- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101162058
感想・レビュー・書評
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本作を読んでみた理由は、詩人である星野富弘さんがエッセイの中で三浦さんのことを語っていて興味を感じたから。
人間の生きること、罪、本当の優しさなど、考えさせられることが多かった。
普通に生活していれば、自分たちは罪を犯していないと思っている。
だが、泥棒に入られて自殺する人は多くはないのに、誰かに悪口を言われて自殺してしまう人はたくさんいる。
つまり、悪口を言っている時点で、僕らはみんな罪人なのだ。法律上で罪はなくても、誰かに精神的ダメージを与えることで罪をうんでいる。
本作の中盤以降は、キリスト教についてのことが多く書かれている。少しマニアックで難しいなと感じたため、気になるところだけ読んだ。
この本を読んで、宗教を信仰したいとは思わないけれど、宗教も一つの価値観なんだなと思った。
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(10.09.2016)
三浦綾子氏の強い語調、自分の過去を全てさらけ出す強さ、同じ女性としてカッコいいなと思う。クリスチャンとしても、自分の弱さを認めながらも神様を信じ抜こうと努力する生き方は尊敬に値する。この本の最終章、最終頁の言葉に彼女の読者に対する思いが込められているのではないか、と感じた。心に響く素晴らしい本だった。
「かけがえのない、そして繰り返すことのできない一生を、キリストを信じてあなたも歩んでみませんか。今までの生活が、どんなに疲れきった、あるいは人に言えない恥ずかしい生活であっても、または言いがたいほどに苦しく悲しい毎日であったにしても、今、あなたの前に、まだあなたの足跡が一つも印されていない純白の布のような道があるのです。過去はどんな歩み方であったにせよ、自分の目の前に、足跡ひとつない道があり、そこにどんな足跡を残して行くかは、自分の自由だということ、そんなすばらしいことはないと思います。
過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いにはなりませんか。そしてあなたの人生を喜びに溢れた人生に変えたいとは、お思いになりませんか。
そのことが、あなた自身にどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。
〈人にはできないことも、神にはできる〉と」
光あるうちに光の中を歩もうではないか。 -
中高では毎朝礼拝をし、讃美歌を歌い、聖書の一節を読み、授業にも聖書の時間があったのにそこから何も感じなかったあの頃の自分。。。
こうやって三浦綾子さんの文章に触れてみて初めて、その奥深さに気づかされる。
常にベッドに臥せっている病人でありながら、多くの人を慰め、力づけた睦子さんの話、見ず知らずの異国の人を助けるために自らの救命道具を譲り、亡くなっていった外国人宣教師たちの話、事故を食い止めるため自らの体をクッションにし、列車の暴走を止めて亡くなった「塩狩峠」のモデル:長野青年の話、女手一つで育て上げたひとり息子を殺され、長い苦悩の末その犯人を許した津田さんの話。
信仰によって人を許し、愛し、自らも救われた人々のお話は衝撃ですらある。
久しぶりに讃美歌歌いたいなぁ。 -
三浦綾子さんによる信仰入門エッセイ。
すごくわかりやすい。
これが、一般の雑誌にエッセイとして載ってたなんてすごいなと思った。親しみやすく、わかりやすく、力強いあかし。
信仰入門ということでキリスト教をよく知らない人に焦点を置いて書かれたと思うんだけど、とても励まされた。
特に罪や祈りについて書かれた章は、本当にそうだなぁ、と。改めて教えられました。
三浦綾子さんのすごさ、そのことばの影響力、改めて思い知らされています。 -
作品が話題にされたことが繰り返された中で触れた三浦綾子作品が面白かったことから、「同じ作者の別作品」と色々と読み進める中で出くわした作品ということになる。興味深く拝読した一冊である。
「道ありき」という題名を冠した、「自伝」とも言われる作品が3冊在る。既に最初の1冊、次の1冊は読了し、それを踏まえて本作、3冊目を手にして紐解いたのだ。
「道ありき」という題名の下の、過去の2冊は作者の「自伝」であることは間違いないのだが、もっと純粋に「小説」という気分で愉しく読んだ作品であった。作者の「自伝」ではあるが、寧ろ「発表した小説が好評を博し、小説家として名を成した感の女性が、自身の来し方を振り返りながら綴った」という「物語」というように感じられた。
これに対して、「第三部」と銘打つ本作は、過去の2冊と趣が少し異なると思った。
本書は純然たるエッセイ集である。雰囲気としては講演の内容、または何処かで三浦綾子を囲んで何人かが集まって聴いた話しを文字に起こした内容というように感じられる。「第一部」や「第二部」に在った、物語風に来し方を振り返るということでもなく、「思うところを語る中に、過去に綴って世に送り出した、来し方を振り返る内容が少し入る」というように理解しておくと善いかもしれない。
純然たるエッセイ集というように思いながらも、紡がれる言葉の背後に「第一部」や「第二部」に在った“物語”を意識するという面も大きい。
『氷点』で注目され、数々の作品を送り出し続けたという中で本作が「雑誌連載」ということで登場した。結局、「道ありき」の「第一部」や「第二部」に在った様々な出会いと、その背後に在った思索の経過を、改めて人々に問い掛ける内容を纏めた、雑誌連載エッセイとして整理したというのが本作ということになるのであろう。
本作にも言及が在るのだが、「第一部」の殊に前半部の主要な内容となる、何か「棄てた」かのような人生を、幾つかの出会いで取り戻して行くような感、それも病を得ての生活という中でそうした出会いを経験しているということが、三浦綾子が「伝えたいことを綴る人=作家」になって行った出発点に在るのだと思う。数々の挿話を通じて、様々な角度からそうしたことが語られるというのが本作であるというようにも思う。
本作に触れると、それが何と呼ばれているモノであろうと、個人にとっての“光”というようなモノを見出し、それを追い続けながら色々と思索するというのが大切であるということに思い至る。
最近は、何やら「詰まった…」という様子の人も巷には多いような感である。そいう時代であるからこそ、本書は広く読まれるべき内容を含んでいるのかもしれない。そんなことを想った。 -
良かった
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〈考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、正しく清い存在は誰か。それは神である。だから、自己中心であればあるほど、神を嫌う。神を見ようとはしない。神を無視してやまない。「神のほうを見ない」これが原罪なのだ。〉p34
〈一切を人手に頼らねばならず、自分で出来ることは呼吸をするだけというその人の顔が、実に輝いていたという例をわたしは書いた。この人は、何故にむなしさに陥らずにすんでいるのか。先日、わたしはある六十を過ぎた癌患者が、日夜世界の平和を祈り、知る限りの人々のために祈りを捧げて、一日の時間が短かくてならないという話を聞いた。なぜ彼らが虚しくならないのか。それは、誰も彼から奪うことのできない実存を知っているからだ。虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に実在する神である。この神を信ずる時、わたしたちは虚無を克服することができるのだ。〉p95
なぜかくも重病患者に神を信じる者が多いのか。彼らには何もないからではないか。自分には何もないと真実信じられたとき、神を信じる道が開けるのではないか。一般人が神を信じにくいのは、自分には何もないと本当のところ思うことがなかなかできないからではないか。常に無の意識に晒されていない。祈りの心をすぐ忘れてしまうのもそのせいか。 -
三浦綾子氏の自叙伝三部作の第三作。著者のキリスト教についての考え方や想いが綴られる。『道ありき』『この土の器をも』は著者の人生と出会い(それらは人から見ればまさに奇跡であったが)が述べられていたのに対して、本作品では著者の信仰と聖書について語られている。
本作品を読むと病床での生活と三浦光世氏との結婚が彼女を作り、信仰が彼女の軸としてしっかり根付いているからこそ、必然として数々の名作を生み出せたのだなと感じさせられる。 -
請求記号 913.6-MIU(上野文庫)
https://opac.iuhw.ac.jp/Otawara/opac/Holding_list?rgtn=1M024747
この三部作は三浦綾子の自伝小説です。読み終えるまで先が気になって眠れませんでした。二十歳前後の頃、自分の人生の方向性が分からず、悩んでいたときの光となりました。 -
道ありき三部作を読了。これまでふれたことのある三浦作品全てに通じる本線というか考え方がわかったような気がする。