無声映画のシーン

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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784864910057

作品紹介・あらすじ

この30枚の写真は、ぼくが切なく楽しい少年時代に帰る招待状だった。『狼たちの月』『黄色い雨』の天才作家が贈る、故郷の小さな鉱山町をめぐる大切な、宝石のような思い出たち。誰もがくぐり抜けてきた甘く切ない子ども時代の記憶を、磨き抜かれた絶品の文章で綴る短篇集。

感想・レビュー・書評

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  • 「無声映画のシーン」書評 写真から甦る 忘れえぬ風景|好書好日
    https://book.asahi.com/article/11639384

    無声映画のシーン フリオ・リャマサーレス著: 日本経済新聞
    https://www.nikkei.com/article/DGXDZO47228750T11C12A0MZB001/

    無声映画のシーン |ヴィレッジブックス
    https://bit.ly/3rwnOyo

  • 問うべきは死後に人生があるかどうかではなく、死ぬ前に人生があるかどうかである。

    母親が持っていた昔の写真を眺めているうちに、どこかで聞いたこの言葉が蘇ってきた。
    ぼくは少年時代を小さな鉱山町のオリェーロスで過ごした。牧歌的で美しい風景を持つが、粗暴で過酷で、自分が生きる知恵を学んだ町。
    鉱山が閉鎖になると知ったときに、自分の記憶にあるこの町の思い出を物語として再構築しようという目論見により描かれた小説。
    町にあった映画館へ通っていたこと、若くして鉱山で働き身体を病んだ鉱夫たち、旧友たちとの思い出、道で死んだ物乞い、憧れていた伊達男、毎年来ていた芸人一座、独裁政権を敷いていたフランシス・フランコのこと、そして町を出るときが来た。
    これらの思い出が、優しく落ち着いた情緒に満ちた語り口で語られてゆく。


    序文では作者が、これは自伝のようでモデルとなった出来事や人物はあるけれどもあくまでもフィクションとして事実を再構築している、と書いている。
    翻訳者の木村栄一さんを「友人」と呼び、また木村さんはあとがき解説でリャマサーレストの交流を語る。なんとも幸せな作者と翻訳者の関係。

  • 発展も成長もない、ただ断片が続き、永遠の向こうからこちらを見返してくる視線に、語り手は、とらわれるでもなく、注視している。
    普通に考える小説という概念から少しはずし、続いていないわけでもない、続いているとも言い切れない、何かしらの発見も飛躍もない、なのにどうしてこんなに不思議な読後感が得られるのか。
    文体、着眼点。どこから郷愁が湧いてくるのかはほんとうに不思議。
    ゆっくり読み直すこと。



    以上は2013年11月の記述。
    以下は2022年5月再読の感想。
    前回は★3だったが、今回★5に引き上げる。

    自分の記憶はダメなもので、なんかノスタルジックな短編集だったな~というくらいしか憶えていなかった。
    が、ひとりの男が30枚の写真を並べて言葉を紡ぐという枠物語自体が、筋の通った小説になっている……小説論になっている。
    ぼんやりとした抒情ではなく、確固たる意図に貫かれた一冊の本であるということだ。

    「黄色い雨」よりも再読時の感じ方の違いが、大きい。
    偶然だが数か月前に、森崎和江「まっくら:女坑夫からの聞き書き」に衝撃を受けたあと、ということもあって。
    スペインに「スラを引く女たち」はさすがにいまいが、町の労働者の後ろ姿や、炭坑町の賑わいなど、より想像できた。
    何も私自身が、坑夫のような肉体労働をしているわけではないが、生活者の悲哀、というものはこの10年で良くも悪くも感じ続けてきた。
    というと大仰かな、生活の苦渋とか石の肺とか貧困といった社会的訴え、とかでは全然なくて、ただ時が過ぎていくこと、移ろうこと、について思うことが多かった。
    「抵抗する――人生にではなく、忘却に」と高らかに宣言する(全然文脈は異なるが、キャシー・アッカー「血まみれ臓物ハイスクール」)ほどではないが、
    ただ遺された写真……自分の収集ではなく、母親が慈しんだあとに遺した、息子=自分自身の写真……をもとに「思い出す」ことが、悲哀を解消するささやかな手段、なのだと思う。
    記憶を正確に貯蔵することよりも、加工や味付けを行ってもよいので、いかに実感をもって想起できるか、ということ。
    これって、悲しい出来事があっても俳句に詠んだりすることや、
    本自体よりも本を読むことで読書という時空を立ち上げていくこと、でもある。
    リャマサーレスは小説論を書き、読者たる私は作者に導かれて読書論の入り口に立った……こんな幸せな読書ってなかなかない。

    ちなみに、モノクロ映画に映画館で熱中したとか、ラジオが唯一の情報源だったとか、町にテレビが来るというので皆が行列を作って見物に来たとか、少年数人で炭坑の穴に入り込む冒険をしたとか(日本なら残された防空壕に)、自分よりもむしろ親世代が経験して話してくれたことを、思い出す。
    作中にラジオや映画やテレビや、雑誌のピンナップとか、カラーへの移行とか、メディアの推移も描き込まれ、この推移も面白い。
    語り手の父親が、近所から話を聞きながら自宅へのテレビを導入すべきか否か考えていた……なんてのは、もしかすると幼い子供の目の前でパソコンやYouTubeをどうするかとか、AmazonFireStickの導入をどうするか考えたという自身の経験、と似ているのかも。
    ちなみにリャマサーレスは1955年生なので、私の父親の数歳上。
    思春期にインターネットが一般化した自分こそがメディアの変化に立ち会っった代表者のような気が勝手にしていたが、よく考えたら親世代のほうが凄いのかも。
    あるいは、自分の娘が思春期以降にこの本を読んだと想像して、果たしてメディアや生活にまつわるくさぐさのギャップに、ピンとくるのかどうか。
    これらの写真を写したのは(スマホでもデジカメでも写ルンですでもなく)プロの写真家だという点も。細かいところだが。
    人が死んでも写真は残る。
    が、その写真や映画館のポスターやといった文化の現れを想像するのは、体験や実感に基づけなければ、ある程度難しい。

    ところで先程森崎和江の名を出したが、本作中で「会社が云々」という記述が時々出てくる。
    炭鉱会社のことだが、同時に、森崎と関連する石牟礼道子の「苦海浄土」でいう「会社」すなわちチッソを思い出す。
    ひとつの町がひとつの企業に依存することの危うさ……産業が廃れれば一挙に衰退という機序。

    フランコ政権下の隠微な支配が、後半から見えてくる。
    少年が成長する中で見えてくるものがある、という点は、ベルナルド・アチャガ「アコーディオン弾きの息子」とも通じる。
    他連想したものとしては、
    ・フアン・ルルフォについて作中で言及があったのは、再読の収穫。「黄色い雨」再読時にルルフォの町そのものの語りを連想したが、その連想を作者が肯定してくれたような気がする。
    ・ビクトル・エリセ「ミツバチのささやき」は「黄色い雨」で思い出していたが、本作ではハッキリと蜂の巣箱が描かれる。
    ・柴崎友香。写真が題材になっているからというだけでなく、写真の向こうとこちらを比較しながら思考を深めていくあたり。
    ・滝口悠生。記憶の、記銘と保持よりも、想起を重視するという点で。

    ちなみに「黄色い雨」「狼たちの月」でカバーにニコラ・ド・スタールを選んだ人が、きっと続いて本作のカバーにロベール・ブレッソンの写真を選んだのだろう、素晴らしい!
    もしも日本で同じ趣旨の小説が書かれ、装丁に写真が用いられるならば、土門拳? 植田正治?

    ◆日本語版への序
    ◆信用証書が通用する間
    ■1  遠い地平線
    ■2  ある亡霊の肖像
    ■3  悪魔の丘
    ■4  時間の映写機
    ■5  一度だけの人生
    ■6  深淵にかかった橋
    ■7  冷え込み
    ■8  夜の訪問者(ストレンジャー)
    ■9  アメリカの夜
    ■10 アラブ音楽
    ■11 顎の上の世界
    ■12 石の肺
    ■13 埋められた記憶
    ■14 月世界旅行
    ■15 モノクロの生活
    ■16 世界の色
    ■17 鯨の肉
    ■18 フランコを待ちながら
    ■19 コンポステーラの楽団
    ■20 ストライキ(成人向け映画)
    ■21 国道のユダ
    ■22 タンゴ
    ■23 若葉
    ■24 大聖堂の孤児
    ■25 思春期の道
    ■26 死んだ写真
    ■27 犬ブドウ
    ■28 蜂の巣箱
    ◆訳者あとがき

  • 28枚の写真を頼りに、少年時代12年間過ごした炭鉱の町での出来事を思い返すノスタルジー溢れる作品。
    自伝のようであって自伝ではない作風で、淡々とした語り口で慣れるまでに時間がかかった。
    しかし、読み終える頃には一本の映画の如く壮大なストーリーへと変貌していく何とも不思議な小説だった。地味だけど、珠玉の1冊。

  • 「彼らが誰なのか思い出せないし、彼らが誰で、何をし、死んだのかどうかさえ分からないが、写真がある限り彼らは生き続けていくだろう。というのも、写真は星のようなもので、たとえ彼らが何世紀も前に死んだとしても、長い間輝き続けるからだ。」

    記憶にかかる靄。時間という映写機の歪んだ焦点。過去の思い出に光が差し込み、遠く離れたところからぼくを呼ぶ声が、たった今聞こえているかのように耳の中でこだまする。深い淵の上にかかる橋。時間の深淵を越えるに際して覚えるめまい、同時に捕らわれるもの悲しさ。

    ――今では雪にいなっている母に――

    作中の『ぼく』のもとに送られてきた1957年から1969年までの、かつて住んだ鉱山の町オリェーロスと、そこに生きた人たちの姿を映した30枚の写真。
    そこから紡ぎ出される、回想でありながらフィクション。それは町の住民、鉱山労働者、外国人狼奏者、旅芸人や楽団員、写真屋が織りなす過ぎた時代の肖像。
    虚実のはざまで揺れる短い物語集。

  • 母がのこした、著者の子供時代の30枚の写真から、故郷の炭鉱町に思いをはせる連作集。
    「言葉を蒸留する」と著者自身が述べる文章は詩的だけれど、とても穏やか。

    あとがきで訳者の木村榮一さんが述べているように、この本を読みながら、私自身の故郷の人々のことを思い出しました。
    白と黒でおおわれた炭鉱町でない、日本の小さな田畑が点在する方田舎だけれど。
    あの人たちは皆どうしているだろう。

  • 前にある三十枚の写真。スペインの今は廃坑になった町オリェ-ロスでのぼくの最初の十二年間がつまっていた。そこには、少年時代の淡い思い出や哀惜の記憶が思い出されるものだった。

    __自伝と思うような文体だが、冒頭でフィクションだと前置きがあるくらい、写真の中での記憶が鮮明に描かれている。派手なストーリー展開というよりも、その時代のオリェーロスの栄枯盛衰や、少年が次第に大人へと成長する様を写真というアイテムを通して描き出している。

  • 黄色い雨の後に興奮して読んだが、黄色い雨が良さすぎてピンとこなかった。でも楽しい。

  • 最初のほうはあまりハマらずにいたんだけど、読んでるうちに馴染んできて、読後は、しっとりと良い感じに。でも読んでると自分の過去も色々と思い出したなぁ・・・。短いエピソードを丁寧に重ねて、ひとつの世界観を作り出すあたりのセンスも好き!

  • 母親が残した30枚の写真を眺めながら、それぞれに写された幼いころの自分と当時の暮らしに思いを馳せる主人公。一章が一枚の写真の回想録という形式を取った連作短編集であり、各章に具体的な連続性はあまりないものの、回想の断片を繋いでいくことで、主人公の少年時代が紡ぎだされていく。

    訳者あとがきによれば、著者が実際に幼年期を過ごした鉱山が閉鎖されてしまうことになり、その思い出の街を何とかしてまた小説の中に蘇らせたい、という強い思いで本作を書いたそうだ。多分に自伝的要素を多く含むのはそのためらしい。

    著者の選択したその手法は、回想する主人公(著者にも思えるが、あくまでも「小説」ということなので、ここでは主人公ということでいいだろう)の姿と、遠い昔に切りとられたある一瞬の世界とを見事に繋ぎ、過去と現在との時間差を埋め、主人公の郷愁を強く感じさせてくれる。

    詩的で静かな語り口ではあるが、激動の時代を生きた少年の姿が断片の中から見事に浮かび上がり、まさに巧みであるとしか言いようがない。
    木村氏の翻訳も、相変わらず作品の雰囲気を損なわず読みやすくさすが。

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著者プロフィール

1955年、スペイン生まれ。詩人、作家。著書に『黄色い雨』『狼たちの月』『無声映画のシーン』(いずれも木村榮一訳)など。

「2022年 『リャマサーレス短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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