何のために「学ぶ」のか:〈中学生からの大学講義〉1 (ちくまプリマー新書)

制作 : 桐光学園  ちくまプリマー新書編集部 
  • 筑摩書房
3.77
  • (41)
  • (71)
  • (55)
  • (12)
  • (1)
本棚登録 : 1147
感想 : 89
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480689313

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【2020年度「教職員から本学学生に推薦する図書」による紹介】
    渡邊秀雄さんの推薦図書です。

    <推薦理由>
    中学生向けの新書ではありますが,どのように大学に入るか,ではなく,「大学で何を学ぶか」の観点で編集された書です。ようやく受験がおわってやれやれ感があるかと思いますが,大学生活を充実させるためにもオススメ。
    それぞれの章末にあるオススメ本で紹介されているものも定番モノから一風変わったものもあり、非常に興味深いですね。

    図書館の所蔵状況はこちらから確認できます!
    https://mcatalog.lib.muroran-it.ac.jp/webopac/TW00353503

  • 2021年5月期展示本です。
    最新の所在はOPACを確認してください。

    TEA-OPACへのリンクはこちら↓
    https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=BB00515248

  • 学校の課題として読みました。

    なぜ学ぶのか、色々な視線で読めて楽しかったです。
    茂木健一郎さんの文が1番読みやすかったし興味深かった。

    皆さんそれぞれ専門分野も違く、書き方も違っていた(自分の経験からみるか、偉人の人生からみるか、データからみるか)けれど結局のところ行き着く答えは同じであった。

  • 「学問のある馬鹿」
    知識が増えるほど、思考できなくなる。
    中卒と大卒、知識は大卒のほうがあるが、ものを考える力は中卒のほうが勝ることもある。

    たしかにその通りだと思う。

  • やはり部分的に読むのではなくて、1冊丸々読みたかったなあという印象。
    短いながら本川氏の文章が個人的におもしろかった。

    愛読書(古典)をあと1年半の間に見つけたいな

  • 学ぶことが苦しく感じても、どうしてそれが必要なのかを教えてくれる書籍です。

    • myknakaさん
      大学生になって、もう一度読みなおしたほうがわかることがいっぱいあるかもです。
      大学生になって、もう一度読みなおしたほうがわかることがいっぱいあるかもです。
      2020/05/31
  • 私自身も、何のために「学ぶ」のかまだ明確に掴めていないので、何かヒントになることが書かれているかとと思い、選びました。

    • myknakaさん
      7人の学者たちが中学生に語るけど、大学生になって、改めて読むことには意味がありますね。
      7人の学者たちが中学生に語るけど、大学生になって、改めて読むことには意味がありますね。
      2020/05/31
  • 時間を置いてから、まとめます。
    メモは下記の通り。

    外山滋比古 「知ること、考えること」
    =====
    100点満点は人間の目指すべきことではない
     旧式の考え。満点至上主義に陥ったことで、本当に優れたものを考える力、判断し、理解する力を持った人がどんどん減ってしまった。試験の点数さえ良ければ大学に合格できてしまうという現状になってしまっている。満点を取るとは、「頭が機械的に優秀である」こと。
    今までの社会が考える頭よりも機械的な知識をありがたってきたからに過ぎない。

    個性は失点部分にこそ表れる
     100点満点を取れないからといって、頭が悪い、と思い込んでいるならいますぐにその考えを改めた方がいい。満点を目指して努力するのは結構だが、満点であること自体は大したことではない。これから社会で立派な仕事をしていくには、そういう19世紀から引きずってきた古臭い考えを捨て去る必要がある。

    知識量と思考力はたいてい反比例する
     これまで考えられてきた勉強というものは、大体において「知識」ないし情報を取り込むことであった。知識をたくさん持つことは、その人間の価値を高めると思われるのである。しかし、満点の答案を書こうとしている人たちが持っているような知識がたくさんあっても、それは本当の人間の力ではない。問題は、それが本当に人間として大事な能力であるのかどうかだ。ただ知識ばかり集めて喜んでいると、だんだん馬鹿になる。小学校からだんだん知識が増えていき、それと引き換えにどんどん頭がはたらかなくなってしまう。知識が増えると、どうしてもその知識をそのまま使用して物事を処理しようとしがちになる。自分自身で考えることが、ついつい億劫になりがちだ。大体において、知識が増えると、ものを考える力が減っていく。

    人間とコンピュータの違い
     物知りは大体においてものを考えない傾向が強い。「物知りの馬鹿」
    コンピュータの記憶は正確無比だ。人間は非常に保守的な生き物だ。いったん始めたことはなかなか変えない。記憶と再生に関しては、人間はコンピュータにとてもかなわない。→ 知識万能主義から脱却しなくてはならない。ただ単に名門の学校を卒業しただけという人は、知識や技術は持っているけれど、本当に自分でものを考え、ものを作り、世のため人のために働くのだという精神には欠けていることが多い。

    生まれた直後は誰もが天才である
     素晴らしい記憶力と感覚力を持っている。ところが残念なことに、その赤ん坊を育てる周りの大人たちが「人間を育てる」ことをまるで知らない。子供の持って生まれる天賦の才能には、消費期間がある。一番頭の良い時期は、人間としての可能性が最も大きい期間は、生まれてから40ヶ月くらいしかない。中学生の方がまだ生まれつきの能力が残っている。それが年とともに、上の学校に行くとどんどん失われていく。「言葉」を知って生まれてくる子供は一人もいない。しかし、40ヶ月の間に一応言葉を理解し、使えるようになるのである。驚異的な能力。世の中では、大学が一番重要な教育を行なっているように思っている人が大多数だが、大きな誤り。本当に大切なものは、10歳くらいまでの間に我々の身体に宿っていなければいけない。

    「忘れる」のが難しい
     人間がコンピュータに勝つためにはどうしたら良いか。その方法は「考える」こと。コンピュータは「記憶する」ことにかけては敵なしだが、「考える」ことを知らない。知識がある程度まで増えると、自分の頭で考えるまでもなくなる。知識を利用して、問題を処理できるようになる。借り物の知識で何とか問題を解決してしまう。もちろん知識は必要である。何も知らなければただの無為で終わってしまう。良い知識を適量、しっかり頭の中に入れて、それを基にしながら自分の頭で人が考えないことを考える力を身につける。ふり廻されないためには、余計な知識は程よく忘れなければならない。「覚える」のと同じくらいに「忘れる」ことが大事で、しかも難しい。未知なものに対しては、借り物の知識などでは役に立たないのが当たり前だ。

    上手に忘れるための秘訣
     難しくなって考える必要はない。自然に忘れる。「夜よく眠る」こと。睡眠中に忘却を進める働きが働くからである。この忘却の時間はレム睡眠と呼ばれる。頭の中の掃除。自然忘却作用。心身の健康のためにも忘却作用を大切にしたい。学校は上手いことをしてきた。それは、異なる授業を立て続けにやるということ。支離滅裂のようだけど、理にかなっている。
    ぶっ続けに授業をしたら、学力が急落してしまった。異なる授業をやることだけでなく、授業と授業の間の休み時間もたいへん大事である。同じことをだらだらと続けていても、頭はよく働かない。学習効果も上がらない。適当に忘れて頭をスッキリさせる。覚えて、忘れる、この切り替えが大変に重要なのである。

    文武両道は当たり前
     勉強をしたら、必ず体育をやらないとダメ。じっと机の前に座っていても、頭の中は切り替わらない。忘却作用も進まない。ウォーミングアップ、クールダウンをし、忘却、記憶、思考ということができるからである。運動は勉強よりはるかに集中力を要する。勉強は体を動かすことと組み合わせないといけない。片方だけでは、人間としての価値が小さい。いかにして運動と勉強を自分の生活の中で調和させるか。これは若い人たちにとって、最大の課題だとおもって良い。

    世界の経済破綻は人間性を失ったツケ
     今から2000年前、ギリシャに素晴らしい人たちが現れた。彼らは哲学を論じながら、同時に体を鍛えること、すなわちスポーツをすることを忘れなかった。「健全な精神は健全なる身体に宿る」活力に欠けている日本。お金は儲けた。しかし、経済大国だなと言われていい気になっているうちに「人間は何のために生きるのか」という大切なことを忘れてしまった。エコノミック・アニマル。学歴があれば、就職できる。就職をすれば、ある程度の月給をもらえる。そうやって、ちょうどエスカレーターに乗っているようなつもりで人生をおくる人たちが多くなった。国全体が地盤沈下を起こしている。

    ものを考えるために必要なこと
     人間が自分の頭で考えるようになるためには何が必要か?
    先ず、身体を動かすということ。そしてもう一つは、不幸とか貧困とか失敗とかそういう辛い境遇から逃げないことだ。困難な状況の中にいないと、頭は必死になって考えることをしない。不幸や災難がやってきた時にこそ、人間は自分の中に眠っている力が目を覚まし、大きなことをするようになる。環境が十分ではない。しかし、それを乗り越えれば素晴らしい人間に育っていくだろう。苦しいこと、辛いことが人間を育てるということが今は忘れられている。

    読書案内
    ・寺田寅彦随筆集 岩波文庫
    ・坊っちゃん 夏目漱石
    ・内田百間随筆

    前田英樹 「独学する心」
    =====
    独学とは、誰かについて何かを教えてもらうのではなく、自分の力で学問をし、何かを得ること、生み出すことである。例:二宮金次郎。終生一人の農民だったけれど、農によって人が生きる、ということにかけては誰も及ばない知恵と実行力を持っていた。それで為政者が彼に色々と頼み事をする。それをあまり見事に解決するものだから、やがて全国に名が知られるようになった。儒学の経典『大学』を手にしている。ではどうするか?を考える。圧倒的に農作業をする。共鳴を起こす行動がありさえすれば良い。一種の精神的な伝染が起こる。限界のうちにしっかりと自分を据えて生きる覚悟をする。生涯愛読して悔いのない本を持ち、生涯尊敬して悔いのない古人を心に持つ。独学の覚悟がない人はつまらない。
     口で教えることで死んでしまう技が大工の技だから、何も教えない。言葉で教えられたものは、すぐに忘れてしまう。それはただの知識だから。自分の体を使って発見したものは忘れない。そういうものは知識じゃなく、身についた自分の技になっている。自分なりにあれこれと取り組んでみて、わかる以外にはない。近代以降、人間が自然を相手に身につけてきた大切な技はどんどん失われてきた。私たちは、機械の便利さに慣れきって、身ひとつの「勘」でしか磨かれない技を持てなくなってきている。木の命に入り込み、木に協力してもらう大工の仕事。自分の都合に合わせて、自然を利用する科学の力。物にも自然にも、自ずと愛情と敬意を持たなくなる。教員から学ぶべきなのは専門知識ではなく、彼らがものを考えるときの身振りや型なのだ。またそんなふうに身につけた型は、古くならない。使うたびに深くなり、いきいきとし、自分を新しくしていく。「身に省みて恥じることなくば、何をか憂えん、何をか懼れん」

    ・代表的日本人 岩波文庫
    ・工藝の道 講談社学術文庫
    ・木に学べ 小学館文庫

    今福龍太 『学問の殻を破る』
    =====
    自分を発見すること。世界と出会うこと。この二つは表裏一体の出来事だ。しかし、自分の狭い殻の中に閉じこもっていては、そういう機会が訪れても気付くことが出来ない。だから、自分をバリアで囲い込むのではなく、何か大きな力と出会う機会に向けて、常に自分を開いていてほしい。例:東日本大震災の防波堤
     かつて海で暮らしていた人々は、海を通じて世界と対面していた。海の色、潮の匂い、波の音や高さ。これらは全て情報のアーカイブだった。コンクリートを築いたら、自然がもたらす情報は遮断されてしまう。天候の変化も、津波の危険性も察知できない。ダーウィンの進化論は自然の実態とかけ離れた観念的な理論に過ぎないのではないか(ファーブル『昆虫記』)ファーブルは南フランスの野山で小さな昆虫たちの生態を徹底的に観察した。昆虫学や天文学は好奇心が旺盛なアマチュアによって支えられている。学問は我々の日常生活と無縁ではない。
    「なぜ人は山に登るのか。そこに山があるから」難解であれば難解であるほど興味が湧く。難しいことを否定的に捉えてはいけない。易しく読めるものの方が、むしろすでに出来上がった知の繰り返しに陥っていることも多い。
     わかりやすいことが今、とても安直に求められている傾向が目立つ。学問をするのも一人の人間であり、その責任を世界のすべての人々、地域に対して果たさなければならないという考えだ。(レヴィ・ストロースの講演『民族学者の責任』)学問のために学問をするのではない。学問を自己目的化してはいけない。
    「具体の科学」抽象的な概念によってできた科学ではなく、具体物によってできた科学。
    「群島論」という一つの考え方。人間のものの見方は、無意識のうちにすべて大陸的な視点に支配されていた。
    ピジン語:とりあえず間に合わせのように使う言語
    クレオール語:意思の疎通のための十分な豊かな語彙を持った言葉が自然に生まれてくる。
    今、あらゆる情報は断片化され、タグ(分類指標)をつけられ、整理されてメディアから提供される。それはわかりやすくパッケージ化された情報だ。一つの学問分野の守備範囲は、大学というシステムの中で、あくまでも便宜的に縦割りで決められたものでしかない。それは、学問そのものの中から内在的に出来上がってきた枠組みではなく、その学問分野が大学の中で生き延びるために与えられた枠組みに過ぎない。殻を破らず、一つの守備範囲の中でだけ物事を考えている限り、そこからは決して真に新しいものは生まれない。今の学問も、社会も、少なからずそうした袋小路に陥っている。

    『緑の館』 W.H.ハドスン 岩波文庫
    『カラハリの失われた世界』 L.ヴァン.デル.ポスト ちくま文庫
    『宇宙船とカヌー』 ケネス.ブラウワー ヤマケイ文庫

    茂木健一郎 『脳の上手な使い方』
    =====
    「頭がいい」とは「努力の仕方を知っている」ということだ。
    ポイントはただ一つ。「自分で自分に無理めの課題を設定してそれを超える」
    自分で自分の課題を設定するしかない。快感を生み出す行動は「クセ」になって、自発的に繰り返すようになる。そのとき、少し無理めの課題を自分に課して、失敗を繰り返しながらもそれをクリアしていくことで、脳の中に強いシナプスのネットワークが形作られ、やがてその行動が上達していく。これが「強化学習」と呼ばれるメカニズムだ。「強化学習のサイクルをたくさん回す」「タイムプレッシャー法」制限時間を設ける。もう一つ大切なことがある。それは絶対に「他人と比較しない」こと。劣等感こそ勉強の最大の敵。自分が進歩していたら、それでいい。余計なことを省略して、やるとなったら一秒後から実質に入る。「瞬間勉強法」"Passion"の意味は、情熱と受難。白洲次郎:吉田茂首相の側近で貿易庁長官であった人物。圧倒的に立場の強い人物に対してもペコペコせず、正しいと思ったことは主張し、言うべきことは断固として言う。「苦労は買ってでもせよ」ゆくゆくは自分のためになるから。大学入試などで人間の価値は決まらない。肝心なのは、大学に入ってから後のことだ。大学で何を勉強するか、社会に出て何を身につけるか。いい大学に入って、いい会社に就職すれば将来は保証されるーもうそんな時代ではない。一生勉強し続けなければ、先はないと思った方が良い。この世界を理解するのに文系も理系もない。そんなものは、便宜的に設けられた壁に過ぎない。情熱を持って苦労する。今この国に足りないもの、それは理想と情熱だ。本選びを人任せにする人は、絶対に成長できない。自分自身の原始感覚を磨くようにしてほしい。

    ・赤毛のアン 新潮文庫
    ・大地 岩波文庫
    ・悲劇の誕生 ちくま学芸文庫

    本川達雄 『生物学を学ぶ意味』
    =====
    生物を知るためには、他の生物も知らなければならない。「数」という概念はとても重要なものだ。数式化できれば、とても便利で、りんごが落ちるのも、月が地球の周りを回るのも同じように抽象化して考えて、ニュートンの運動方程式に則って計算できるのだ。計算できるからこそ、立派な建物が建てられるし、ロケットを打ち上げることもできる。すべてを抽象的な数で考えたからこそ、貨幣経済が可能になったのだ。アリストテレス「3つの知識」実用の知(生活の必要のための知)、快楽のための知、学問的な知。『形而上学』の冒頭「すべての人は生まれながらにして知ることを欲する」実学と虚学。職業を選ぶ際は、「好きなことをする」ではなく、「世の中で大切なことをする」と考えた方が良い。私たちが時間と感じているものは、日が昇り、そして暮れていく明るさだけ。時間が刻々と経つことを体感できるのは、心臓の拍動だろう。ハツカネズミの心臓は1分間に700回拍動する。心臓一回の拍動時間は体重の1/4乗に比例する。(アロメトリー)寿命も体重の1/4乗に大体比例する。一呼吸する間に心臓が4回打つというのは変わらない。心臓の打つ回数は15億回、呼吸の回数も3億回で同じで、みんな死んでいく。今までとは違ったものの見方で世界を見つめられる。ニュートンの絶対時間は一方向のみに進む。彼のキリスト教への信仰がそう言わせている。科学とは西洋近代という文化が作り出したものであり、それはキリスト教の強い影響を受けているものだ。物理学には熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)というものがあり、時がたてば秩序あるものは必ず無秩序になっていくのだ。永遠に続く建物は、絶対に壊れないようにするというやり方では建てられない。壊れてきたら、直せば良いという考えもある。例:法隆寺、伊勢神宮まったく同じものを建て替えて続けていくというやり方。実は子供という形で私が残り、まごいう形で私が残る。生物はずっと続いていく。生物としての基本は、次世代の私を作ること。天国の永遠を考えて、宗教を生み出した。今の生き方はこれでいいのか?という世の中とは異なった見方、世界観を掴むことができるのだ。これこそが学問なのだと思う。

    ・ソクラテスの文明 プラトン 新潮文庫
    ・古文研究法 小西甚一 洛陽社

    小林康夫 『学ぶことの根拠』 
    =====
    学ぶことの根拠そのものを教えることはできない。それは知識ではないからだ。学ぶとは、ただ勉強することではない。周りには家族も友達も、学校の先生たちもいるが、「自分一人でここに生きている」という感覚だ。こうした感覚は大人になると失われてしまう。けれども実はこの感覚こそ、学ぶことの根拠に触れている証しであり、あらゆる未来の「種」を生み出す起点に他ならない。世界を変えるのは、エラーする力。世界を変える力は知識ではなく、「若い力」だということだ。「知らない」力であり、「知っている」ということよりも「知らない」ということの方が重要なのである。人間が何かを成し遂げる力は、エラーにこそある。歳をとると、失敗を恥じるようになり、エラーを起こせなくなっていく。何かを本当に学ぶためには、好き嫌いの感覚を、差し当たり停止して、どうして好きなのか、どうして嫌いなのかを正視しなければならない。学ぶためのポイントは全体を見ること。それと同時にどこか一点を見なければならない。様々な要素があり、それらがどういう関係にあるのか、そしてそれらの関係がどう全体を形作っているのかを見ていくのである。国語でも数学でも研究でもビジネスでも原則は同じ。正解を知るのではなく、頭の働かせ方を学ぶこと。自分の世界を自分でつくり直していく力。ピカソは、完成した自分自身を「壊した」(14歳:『初聖体拝領』→ 21歳:『盲人の食事』→ 55歳:『ゲルニカ』)絵画の原点は「目が見える」ということ。青の時代と呼ばれる。青一色というのは、ほとんど目の見えない人が微かに感じる色なのだという。絵画の原点の経験をつくり出そうとした。「やり直す力」:ピカソが天才と呼ばれる理由。人間とは、「途上の存在」に他ならず、常に道半ばなのである。学ぶことは、自分をつくり替えることであり、世界をつくり替えること。

    ・ゲド戦記 アーシュラ・K.ル=グウィン 岩波書店
    ・それでも人生にイエスと言う V・E・フランクル 春秋社
    ・「知の技法」入門 小林康夫・大澤真幸 河出書房新社

    鷲田清一 『「賢くある」ということ』 
    =====
    時代が進むにつれ、自分が初めて足を踏み入れる領域は無くなってきた。周りの人を見ても、モデルや型が出来上がっているように思える。悪いこともいいことも含め、人との出会いや偶然というものが働いて、決して思い通りにならないのが世の中。人間はただ生きるだけのためにも、自分がここにいる理由が欲しい。自分の存在の肯定に苦しんでいるという状況。若い人に限らず、すべての世代が、どんどん無力になっている。隣近所との揉め事が起こったとき、それを解決する能力すらない。教育、子育て、交渉など、生きる上で欠かせない事柄を、私たちは知らないうちにすべて、他人に任せるようになった。プロを育てたことは社会にとって間違いなくプラスになった。ただ、プラスは必ずマイナスを含んでいるもので、プラスの分何を失ったかというと、我々自身の能力だ。一人では何もできない無能な状態になってしまった。そんな私たちが今の社会でできること、それはクレームをつけることだけ。自分が持つ技や能力を磨くことを忘れてしまった。結局私たちは「市民」ではなく、「顧客」になってしまった。本来慎重に扱うべき言葉が安易に扱われている。例:うつ、トラウマ。うつ的な状態とうつ病は決定的に違う。単に逃げている。そういう思考回路に陥ると、次第にものの考え方が短絡的になっていってしまう。「簡単な思考法に逃げない」曖昧なものに曖昧なまま正確に対応すること。どれが一番大切かということよりも、どういう順番で実行するのかが、本当の考えどころ。「一つの問いに一つの答えがある」という考え方をやめなければならない。大切なのは、問い続けることにある。ジグザクに色々な補助線を立てて、誠実に考え続ける「賢い」人になって欲しい。重要なのは、不確定なこと、わからないことが充満する世界、正解のない世界の中で、すぐにはわからない問題を手持ちも分かっている図式や枠に当てはめて分かった気になることなく、わかっていることよりもわかっていないことをきちんと知ること、わからないけれどこれは大事ということを知ることということです。

    ・大衆の反逆 オルテガ・イ・ガセット ちくま学芸文庫
    ・哲学入門 田中美知太郎 講談社学術文庫
    ・翻訳語成立事情 柳父章 岩波新書

  • 7人の文章は、かなりわかりやすく書かれていて、大変読みやすかった。
    新書という形態のれものが苦手な中学生、高校生の入門書になれるのではないかと思う。

    そして、全員の言っていることが、総じて同じ方向性であることが、興味深い。

    「何のために学ぶのか」

    7人の捉え方はほぼ同じであるということである。

    7人の中でも、大変納得できたのが、外山滋比古さん、茂木健一郎さん、本川達雄さんだった。
    全部は読めないという中学校、高校生も選んで読んでみるのもいいかもしれない。

    みんな最終的に言ってる事は同じだから。

全89件中 41 - 50件を表示

著者プロフィール

外山 滋比古(とやま・しげひこ):1923年、愛知県生まれ。英文学者、文学博士、評論家、エッセイスト。東京文理科大学卒業。「英語青年」編集長を経て、東京教育大学助教授、お茶の水女子大学教授、昭和女子大学教授などを歴任。専門の英文学をはじめ、日本語、教育、意味論などに関する評論を多数執筆している。2020年7月逝去。30年以上にわたり学生、ビジネスマンなど多くの読者の支持を得る『思考の整理学』をはじめ、『忘却の整理学』『知的創造のヒント』(以上、筑摩書房)、『乱読のセレンディピティ』(扶桑社)など著作は多数。

「2024年 『新版 読みの整理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

外山滋比古の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×