「原子力ムラ」を超えて ポスト福島のエネルギー政策 (NHKブックス)
- NHK出版 (2011年7月26日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140911815
作品紹介・あらすじ
福島第一原発事故で明るみに出た、もんじゅ事故以来続く、日本の原子力政策の杜撰さ。その背後に存在する政官学業からなる「原子力ムラ」の虚妄を暴く。エネルギーとしての原子力の無効性を、福島というトポス、3・11以降の政治、研究の最前線から原発と戦ってきた三人が解き明かす。いまだに原発を再開させようとする力が働くなか、自然エネルギーにまつわるウソ・デマ・誤解を解きほぐし、今後あるべきエネルギー政策の本質を明らかにする。原発がダメな本当の理由。
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
時流に乗って大勢に迎合する曲学阿世の徒が多い脱原発(良識的知識人)派の中で、このように事実関係をきちんと整理し、説得力のある言論を展開する人たちに初めて巡り会えた思いである。(ちなみに小生はどちらにも肩入れしているわけではない、というより専門外の素人である。以前は原発推進派が時流に乗っていたのであろう。)
彼らが言うところの無能で、無責任で他人任せの(まるでゾンビのような)、利権に群がる原子力ムラの人たち(多分この通りなのだろう)を、これまで野放しにしていて、今になって鬼の首でも取ったかのように誇る現象というのは(著者らは除いてもいいが)、前の大戦後にいかにも自分だけが平和主義者で、敗れることは前からわかっていたと言いふらしていた戦後の言論界と何ら変わることなく、日本が現在置かれている深刻な現象(政官経済界老若男女全てにわたる無責任体制)こそ今度の原発事故で浮き彫りになったことではないだろうか。
ところで、今だに福島第2原発や女川原発の地震による被害状況が明らかにされないのはどういう事か。もはやあれだけ叩かれている東電を始めとする電力会社に隠蔽する力など無いと思われるが、それともあまりにも軽微な被害でうまく乗り切ったので脱原発派にとって具合が悪いのだろうか。いずれにしろマスコミは国民の知る権利を果たしていない。 -
こういう本は今なら予約つきまくりかと思ったら、そうでもなく、図書館の新着棚にあったのを借りてきて読む。『原発社会からの離脱』の飯田哲也、『福島原発の真実』の元福島県知事・佐藤栄佐久、核燃料サイクルについて危険性よりも経済合理性から無意味さを追求しようとしてきた自民党の異端児・河野太郎という「原発と戦ってきた」3人による本。
"原子力ムラ"の体質、国策のもとに地域をふみにじってきた国の姿勢、それに対していかに地域が対峙してきたか、3.11以降の政府や各国の動向、さらには未来のエネルギー政策の可能性について書かれている。
かつて原子力ムラの内にいて、そこから外へ出た飯田は、日本の原子力のもっとも本質的な欠陥はつぎの2点だとあげる。
▼
(1) 安全審査が実質的ではなく空疎であること
(2) 技術の本質が底抜けであること (p.27)
原子力の安全審査には分厚い審査書があるというが、その審査会はわずか2時間ほどで、「分厚い審査書をその場で見せられて安全性を評価できる専門家などいるはずがない」という簡素なセレモニー。そうそうたる専門家が審査会には名をつらねているというが、実質的に審査書をレビューしているのは、国(原子力安全・保安院)の担当官、それも飯田の経験からいえば「情報公開されたときに反対派やうるさいマスコミに突っ込まれないか」という視点での字面のチェックに終始するばかりだという。
技術についても、「日本の原子力技術がアメリカからの借り物」というのは単なる比喩ではなく、文字どおりカーボンコピーで、日本の原発関連の設備機器はすべてこれにしたがって設計・製造・検査がおこなわれるという「告示501号(発電用原子力設備に関する構造等の技術基準)」の実態は、アメリカの原子力機器基準であるアメリカ機械工学会(ASME)規格の焼き直しだという。
日本の原子力御三家である東芝、日立、三菱重工でさえ、今日に至るまで原子炉の基本設計パッケージをつくることができなかったということは、たとえば東芝がウェスチングハウスを買収せざるを得なかったことにあらわれている。
佐藤さんが、知事時代にプルサーマルについて「白紙」から検討を始めた検討会の中間とりまとめ「電源立地県 福島からの問いかけ あなたはどう考えますか?~日本のエネルギー政策~」(pdf、2002年9月)について、もう9年も前のものだが、その有意性はむしろ増している気がすると書いている。
▼国は、「日本経済に必要な電力を供給するには、絶対に原発が必要である」という姿勢を崩さない。さらに「ウランを燃やしてできるプルトニウムは、貯め過ぎると外国から疑われるから、再利用しなければならない」として、プルサーマルの必要性も説く。つまり、「必要だから必要である」という理屈を延々と繰り返しているわけだ。(p.60)
この姿勢、原子力ムラの体質は、変わっていない。
河野太郎があとがきにこう書く。
▼6月18日、経産大臣が定期点検後の原発再稼働を求め、各地の原発は安全だと宣言した。しかし、その内容たるや、何年後までにこうした措置をとるという予定を並べただけだった。しかも、原子力発電所を運営する企業の隠蔽体質はまったく問題視されなかった。事故が起きたときにそれに対処する能力がないことを露呈した保安院や原子力安全委員会という組織をどうするか、シナリオを読み合わせているだけと酷評された安全訓練などのソフトウェアについては何も触れられていなかった。
政府が発表する基準値に対する信頼は、今やまったくない。3月11日以来、リスクコミュニケーションというものが成立していない。
そしてなによりも、核燃料サイクルという日本の原子力政策そのものがもはや成り立っていない。30トンを超える核分裂性のプルトニウムをどうするのか、再処理工場は稼働させるのか、使用済核燃料をどうするのか、そして放射性廃棄物の最終処分をどうするのか。
エネルギー政策を、この際、白紙に戻して、合理性、論理性の観点からしっかり再検討していこう。そして、それができればその他の不合理な政策、利権でゆがめられた政策もただすことができるだろう。
それをやることが正しい政治主導のはずだ。(pp.244-245)
佐藤さんも河野さんも「バリバリの自民党、それも保守本流」の人だというが、飯田が書くように、2人のものを読んで、現実を見つめてきた個人とその「党派性」は安易にむすびつけられるものではないなと思ったし、自民党への見方が少し変わったというのは私もそう思った。自民党の主義主張には、自分と相容れないものもいろいろあるけど。
(10/23了) -
もっと原子力のことをしっかり勉強しないとダメだなあと思った。読んでよかった。
-
今となっては多少情報が古いところもある(311直後の話など)が、全体としては「原子力ムラ」の30年来のグダグダっぷりがよくわかる内容であった。 とりあえず、途中で読むのが嫌になったぐらい。