- Amazon.co.jp ・本 (168ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062748704
感想・レビュー・書評
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何度目かは分からないが、ブクログを始めて以来、はじめての再読。
よく読んでいた18くらいの頃を思い出す。内容云々より、匂いとか音楽とか、そういった具合に染み付いているようだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
10代後半で読んだ時は、斬新さに震えた記憶がある。
春樹氏のデビュー作。青春3部作の1作目が本書とは知らず、「羊をめぐる冒険」が春樹氏初読みだった。
章の番号で場面や時間が切り替わる。
僕と友人の鼠、知り合った4本指の女の子。
固有名を描かないで終始するのも新鮮だった。
青春の喪失感と怠惰な雰囲気、余韻をたっぷり残している。1970年8月の18日間の物語り。
すっかり黄ばんだ文庫本は昭和59年発行の第7版、220円。
その頃は気にもならなかったのか⁈ 長い歳月を経た再読では、海に空き缶捨てたり、飲酒運転が頻繁過ぎ!とそんなところが、やけに引っかかった。 -
村上春樹2作品目!
パン屋再襲撃に続いてデビュー作の風の歌を聴けを読んだ。
細かく40章に分かれており、「僕」の生活、とある小説家について、ラジオ、音楽、絵、など様々な要素が合わさって1つの物語となっているため、とても読みやすく止まらず読み終わってしまった。
デビュー作にも関わらず色々な手法がふんだんに盛り込まれていて、やはりすごい作家なのだと読書初心者ながらに感じた。 -
1979年初版。
物語は1970年の8月を舞台にしている。その時代の軽薄さと言葉や世界に対する真摯な姿勢を感じとれる。
村上春樹という大作家が最初の作品から「学ぼうとする姿勢」を打ち出していることに驚いた。
最新作『街とその不確かな壁』に登場する喋らない青年の原型がここにある。
敗戦ののち、安保闘争や学生運動を経て、繰り返し絶望する良心の困難さがギリギリのところで表現されている。私たちは本気で殺しにきたアメリカとともに生きている。文学や音楽においても。
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身近な人から勧められ、この本が村上春樹さん初読みでした。
主人公のひと夏の自伝のような物語で、淡々と進みながらも味のある、不思議と読み返したくなるような本でした。 -
高校時代以来の再読です。 あの頃は「意味」を必死で求めて、何もつかめず放り出したけど、ずいぶん歳を取った今、意味をなさない散らばった断片が、全てビシッと決まっていることに快感を覚える。
なんだ、この感覚は? 何かに似ている、、、そうか、ゴダールだ。 男と女とサンドイッチがあれば小説は書ける、ということか。
そして、その後の作品たちのエッセンスがあちこちに散りばめられ、小説家としての決意も伝わってくる。 何も意味のない作品ではあるが、人が生きることについて確かにコミットしていることが窺える。 -
村上春樹氏と、岸政彦氏『断片的なものの社会学』、ミラン・クンデラ氏『存在の耐えられない軽さ』は、折を見て定期的に読むことにしている。年齢、季節、精神状態、友人関係などいろんな変化が訪れるごとに、読みながら感じること、浮かんでくる景色、共有したいと思う相手も変遷する。今までもこれからも人生を共に歩んでいくような存在であることが、わたしにとっての「素晴らしい本」の定義。
村上春樹氏の作品は、最近になって(『1Q84』くらいから)やっと少し理解できるようになってきた。ような気がする。『風の歌を聴け』を初めて読んだ中学生の頃は、ただ「村上春樹読んだことあります」の称号がほしくてかっこつけて文字面をなぞってみただけ。現代文の通信簿で2を取ったことがある高校時代は、《鼠》は本物のネズミだと思って「これはファンタジー?SF的な作品?」と首を傾げたり、随所に突如として現れる性的なワードや描写に狼狽したりした。いろいろヤケクソだった大学生の頃は、この本に出てくる音楽を聴きながらこの本に出てくる酒を飲むというのを全部やろうと思い立ち、友人を巻き込んで夜な夜な大学のそばの小さいバーに通って、それはそれでかなり楽しかった。あの子、今何してるかなあ。
30代半ばの今、読んだ後の印象として最も深く残った感覚は、”通り過ぎていく“ということ。友人、恋人、音楽、趣味、記憶、さまざまな人やモノが自分とすれ違い、衝突し、交差し、そして通り過ぎていく。10代の頃、喜んで使っていた”BFF“という言葉や、クラスメイトのほとんど全員が聴いていた三木道三『Lifetime Respect』の歌詞のような、いわゆる「一生ものの関係」が、結局のところ幻想に過ぎないということを実感として持ち始めていて、だからこの小説からもそのことを強く感じ取ったのかなあ、と思う。ずっと、とか、永遠、とか、きっとないし、たぶん、なくていい。
主人公と、最も親しかった《鼠》との関係も、この小説が終わったあともずっと変わらずに続いていくような、余韻を残した終わり方にすることもできたけれど、そうはならなかった。人生におけるある一定期間、たまたま最も親しい位置に二人が立っていたというだけのこと。
《鼠》と主人公の関係は、この物語が終わったあと、どうなっていくんだろう、と考える。あるいは、すでに疎遠になってしまった、一緒にバーを巡ってくれた昔の親友とわたしとの関係は。毎日のように顔を合わせ、少ない言葉数でもお互いの思いを伝え合って、相談したり、元気付けたり、ときにぶつかったり、内容があるんだかないんだかわからないような会話を交わしたりしていた時代がたしかにあったという事実は、距離が離れ、そういうことが気軽にできなくなってからの二人にとって、どんな意味を持つんだろう。
「過去の栄光」という寂しい言葉があるけれど、わたしは、たとえ過去のものであってもないよりはあった方がいいと思っている。普通なら持てなかったはずの感覚や、できなかったはずの経験が、自分のものとしてある人生とない人生なら、前者の方がきっとずっと楽しい。
ある時期、非常に親しくしていた相手が時間とともに自分を通り過ぎてしまったあとも、その人と親しくしていた時期があったという事実だけは残る。過去の栄光と同じく、それがあるのとないのとでは大違いだ。今は遠くに行ってしまったり、忙しくて会えなかったりする相手でも、その事実を記憶している人(自分であっても、伝え聞いた第三者であっても)が一人でもいるうちは、その事実はずっと残り続ける。《鼠》と主人公の関係も、一緒にビーチボーイズを聴きながらギムレットを飲んだ彼女とわたしの関係も。
通り過ぎていったかつての親友たちに思いを馳せると、一抹の寂寥感を覚えながら、それ以上に温かい気持ちになれる。一緒にいた時代があってよかった、と心から思う。そう考えれば、ここからもおそらくいろいろなものを通り過ぎ続けることしかできないだろう毎日と、人生と、恐れずに対峙していけるような気がしてくる。 -
再読して星五つに更新。夏に読む「風の歌を聴け」は他の季節では味わえないノスタルジーを届けてくれる。劇的なことなんて何一つ起こらないけどじんわり人の心にキズをつける。「何がいいかわからないけどなんとなくいい」は村上作品のあるあるだと思うが個人的にはデビュー作にして最高純度かと。
村上作品において、男の子が女の子を口説くシーンは常に面白い(と僕は思っている)が本作も例に漏れず面白い。
「ねえ、もしよかったら一緒に食事しないか?」
「一人で食事するのが好きなの。」
「僕もそうさ。」
「そう?」
「じゃあ、なぜ誘うの?」
「たまには習慣を変えてみたいんだ。」
「一人で変えて。」
口説けてるのかどうかもよくわからない体重の全く乗っていない会話。でもどこか惹かれてしまう。
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村上春樹再読。
僕が村上春樹を好きになったのは『世界の果て』以降。初期2作、特にデビュー作である本作は苦手だった。きっと読み方が分からなかったんだと思う。真面目に読み過ぎたんだな。辻褄が合わないとか、、、
後の作品の、双子の女の子や耳のモデルで慣らされていったせいで、多少、現実感が伴わない登場人物がいても気にならない。むしろ、その違和感に全て意味があるような気がしてワクワクしてしまう。面白かったです。
でもなんの予備知識もなく、本作を読んで面白いと思えるかと言うと、ちょっと難しい気がする。なんか、肝心なことほどサラリとしか言わない気がします。村上春樹初読の人にはあまり勧めたくない作品。どんな作家かも分からないままデビュー作を読みこなした当時の人たちはすごいですね。
舞台は1970年。意外と昔。当時の世相はわからないけど、学生が、車乗り回したり、バーに入り浸ってビール飲みまくってたりって、かなり裕福な暮らしぶり。ま、芦屋ですしね。
当時、缶ビールもまだ新しいアイテムだった様です。やたらとビールを飲む僕と鼠ですが、何か意味が込められてるのかな?
二人が事故った鼠の車はスポーツカーだと思ってたんだけど、フィアットの600セイチェントだった。めっちゃレアな気がするけど、当時は日本に入ってきてたのかな?チンクより好きな車です。 -
村上春樹の小説、とりわけこの本は新書のように本から即効性のある新たな知見を得るものでもなく、エンタメ小説のような起承転結を楽しむものでもない気がします。この本の内容がどうであったか、心に残る格言のような文章があったかと言われて思い出せない(本を参照しながらだと可能だのだが)。でもなぜか読後、自分と自分の周りのものが整理されているー村上春樹の言葉を借りると、“ものさし”が与えられているーような気持ちになる。面白い。