書館〉はそれぞれ3つの様相からなる。

    〈共有図書館〉…ある時点である文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体。これを把握することは、それぞれの本の、その文化における位置づけを把握することの前提となる。その力を「教養」という。集団の価値観をつくった本の集合?のようなものか。

    〈内なる図書館〉…〈共有図書館〉の下位に分類されるべき集合体で、〈共有図書館〉のうち、個々の読書主体に影響を及ぼした書物からなる。人格の形成の根本であると同時に、書物や他人とかかわるときの根本となる。個人の価値観をつくった本の集合?のようなものか。

    〈ヴァーチャル図書館〉…書物について口頭ないし文書で他人と語り合う空間。語り合う者それぞれの〈内なる図書館〉が出会う場所。あいまいさをかかえた遊戯的空間であるべき場所。

    〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉…書物そのものではなく、状況に応じて作りあげられる代替物。書物の自己投影的性格に着目した言い方。幻想(思い込み、記憶、願望など)を受け止める器として、再構成された本のこと。〈共有図書館〉に属している。

    〈内なる書物〉…われわれが書物を〈遮蔽幕としての書物〉にする際の影響源。各人の現実受容のシステム。ある本に対する?神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体。個人の価値観?のようなもの。〈内なる図書館〉に属している。

    〈幻影としての書物〉…われわれがある書物について話したり書いたりするときに立ち現れる、変わりやすく捉えがたい対象。読者が自らの〈内なる書物〉を出発点として構築するさまざまな〈遮蔽幕としての書物〉どうしの出会いの場に出現する。〈ヴァーチャル図書館〉に属している。

    おもしろい。

    誤った権威的教養主義を超克して、みんな創造主になろうぜ!というものすごくラディカルな本。
    おもしろい。

  • 半ば冗談のつもりで買ったんだけども、これはヤバい本だった。これは本についてだけでなく、色々なことについて言える。

    聞いてない音楽について語る
    見たことのない絵について語る

    そして、それは積極的な意味をもつ
    「「本を読んだ」ということの意味からよくわからない」
    というあっぱれな根拠から、「書物と我々の関係を根本から変える」ことは、より創造的になることでもあるからだ、と

    そもそも本について語る、ということ自体が、本の中身ではなく語り合う2人のあいだの関係なんだ、という、ものすごく当たり前な、しかし、極めて重要な指摘

    「音楽を聴いた」ということの意味や「絵を見た」ということの意味は、確かによくわからない。極めて曖昧で不確定であり、常に忘れさられる途中の出来事であり、変化している途上のものだ。

    精読するのはエネルギーの無駄とばかりに、本が意味をもつのはそのディテールではなく、位置付け、コンテクストである、という。なるほど、間違いない。
    音楽を聴いてたときも、位置付けを意識してた。
    書棚やCDラックには、自然とその位置付けが反映されていた。
    アップルミュージックの五十音順や、決められたジャンルわけや、そもそもスマホの限られた視野ではその位置付けは、見えない。

    この位置付けの貧弱さというのが、デジタル体験の乏しさ、レイヤーの薄さを端的に表す
    位置付けず、検索に頼るのではダメなのだ
    自分の地図、自分の年表があるから、それをもとに、見てない絵、聞いてない音楽、読んでない本について語り得る。

    この位置付けする地図の鮮度をよりよいものに保つために、読書はあり、この位置付けによって読書は意味あるものになる

    そしてそれが教養ということである

    素晴らしい!!

    • たっちさん
      通りすがりにレビューを拝見したのですが、なんていうか、やられました。後半の勢いが良いですね。
      積みっぱなしのこの本を早く読みたいと思ったと...
      通りすがりにレビューを拝見したのですが、なんていうか、やられました。後半の勢いが良いですね。
      積みっぱなしのこの本を早く読みたいと思ったと同時に、このレビューだけでもう読まなくてもいいかなとも思いました。
      2019/08/27
    • Yu Kinoさん
      コメントありがとうございます
      あまりアプリの使い方に慣れておらず、今日までスルーしてしまっておりました
      「精読した本なんてあんまりない」とい...
      コメントありがとうございます
      あまりアプリの使い方に慣れておらず、今日までスルーしてしまっておりました
      「精読した本なんてあんまりない」というようなことを言って憚らない著者の本を精読してる自分に歯痒くなる本です
      でも、この本のあとだと、読書が随分と気楽になったのですが、読書することを客観視し過ぎて、本を最後まで読み切ることがなかなか出来なくなりました
      というか、本ってやっぱり最後まで全部読み切る必要があるものは少ないのかもしれません
      どっちだろう、と、悩みが増えました!
      2019/12/26
  • 読んでいないけどいい本

  • 自分は何かをアウトプットすることに、心理的ハードルが高い人間なので(簡単にいえばプライドが高い)、それを乗り越える契機になればと思って読んでみた。
    ちなみにこの本は通読しましたw

    いかにもハウツー本の様な題名で、確かにそういった要素はあれど、「本を読んだ」とは、逆に「読んでない」とはいったいどういうことなのかを考えさせられる本だった。

    読書や、読んだ本についてコメントしたりする行為は、総じてその本の中身よりも自身の考えや、それまで自身が経験してきた出来事、今までに読んだ他の本との関連(本書では「共有図書館」と呼ばれている)
    をふまえて「自身の考え」を語る行為であり、ある意味創作活動であるというのは読み終わった今なら腑に落ちる。
    読書はまだしも、それについて語る行為までが極めて主体的・主観的な行為であって、であるとするならば「読んだ」かどうかに関わらず語ることは可能で、それが出来ることこそが真の教養なのだと筆者は言っている。
    これはきっと、読書に限らなくて色んなものごとについて、自身の考えで物事を述べることや、その為の「共有図書館」を充実させていくことこそが大切なんだろう。

    追記メモ

    世界には無数の本があり、何か一冊を読むということは、何か一冊読まないことと同義なので、時には読まない選択も大事。

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著者プロフィール

1954年生まれ。パリ第八大学教授(フランス文学)、精神分析家。『アクロイドを殺したのはだれか』、『読んでいない本について堂々と語る方法』等、多くの著作がある。

「2023年 『シャーロック・ホームズの誤謬』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ピエール・バイヤールの作品

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