招かれた天敵――生物多様性が生んだ夢と罠

著者 :
  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622095965

作品紹介・あらすじ

『歌うカタツムリ』(毎日出版文化賞)の著者が、理想的な「天敵」としての外来種の探求史を通して、計り知れない複雑さを秘めた自然と、そこに介入せずに済まない人間の業を描く。外来の天敵生物は、有害生物を制圧する救世主として希求され、招かれてきた。そこには、時に最凶の侵入者にもなる天敵の利用可能性に賭けた研究者たちの冒険、成功、そして、壊滅的な失敗の歴史がある。長く信じられてきた「自然のバランス」論の虚実や、各時代の社会が奉じてきた自然観の驚くべき変転をも映しだす、渾身の書き下ろし。

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    外来種による環境破壊は、今や気候変動と同レベルの喫緊的課題となっている。人間活動によって地域に侵入した外来種は3万7千種以上にのぼり、毎年200種のペースで増え続けている。2019年における世界全体の被害額は4,230億ドル(約60兆円)以上であり、10年ごとに4倍というペースで急増している。
    とはいうものの、国を超えて広がりを見せ、ほぼ土着してしまったといえるほどの外来生物群を、いったいどのようにすれば駆除できるというのか。薬剤の散布や遺伝子改変による絶滅は、いずれも「環境に人為的な工作を加える」という点で不安が残る。
    では、駆除を自然のなりゆきに任せる――「被食者と捕食者」という生態系の原理に根差した手法を取れば、果たして上手くいくだろうか?

    本書『招かれた天敵』は、外来種の駆除にあたって導入された「生物的防除」の功罪を綴る一冊だ。
    生物的防除とは、有害生物に対して、「外来の天敵生物を意図的に導入して、害虫が侵入した地域に恒久的に定着させ、長期的に害虫を防除する手法」のことである。一見すると、生態系そのもののバランスに任せたエコロジカルな手法だ。
    もともと生物的防除が流行に至ったきっかけは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の影響だった。カーソンは、生態系は「複雑で、精緻で、緊密に結びつけられた生物と生物の関係」で維持され、「つねに動的に、調整されている状態」を作り出すとし、これを「自然のバランス」と呼んだ。そして農薬の数、種類、破壊力が増すにつれて、自然のバランスが破壊されてしまったと述べる。それがDDTをはじめとした化学的防除法に対する向かい風となり、同時に、自然そのもののレジリエンスを活かした生物的防除法の導入が世界中で進められるようになった、といういきさつである(実際は、カーソンは殺虫剤・農薬の「過剰使用」について警句を述べただけであり、適量の使用なら否定していない)。

    しかしながら、特定の生物を原産地から輸入し野に話すというのは、いくらそれが有害生物の繁殖を防ぐためとはいえ、危険な取り組みである。実際本書では、導入にあたっての成功例と、導入の結果化学物質の散布以上に環境を破壊しつくしてしまった「天敵」の例が語られる。

    例えば、オーストラリアのクイーンズランド州で行われた、ウチワサボテンの導入について。中南米原産のウチワサボテンは、オーストラリアのクイーンズランド州を中心に大繁殖し、深刻な問題になっていた。そこで政府はウチワサボテンに寄生する、同じ中南米原産のセイロニカスとカクトブラスティスを放飼し、見事ウチワサボテンを駆逐することに成功した。
    この成功を受けて、カリブ海沿岸でも同様のやり方が取り入れられた。しかし、ウチワサボテンは中南米原産であり、オーストラリアと違って「在来種」である。その違いを検討せずカクトブラスティスを放した結果、大変なことが起こってしまった。フロリダ州のいくつかの地域では、95%のウチワサボテン類が破壊され、フロリダの固有種が絶滅の危機に陥った。ある保護区では、カクトブラスティスがウチワサボテン類をほぼ完全に破壊したため、それに餌や棲み場所を依存していた陸ガメの一種が危機に瀕した。テキサス州ではウチワサボテンを「テキサスの植物」として地域を代表する植物に選んでいるが、それが「天敵」の影響により、壊滅の危機にさらされてしまったのだ。

    では、失敗の原因は何だったのだろうか。それは自然環境が想像以上に複雑であったこと、加えて現地の生態系に与える影響が調査不足であったことだ。
    トライオンは防除を成功させるために必要な措置として、10項目からなる指針を提案している。
    指針ではまず、国内外の専門家による事業実施体制を構築すること、そして天敵候補の土着地ないし帰化している国に専門家を派遣し、現況を調査することが必要だとしている。ほかに重要な点として、天敵が宿主とする植物の種類を確認すること、それから天敵導入の際、誤って寄生虫など随伴生物が混入し逃亡するのを防ぐことが必要だと指摘する。そのためには、事前に導入候補に、どのような寄生虫、捕食者、病原体があるかを調べる必要があるという。
    輸入した天敵の検疫と繁殖試験をおこなうための検疫施設の設置も提案している。また天敵導入後にはモニタリングを実施し、個体数の変動や導入先のさまざまな土着生物との関係を評価するよう提案している。
    加えて、天敵を導入する前に、天敵の食性や生活史、非標的種への影響やほかの生物との関係、導入にともなうリスクなどを、野外調査と実験で調べておくこと、しっかり検疫をおこなうこと、そして導入後は事後モニタリングをおこなうことが必要だと述べている。

    こうしたトライオンの指摘を見ると、生物的防除は非常に労力と金がかかり、かつ運の要素が強いメソッドである、ということが伺える。相手は化学物質ではなく生き物だ。その生態を知らなければ、結果として導入前より被害が悪化する可能性も考えられる。環境に優しく被害もない「万能な防除技術」は、夢のまた夢であるということが分かるだろう。

    ――環境に関わる新しい技術は、失敗を積み重ねつつ、少しずつ改善され、多様化して、より安全で効果的なものへと発展していく。そうして既知のリスクは低減していく。しかし未知のリスクは、ほぼ永遠に残り続けるだろう。したがって、一切のリスクがなく、コストもかからず、どの環境でも機能する――そんな万能の害虫防除技術が使える日が来ることは、今後もなさそうである。
    夢の天敵など実在しないし、実現することもないだろう。それは理想の彼方に目標としてのみ、存在しうるものなのである。
    ―――――――――――――――――――――――
    以上が本書のおおまかなまとめである。
    超専門的で内容は重厚なのだが、物語のような構成をしているため、とても楽しく読むことができた。生物学的視点以外にも、米国農務省のマーラット夫妻の日本への新婚旅行の話や、外来生物駆除の背景に潜む政治的イデオロギーについての考察など、思わぬ方面からさまざまなテーマが投げかけられる。変化に富み、驚きに満ちた一冊だ。
    また、最終章では、筆者自身が挑んだ防除――父島の「ニューギニアヤリガタリクウズムシ」の防除の取り組みに失敗したこと――について描かれる。実は本書の目的は、外来生物導入の成功事例と失敗事例の数々を提示し、「父島で自然と人間の調和を実現するために、生物的防除を選択肢に入れるべきか」を、「読者のみなさんも考えてみてくれ」と問題提起することにあったのだ。つまり読者は、小笠原の世界自然遺産を守るという筆者の“夢”の実現のため、天敵を使うことの是非を考えるプロセスに、知らず知らずのうちに参加させられていたのだ。読者に知識を植え付け、本全体を一つの問題提起とする。この構成が何とも見事だった。

    本書を読んだ後、果たしてあなたはどちらの道を選ぶだろうか。天敵の導入か、化学物質の散布か、それとも他に代わる何かか。万能な防除方法などこの世にない。であるならば、きっと、読者の数だけ答えはあるはずなのだ。

    ――今の時点で正解があるわけではないし、より適切な答えが導けたわけでもない。するかしないか、という二者択一の答えとは限らないし、読者の数だけ答えはあるかもしれない。だが答えそのものと同じく大切なのは、答えを出すに至るプロセスである。仮に失敗しても、何を考え、どんな可能性を想定して、その判断に至ったのか、十分な検討の過程がある失敗なら、未来に貢献できるだろう。

    ――――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 生物的防除の始まり
    『沈黙の春』でカーソンが最も多くの実例をあげて紹介した「もうひとつの道」は、有害生物を減らしてくれる捕食者や寄生虫などを増やすという、古くから知られてきた防除法――「生物的防除」であった。有害生物の大発生が、「自然のバランス」が崩れていることを意味するなら、それを抑える「自然のバランス」を回復させればよいという考え方だ。
    駆除対象の有害生物に特異的に感染する細菌やウイルスを散布し、病気を流行させて退治するやり方も、そのひとつだ。さらにカーソンは、有害生物の防除を目的として外国から輸入された天敵が、素晴らしい成績を収めていることを強調している。これは「伝統的生物的防除」であり、「外来の天敵生物を意図的に導入して、害虫が侵入した地域に恒久的に定着させ、長期的に害虫を防除する手法」である。

    有害生物が世界で爆発的に増え始めたのは、19世紀以降である。これは世界各地で外来生物(外来種)本来の生息地(進化の歴史の結果としての生息地)から、人間によって直接または間接的に別の土地に持ち込まれた動植物が急増し始めた時代と一致する。外来生物は貿易や帝国主義によって世界がグローバル化したタイミングで急激に増加しており、外来生物の導入の背景には、19世紀欧米社会に広がっていた自然に対する歴史観と価値観――外来生物と在来生物を区別しない手つかずの生態系を美とするロマン主義――がある。

    伝統的な生物的防除は、外来生物も、その原産地では捕食者や寄生者によって増殖が抑えられているという考えに基づいて始まった。それぞれの地域で独自に繰り広げられてきた生物間の攻防と共進化により、どの種にもそれを特に狙う天敵が進化するからである。これに対して、人間によって持ち込まれた先の環境には、そうした天敵がいない。そのため、抑えを失った外来生物は一気に増えて、農作物や環境に悪影響や被害を及ぼす有害生物になる。

    それなら、有害な外来生物を減らすには、同じ外来生物で、原産地においてその増殖を抑えていた天敵を利用すればよい。安全で、コストもかからず、環境に良く、効き目は永続的だと思われる――さて、実際はどうなのか。


    2 外来生物は悪なのか?
    1990年代以降、遺伝子・種・生態系の多様さや豊かさを表す「生物多様性」という概念が確立すると、その主要な脅威のひとつに外来生物が挙げられるようになった。
    しかし、一部の生態学者や保全生物学者は、外来生物の「害」が過剰に意識されており、それがさらに移民などへの差別意識を助長する危険性があると主張する。

    彼ら懐疑論者が指摘する「過剰な害の意識」の例として、代表的なものが二つある。
    ひとつ目は、外来というだけで根拠なく有害とされていることだ。たとえば人間生活とは直接関係のない自然の在来生物に対して負の影響を及ぼすだけの外来生物も有害と見なされ、駆除対象になることである。これについて懐疑論者は、人間にとっての有害さが自明でなく、在来・純血を尊いとするイデオロギーや、外来という属性への嫌悪感を反映したもので、外国人や移民への差別と同質のものだ、という。またそのため、外来生物が生み出す可能性のある、人間にとって好ましい機能が無視されているという。
    この懐疑論者の批判に対して、外来生物対策に取り組む保全生物学者は、外来生物とは、本来の生息地から人為的に移された生物のことで、外国から来た生物の意味ではなく、したがって外来生物対策は外国人差別とは無関係だと反論する。また在来生物を守る外来生物対策は、生物多様性を守る取り組みなのだと説明する。彼らは外来生物そのものと対抗しているわけではなく、生態系や集団や遺伝的な多様性を脅かす外来生物にのみ対抗しており、「過剰な害の意識」という批判は誤解だというのである。

    保全生物学者が大前提とする目標は、あらゆる生物的な多様性の損失を最小化することだ。しかし古ぼけた民家に大きな価値を見る人もいれば、それを洋風建築に建て替えたいと願う人もいるように、その目標は社会的な利害関係とは必ずしも一致しない。歴史的な価値はあるが、人間生活に有害な在来生物もいる。また希少種の脅威となる外来生物が、一方で農業資源としての価値やほかの好ましい生態系サービスを提供する場合もある。したがって価値のすり合わせや、社会的合意が必要になる。

    本来は、外来か在来かという二項対立で、それらの価値を判断すべきではない。温暖化の進行で、外来・在来の区別も曖昧になりつつある。外来生物でも、原産地で絶滅した種が、移入先で辛うじて存続している場合には、保全対象となる。じつは一定以上の歴史を備えた外来生物—――たとえば北米のユーカリや、英国のスイセンなどは、人文史と結びついた歴史的価値をもち、保全対象となりうる。
    外来生物だけが有害生物になるわけではないことは、あらためて強調しておきたい。環境改変によって、在来生物が“侵略的”になる場合がある。逆に、外来生物が餌や棲み場所を在来の希少種に提供して、絶滅を防ぎ、生物多様性の維持に貢献する場合もある。外来生物が形成する生態系が新たな価値や機能をもつこともあるだろう。それゆえ外来生物にどう対応するかは、状況に応じて、そのメリットとリスクの兼ね合いで個別に判断する必要がある。

    懐疑論者が挙げる「過剰な害の意識」のふたつ目は、有害さが判明している外来生物だけでなく、まだ有害かどうかわかっていない外来生物まで、検疫対象になったりすることである。
    これに対して保全生物学者は、おもに不確実性の存在と、リスク管理の面から反論する場合が多い。外来生物は一般に在来生物より強い効果を生態系に及ぼす。たとえば、定着した外来生物は、在来生物より40倍も高い確率で有害性を示すとされる。また在来の餌生物に対して、外来の捕食者が与える影響は、在来の捕食者が与える影響の約2.5倍に達するという研究がある。
    生態学者のダニエル・シムバロフは、この問題について次のように述べている。
    「何年もの間、無害な状態を保っていた外来生物が、その後広がって有害なものに変化する例は多い。非常に有害な外来生物でも、当初はその危険性を認識できないものだ。だから外来生物が有害かどうかわかるまで待つ前に、駆除しやすい初期の段階で根絶するべきなのである」


    3 ウチワサボテン
    18世紀末以降に持ち込まれた中南米原産のウチワサボテンは、オーストラリアのクイーンズランド州を中心に大繁殖し、広大な土地にはびこって人も家畜も追い出され、深刻な問題になっていた。燃やす、皆伐するなどの方法で対処してもまったく手に負えず、拡大を阻止する対策が求められていた。
    サボテン類だけを加害する天敵の導入なら、オーストラリアには在来のサボテン類はないし、農産物としても対象外なので、在来の自然林や農業に影響を及ぼすリスクも低いだろう。そうした天敵として目を付けたのは、ウチワサボテンに寄生する中南米原産のカイガラムシの仲間――セイロニカスであった。

    1914年7月、対策の指揮を執るホワイトは、クイーンズランド州北部のタンシウチワ群生地に2か所の試験区を設置し、セイロニカスの導入試験を始めた。各試験区には約7m四方、高さ約4mの麻布製の巨大なテントが設置され、内側のタンシウチワ群落を完全に覆って外部から隔離した。そしてテント内のタンシウチワに、25匹のセイロニカスが放飼された。
    試験開始3か月後、両試験区ともセイロニカスは順調に繁殖し、タンシウチワの株がいくつか枯れ始めた。4か月後、大型株も枯れ始め、翌月ついにどちらの試験区でもタンシウチワの株すべてが枯死した。ホワイトは天敵の驚くべき威力を、こう報告書に記している――「実験の結果は満足できるものだった。……発芽したタンシウチワは一例もなく、完全に破壊されたと思われる」
    この結果を受けて、タンシウチワが多いクイーンズランド州北部を中心にセイロニカスが導入された。
    繁殖させた多数のセイロニカスが協力者に配られ、放飼された。その結果タンシウチワの群生は、瞬く間にクイーンズランド州から姿を消していった。ひとつの種を対象にしたものとはいえ、これまでまったくなすすべがなかったウチワサボテンの攻勢に対して、初めて効果的な一撃を与えることができたのである。

    その後、第一次世界対戦で一時的に計画が中断する。終戦後、再びウチワサボテンの壊滅を目指すべく、アルゼンチンで見つかったサボテン破壊魔――蛾のカクトブラスティスが導入された。CPPBの委員長に就任したドッドの指揮の下、1926年から1927年にかけて1千万個の卵が、土地所有者を中心とした協力者に配布され、ウチワサボテンの群生地か所に放飼された。野に放たれたカクトプラスティスは期待通り、凄まじい破壊力を発揮した。赤い幼虫の大群が緑の群れに襲い掛かり、文字通り粉砕したのである。
    各地でウチワサボテンの崩壊が起こり始めた。それまで数十㎞にわたって、びっしりとウチワサボテンが繁茂していた群生地が、2年後にはほとんど消え失せ、腐った塊だけになった。
    1928年から1930年にかけてさらに30億個の卵が協力者に配布された。繁殖施設は工場のようだった。生産された卵の入った箱を7台のトラックと100人の従業員が州全体に配って回った。ひとつの箱の中には計10万個の卵と、協力者に正しい卵塊の設置法を伝えるための説明書が入っていた。
    カクトブラスティスの猛攻撃はさらに激しさを増し、1933年にはクイーンズランド州最大の群生地が消滅した。この年までに、クイーンズランド州で80%、ニューサウスウェールズ州で50~60%のウチワサボテンが消滅した。

    そしてここで異変が起きた。あまりにも急にウチワサボテンが減ったため、カクトブラスティスは餌を使い果たしたのだ。幼虫が大量に餓死して、個体数が激減してしまった。その結果、ウチワサボテンは息を吹き返し、増加に転じた。
    だがカクトブラスティスは、餌の増加にすぐ反応し、1年後には繁殖力を回復、一気に数を増した。そして起き上がったウチワサボテンにふたたび襲い掛かって、叩きのめしたのである。
    カクトブラスティスの容赦ない攻撃を受けて、大半の地域でウチワサボテンは死滅したが、乾燥地帯北部の高温地域は、カクトブラスティスが苦手とする環境だったため、ウチワサボテンが受けたダメージは小さかった。そこでここには、コチニール野生種・オプンティアエが放たれた。飼育下でチューンアップされたオプンティアエは、生き残ったウチワサボテンを虱潰しに潰して、とどめを刺した。
    夢の天敵は、無敵を誇ったウチワサボテンの95%を死滅させた。かつて人を一切寄せつけなかった群生地は、耕作地や牧場、住居など人の暮らしの場に姿を変えた。1937年、駆除事業の成功を確認したCPPBは役目を終え、解散した。

    しかし、この鮮やかな成功を受けて、カリブ海沿岸で同じやり方が取り入れられた結果、大災害が起こった。周辺の島に自生するウチワサボテン類は、すべて在来種だったにもかかわらず、同じようにカクトブラスティスを放飼してしまったのだ。

    カクトブラスティスは、観賞用サボテンに紛れて輸送されるなどして、プエルトリコやジャマイカ、ドミニカ、米領ヴァージン諸島などカリブ海の島々に運ばれ、定着した。1974年には米国フロリダ州に向き合うキューバに現れた。そして1989年、フロリダ半島南端のフロリダキーズで、自生するセンニンサボテン上に、カクトブラスティスの赤い幼虫が発見された。
    その後、カクトプラスティスは瞬く間にフロリダ州をメキシコ湾沿いに広がり、米国在来のウチワサボテン類を攻撃し始めたのである。フロリダ州のいくつかの地域では、95%のウチワサボテン類が破壊され、フロリダの固有種が絶滅の危機に陥った。ある保護区では、カクトブラスティスがウチワサボテン類をほぼ完全に破壊したため、それに餌や棲み場所を依存していた陸ガメの一種が危機に瀕した。
    米国本土に上陸したカクトブラスティスは、ウチワサボテン群落を次々に破壊しながら生息域を西に拡大し、2008年にミシシッピ州、2009年にはルイジアナ州まで広がった。農務省による拡散防止の努力も及ばず、2017年にはテキサス州南東部に達した。
    米国南西部の乾燥地では、ウチワサボテン類はユニークな生態系を維持する重要な植物である。鳥類や小型哺乳類、爬虫類、昆虫など多様な動物の餌や棲みかとなり、土壌を支えて他の植物を維持し、土地の浸食を防ぐ役目を果たしている。また米国南西部では、ウチワサボテン類がさまざまな用途に利用されている。干ばつ時には家畜の食糧になり、イチジクウチワのように果実を収穫するため栽培される種もある。観賞用の種は、米国南西部の園芸業者の収入源であり、アリゾナ州だけで年1400万ドルもの利益をもたらしている。特にウチワサボテン類が豊富に自生するテキサス州では、1995年にウチワサボテンを「テキサスの植物」に選び、地域を代表する植物として大切にしている。それが壊滅の危機にさらされてしまったのだ。


    4 オオヒキガエル
    ウチワサボテンの壊滅に成功したオーストラリア政府とクイーンズランド州は、続いてサトウキビを食料とするグレイバックを駆除するべく、その天敵であるオオヒキガエルの導入を検討する。

    ウチワサボテン防除事業に携わっていたマンゴメリにヒキガエル導入案について意見を求めたところ、マンゴメリはあっさり否定した。幼虫は地中にいるのでオオヒキガエルには捕食できず、成虫は夜間の活動時間と場所から見て、「捕食できる機会が少ないので、オオヒキガエルでは制御できない」というのがその理由だ。しかも在来のカエルがこれらの昆虫を捕食しているにもかかわらず、ほとんど昆虫に影響を与えていないことを指摘し、「オオヒキガエルを導入する前に、まず在来のカエルの生態を研究すべきであろう」と主張している。マンゴメリは、在来種であるグレイバックの駆除に、伝統的生物的防除の考えは使えないことを、正しく認識していた。

    しかし結果として、保健省は1936年にオオヒキガエル放飼を全面的に解禁し、BSESはその後3年間、オオヒキガエルの養殖を続け、何千匹ものカエルをクイーンズランド州北部のサトウキビ農場に配布した。
    オオヒキガエルはどの場所でも驚くべき勢いで繁殖し、サトウキビ農場はたちまちオオヒキガエルでいっぱいになった。ところがグレイバックはいっこうに減る気配がなく、時に大発生し、サトウキビ農場主や製糖会社の悩みはいっこうに解消されなかった。1940年、BSESは、農場に棲むグレイバックのうち、オオヒキガエルに捕食されるのはごく一部でしかないことを報告書で認めた。皮肉なことに、マンゴメリの最初の判断は、まったく正しかったのだ。
    オオヒキガエルは農場からあふれ出して、森から牧場、人家の周りまで、あらゆるところに棲み着くようになった。そのため犬がオオヒキガエルに噛みついて、中毒死する事件が相次ぐようになった。また巣箱のミツバチを襲い、養蜂業に被害を与えた。
    増殖して増えすぎたオオヒキガエルは群をなして南下を始めた。
    1949年には、ブリスペン市街にオオヒキガエルの大群が到達した。市当局は、北から洪水のように押し寄せてくる大群の駆除を、早くから連邦首相に要請していたが、手遅れだった。群れに飲み込まれた市内はどこもかしこも、ひょこひょこ跳ねる、じっと躍る、そんなカエルたちで溢れかえり、道路は至るところ、踏みつぶされたカエルの死体が張り付いていた。
    生息範囲は年々拡大を続け、1970年代末には生息域南側の前線がニューサウスウェールズ州に達した。そして現在では、北側の前線が西オーストラリア州まで到達し、オーストラリア北西部の100万平方㎞以上の地域に定着している。

    クイーンズランド州へのオオヒキガエル導入がサトウキビの害虫防除に与えた効果について、現在では詳細な解析がなされている。結論は、オオヒキガエルの導入は砂糖生産量の増加に、ほとんど寄与しなかったというものだ。オオヒキガエルは一部のサトウキビ害虫を捕食して減らしたものの、害虫を捕食するアリ類を食べたり、害虫の有力な捕食者であるオオトカゲ類を中毒死させたりして、害虫を増やしてしまい、結果として効果が相殺されてしまったのである。

    オオヒキガエル導入は目的が果たせなかっただけでなく、それをしなければ起きなかったはずの問題も引き起こしている。
    特に問題なのは、オオヒキガエルの侵入によって生態系が崩れつつあることだ。たとえば西オーストラリア州でおこなわれた調査では、オオヒキガエルの侵入後5年間で、それを捕食したことによる中毒死のため、2種のオオトカゲ類の個体数が約半分まで減った。一方、オオトカゲ類の餌となるクリムゾンフィンチの繁殖成功率は1.6倍に増加した。オオヒキガエルが、生態系の最上位の捕食者を減らした効果が、その餌である下位の捕食者に波及しているのである。この影響はさらにその餌や別の捕食者に波及するので、そこで強い競争が働いたり、捕食圧が高まったりするなど、生態系はいっそう不安定化する。
    オオヒキガエルを捕食する在来種のうち一部の種は、中毒を避ける性質を獲得した。たとえばオオヒキガエルと共存して世代を経たヘビの一種は、オオヒキガエルを餌として避けるようになり、また頭が小さくなって、誤食の危険性も低くなった。一方、オオヒキガエルも侵入後、新しい環境で急速に進化が起きている。たとえば幼生が共食いする習性が強まったほか、運動能力が向上して、長距離移動に有利な性質を獲得した。その結果、ますます侵入速度が上がっているという。

    かくして、もともと有害生物を駆除するためにオーストラリアに持ち込まれたはずのオオヒキガエルは、自らが有害生物となって駆除対象となった。


    5 自然のバランス
    ハワードは、生態学上の非常に重要な概念である「密度依存」――単位面積あたりの個体数(個体密度)が増加すると、死亡率も上昇すること―——の概念を導いた。たとえば個体密度が高いほど、それを餌とする捕食者や寄生者が増えるため死亡率は上昇する。また個体密度が高いほど競争も高まるので、やはり死亡率は上がる。したがって自然界では、個体数が増えすぎると、逆に個体数を減らす方向にフィードバック機構が働く、と考えたのである。
    ハワードはこの生物学的なプロセスによる密度依存の死亡を、天敵が害虫の個体数を調節する「自然のバランス」と見なした。そして個体密度とは無関係に起こる、気温、干ばつなど物理的要因による死亡と区別した。これは生物的防除に理論的な基盤を与える重要な着想であった。

    スミスはハワードの密度依存の考えを取り入れ、密度依存の死亡が個体数の増加を抑える効果を「環境抵抗」と呼んだ。ある生物種の潜在的な繁殖能力が通常、ほぼ一定であると考えると、その種の個体数の変動は、食料供給、病気、寄生、捕食などで生じる「環境抵抗」の変動に大きく左右される。
    スミスの想定は次のようなものだ――自然界では面積あたりの集団の個体数が増えると、競争により餌が不足したり、捕食者や寄生者など天敵が増加したりして死亡率が上昇し、個体数が減る。密度非依存の死亡が無視できるとき、最終的に集団の個体数は、繁殖による増加率(寿命による死亡を差し引いた増加率)と天敵や競争の効果による減少率がほぼ等しい「平衡状態」になる。自然界ではこの増減のバランスにより、草食昆虫の個体数はごく少ないレベルに抑えられているだろう。
    これに対して、単一作物の農場のように、餌が豊富にあり、捕食者や寄生者という天敵がいない場合は、密度依存的な調節が働かず、集団個体は爆発的に増える――これが農場で昆虫が害虫化する理由というわけである。生物的防除が目指すのは、自然界で達成される平衡状態のように、草食昆虫の個体数が持続的に抑制されている状態ということになる。

    しかし現在では、この「自然のバランス」を科学の文脈で用いることはほとんどない。理由の1つは、自然の群集とはダイナミックで、絶えず攪乱にさらされ、混沌としたものだ、という認識が広がったためである。もうひとつの理由は、その定義の曖昧さゆえに、密度依存の調節のような集団レベルのバランスが、エネルギー循環や湿地の保水機能のような生態系レベルのバランスと混同され、誤解を招くからである。これらは異なる現象であり、プロセスも違う。こうした異なるレベルで共通に働く「自然のバランス」は存在しない。また、地球のあらゆる生物を互いに緊密に結びつけ、つねに均衡を維持するような自己調節機構、という意味での「自然のバランス」も、存在していないのである。

    生物の個体数を制御する仕組みは、競争、捕食、寄生による個体数の制限だけではない。自然界ではそれが働く場合と、働かない場合がある。これらの制御が部分的には働くのに、全体としては働かないことがあるし、その逆もある。個体の移住が頻繁な場合には、局所集団が不安定で絶滅しても、すぐ局所集団が再生するため、集団全体(メタ集団)は絶滅せずに維持されている場合もある。
    多くの生物集団の状態やそれが示す変動には、生物間の相互作用に加え、気温や降雨などさまざまな
    環境要因や偶然の要素が複合的に作用しているというのが、現段階の理解であろう。

    したがって、害虫の被害を防ぐ手法として伝統的生物的防除が効果的な場合がある一方で、それだけでは害虫を抑えられない場合もあると考えなければならない。


    6 「夢の天敵」という幻想
    『沈黙の春』以来、化学的防除に対する批判の高まりから、世界的に生物的防除が盛んになった。
    ただし、外来天敵による害虫防除の成功率自体は、必ずしも向上しなかった。たとえば1990年以降に導入された天敵昆虫の場合でさえ、定着に成功したものは約半分であり、有害生物の駆除にまで至ったのは10%に過ぎない。導入した天敵が定着した場合の8割は、有害生物を減らせなかった。それでも1960年代以降の伝統的生物防除は、「環境への配慮」や「自然に優しい」をスローガンとして掲げるようになり、社会も地球環境を害する化学農薬に代わる安全な手法として歓迎した。
    その後、外来天敵が生態系に与えた破壊的影響の事例が広く認識されるようになると、2000年以降、生物的防除はそれまでの5分の1に急落した。

    現在の伝統的生物防除は、天敵による害虫の制御を回復させたり、取り戻したりしよう、とは考えなくなった。
    自然の働きを取り戻すのではなく、さまざまな環境要因と、それらの変動と、導入した天敵で、害虫を低密度に抑えたり絶滅させたりする関係を、人為的な操作により、新しく創り出すのである。放出された天敵が非標的種を攻撃しないよう注意深くコントロールすれば、生態系を構成する在来種に影響を与えることなく外来種だけ攻撃でき、生物多様性の保全のための手段となりうる。そういう「保全生物学の手法」のひとつとして注目され始めたのだ。

    しかし、想定される非標的種すべてを対象とした試験で、防除に使う天敵の安全性が確認されたとしても、それは野生下での天敵の安全性を確実に保証するものではない。野外に導入された後に、天敵の攻撃対象が試験結果の予測と変わることがあるからだ。
    そもそも多くの生態系では、まだ種構成や遺伝的多様性の全体像が不明で、複雑な種間相互作用の実態も理解できていないのに、非標的種に与える影響を適切に評価し、安全性を予測することができるのか、という問題もある。クリスチャンセンらは、「潜在的ないし間接的な非標的種への影響を評価したり、生態系レベルの変数を評価したりする生物的防除の取り組みは少なく、大半は天敵導入の潜在的な環境影響を評価するための設計が不十分である」と指摘している。
    たとえ短期的な安全性は予測できても、数十年先のリスクを評価するのは容易でない。仮に危険を予測できたとしても、時とともに成功が危険のありかを人々に忘れさせる。生物的防除と化学的防除、いずれの歴史も未来の危険に対処することの難しさを物語っている。

    結局のところ、いかなる状況でも害虫駆除に威力を発揮し、かつ環境にも人体にも一切のリスクのない防除法など、存在していないのである。

  • 千葉聡『招かれた天敵』より「はじめに」全文ウェブ公開
    https://www.msz.co.jp/news/topics/09596/

    招かれた天敵 | みすず書房
    https://www.msz.co.jp/book/detail/09596/

  • 様々な理由で「人間の手によって」世界中を行き来させられてきた生物たち。主に農作物を害虫から守る「生物的防除」をテーマに、移入種たちがどのように広がり、成功を納め、あるいは失敗し、現代に至ったのかをたどる。

    生物たちは自己の遺伝子を地理的に拡散する宿命を帯びています。ですから広がっていくわけですが、そこに人為的な要素があると移入種と定義されます。本書はこの移入種が発生する経緯と経過と結果についてまとめたもので、大変に興味深い内容でした。
    まず生物的防除が19世紀には始まっていたことはけっこう驚きでしたし、そこに至る思想的な変遷も(宗教が絡んでいたりして)驚くべきものでした。移入に失敗したケースの多くは科学者が「慎重にすべき」とした移入を有無を言わさずやってしまう政治的な圧力だったりするのもとてもやな感じで、進歩しないヒトの社会を痛感したりしました。また、例えばアメリカで大被害をもたらした日本のマメコガネ(Japanese Beatle)が第二次大戦の際に日本憎悪のためのシンボルとしても用いられるなど、移入種による災厄が差別やイデオロギーに利用されていたというのも注目したいところです。
    最後に著者本人が関わった小笠原の生態系保全のための移入種対策については迫真のドキュメントで、人間の罪深さを噛み締めるエピソードになっていました。
    要所要所では非常に重要な指摘や提言があるのですが、何しろ語られるジャンルが広範なのでどれもこれも興味があり、ノートとか取りながら読まないと何が書いてあったか忘れがちになってしまうところは注意が必要です。

    日本を含めて世界中の多くの地域で地域の生態系に影響を与える移入種問題は頭の痛い課題となっていますが、多くの場合は解決に至る道筋すらつけられないのが現状です。こうした現状の何が問題なのかについて、非常に中立的に論じているのも印象的で、例えば化学農薬(化学的防除)を否定せずに総合的な観点から対策を提言するあたりなどは大変に同意できました。
    もうひとつ、こうした提言も含む科学的な問題というのは専門書に近く、読みづらいのが定番ですが、この本については、たとえばある科学者が世界中を新婚旅行ついでに調査してまわったリア充エピソードが長々と語られてなんじゃこりゃ、と思っていたところ、その後の展開で見事に回収されたりとか、たくさんの登場人物が出てくるけどキーマンを絞っていて科学者の系譜がわかりやすかったりとか、人柄まで感じられる人物描写だったりストーリーテーリングが上手だったりして読みやすい本になっているのが素晴らしいところだと思いました。(とはいえ、生態学が好きじゃないと読みこなすのは大変かも)。
    移入種や生態学に興味のある方はぜひご一読ください。レイチェルカーソンの名著、「沈黙の春」と一緒にどうぞ。

  • 評判通りの傑作。
    各紙年末恒例の”今年(2023年)の1冊”でも、多くの書評家から選出されること間違いないだろう。

    それでも読んでる最中は、どこに着地するのかよくわからなかった。
    養老孟司氏が本書の書評を書くのに難儀したと記してるように、最初は有害生物防除に携わった研究者を中心に、世界害虫・天敵攻防史が時代順に描かれるんだろうと思っていた。
    しかし年代は前後し、巻き戻されることもしばしば。
    思想的背景や理論が詳述されるのはよくわかるのだが、途中で日米友好の象徴の桜を焼却させた担当官の日本滞在記が、結構がっつり描かれていたりする。
    面白いので全然OKだし、後から詳述の理由がわかるのだが、読むほどに複雑にもつれていく感じだった。

    最後に"意図せざる結果"で、それまでのまとめにかかって、これで終わりかなと思っていると、次の章では小笠原での防除の攻防が微に入り細に入り描かれる。
    すべて読み終わってみると、この最終章は壮大な"あとがき"で、本書の執筆の目的が記されているんだなと合点がいったが、読んでる間は”なに?なに?”と戸惑いを覚えた。

    なんでこんな複雑な構成になっているのか、著者の執筆動機からしたら「してやったり」なのだろう。
    繰り返し語られる歴史の重要性とともに、読者は頭に入れるべき問題点を共有して、知らず知らず著者らの防除チームのしんがりに組み入れられたような錯覚を覚える。

    ただ、著者の考える今後の方向性には素直に同意できない部分もある。
    そういう意味で、すべてを読み終え感じるのは、本書自体がもう一つの「意図せざる結果」になっているのではないかということ。
    失敗の歴史を丁寧に検証することが大事と語り、導入リスクのない天敵導入はありえないし、化学的防除も同様。
    リスクの大きさ、効果を天秤にかけても、責任を引き受ける勇気が持てるのか?
    天敵の導入が引き起こした失敗の連鎖を読んでると怖じ気づきはしないか。
    通算すれば成功率は30%程度。
    有害生物を駆除するためにオーストラリアに持ち込まれたはずのオオヒキガエルは、自らが有害生物となって駆除対象になっている。
    導入した天敵を防除するために、さらに天敵を導入する羽目に。
    ヒキガエル導入は、生態系に不可逆的で、取り返しのつかない影響を与えた。
    寄生生物の天敵も、宿主特異性が高いからその対象しか影響を受けないというが、新たに導入した方は天敵のいない楽園に放たれるのだから、増殖して問題を本当に起こさないかの懸念がつきまとう。

    メリットとデメリットを比較考量してというが、材料となる知見は常に"現時点では"という留保がつく。
    ベダリアテントウはイセリアカイガラムシしか捕食しない夢の天敵だと考えられていたが、実際には他も捕食してることが後からわかっている。
    ネオニコチノイド系殺虫剤は、かつて安全な農薬だと信じられていた。

    それに何が価値を持つかは時代とともに変わる。
    天敵とした導入した外来生物も、うまくいこうが失敗しようが、絶滅してくれたらありがたいと考えが倫理的に許されるのか。
    鉄砲玉のように連れてきて、命を無慈悲に散らさせるのは、OKか?

    病害虫対策は、現場に則した適切な理論を構築して、生物的防除も化学的防除も含め、総合的におこなうべきというのが本書の主張だが、これも理想論で時間がかかる。
    生物的防除は成功率がよくて30%程度で、失敗すれば新たな危険を呼び込むし、化学的防除は利けば有効だが、耐性が進んだり、環境に深刻なダメージも。
    この他に第三の道、バイオ的防除もあるが、不妊化や遺伝子操作もコストの面から採用されていない。

    意思決定に関わるのは専門家だけではない。
    住民からの苦情が続けば、とにかく早く何かをしてみせる必要が行政に生まれるだろう。

    「自然を利用した技術がつねに、人工のものより良いとは限らない。有害か有益かは、時と場合によって異なる。成功が技術の多様性を奪い、害を及ぼすリスクを高める」

    「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

    幸運の成功、必然の失敗を肝に銘じるべき。
    アフリカマイマイの自然減を、ヤマヒタチオビの効果と思いこんだのもそうだが、本書では繰り返し、天敵の有効性が錯覚だった事例が紹介される。
    この天敵は有害だと口を酸っぱく訴えても、たまたま有害生物が減ったのを証拠に危険生物がさらに野に放たれる。

    いま、ナガエツルノゲイトウが問題になっている。
    ため池などの水面を覆い尽くす、地球上最悪の侵略的植物だ。
    南米由来の特定外来生物で、琵琶湖でも爆発的に勢力を広げ、滋賀県は9年で21億円投じても解決していない。
    市販の農薬は効かないし、刈り取りすれば散らばりさらに広がる始末。
    いまは黒いシートで覆って、光合成を防ぎ枯れさせる手法がとられているが、死滅するまでには時間もかかるし、金もかかる。
    生物的防除として、天敵を導入する方法も検討されているのだろうが、アルゼンチンアリなど、外来生物の脅威は身近な問題でもある。

    人間と自然、外来と在来の二項対立はもう古い。
    外来生物を目の敵にする思考は足下を掬われる。
    日本の里山に広く生育し、伝統的な景観や文化に欠かせぬ価値をもつ植物の多くは、江戸時代以前に移入した外来生物であるし、日本の誇る果樹もほとんどは外来種だ。
    離島の固有種を除けば、攻撃し駆除する対象も外来生物なら、その天敵も外来生物で、もっと言えば守る方の防除の対象となる野菜や果樹も元はと言えば外国から持ち込まれたものだ。
    やっかいものの外来生物を駆除するのではなく、有効利用し、宝に変える試みもある。
    食用など資源化する発想だ。

    最終章で、小笠原・父島のウズムシの勢力拡大を食い止めるため、著者らは次々と防衛線を設置していくのだが、自然なのはどちらだろうかと疑問に感じた。
    最初は人為的に導入された外来種も、島内で爆発的に繁殖する過程に人為的介入はないだろう。
    ゆくゆく島内の固有種が絶滅しても、入れ替わって繁殖した外来種が、時間を経れば、その島内でしか見つけられないような特異的な固有種にいずれ変わっていくのではないか。
    そもそも現在の固有種も、そのようにして入った外来種だったろう。
    不用意に持ち込まないなど基本は必要だが、防除は初期段階で留めるべきではないか。

    皮肉なのは、本書でも明らかになったように「自然のバランス」など存在しないということなのだが、天敵を使った有害生物の防除が試みられたのは、「自然のバランス」が信じられていたからこそだったということ。
    害虫の原産地には必ずそれを抑えている天敵がいて、個体数の均衡が保たれているのだと信じられていた。
    なぜ害虫の大発生が起きるのか、それは天敵が不在で、「自然のバランス」が失われているからだ。
    それなら天敵を入れて、自然の力でバランスを取り戻せばよい、と。
    最終的には、生物的防除を成功に導くような法則や理論はなかったことが明らかになる。

    外来生物導入には、「自然のバランス」とは異なる目的もあった。
    産業革命で人口が急増したイギリスで、差し迫った食糧危機の懸念を払拭しようとした。
    食用になる動物たちを順化・定着させることによって、英国の食卓に素晴らしい多様性を生み出そうとしたのだ。
    都市化と人口問題、農業の衰退、急速に拡大する都市への食糧供給を真剣に懸念した。
    つまり人類のためだったのだ。
    順化協会の理念が世界中に広まったことで、この後にあちこちで外来生物が問題になる。
    最初は、食糧問題を解決するために導入し定着させる事業が、有害生物を増やす結果となった。

    ここで紹介されるフランク・バックランドはずいぶん風変わりだ。
    4歳で化石を鑑定し、たくさんの動物を飼い、かつ食べ、寄宿舎ではネコやウサギを解剖し、残骸をベッドの下に隠す。
    悪臭で周りから苦情が出るが、友人からは人気者。
    こんな人いま出てきたら訴えられ捕まるだろう。
    彼は、世界的に外来生物が激増し、侵入種により生態系が改変される流れのキッカケをつくった人物でもある。
    動物愛護運動の先駆者でもあったが、同時に虐待とも受け取られないかねない行動も。
    ペットのサルが逃げたら、ショットガンをぶっ放して身動きを封じてつかまえる。
    そしてそのサルが死んだら皮を剥いで、テーブルクロスにしちゃう。
    現代では理解しがたい考えも、キリスト教的価値観からは納得できる。
    つまり、創造主から世界の支配者としての地位を与えられた人間は、下々の動物たちにも慈悲をかけるべきだという考えだ。
    世界中の生物を移動させ、それぞれの土地の動植物の構成を望むように変えるのは、多様性を高めるし、食卓を豊かにする。
    創造主の意思にもかなった善行と考えられた。
    人間中心主義の自然観で、価値ある自然とそうでないものを厳然と峻別した。
    こんな考えは間違っていると、現代の価値観から安易に即断することは果たして有益か?

    天敵を求めて世界中を旅する昆虫専門官には、2タイプがある。
    ケーベレのように見つけたら導入して、うまく行くまで繰り返すタイプ。
    「あれこれ考えるより、まず行動」で、在来の固有種への配慮もなければ、適切な事後評価もない場当たり的な天敵導入。

    「ケーベレのやり方は、駆除効果が出るものに行き当たるまで新しい天敵を導入し続けるという、一種の力業」

    反対にトライオンらのように、天敵としての適性や、非標的種への影響を評価するテストをした後に導入する慎重派もいた。
    駆除だけでなく、有効利用している事例も幅広く収集している。
    誰が見たって正しいのは、後者のトライオンらの慎重派に見えるが、果たしてそう断じれるか?
    ケース・バイ・ケースではないか。
    時間的に猶予がなく、被害が甚大で待ったなしの状態で、すべての精査を十分に行なうことは可能だろうか。
    果樹業者や農家、周辺住民からのプレッシャーも凄まじい。
    どうせ成功率は30%で、リスクのない生物的防除の導入なんてないんだと割り切れば、早々に決断を下してもあながち責められないような気もするし、現実はそちらの方が実際に多いのではないか。

    生物的防除を夢の解決策だと信じたい気持ちもよくわかる。

    「薬剤駆除や物理的な排除の場合は、雑草を駆除した後で、その再侵入を許せば、また同じ駆除対策をとらねばならない。しかしこの天敵が定着し機能すれば、永続的に効果が発揮されるので、その後の対策は不要になる」

    しかもその効果が、凄まじい破壊力で、文字通り有害生物が粉砕され、群生地ごと消滅するか激減すれば、夢の天敵だと持ち上げたくもなるだろう。
    しかし現実は、ほとんどの場合で制御効果が一時的で、かつ限定的なものに終わっている。

    最後にカーソンの『沈黙の春』の功罪が語られる。
    化学農薬への依存度を下げようという彼女の訴えは誤解され、農薬すべてが悪者で、その後に化学的防除を選択しにくくさせたという指摘。
    そして「自然のバランス」を過度に強調し過ぎたため、生物的防除が偏重されるキッカケになったという側面も。
    特に、伝統的生物的防除は「自然にやさしい」のスローガンのもと、数々の生態系を脅威に晒した罪深い手法だった。
    「自然のバランス」と化学農薬という二項対立は現在も受け継がれ、自然を善とし、人工を悪とする価値観が私たちの社会においても強化されてきた。

    「"かけがえのない自然を守らなければならない"という、カーソンの『沈黙の春』を通した訴えは、生態系と生物多様性を損ねてはならないという価値観を社会に導いたが、皮肉にもカーソンが勧めた伝統的生物的防除がそれを破壊するという、深刻な問題を浮かび上がらせることになった」

  • レイチェル・カーソンの沈黙の春からの自然と人間を巡る旅として読みました。なかなかほろ苦い歴史でした。

  • 世の中には部屋の中でもアトラクション気分を味わえる本ってのがたくさんありますよね。
    これもそんな本。内容は決して簡単ではないけれど書き手の知識とストーリテラーとしての能力で読ませるんだなぁ。

    まずタイトルからしていい。偶然動植物やコンテナについて来ましたよーではなく、人間が「故意に」「良かれと思って」「よりによって」導入した外来種の罠(当初夢見た物語と隠れた罠という方が正しいですかね)を冷静かつドラマチックに紹介していく。

    メインから外れた小さなエピソードながら心にチクっと刺したものがある。第4章「夢よふたたび」の中のものだ。オーストラリアでの毒蛇対策として、またネズミ対策として持ち込まれたアナウサギが増殖しすぎたため、大量のマングースが放たれた。外来天敵を駆逐するためにまた大量の外来天敵を。。ということでオーストラリアの生態系に深刻なダメージを与えそうなものだが、オーストラリアの気候がマングースの生育にマッチしなかったことに加え、アナウサギの捕獲と駆除を請け負っていた業者が自身の雇用保全のためにマングースを放った側から駆除したためとのこと。
    (10章のアフリカマイマイも似た話)
    まさに第4章冒頭で紹介される「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」だ。
    成功は時に他人の悪意が功を奏した偶然の結果だったり。そうよね。てかそうなの。世の中。人生。

    また第6章、英国からハワイに学術調査のため派遣されたナチュラリストの昆虫学者は、自身の名を冠した昆虫がオーストラリアからハワイに輸入されたサトウキビについて被害を出していたため、害虫駆除の任を得る。
    ここも巡り合わせの不思議。人生。

    物語が展開する場所的にも割かれたページボリューム的にもここが山場か。第7章「ワシントンの桜」米国農務省昆虫学者チャールズマーラット(1863-1954)とスタンフォード大昆虫学者桑名とのナシマルカイガラムシの原産バトル、米国農務省植物学者デヴィッドフェアチャイルド(1868-1954)の2000本桜、国務長官と日本政府のやりとり、東京市長のジョークなど「直接聞いた?」的に実に生き生きと描かれている。
    特にマーラットの半年に及ぶ日本各地の調査記録は瑞々しい表現力で、当時の一般の日本人の姿が差別なく描かれていて読んでて楽しい。(と、何も考えないパッパラパーの日本人の私は自慰感覚で読めます。がしかし。後半で作者はこれらの描写を「当時の米国上流階級のロマン主義的な影響を割り引くべきだし、これらの自然な姿は安価な労働力と膨大な作業量に支えられており、自然と調和した美しい景観は貧困、過酷、疫病、危険と一体である」としている。)

    幸運による成功も賞賛すべき。但しそこから何かを学ぶのは控えめに。我々が学ぶべきところな必然の失敗である。

    第10章11章は著者自身の小笠原諸島で経験した固有種を絶滅に追いやる天敵との死闘を詳細かつドラマチックに書く。

    「天敵導入(もしくは駆除)の壊滅的な失敗の歴史」を通じて生態系への理解の変遷を教えてくれるとともに「自然のバランスなんて便利なもんはねぇ」と結論。

    毎度毎度これを結論に書いて申し訳ないがこの本も中高生に是非読んで欲しい。
    「自然のバランスなんてないよね(あるかも知れないけれど人間になんて分からない→絶対に理解できないならないも同然では)」「ルール無用、生態系の複雑極まるメカニズム」「20世紀後半であっても驚くスピードでの絶滅(人間加担)」これだけでも十分ですがもっと具体的かつ細かいことでは、小笠原諸島でのニューギニアヤリガタリクウズムシが防護壁に流れている電流で胴体が焼かれた際、頭が胴体を食い引きちぎって頭だけ柵の向こう側に落ちて身体を再生&繁殖って読んだだけで、この世はルールや計画なんてなさそうだなーなんでもありの無差別試合だなーと少なくとも一神教の訳の分からないものに不必要に傾倒するリスクを軽減出来るのでは。(カタツムリの生態を落ち着いて考えても似たような感想ですねどね)

  • 【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/570494

  • 「歴史は問題を解決してはくれないが、問題を解決するために、何を覚悟しなければならないかを語ってくれる。」(本書「はじめに」より)
    複雑な生態系の問題を目の前にして、私たちは何を覚悟しなければいけないか、考えてみたい。

    ◎信州大学附属図書館OPACのリンクはこちら:
    https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BD01112796

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著者プロフィール

1968年、神奈川県生まれ。高校教諭。
1998年、第41回短歌研究新人賞受賞。歌集に『飛び跳ねる教室』『今日の放課後、短歌部へ!』『短歌は最強アイテム』『グラウンドを駆けるモーツァルト』、小説に『90秒の別世界』、共編著に『短歌タイムカプセル』、編著に『短歌研究ジュニア はじめて出会う短歌100』などがある。歌人集団「かばん」会員。國學院大學、日本女子大学の兼任講師。

「2021年 『微熱体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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