人はどこまで合理的か 上

  • 草思社
3.56
  • (15)
  • (28)
  • (31)
  • (4)
  • (4)
本棚登録 : 689
感想 : 37
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794225894

作品紹介・あらすじ

陰謀論やフェイクニュースを信じ、党派的な議論や認知バイアスに陥って、結論を誤る原因とは? 

21世紀に入り、人類はこれまでにない知的な高みへと到達した。
わずか1年足らずで新型コロナウイルスのワクチンを開発できたことも、その成果のひとつだ。
その一方で、フェイクニュースや陰謀論の蔓延、党派的な議論の横行を多くの人が嘆くようになっている。

人間はこんなに賢いのにもかかわらず、なぜこんなに愚かなのか?

じつは、人の非合理性には、ある種の理由やパターンがある。
フェイクニュースや陰謀論、党派的な議論、将来への蓄えをしないこと、
国同士が凄惨な消耗戦に陥ることには、理由がある。
損を取り返そうと無茶な賭けをしたり、わずかな損のリスクを過大評価して
有利な取引を辞退したりするのには、パターンがある。
理由やパターンがあるなら、これらの非合理には、対策や介入が可能なはずだ。

理性の力で間違いを減らし、人生と世界を豊かにするには、どうすればよいか?
ハーバード大学の人気講義が教える、理性の働かせ方!

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【感想】
    明らかな間違いであるのにもかかわらず、その選択をしてしまう人がいる。支離滅裂な陰謀論や根拠が曖昧な論説を信じ、期待値がマイナスのギャンブルにお金を賭ける……。人間は理性的な存在であるのにもかかわらず、なぜ合理的な判断を下せないケースが存在するのか?

    そうした考えから、人間の行動の妥当性を行動経済学の観点から探るのが本書、『人はどこまで合理的か』である。本書は上下巻に分かれており、上巻は「人間はどのような場合に非合理になるか」や「合理的な行動の定義とはなにか」といった、土台の部分を中心に論じていく。

    人間の認知が不正確であることを示した面白い例が、「モンティ・ホール問題」だ。これはあるテレビ番組で実際に行われたクイズがもとになっている。3つの扉のうちの1つに車が隠されており、挑戦者が1つの扉を選ぶ。その後、どの扉が当たりかを知っている司会者が、残り2つの扉のうち「ハズレの扉」を開き、「こちらの扉がハズレですよ」と教える。挑戦者はそれを見た後に扉を変更するべきか、という問題だ。

    正解は「扉を変更するべき」である。変更した場合は当たりの確率が3分の1から3分の2に上昇する。しかし、コラムニストの女性が投稿した「変更すべきである」という答えに対し、読者から「彼女の解答は間違っている」と、1万通近い投書が殺到した。投書の中には数学の博士号保持者のものも含まれていたという。

    この問題は、人間の認知の歪みを教えてくれる。1万人もの人々が何故間違えたのかといえば、「司会者の行動によって確率は変わらない」と考えたからだ。選択肢を変えようが変えまいが、「当たりの扉」そのものは変更されていない。そのため司会者がわざとハズレの扉を開く、という不可解な行動を取っても、それが確率に影響を及ぼさないと考えている。
    人は判断を行う場面においては、利用できるさまざまな情報を比較検討し、その判断が妥当かどうかを推測している。ここで結果を左右しうる情報が新たに出てくれば、当然その情報を取り入れることによって結果の確率は変わるし、積極的に取り入れるべきだ。しかし実際には、最初に下した判断に固執し、選択を変えようとしない。それは情報を過度に抽象化したり、必要とされるべき情報を間違って捨象してしまっているからだ。人間は合理化のために情報を無意識のうちに簡略化しているのだが、その過程で、合理的とはいえない判断を下してしまっているのだ。
    ――――――――――――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    1 人間はどのぐらい合理的か
    論理は人類が獲得した最高の知識の一つであり、これを使えば、あまりなじみのない抽象的な主題でも(法律や科学など)推論を働かせることができるし、シリコンに実装すれば、自ら動くことのない物質を思考機械に変えることもできる。論理には汎用性があり、内容に左右されない。論理は「PならばQ」は「『〈〈P〉かつ〈Qでない〉〉ではない』と等価である」といった形式であり、PとQに何を入れても成立する。これに対して、論理の手ほどきを受けていない人間の脳が起動するツールは、汎用性がなく、内容に左右される。問題の内容(問題に固有のもの)とルール(ツールを動かすためのもの)を一つにして処理するように特化したツールである。そこからルールだけを切り出して、別の問題や抽象的な問題、無意味に見えるような問題に応用することは、人間には難しい。

    だからこそ人間は、教育その他の合理性強化のための制度を作り上げてきた。そうした制度は、わたしたちが生まれもち、ともに育ってきた生態学的合理性(いわゆる常識や生きるための知恵といったもの)を、より視野の広い、より強力な推論ツール(過去数千年にわたって優れた思想家たちが磨きをかけてきたもの)で補強する役割を担っている。

    モンティ・ホール問題(3つの扉のうちの1つに車が隠されており、挑戦者が1つの扉を選んだ後司会者が残り2つのうちハズレの扉を開ける。それを見てから挑戦者は選択を変えるべきか、という問題)は、人間の認知の弱点を教えてくれる。すなわち、確率を傾向と混同するという弱点のことである。傾向とは、ある対象の状態や動きが何らかの偏りを見せることをいう。傾向についての直感は、世界に関するわたしたちのメンタルモデルの大きな部分を占めている。たとえば人は、「曲げられた枝は跳ね返りやすい」といった感覚を持ちうる。それは因果律と突き合わせることによって推測できるものだ。
    だが確率はこれとは異なり、17世紀に発明された概念ツールである。「確率」には複数の解釈があるが、リスクを伴う判断にとって重要なのは「未知の事象に対するあなたの確信の度合い」だろう。だからある結果へのわたしたちの確信を変えるような証拠が一つでも出てきたら、その結果の確率は変わるし、それに基づいた合理的な行動も変わる。
    確率は物理的傾向性だけではなく、物理的実体のない「知識」にも依存しているということが、人々がモンティ・ホール問題でつまずく理由となっている。彼らはこういう場合、車はすでにドアの1つのうしろに置かれていて動かせないという傾向を感覚としてつかんでいて、司会者がドアの1つを開けてもその傾向を変えられたはずはないと知っている。しかしモンティ・ホール問題はすべてを見ている司会者が新情報を提示するのだから、当然確率も変わる。

    わたしたちの認知システムがどれほど優れていても、現代社会においては、どういうときにそれを信用せず、推論を道具に任せるべきかを心得ていなければならない。ここでいう道具とは、論理のツール、確率、批判的思考など、理性の力を自然から与えられた枠を超えて広げてくれるもののことである。


    2 合理性と非合理性は裏表の関係
    美や愛や思いやりは文字どおりの意味で合理的とはいえないが、かといって非合理そのものでもないということを明らかにしようと思う。わたしたちは感情や道徳にも理性を適用することができるし、さらには高次の合理性というものもあって、それは非合理であることが合理的になるのはどういうときかを教えてくれる。

    理性は目的を達成するための手段であって、その目的が何であるべきかは教えてくれないし、それを追求するべきかどうかさえ教えてくれない。そして「情念」とは、ここではそうした目的を生み出す源を意味している。すなわち好み、欲求、動機、感情、そしてわたしたちにもともと備わっている感覚などで、これらがなければ理性は目的をもてず、目的達成手段を考えることもできない。合理性は何かを信じることであり、情念は何かを実現したいと望むことである、ということだ。

    しかしながら、理性が感情のパートナーではなく敵対者という印象がどこかから生じていることは確かで、単なる論理的な誤りではないはずだ。わたしたちは怒りっぽい人とは距離をとろうとするし、人にどうか頭を冷やしてくれと頼むし、自分の向こう見ずな行動、感情の爆発、軽率な振る舞いを後悔する。これはどういうことなのだろうか?

    実は、情念と理性を両立させるのは難しいことではない。次の3点が理由だ。
    ①一人の人間の複数の目的のなかには、互いに両立しないものがありうる。
    →家庭を作り子供をもうけるという究極目的を達成するために、ワンナイト(至近目的)の時には避妊する。
    ②ある時点での目的は、他の時点での目的と矛盾することがありうる。
    →老後の生活のために今のお金を投資に回す。もしくは、病気や事故で60歳まで生きられるか分からないから、今の楽しみを優先する。
    ③誰かの目的は、別の誰かの目的と相いれないことがありうる。

    これらの葛藤が生じたら、情念に従うべきだ云々では解決しない。嫌でも何かをあきらめなければならなくなり、むしろ合理性の出番となる。そしてわたしたちは①と②に適用される理性のことを「分別」と呼び、③に適用される理性のことを「道徳」と呼んでいる。

    ときに、非合理でいることが合理的である場合がある。例えば脅しだ。攻撃するぞ、ストライキをするぞ、罰するぞといった脅しの問題点は、脅しの内容を容易には実行できない場合があり、相手からはったりだと思われかねないことにある。そこで、自分は制御不能だと示す。相手にやり返す(要求には応じられないと突っぱねる)機会を与えないためには、本当に言ったとおりのことを実行すると信じさせなければならず、そのためにはコントロールの余地がないと示す必要がある。これは合理性を放棄することで、逆説的に自分の提案に合理性を持たせる一例だ。

    合理性がかっこ悪いとされていても、わたしたちは理性に従うべきであり、また現に、さまざまな非自明の形で従っている。なぜ理性に従うべきなのかと問うだけで、従うべきだと認めていることになる。目的や欲望を追求することは、理性の逆どころか、突き詰めればわたしたちが理性をもつ理由にほかならない。わたしたちは目的を果たすために理性を使い、またすべてを同時には果たせないので、優先順位をつけるためにも理性を使っている。
    未来を過度に、あるいは近視眼的に割引いていないかぎりは、不確実な世界に身を置く死すべき存在にとって、今この瞬間の欲望に身を委ねることは合理的である。その逆に、過度に、あるいは近視眼的に割引いてしまうようなら、今の合理的なあなたが賢く立ち回り、未来のあまり合理的でないあなたに選択させないようにすればいいわけだ。これもまた無知、無能、衝動的態度、タブーなどに見られた逆説的な合理性の一例である。
    道徳は理性と別のところにあるのではない。利己的で社会的な種に属するわたしたちが、自分たちのあいだの相反する欲求や重なり合う欲求に公平に対処しようとするときに、理性から生まれ出てくるのが道徳である。


    3 論理は万能でない
    論理が決して世界を支配できない第1の理由は、論理的命題と経験的命題が根本的に異なることにある。ヒュームはこの2つを「観念の関係」と「事実」と呼び、哲学者たちは分析的と総合的と呼んで区分している。「すべての独身男性は結婚していない」が真かどうかを判断するには、ただ言葉の意味を確認して(「独身男性」を「〈男性〉かつ〈成人〉かつ〈結婚していない〉」に置き換えて)、真理表を見ればいい。しかし、「すべてのハクチョウは白い」が真かどうかを判断するには、椅子に座って考えているだけではだめで、立ち上がって見にいかなければならない。ニュージーランドに行くと黒いハクチョウがいるのでこの命題は偽だとわかる。頭をひねるだけでは証明できないことが、世の中には溢れているのだ。

    第2の理由は、形式論理そのものの性質にある。形式論理は「形式」なので、推論者の前に並べられた記号とその配列以外には目を向けない。命題の内容――記号の意味や、判断に関係するかもしれない文脈や予備知識――を見ていない。要するに、厳密な意味での論理的推論では、知っていることをすべて忘れてしまうことが必要になる。しかし、ある命題についてわれわれは「条件文の前提が真である」という前提に立たなければ推論を行えない(独身男性の定義を「〈男性〉かつ〈成人〉かつ〈結婚していない〉」ではない、と疑ってしまえば、推論そのものが進まない)。
    自然界に生きる私たちは、ハクチョウや男性といった曖昧な概念を暗黙のうちに定義し推論に使っている。そのため、形式体系が求める完璧な論理的合理性の推論とはなじまない。

    第3の理由は、日常の概念について何でも必要十分条件で定義できないからだ。「ゲーム」と呼ばれるものすべてに当てはまる条件を見つけるのは難しい。しかし、ゲームの中から2つを取り上げれば、そこには必ずなにか共通点がある。それは論理で簡単に規定できる「古典的な」カテゴリーではなく、むしろ家族的類似性――「近しい」カテゴリーである。そして概念が必要十分条件ではなく家族的類似性によって定義されるとなると、命題に真理値(真か偽か)を与えることさえできなくなる。「サッカーはスポーツである」は誰もが真だと認めるが、「格闘ゲームはスポーツである」は真というより、『真とみなせる』あたりではないかと感じる人が多いと思う。「それは真である」とはいえなくなり、それがどの程度、型にはまるかによって(たとえばある遊びがスポーツに典型的な特徴のうちのいくつを持っているかによって)、「それは他のものよりは真である」といったいい方をするしかなくなる。


    4 理性の道具:ベイズ推論
    べイズの法則ないしベイズの定理とは、「証拠の強さ」を扱う確率の法則で、新しい事実を知ったり、新しい証拠を観測したときに、どの程度確率を修正するか(考えを変えるか)を示す法則である。
    ベイズ推論の範例としてまず挙げておきたいのは医療診断である。ある地域の女性人口(母集団)の乳癌有病率が1パーセントだとする。そしてある乳癌検査の感度(真陽性率)が90パーセント、偽陽性率は9パーセントだとする。ある女性が検査で陽性になった。この女性が乳癌である可能性はどれくらいだろうか?
    多くの人々は60パーセント~80パーセントと非常に高い確率を答える。そうした直感とは異なり、答えは9パーセントだ。

    ベイズの法則を式にするとこうだ。
    事後確率=事前確率×データの尤度/周辺確率
    文章にすると、「証拠を見たあとの仮説に対する信頼度は、その仮説に対する事前の信頼度に、仮説が真である場合にその証拠が得られる可能性をかけ、それを証拠が全体のなかでどの程度一般的かで割ったものである」
    乳がんの例では、母集団の有病率=事前確率が0.01、真陽性率は罹患している人がその検査で陽性になる確率なので、データの尤度が0.9。母集団全体での検査の陽性率は、罹患していて陽性になる人の割合(1パーセント×90パーセントで0.009)+罹患していなくて陽性になる人の割合(99パーセントの9パーセントで、0.0891)を足して0.0981となり、約0.1となる。これらを代入すると答えは0.09=9パーセントだ。

    私たちがベイズ推定を失敗する理由は、基準率(通常はこれが最適の事前確率となる)を無視することだ。検査が陽性だったこと(尤度)に気を取られ、母集団の中でその疾病がどの程度見られるか(事前確率)を忘れてしまう。世の中に乳がんの人とただ身体の調子が悪い人のどちらが多いかを考えてみてほしい。そして、陽性率に目を向ける前に実際にがんに罹患している可能性(の低さ)に目を向けてみてほしい。どこにでもいるわけではない患者を、完璧とはいいがたい手法で洗い出そうとすると、誤認が頻発するのだ。

    ヒュームは「奇跡」の存在を、ベイズ理論的に次のように否定している。
    「奇跡を立証するための証言は、それが偽である可能性が立証しようとしている事実以上に奇跡的だといえるようなものでないかぎり、不十分である」
    これは基準率のあり方を的確に捉えている。つまり、「奇跡が存在する=わたしたちの宇宙の法則が間違っている尤度」と、「奇跡が存在しない=誰かが勘違いした証言をしている尤度」は、通常どちらが高いかということだ。もちろん、後者である。そのため、事後確率を高くしたければ、とんでもないほど奇跡的な証拠(事前確率)が必要になってくる。

    しかし、基準率無視はときに積極的に行われることもある。例えばリバティ・ミューチュアル社は、自動車事故を起こす確率が高い10代の少年に基準率を設定し、高い保険料を設定している。しかし、人種、性別といった要素に対しては、公平性と道徳性という観点から計算基準を適用してはならないことは、きちんと法律で定められている。

  • かみごたえのある内容だった。
    どうやらベイズ推論を知らねば
    話が見えないようだ。
    下巻に続く。

  • 人間は非合理的な存在だと言われることが良くあるが、本書の筆者は、人間が合理性を持っているということと、合理的に判断をすることは有益であるということを信じている。

    確かに人間は一見非合理的に見える判断をすることがあるが、筆者はまずそれらの判断の中にも合理性を持ったものがあるということを説明する。例えば、進化心理学の研究を通じて、人は複数の目的の間の葛藤や時間選好の問題(すぐ得られる便益と先まで待つことにより得られる便益の間の重み付け)に直面しており、それらに対する判断は一見非合理的に見えても、何らかの論理性を持って判断していることも多い。

    また、敢えて無知でいることの方が合理的であることや、少しの犠牲やコストを払ってでも協力することによって、社会全体で便益を押し上げることができるということ、そしてそれらが道徳や社会のルールという形で、私たちが単独では非合理的でも全体で合理的な方向へ行動することがあることも示している。

    一方で、我々が合理的に判断するべきであるにも関わらず、非合理的な判断を下してしまうことも多々ある。これらの中には、感情に左右されて合理的な判断ができない状態にあるときだけではなく、我々の持つ認知システムが、経験や勘といったものに左右されやすく、不注意からそのようなものに引きずられて判断してしまう傾向があるからである。

    本書では、我々はどのようにすればこのような自らの認知システムの特徴を認識し、合理的な判断をできるようになるのかを、様々な角度から解き明かしている。

    上巻で説明されるのは、形式論理、確率、ベイズ推論である。

    形式論理は、非合理的な判断から逃れるための強力なツールである。問題をその文脈や個別性から切り離し、真理値表に基づいて前提条件から結論を導いていく。形式論理にも「後件肯定」や「前件否定」等、我々が間違いやすい落とし穴はある。ただし、トレーニングを積むことで形式論理を正しく活用することができるし、この技法はその形式性から、コンピューターに実装することもできる。

    形式論理は強力なツールではあるが、当然、その限界も存在する。すでに述べたように文脈や個別性から切り離す形で問題を定式化するため、時に問われていることを十分に問題として表現できず、論理的に正しくても意味がない結論や頓珍漢な結論を導き出すことがある。

    また、人間は論理的な包含関係を超えて、ヴィトゲンシュタインが家族的類似性と呼ぶようなまとまりで物事を認識することができる。AとBには共通性がある、BとCにも共通性がある。しかし、AとCに共通する属性は存在しない。このような場合にも、その関係性のネットワークを人間は一つの概念として捉えることができる。しかし、このような関係性は形式論理で扱うことは難しい。

    余談ではあるが、形式論理では扱いにくいこのような関係性を、深層学習のような多層のニューラルネットワークを使うことで、コンピューターで表現することができるようになったという話は、興味深かった。

    確率は、形式論理とは異なり、我々の日常生活の中でも頻繁に使われ、それだけに誤用も多いツールである。筆者は、確率には統計的な意味での確率の他に、我々の心理的な確証や主観的な判断、また信頼の度合いを表す表現など、様々な意味合いで使われているからであると言う。

    さらに、認知心理学において「利用可能性ヒューリスティック」と呼ばれる我々の認知の傾向により、我々の周辺環境に対する確率の予測は歪められる。よく知っていること、大きく取り上げられたこと、特徴的なできごとは、頻繁に起こっていると勘違いしやすい。そのため、我々は統計的な確率で表されたことを無視したり誤っていると考えたりもしやすい。

    しかし、確率も正しく計算すれば正しい結論を与えてくれる。筆者は、「Aではない」確率の計算や条件付き確率の計算をしっかりと身につけることの大切さを説いている。また、我々が後知恵の結論を確率的に表現しようとしたり、本来は確率的に起こりうることに対して「幸運の連鎖」のような特徴を見つけようとしたりする傾向があるなど、確率的な議論をするときに気をつけるべきことを教えてくれる。

    上巻で最後に取り上げられるのは、ベイズ推論である。様々な確率的な事象において、我々はその真の確率の値を知ることはできない。そのため、我々は真の確率の値に対する仮説を立てることしかできない。ベイズ推論は、この真の確率に対する仮説を、データをもとに修正していく方法である。

    ベイズ推論では、尤度と呼ばれる仮説が真であるとすれば実験結果のようなデータが得られる可能性がどの程度かを表す概念を導入する。そして、我々が事前に予想した事前確率を、「事後確率=事前確率×尤度/周辺確率」という式を用いて、より尤もらしい確率(事後確率)へと更新していく。

    このベイズ推論は、データの解析に使えるだけではなく、我々が合理的な判断を行う上で大切なことを教えてくれている。その一つが、基準率の大切さであるという。基準率を無視してしまう事例とは、例えば、医療診断の結果が陽性であったときに、母集団の中でその疾病がどの程度あるかを考えずに検査の制度と検査結果だけで真陽性である確率が高いと判断をしてしまうということである。実際には、非常に出現頻度が低い事象を検出するためには、検査自体にも非常に高い精度が求められるため、検査結果だけを見つめていては正しい答えは得られない。

    筆者は、このことを分かりやすく理解するためには、確率を具体的な頻度の数字に置き換えて考えればよいと説明してくれている。パーセンテージで表された尤度や事前確率などだけで考えるのではなく、それを1,000人や10,000人の母集団に当てはめて実際の値に計算し直してみると、基準率の大切さは非常に直感的によく分かる。

    本書はこのように、論理学や数学の概念を具体的で分かりやすい例で解説してくれている。それによって、それぞれのツールがどのような局面で我々の判断を助けてくれるのかを理解することができる。

    また、筆者は合理性というものを論理的な整合性という狭い定義で理解してはいない。むしろ合理性の中に敢えて無知であることの合理性や、形式的論理が導き出す無意味な結論を避けることも、合理性を保つためには必要であると考えている。

    また、合理的な推論の手法を徹底的に適用することで、社会的な公正が保たれないこともあり、そのような際には手法の活用に注意が必要であることにも触れられている。例えば、社会的な事象(犯罪率や収入等)を、人口統計的なカテゴリー(性別、人種、居住地等)で類型化して分析することは、ともすると特定の属性の人を差別することにつながる可能性がある。このような場合には、データを用いた意思決定が社会において合理的な判断はないということもある。

    合理性に対するバランスの取れた見解と、様々な分析方法の分かりやすい説明で、我々が合理的な判断をするために必要な知識や考え方を教えてくれる本であった。

  • 「何を考えるにしても、何をするにしても、私たちを導くものは合理性でなければならない」

    みんなが合理的に考えて行動すれば世界はもっと良くなるはずなのに、人間はなぜ非合理的な選択をしてしまうのだろう?そんな問いがこの本の出発点です。

    カーネマンの「システム1/システム2」の話、P.ウェイソンの「ウェイソン選択課題」、「モンティ・ホール問題」とベイズ推論などに触れ、人間がいかに認知的誤謬を起こしやすいか、筆者は解説します。

    うんうん、でも本当は“非合理性”が問題じゃないよね。人によって“正しさ”や“合理性”が異なること、合理性同士がコンフリクトすることこそ真の問題で、社会の分断の原因じゃないかしら?とモヤモヤしてきたところで上巻は終了。

    下巻に続きます。

  • 邦題「人はどこまで合理的か」にストレートに惹かれて購読。フェイクニュースやポスト真実、陰謀論の蔓延など、大国のリーダーから地域の隣人まで、合理的判断ができない事例が増えている気がして、いろいろ学びたいと考えた次第。

    簡単な数学の問題や確率、予測など、ちょと冷静に考えたり議論することで、正しい答えが出せるような問題でも、短絡的、性急に答えを出して間違ってしまう。これは「無知」とは異なるもので、高学歴な方や論理的な方でも陥る罠であるとのこと。

    また、認知バイアスの問題も無視できない。人種、性別、出生地、職業などに対する先入観や水面下の差別意識から、判断を誤るケース。数年前にファクトフルネスがベストセラーになったが、これはこのことの裏返しなのだろう。

    このほか、「限界効用逓減(今すぐ1000ドルもらうことと半年後に2000ドル貰う選択だと、1000ドルを選択する人が多い)」「共有地の悲劇(みんなで管理すれば全員の利益になるものを、個人の利益を優先して共有地が滅びる事例)」「囚人のジレンマ」「相関と因果の混同」など、多くの要因があることがわかり参考になった。

    中でも重要なのは、「マイサイド・バイアス」。これは「いろいろあるけど自分が一番賢い、自分が一番正しい判断ができている」と思いたいことからの偏見。これが悪化すると、〇〇ファーストなどという活動が過激化するので、覚えておきたい。

    多くの残念な事例が目立つものの、人類は確実に進歩している。パンデミックを抑え込み、森林破壊を抑えようとし、貧困率は減少している。これは、人間が合理的である証拠であり、希望はあるのだと思った。

  • 合理的判断、を取り巻くさまざまな事象。

    外国の学者の本にしては、読みやすく、スラスラ進む。
    認知心理学やら、バイアス、ベイズ推定など、見慣れた内容が盛り込まれていて既視感は大きい。それでもところどころハッとするような視点が盛り込まれていて面白い。

    合理的なだけでいいのか人間は。

    例えば、確率的に正しいからと、それが差別につながるような場合、公平性を毀損んするような場合、それは認められるべきではない。タブーというやつだ。

    なるほど。
    大体の本は、ヒューリスティックを乗り越えるところで終わっていたが、もうすこし問題を掘り下げようとしているようだ。
    後半も楽しみである。

    そういえば、人間が非合理的になる場合に、ある事象を神聖化することもあった。
    そうしたものにマスコミが大きな影響を持つことがあるのだが、正に今の日本、本来は「神聖化」される暗殺された政治家が、なぜか、マスコミ大明神のお陰で逆になってる現実を目の当たりにしている。

  • ピンカー先生はかしこい。ただし、読んでもめちゃ知識が増えるような感じはしないは、わしらがこういうのけっこう読んで慣れたからでもあるわね。

  • 数学や統計的な小話が多くあり、まぁまぁ面白かった

  • 人間は確率の計算が苦手だというのがわかった。
    知識ない人からすると内容結構難しめ

  • 医学部分館2階集密 : 115.3/PIN/(1) : https://opac.lib.kagawa-u.ac.jp/opac/search?barcode=3410170154

全37件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

スティーブン・ピンカー(Steven Pinker)
ハーバード大学心理学教授。スタンフォード大学とマサチューセッツ工科大学でも教鞭をとっている。認知科学者、実験心理学者として視覚認知、心理言語学、人間関係について研究している。進化心理学の第一人者。主著に『言語を生みだす本能』、『心の仕組み』、『人間の本性を考える』、『思考する言語』(以上NHKブックス)、『暴力の人類史』(青土社)、『人はどこまで合理的か』(草思社)などがある。その研究と教育の業績、ならびに著書により、数々の受賞歴がある。米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」、フォーリンポリシー誌の「知識人トップ100人」、ヒューマニスト・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。米国科学アカデミー会員。

「2023年 『文庫 21世紀の啓蒙 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

スティーブン・ピンカーの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×