二百回忌 (新潮文庫 し 41-1)

著者 :
  • 新潮社
3.45
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感想 : 15
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  • Amazon.co.jp ・本 (185ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101423210

作品紹介・あらすじ

二百回忌はただの法事ではない!この日のために蘇った祖先が、常軌を逸した親族と交歓する、途方もない「一族再会」劇なのだ。二百年分の歪んだ時間の奥に日本の共同体の姿を見据えた表題作は第7回三島由紀夫賞を受賞した。他に、故郷への愛増を綴った「ふるえるふるさと」など、日本のマジック・リアリズムと純文学のエキスが凝縮された、芥川賞作家の傑作集。

感想・レビュー・書評

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  • 表題作がとにもかくにも素晴らしい。一族郎党が甦る狂躁的な二百回忌と「私」が抱える肉親への気持ちが緊密に組み合わされていて、最初から最後の一行まで、心をぎゅっとつかまれっぱなしだった。まさに想像力の文学であり、この信じられない法事がどう展開するのかを確認するためだけでも、読む価値がある。

    主人公の自罰傾向とそれをエネルギーにした爆発的な幻想性にはとても藤枝静男を感じたのだけれど、笙野頼子の場合は「期待に添えなかった子供であった私」が常につきまとう。静男の性欲モンダイは笑えるけれど頼子さんの「私をちゃんと見て」には他人事でないところがあり、忘れていた焦燥感が甦ってきて不快でさえあったかもしれない。それでもこの短編を読み、笑いながらも気持ちをかき回されるのは、ほかに比べる物のない強烈で貴重な体験だった。

    もう笙野頼子は何冊か読んでいて苦手だとわかっている、という人にさえおすすめしたい。わたしもそうだったから。

  • 再読。やはり表題作が圧巻。

    ※収録作品
    「大地の黴」「二百回忌」「アケボノノ帯」「ふるえるふるさと」

  • 数年ぶりに再読。
    短編4篇を収録。

    どの作品も、日常的には相反する概念をくっつけたりねじったりまぜこぜにしている。
    記憶や時間、その土台となる概念や言葉

    というかそもそも分けて考えているものたちは本当は一つの世界の色んな側面でしかなく、見方次第でどうとでも見れる。

    心地よい情緒とポップな可愛さ漂う、傑作サイケデリア。
    時折見え隠れする性自認や身体性、土地との関係の問題も、それ自体が大きなテーマでもあるし、物語に奥行きが生まれている。

    以下、各編の感想等。

    ●大地の黴
    現実感が薄く、辻褄の合わないことがその世界では通常であるような。そこにいる間は違和感を感じることもないが、ひとたびそこからでるとおかしな世界としてしか感じられない。
    つまり夢にとても似ている。これは本書の4つの物語に共通した感想だ。

    音を奏でる骨を拾う話から始まる本作は、いつの間にかヤチノさんという人が家に訪問する様子の描写が主となる。
    作中のナレーションでもヤチノさんとの会話は要領を得ないものとして説明され描写されるが、そもそもこの物語自体が曖昧な存在や状態を含んでいる。というか主成分としてできている。

    世界のB面のようなものがあること、普段それは現実と呼ぶカチッとしたイメージの裏っかわやスキマに常に並行してあるという「在りよう」が描かれている。


    ●ニ百回忌
    二百回忌には死者も蘇り出席する。
    この話も世界のA面とB面が交わり、かつ、こちらはB面が優位になる物語。
    二百回忌の開催されるカニデシという地名からして、ありそうでなさそうでなんともハザマ感が溢れている。
    縁故が深かった死者が蘇ることを「混じってくる」と形容するあたりも、境界を曖昧にする。

    およそ百年事に行われる法事はまさに狂気の祭りで、家は蒲鉾を材料として建て替えられ、生者はまともな振る舞いは禁止されなるべく気の違った行いが良しとされる。死者はそもそもまともではないし、蘇りかたも関係者の記憶に左右されるため、ずっとリンゴをむいていたり、曖昧な状態で現れる。
    死者と生者は等しくそこに存在して、出くわす相手への影響も生死の違いはない。なんなら死者が周りに与える影響の方が大きいのかもしれない。

    読後感はまさにフェスや祭りのあとのそれで、ぐるぐるになり何かを出し切ってカラカラになった感覚が心地よく癖になる。体験として残る愉快なサイケデリック作品。
    こんなのがあるなら死ぬのも楽しみになる。

    ●アケホノノ帯
    カナシバリバッドトリップの描写から。
    続いて、ワールド農耕霊と呪術的排泄の説明。
    霊の前身は、主人公の同級生の龍子。龍子は精霊となり、祟り、カナシバリを起こし、主人公のドッペンゲンガーを生み、龍子との回想をタイプさせたものがこの物語。

    ことの発端は、龍子が教室で大便を漏らし、そのことを認めたくないゆえに排泄を神格化し、漏らした排泄物が五大陸の全ての肥料を賄う、農耕霊の自認を持つことから始まる。

    ふざけた設定だが、主人公の語り口は切実でしかなく、かな縛り状態で受ける精神攻撃の陰湿さと、生身の人間だった頃の龍子との記憶を冷静な分析と共に辿る。

    現実と妄想と分析と可能性が混じり合った回想が続く。
    うんこを漏らしたこと、排泄することとの話がひたすら強めのテンションで改行もほぼなく語られる。
    自動書記や御筆先のようなトランシーもありつつ続く言葉の羅列は、重めのドローンミュージックを聞いているようでもある。ラスト、極彩色の生命の描写など、その手のものが好きな人にはたまらないのではないか。

    読後、排泄と創作の関係を考えるとまた別の面が浮かび上がる。排泄物は土を豊かに肥やすが、創作物が豊かにするもの、また、排泄を神格化することを創作することでメビウス入れ子状態になっていること、このあたりはとても好みだし、著者の徹底した曖昧なものや中間的なものへのこだわりを感じた。

    排泄物にフェティッシュがあるひとの感想を効いてみたい。
    あと、このようなトランシーな作品を、どのくらいのスピードとテンションで書くのか興味深い。


    ●ふるえるふるさと
    冒頭「夢だろうか、と思うが決して夢ではない」とあるが、これも夢のような話。
    ストックされた情報の再構成、つまり記憶ということと、因果性が少ない点で夢に近い。
    「夢のようだ」と思うとき、因果(脈略)がないことが大きな基準となるようにおもうが、裏を返せば普段どれだけ因果の世界を生きているかということだ。

    もう一つ夢らしい特徴として、フォーカスの違いがあるように思う。文章なので描写のフォーカスだ。
    一般的に、因果に基づいた筋があり、そこに関連する描写が連なることで話の体(てい)をなすとおもうが、マルチーズやら得体のしれないチンミやら小さい頃の記憶やら不安症的な思考やら、移り気な子供の興味のようによくわからない描写が連続する。断片的なとびとびの描写で構成されているので筋が見えない。その辺が夢らしさかと思われる。

    夢なのか夢ではないのか。そもそも夢と現実は分けられるものなのか。
    記憶から再構成されていることには、夢も現実も同じことで、因果やフォーカスについても程度問題だし明確な閾値があるわけでなくシームレスなパラメータでしかなく、今の不安も昔の恐怖も最初の認知の時点で何らかのバイアスがかかり、歪んで記憶され恣意的で無意識的なな再編集を施し、「確かにあったこと」としてストックされ、それを土台として自意識が生まれ言動し現実を決定していく。
    そもそも自分が見えている世界はものすごく解像度が低いのだろうし、因果はそのように在ってほしいという希望が見せる幻成分が多い。

    次々と展開していく場面と、場面に応じた、少なくとも楽しくはないだろうエピソード。主観的に語られているのだが、辛いとかの感想はあまり出てこない。淡々と描写される。
    しかし景色は幻のように切り替わり、トラウマ巡りのよう。
    かといって読んでいてい辛いかというと自分はそうでもなく、夢がそうであるように、目が覚めて因果律で考えれば悲惨な状況も、見ている最中はなんとなく軽く、曖昧なトーンを感じるのみだ。

    この話に限らず、この4篇の物語は、概念や言葉のシステムと共に生きることの根本的な不安の中に、怪しげな酔ったような気持ちよさがあり、それらを体験するできる。

  • 文学作品を手にするのは稀
    どこかで誰かが勧めていたので購入
    著者の方もはじめまして

    これは短編中編集になりますかな
    表題作だけ読む

    うーん。いい意味で思ってたのと違う
    てっきり地名も実存するのかと調べたら著者のおふざけでした

    内容もそんな感じで特異な世界観
    終わり方も良いですね

  • 3.43/135
    内容(「BOOK」データベースより)
    『二百回忌はただの法事ではない!この日のために蘇った祖先が、常軌を逸した親族と交歓する、途方もない「一族再会」劇なのだ。二百年分の歪んだ時間の奥に日本の共同体の姿を見据えた表題作は第7回三島由紀夫賞を受賞した。他に、故郷への愛増を綴った「ふるえるふるさと」など、日本のマジック・リアリズムと純文学のエキスが凝縮された、芥川賞作家の傑作集。』

    目次
    大地の黴 / 二百回忌 / アケボノノ帯 / ふるえるふるさと

    大地の黴
    (冒頭)
    『帰郷の度、駅から家へ向かうツクモエヅカ、だらだらした坂道をハルチに向かい登る。歩いているうちに苛々して、大抵横道に入る。丘をらせん形に取り囲んだ、車の楽に通れる広い道から、坂の急な殆ど石段ばかりの近道に分け入ってしまうと、そのあたりには家は殆どない。』


    『二百回忌』
    著者:笙野頼子(しょうの よりこ)
    出版社 ‏: ‎新潮社
    文庫 ‏: ‎185ページ
    受賞:三島由紀夫賞(『二百回忌』)

  • 消しゴム、蒲鉾になるかもね。巽孝之先生が解説を書いている。

  • 表題の二百回忌がいまいちでした。マジックもレアリズムも確かに具材としては入っているのですが、具材が生煮えのまま混ざりきらないスープを、味つけもされないまま飲んでいるようでした。
    一作目の大地の黴は良かったです。

  • 第一作目はおおー面白ーい、これは国産マジックリアリズム??イってるイってる、筒井康隆のワールドみたい~と幸先良かったんですが、二作目でちょっとくどくって。でもって3つ目はスカトロでパス・・・これが女性作家(ですよね??)ってとこが、いやあ~なんと申しましょうか… 若かりし頃には倉橋由美子とか金井美恵子とか平気で読んでいたはずなんだけど。

    追記~
    某氏から山尾悠子の話を振られて思い出し。「二百回忌」のシチュエーションは「通夜の客」に似ている。かなり味わいは違いますが。(というか笙野と山尾って、究極的にテイストが違う><;)

  • 1814年というと江戸時代、ちょんまげの先祖に会ってみたい。

  • これ角川ホラーじゃないのか。

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著者プロフィール

笙野頼子(しょうの よりこ)
1956年三重県生まれ。立命館大学法学部卒業。
81年「極楽」で群像新人文学賞受賞。91年『なにもしてない』で野間文芸新人賞、94年『二百回忌』で三島由紀夫賞、同年「タイムスリップ・コンビナート」で芥川龍之介賞、2001年『幽界森娘異聞』で泉鏡花文学賞、04年『水晶内制度』でセンス・オブ・ジェンダー大賞、05年『金毘羅』で伊藤整文学賞、14年『未闘病記―膠原病、「混合性結合組織病」の』で野間文芸賞をそれぞれ受賞。
著書に『ひょうすべの国―植民人喰い条約』『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』『ウラミズモ奴隷選挙』『会いに行って 静流藤娘紀行』『猫沼』『笙野頼子発禁小説集』『女肉男食 ジェンダーの怖い話』など多数。11年から16年まで立教大学大学院特任教授。

「2024年 『解禁随筆集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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