- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102057018
感想・レビュー・書評
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数年前、吉田秋生さんのコミック「BANANA FISH」がお気に入りで、その頃特装版が書店に並んでいて我慢するのが大変だった。主人公アッシュ・リンクスは、ビジュアル的には原作よりもアニメの彼が好みでしたわ。その元ネタの「BANANA FISHにうってつけの日」は、いつか読もうきっと読もうと思い続けておりました。
タイトル通り、サリンジャー自選の短編9編。年代順のようです。なかなかの難物揃い。面白くないかと言えば、そんな事はなく、多くの作品で最後の3行にびっくりさせられる。そして、そのラストも含めて、さあどうぞと解釈してくださいね。と、ストーリーを引き渡される。困る。
数編読んで、作品の設定に微妙な類似があるのかな?(天才系の少年とか)とぼんやり思っていたのだけれど、“グラース家”の家族というのがサリンジャーの作品に登場する家族らしい。この短編の中にもグラース家の話が3編あるのだそうな。(私は4編かなと思ったのだけど)
短編だとしても、もう少し、説明があっても良いのではと思うが、このグラース家の設定は理解して読むのが流れなのかしら?
「バナナフィッシュにうってつけの日」1948年
シーモア・グラース(グラース家ですね。)と妻はビーチでバカンス。グラースは、多少病んでいるようです。かみ合わない会話、曖昧な返事。静かな狂気が漂いますね。バナナフィッシュは架空の魚。バナナをいっぱい食べて、入ったところから出れなくなる。ラストが突然。
シーモアグラースが、“もっと鏡を見て”と人名の掛け言葉らしい。
「コネティカットのひょこひょこおじさん」1948年
大学時代のルームメイト2人が、そこそこの年齢でおしゃべり。この一人の恋人だった男がウオルト・グラース(グラース家だ)で、彼の昔話の中で、女の子が足首を捻った時、童話のびっこの兎ひょこひょこおじさんと言ったのがタイトル。足首とおじさんのアンクルが掛け言葉。二人が酔っ払ってくるし、娘には空想の恋人が出てくるし、難解ですわ。
「対エスキモー戦争の前夜」1948年
最高に食えない友人とテニスをして、その帰り友人の家に立ち寄る。友人の兄が手を切って出てくる。
その後兄の友人が出てくる。二人が飛行機工事で働いていた。
「笑い男」1949年
スポーツ団のコーチの青年が、少年達に話す作中作が“笑い男”。誘拐され顔に穴を開けられた少年が義賊となる。妬まれて殺されるが、仲間と自然を大切にした。コーチは有望な好青年だが、見た目が良くない。自分のこととかけているのかな?物語はよくできていて面白い。
「小舟のほとりで」1949年
父親の陰口を聞いてしまった少年が、小舟に家出する。母親ブーブー(グラース家)が息子を慰めて、家に一緒に帰る。
陰口は、父親がユダヤ人(カイク)と言われたこと。
母親は、空に揚げる凧よ(カイト)とごまかす。
「エズミに捧ぐ」1950年
エズミの結婚式の招待状が届く。
エズミとの出会いを思い出す。彼女は、彼女が出てくる小説を書いて欲しいと頼む。
エズミと軍人との小説が書かれる。
「愛らしき口もと目は緑」1951年
男が若い女と一緒にいる時に、友人から電話がくる。妻が帰って来ないと延々と話続ける。ひたすら酔っ払いの話を聞いてなだめる。どうにか電話を切らせたが、又電話が鳴り、妻が帰った喜び。
若い女が妻だと思っていたが、違った。
「ド・ドーミエ=スミの青の時代」1951年
主人公は、偽名で通信の美術学校の講師になり、一人の修道女に執着する。
学校の運営は日本人。無許可で営業していたようで廃校になり、元の生活に戻る。
「テディ」1953年
天才少年テディ。船旅の間の輪廻転生などの死生観の会話。予測が、船から落ちること。妹か彼か、どちらが落ちたのでしょう。
日本の詩として俳句が紹介されている。
何というか、研究対象の文学という感じでしょうか。読み解ければ、気持ち良さげですが、自由に想像する余白があるとした方が気楽に読めそうですね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ひとつ前に読んだ「九つの、物語」(橋本紡著)の中に挿入されていた
古典文学の短いお話「コネティカットのひょこひょこおじさん」の著者が
J.D.サリンジャーであることと、このお話はサリンジャーによるその他の
お話と共に、九つの短編が収められている「ナイン・ストーリーズ」という
短編集の本であることを同時に知り、「九つ」と「ナイン」の二つの本との
巡り合わせにも心動かされて読んでみました。
・バナナフィッシュにうってつけの日
・コネティカットのひょこひょこおじさん
・対エスキモー戦争の前夜
・笑い男
・小舟のほとりで
・エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
・愛らしき口もと目は緑
・ド・ドミーエ=スミスの青の時代
・テディ
それぞれ単独の短いお話で、どのお話の中にも幼児くらいの小さな子供や
十代の少年少女、あるいは二十歳を超えたくらいの若い青年が登場します。
(登場しないお話も若干あり)その少年少女たちに向けられている、著者
サリンジャーの眼差しはとても穏やかで柔らかく、愛おしささえ感じる
優しい空気に包まれていました。けれどもその一方で、大人な人の心に潜む
言い知れぬ孤独感のようなもの悲しい空気も漂い流れていて、どのお話も
人肌ほどの柔らかな温かさと、人恋しくなるようなもの寂しさとが交差して
たゆたっているように感じられました。
ちいさな子たちや少年や少女は決してみな主人公ではありません。
(中には主人公もいます)けれどもこの子たちこそがお話の中での重要な
キーパーソン。著者サリンジャーは、子供たちの姿を借りて、読む人への
メッセージを込めていたのかしら...と、ふとそんなふうに思えたお話が
いくつかありました。中にはサリンジャーご自身をなぞらえているのかも...と
思えてしまうようなお話もあったり。(「笑い男」の私。「エズミに捧ぐ」の私。)
サリンジャーの著作を読むのはこれが初めてで、何の予備知識もないまま
読んだのに、九つのお話どれにもどこかになぜかしらサリンジャー自身が
いるように思えてなりませんでした。不思議。
「バナナフィッシュにうってつけの日」に続くお話と「ライ麦畑でつかまえて」
読んでみたいです。 -
ネイティヴ並みの英語力で原書を読めたらどんなに幸福なことか‥‥今作はそう思う何冊かの一冊。
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バナナフィッシュにうってつけの日が読みたくて。
行儀悪くたくさんバナナを食べすぎて、バナナ穴から外へ出られなくなるバナナフィッシュ。彼らはそのままバナナ熱にかかって死んでしまう。とても示唆に満ちた話だ。
このナイン・ストーリーズにおさめられている9つの話はどれも取るに足らないような、でもそこには見えない何かが含まれているような不思議な読後感を残す。
最後の話であるテディでは、とても哲学的で賢いテディという少年が出てくる。アダムとイブがエデンの園で食べた林檎のなかに入っていたのは論理だというテディ。アダムとイブは論理なんか食べるべきではなかったと。私たちも同様にいつも論理的であろうとするから、物をあるがままには見たがらず、物事には終わりがあるものだと思ってしまう。
こうやって感想をまとめようとしてる今、なんだかそれはバナナフィッシュに似ているような気がしている。バナナフィッシュと、リンゴ食いの連中である私たち。
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こちらこそありがとうございます!
そして、まだ途中ではあるのですが、バナナフィッシュの1話が「バナナフィッシュにうってつけの日」、最終話が...こちらこそありがとうございます!
そして、まだ途中ではあるのですが、バナナフィッシュの1話が「バナナフィッシュにうってつけの日」、最終話が「ライ麦畑でつかまえて」だったような気がします。
なので、レビューの冒頭にも驚いてしまいました!
とはいえ、サリンジャー難しいんですよねー(汗)2020/05/15 -
そうなんですね!私もバナナフィッシュというアニメが気になってきたので機会があればみてみますw
私は村上春樹さんが好きなので、サリンジャ...そうなんですね!私もバナナフィッシュというアニメが気になってきたので機会があればみてみますw
私は村上春樹さんが好きなので、サリンジャーも村上春樹訳がきっかけで読むようになりました。
抽象的な部分が多くて難しいところもありますが、無理に読み解こうとせずに自分に置き換えられる部分だけ掬い取って読んでいくと楽しめたのでぜひ!感想楽しみにしています♪2020/05/16 -
バナナフィッシュはAmazonプライムで観られますので是非(笑)
わたしも以前村上はるきさん大好きでよく読んでました!そしてその時に、わた...バナナフィッシュはAmazonプライムで観られますので是非(笑)
わたしも以前村上はるきさん大好きでよく読んでました!そしてその時に、わたしも彼の翻訳でライ麦を読みました。かなり前なのですっかり忘れてしまっていますが(泣)
自分に置き換えられる部分だけ掬いとる、というのは、とても分かりやすくて素敵な表現ですね。
翻訳に苦労しがちなので、そんなふうに読んでいきたいです✧︎ありがとうございます!2020/05/16
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解釈するにはまだまだ足りないような。
純粋にストーリーとして味わった感じ。
「エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに」を読みたくて購入。
エズミという少女の、不思議な魅力。
位が高いことを自負しながらも「汚辱」が書かれた小説を主人公に求めるのは、なぜなのか。
戦争によって壊れてしまった主人公が、またスタート地点に戻る快復を試みるのが、エズミからの手紙のおかげであるのに。
アメリカ人という、分からない対象を、それでも理解しようとし対話を行うエズミと、その対話に快く応じ、また彼女をその相手として認める主人公の、バランスの良い時間が心地よかった。
「バナナフィッシュにうってつけの日」では、より奔放な少女が描かれている。
読んだあと、川端康成の「みずうみ」という作品を思い出した。
自らの足の醜さを意識するあまり、少女の清らかな足を求める構図が、似ているように思う。
足は、手と違って万能性はないものの、地という汚れ・現実との接続点とも言えるかもしれない。
「テディ」は、読後を持っていく力のある、最後の作品だった。
恐らく年齢に不釣り合いな哲学的思索を行えるテディは、死に対しても透徹した目を持っている。
成長の途上にある少年が、既に霊的進歩を遂げた存在であることが混合されると、なんだか奇妙な感覚を覚えさせる。 -
サリンジャーは本当に意地悪なひとだと思う。かなり、変わっている。
バナナフィッシュからはじまる一連の物語の不可解さ、不思議さ。なのにでも、どこかひきつけられた暖かい。
始めは、出来事の順序や時間といった因果関係がつながっているようで壊れていて、困惑した。出来事と行動を結びつけることが拒まれている。なんだこれは。
テディまで読んでようやくわかった。出来事に因果関係など、はじめから彼は持たせていなかったのだ。彼はことば以前に立ち戻って語ろうとするために、因果関係を拒絶するような飛躍をしているのだ。テディのことばを借りれば、エデンのリンゴを吐き出して、ということだろう。
どうしても理由や意味をもとめたがってしまう。シーモアはなぜ自殺したのか、とか。今目の前にいる愛らしい口元の目は緑の奴は何者か、とか。なぜコネティカットのひょこひょこおじさんはあんなにも涙したのか、とか。ド・ドーミエ=スミスはあの晩何を見たのか、とか。はっきりいってそういったことを求めるのはナンセンスだと思う。わかるわけないのだ。はじめから意味や理由を持たせていないのだもの。ただ、在るようにしかない。バナナフィッシュはバナナフィッシュであって、それ以上の何者でもない。どんな形でどういう色でとか、海にバナナって何なのか、そんなものない。そうとしか、言えない。そうとしか言えないように、しているのだ。たぶんプラトンへの敬愛が彼にあるんだと思う。
そうすると、バナナフィッシュになったり、眼鏡を頬にこすり付けて泣いたり、脱腸帯を締めてるマネキンになったりするのだ。こういう意図的にナンセンセンスなものが書けてしまうというところが、ものすごく変わっている。哲学者ではこうはできない。
そして、そのことを最後に10歳の少年に堂々と語らせて、見事に落ちまでつけて幕引きさせるのだから。まるで今までの8編での取り組みのほどを確認するかのように。相当イケズだと思う。
解説によると、彼は自分の略歴や作品への解説を許可していないようだ。戦争がどうとか、家庭がどうとか、人物像や彼の表す象徴の解釈を作品に持ち込んでもらいたくないのだ。そんなものなくても、彼の書いたものを自力で理解できなければ、リンゴを吐き出してものを言えない。いや、理解というよりはもはや体感といった方がいいかもしれない。
彼の作品に登場するのは若いひとだと言うが、年齢というよりは根源的というところなんだと思う。いくら年がいっていても、根源をいつでも見出せるひと、それが若さなんだと。10歳でも何歳でもいいのだ。常に古く、常に新しく、ひとは根源に至ることのできる可能性を持っている。 -
大好きな一冊
10代の頃からずっと繰り返し読んでます
生きることの不器用さ言い換えれば純粋さとも言える主人公たちの言葉にできない部分を
うまく描いてるのがほんとすごい
もやっとした曖昧なものを言葉で説明して理解させるのではなく、行間を読ませて感じさせるみたいな、そういう空気感や緊張感を作るのがうまいんだと思う
その辺の感覚が合わないとつまらない作品になるとおもう
読解力とかではなく単にフィーリングの問題
サリンジャーは言葉遊びが面白いので、この作品は特に翻訳無しでも読んでみてほしいです -
サリンジャーの短編集。ということであるが、イメージの沸かないタイトルだ。オレンジのカバーなのもなんかイメージが沸かない。
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「バナナフィッシュにうってつけの日」が
読みたくて買いました。
衝撃的で突然過ぎる終わりに、
読み終わったあとしばらくボーッとしました。
その他の短編も、どこか悲しげというか
「死」というものがそばにあるように感じます。
『ライ麦畑でつかまえて』も読みたいですが
なかなか売ってなくてまだ手に入れてません。
早く読んでみたいです。 -
あまり人気はないようだが、『小舟のほとりで』が好きでなんども読み返してしまう。あの二人の会話が、何気なくて、小さなことで、それでいてとても大きな問題で、優しい。『バナナフィッシュにうってつけの日』などがサリンジャーの真骨頂ではと思うが、それと同じくらい心の僅かなゆらぎを描ける作家としての実力(野崎先生の力含め)が『小舟のほとりで』にはあると思う。