- Amazon.co.jp ・本 (143ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582767667
作品紹介・あらすじ
今日に至るまで、あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である-。マルクス主義思想の最良の入門書として、世界中で広く読まれてきた本書を、いったんは他の選択肢すべてを殲滅したかに見えた資本主義の危機のなかで、もっともわかりやすい訳で、「党」の制約などとっぱらって、読みなおす。いま、もっともスリリングな思考の現場へ。
感想・レビュー・書評
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資本主義のリスクを鋭く指摘した第一章は、現代社会を見事に予見している。二章以降は、当時の思想・政治体制に不勉強なこともあり、難解であった。
柄谷行人氏の寄稿文を噛み締めている。「暴力革命」は否定されるべきだが、資本主義の暴走を抑止するこの思想は冷静に再評価されるべきなんだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これはダメだな、と思った。
社会の歴史を階級闘争の歴史という。
その時点で眉唾だと思った。そして、だからこそ興味を惹かれた。何故、闘争を歴史の根本などというものに大勢が魅せられたのか。
封建主義から資本主義へ、そして共産主義へ、というのはよく整理されてるように見える。
でも、封建主義から資本主義へ、というものは、持てるものと持たざるもの、という構造の中身が入れ替わって関係が変化した、というものであって、その先に持てるものと持たざるものとの構造の解体を見出すには無理がある。
暴力を革命の装置として想定することは、ある意味、やむを得ないと思う。それでも、暴力とは、世の初めに隠さないといけないのだ。暴力を公然と認めるところから始めた世界から暴力がなくなることはありえないだろう。
暴力は肯定するのではなく、矛盾として残しておかないといけないのだ。
とはいえ、自分としては、今の資本主義を肯定するわけでもない。資本主義も共産主義も、寿命が違うだけでどちらも破綻している。
共産主義者宣言の妥当といえるところは、資本主義への糾弾という意味でだろう。
「つまりは、社会の圧倒的多数の人間が財産をもたないことを必然的前提条件とするような財産を廃止しようとしているといって、諸君は、われわれを非難しているわけだ」 -
マルクスの思想が所謂、共産主義や社会主義とは何の関係もないことが明確に確認できる本。
200年経ってもこの本は新しく、永遠に達成されない究極の自由を描いている。
恐らく、マルクスは加速主義にさえも鉄槌を下すだろう。。 -
・資本家であるということは、たんに個人的なことではなく、生産において、社会的な地位を占めるということを意味する。
・諸君は、われわれが私的所有を廃止しようとしていることに驚いている。だが、諸君のこの社会にあって、十分の九の人間にとっては私的所有などとっくに廃止されてしまっているのだ。
・一言で言えば、ブルジョア諸君は、われわれが諸君の財産を廃止しようとしていると非難しているわけである。いかにも、われわれはそれを欲している。
・「君ら、共産主義者は女性共有制を実施しようとしている」と、われわれに向かって、ブルジョア階級全体が口をそろえて叫ぶ。
ブルジョアは、自分の妻を単なる生産用具としか考えない。だから、生産用具は共同で利用されるべきだと聞くと、この共有制の運命が同様に女性の上にもふりかかってくるであろうと考えてしまうのも無理はない。
だが、問題はまさに、単なる生産用具としての女性の地位の廃止にあるなどとは、ブルジョアは思いもよらない。 -
柄谷行人氏の「刊行に寄せて」が最高にイカしていた
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有名な「妖怪がヨーロッパに出没する」から始まり、これまた有名な「全世界のプロレタリアート、団結せよ!」で終わるかの有名な「共産主義者宣言」を多分30年ぶりくらいに読んでみた。
この30年くらいの間に、東西冷戦の終結、さまざまな民族紛争、9.11があり、リーマンショックがあった。
というなかで、プラグマティズムの流れを汲むリチャード・ローティが「共産主義宣言は、人類の希望の書である」といったことを書いているのに「へー」と思ったり、ジャック・デリダが、「マルクスの亡霊たち」で、まさに「亡霊=妖怪」をシェークスピアと絡めながら読解しているのに驚いたりして、気になっていた。
あと、この本のタイトルは、「共産党宣言」ではなくて、「共産主義宣言」とすべきではないか、もっというなら、「共産主義」という言葉に既にあるイメージを払拭するため、「コミュニズム宣言」、あるいはさらに進んで「コミューン+イズム・マニフェスト」とすべきでないか、なんて思っていた。そう感じで、本を探してみると、まさに「共産主義者宣言」とタイトルしたこの本を発見。さらに、柄谷行人が解説で、ほとんど同じことを書いていたりして、驚き、購入・読了。
いやー、1848年のマルクスの先見性、まさに今進行していることがしっかり把握されていることへの驚きに満ちた本でした。
いろいろ面白いところがあって、いくつも紹介したいところがあるけど、薄い本なので、読んでみて。 -
柄谷氏の付論のアイロニーがいい。
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なぜ、「共産党宣言」ではなくて、「共産主義者宣言」として、Das Kommunistische Manifestが訳されているのか。
ブルジョワとプロレタリア階級の階級闘争を分析して、共産主義への移行を目指す本書であるが、いままで、本書は「党」の色に彩られていたのである。
「今日に至るまで、あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」
「諸君は、われわれが私的財産を廃棄しようとしていることに驚いている。だが、諸君のこの社会にあって、十分の九の人間にとっては私有財産などとっくに廃止されているのだ。」
「労働者は祖国を持たない。もってないものを、奪うことはできない。」
「思想の歴史が証明しているのは、精神的生産が物質的生産とともに変化するということではないのか。」
「支配階級よ、共産主義革命の前におののくがいい。プロレタリアには、革命において鉄鎖のほかに失うものはなにもない。彼らには獲得すべき全世界がある。
全世界のプロレタリア、団結せよ!」
『宣言』の特徴は極めて個人主義なことである。また、インターナショナルであるということ。
『宣言』に書かれたことは現在も進行中である。世界はますます資本主義化しているのである。
共産主義は、「現実を止揚する現実の運動」にしか存在しない。したがって、「共産主義者」たることは「妖怪」たることである。 -
名前は聞くだろうが実際読んだ人は少ないだろう本
昔の大学生は読んでいたという話は聞くが。 -
教養としてと思い手にとった一冊。註を引きつつ、知識を補いながら面白く読み通した。特に第2章の対立関係や搾取からの解放、マルクスが掲げる方策に対して「いやあ現実的には無理だろ~」とその高い理想と抽象さに突っ込みつつ。それにしてもなぜ「共産主義者宣言」?読むなら同時代の作家の著作でも良かったはず。一つ思うのは、働いていなければ絶対に開くことはなかった。