北は山、南は湖、西は道、東は川

  • 松籟社
3.33
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  • Amazon.co.jp ・本 (153ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784879842381

感想・レビュー・書評

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  • 第1章が無い。
     またもや塀が、飾り気のないどっしりとした分厚い白い土塀、てっぺんに青緑色の瓦を向かい合うように円錐形に並べた塀が続いているだけで、入口を探して延々と歩き続けるうちに、この塀の異様な長さ、不動の閉鎖性と不変性は、ただ単にある広大な領域の存在を示唆しているのではなく、何ものかの内的な尺度なのであって、これは塀にあらず、塀という形式のうちに表現されているのは、これまで慣れ親しんできたものとは別種の尺度がいずれまもなく必要となること、もうじきこれまでの人生の指標とは別種の物差しが必要になることを、到来者に知らしめるためのものなのだという思いに-塀を左手に見ながら歩き続けるうちに-とらわれたのだった。
    (p3)

     その回廊で今、奇妙なことに何やら物音がしたようだった。伽藍全体が恐ろしい静寂に包まれた謎めいたこの時間に、見捨てられ荒廃した砂漠のようなこの空間の中、ほかならぬこの回廊の奥つ方の完璧な静寂の中、鏡のようになめらかに磨かれ鏡のようになめらかに歩きこまれた長い床板が、一千年にわたって内に秘めてきた足音の歴史の中から小さな記憶をひとつ、この一瞬に思い出したかのように、固定されていたものが定かならざるものに変じて、ある一点でぎしっと鳴る音が、静寂のかなたからたしかに聞こえてきたのだった。過去の一歩の重みを呼びさまして再現するかのように、廊下の床板が一か所きしんで音をたてた。かつてここを歩いた者がいたことの記憶を確かめるかのように。
    (p44-45)

    クラスナホルカイ・ラースロー「北は山、南は湖、西は道、東は川」。この配置で造られた京都のとある古寺(廃寺?)で時間を超越したような視線が瞑想する、という作品。「人物が出てこない作品を書きたかった」とあるように、あるのはこの視線と、それと同じもののような違うような「源氏の孫君」という「何ものか」。寺は一部の門扉が壊され、焼けた後も、経本が崩れたところもあるが、なぜそうなのか、そのことが物語の流れに関わってきているのか、さえ提示されない。それは「源氏の孫君」についても同様で庭を探しているらしいのだが、何やら追手が来ていることも、「災厄」が近づいていることも、なんら物語の進行に関わってこない。という不思議な小説。
    不思議と言えば、先程時間を超越したと書いたけど、「源氏の孫君」はどうやら千年ものあいだ庭を探し続けているらしく、京阪電車に乗って来たり、寺の住職の部屋がここだけ現代の乱雑な部屋になっていたり、と。読者を導く先の視線と「源氏の孫君」の視線がズレを伴いつつ並行し動いている気がして。このズレは「源氏の孫君」が降りた京阪電車の駅を「七条の次の駅」としか書かない(実際の七条の次の駅ではない、何かその間にある隙間のような)ところでも察せられる…

    …こういう作品、大好き!

    と、まあ(苦笑)、カルヴィーノのような、カリンティ・フェレンツのような、カルペンティエールのような…真ん中のはハンガリーつながりだな、「ブダペストの世紀末」で「アメリカに精神的に一番近いヨーロッパはハンガリー」というのを思い出す。
    っと、作者クラスナホルカイ・ラースローはというわけでハンガリーの作家。2000年に京都に半年招かれてその時の経験をこの作品に取り入れている(2003)。その他の作品に「サタンタンゴ」、「抵抗の憂鬱」、「戦争と戦争」なんてのもある。最初のものは、作品最後の数ページが冒頭のと全く同じ循環。次のは鯨の見せ物と共にきたよそ者が町を破壊するというもので「ヴェルクマイスター・ハーモニー」という名前で映画化された。最後のは図書館司書の主人公が古文書を見つけ、その内容をニューヨークでインターネット上に書き込み、スイスに渡り自殺する…が、作品最後の一文は作品内には無く、スイスに実在する美術館の壁にあるという仕掛け。どの作品もなんらかの意味においてこの作品とつながっている。
    (2020 09/21)

    東福寺?
    七条の次は東福寺。その次の駅の鳥羽街道も実名で出てくるけど、東福寺という名前は示されない。もちろん寺の名前も。もっとも、作者と読者の意識の中でしか存在しない現実から抜け落ちた場所ということでいいのだが…

    今朝読み終え。自然と寺、人間や犬や狐という動物との関係性を俯瞰する瞑想。スタンレー・ギルモアの書「無限の誤謬」なる本に展開する哲学的構想や、寺の庭を巡る地学、生物学的考察。吉野の山を購入しそこでの樹々の成長を見極め、適所に配置し寺の造営をする宮大工。駅のホームの古ぼけた自動販売機の詳細な記述、寺の住職の乱雑な部屋の記述、そして京阪電車の自動アナウンスの描写(それは最後には「止まるところをしらない暴力」(p140)と変容される)。これらが混在して、一つの作品空間を作り上げる。この不思議さ。

     それは結局、不滅の源泉はほかならぬ反復そのものにあることの理解へといたらせるのだった。
    (p122)

    「源氏の孫君」が駅に戻った後、もう一度寺を探して歩いても、そこには痕跡すら見あたらなかった。全ては「源氏の孫君」の、いや作者クラスナホルカイ・ラースローの意識の中でしか存在していなかったのか。
    でも、この結びの言葉は何を意味しているのだろう。
     その麗しの京の都では、ちょうどその時、どこかで何やら大きな災厄が出来したところだった。
    (p146)

    (この「災厄」とは、今までにクラスナホルカイ・ラースローの諸作品で描かれてきたものと、同じ類のものだろう)
    (2020 09/22)

  • クラスナホルカイ・ラースローの邦訳されている唯一の作品で、『サタンタンゴ』を前に読まなければいけないと思ってた作品。

    京都に訪れた源氏の孫君(というとても曖昧な存在)や犬、が出てくる他には、京都の風景や、歴史的事物をとにかく細かく、仔細に分析している。
    「。」に辿り着くまでが長いもので、一体何が語られていたのかな、とちょっと分からなくなってしまうことがあるくらい。

    読みやすさはないけれど、体験しがいのある作品、という点では達成感。もっとこの作品の良さが分かるようになりたいな、なんて思いました。

  • 文学

  • 源氏の孫がタイムスリップして京都の街を散策するだけの話。特に物語はなし。究極の雰囲気作品。特に主人公を設定する必要はなかったのではないでしょうか。作者の京都に対するすさまじい情熱だけは伝わりました。外国では高い評価を得ているようですが、読み物としてはハズしてると思います。まあ上品が駄目な人は手に取らない方が賢明だと思います。

  • 作者はハンガリー人。ハンガリーの文学界では著名人で映画の脚本も書いているらしい。ちなみにハンガリー人の名前は日本人と同じで、姓・名の順に表記されるそうだ。それだからどうというわけもないけど親しみを覚えてしまう。

    で、この小説だが、ハンガリー人がハンガリー語で書いているのに舞台は京都。登場人物も日本人である。そんな小説は今どきめずらしくもないと言われるかも知れない。どっこい、これは、少しちがう。ストーリーらしきものは確かにある。が、まるでそれがサイド・ストーリーのように読んでいて感じられる。

    のっけから奇異に感じられるのは、冒頭に「2」とふられた章からはじまるからだ。ページは1とあるから落丁ではないと分かる仕組みになっている。「列車は線路の上ではなく一本の鋭い刃の上を走っていた。」という書き出しで、読者は現代の京都の町に誘導される。

    福稲というから東福寺界隈と思しきあたりで京阪電車をおりた話者の眼には死んだように静まりかえった京都の町が映っているらしい。蓮実重彦の書く文章のようにきわめて息の長い文章が延々と綴られるに連れてまるでカメラを通して見つめているように、微細な風景が話者の心象風景を綯い交ぜるようにからめて語られてゆく。

    一章自体は短いのだが、寺の境内の様子についてびっしり書き込まれた情景描写が終わると、新しい章が現れ、初めて主人公の名が明かされる。それが、源氏の孫君である。そうなのだ。この不思議な小説の主人公とはあの光源氏の孫なのである。

    『名庭百選』という本に紹介されていた庭を探しに、供も連れず京阪電車に乗ってやってきたのだが、町は祭か災厄でもあったのか人っ子ひとりいず、案内人もないままに寺に入りこんでしまったところである。

    叙述の体裁は断章形式で、時系列は操作されている。時折、誰もいない京阪電車の駅舎の情景を描いた章が挿入されるあたりは、まさにカットバック処理された映画を見ているような気分にさせられる。

    寺を造るために、北は山、南は湖、西は道、東は川に囲まれた地を見つけるところからはじまり、吉野の山に生えた一本のヒノキを探すという、日本の寺の造営法から伽藍配置、一本のヒノキが宮大工の長年の経験によって山門のどの位置に使われるかといった蘊蓄がこれでもかというほど偏執狂的に記述される。

    やがてそれは、主人公が探しながら見ることのかなわなかった秘密の庭の描写へと移るのだが、中国から風に乗って運ばれたヒノキの花粉が、運良く生きのびて、この寺のこの場所にまで来ることができたのかを例の蛞蝓が這い回った後に生じる燐光を帯びた航跡のような文体で延々描写される。

    その合間合間に、孫君捜索の命を受けた背広にネクタイ姿の供の者たちが自販機のビールで酩酊するといったスラップスティックの場面を点綴しつつ、瀕死の犬やら、板壁に目玉の部分を釘で打ち付けられた十三匹の金魚だのというみょうに禍々しいオブジェを介し、持病の発作を癒すため一杯の水を探し求める主人公の探索行を物語るという、一筋縄ではいかない小説なのだ。

    物語の展開があまりに奇想天外で状況が飲み込めないことから、読者はきわめて宙ぶらりんの状態で読むことを余儀なくさせられる。しかし、それでも謎にひかれるように読み進めていくと読むという作業自体は、次第に快楽の度合いを深めていくのであって、上質の読書体験が読者には約束されていると言えるだろう。

    一つ落ち着かないのは、この独特の語彙とうねくるような文体がどこまで著者自身のもので、どこからが翻訳者の努力によるのだろうという点である。センテンスの長さは原著に合わせているのだろうが、寺社の建築、作庭に関する用語等は翻訳者の手柄だろうか。二度の半年ほどの京都滞在で自家薬籠中の物としたのなら、著者の見識を賞賛するしかないが。

    最後の章のひとつ前で、場面はもとの京阪電車の駅舎に戻り、既視感に満ちた光景が描写され、物語は円環を閉じるように見えるのだが、列車の方向は初めとは反対の北を指し、京都の町でいましも起きようとする災厄を予言する禍々しい言葉が終わりの始まりを告げる。

    こういう世界が好きな人にはたまらない作家だと思う。

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