多くの人に読んで欲しい一冊。単に一つの思想を広めようというわけではなく、人それぞれに思想を持って欲しいという思いでこの考え方に触れてほしい。

この世がギスギスしているのは、ギスギスさせている人が不満を持っているからである。そして当該不満人に対する不満が当事者同志から周囲へと波及していく。その原因が何かと探っていけば、個々人の欲望が叶えられないということ。どうすれば叶えられるのかわからないので、とりあえずお金を貯める。貯めていくうちにこれで足りるのかと不安になる。そのうちお金を得ることが目的化していく。その目的がうまくいかないからさらに不安になり、それが積み重なって不満となり、やがて暴発する…。この悪循環を断ち切るには、自分が欲する物事をはっきりとさせ、それに向かった考え方を持ち、それにしたがった行動をする。これに尽きると思うのだが、行動はもちろん、考え方を持つことすら許されなくなりつつあると思えるのは多くの人が考えているところではないか。

「前向き思考の心理学」とでもいうものは、新書や文庫を初めとして数多く出されているが、そこに提示されている考え方のオリジナルに近いものが本書での提言である。多くの著者が参考文献として本書を取り上げていることからしてその重要文献性は明らかであろう。単なる人間の快楽というものを通り越して「生き方」あるいはそれを統合した「社会の在り方」として本書の提言はもっと注目されてしかるべきである。

エッセイなどでおなじみの「幸福論」というものを現象学的に詳細に記述したものと言っていいが、唯心論的啓蒙書を嫌う人でも科学的な観点から興味深く読めると思う。スポーツや芸術の分野で話題となりやすい「ゾーン」も本書によるフローの延長線上にあるものと考えれば、たんなる「考え方」の問題ではなく、結果に結びつく「技術」であることが理解できるのではないか。

とはいえ「幸せというものは主観的に決まるものである」という認識を一般化してしまうと、権力者はそれを口実に我々から多くの物を奪っていくだろう。ただ、その逆に権力者がどんなに豪勢な報酬を与えようと我々が心から欲しないことに屈することはない。前者のような横暴を防ぎ、後者のような非服従を貫くには、主観的な幸福感と並行して、客観的な生きる術をも身に付ける必要がある。そしてこの「術」は一般的に言われているような「稼ぐ力」あるいは「周囲に認めさせる力」というものではなく、自らが生きていく力とでもいうもの。ここでは主観と客観の間に存する「身体」という概念が有力ではないだろうか。

いずれにしても、行き詰まっている人、落ち込んでいる人はもちろん、今がイケイケドンドンな人でも、視界が広く開けることを期待できる一冊である。

2016年8月16日

読書状況 読み終わった [2016年8月16日]

歴史に限らず、あらゆる学問がそうではないかと思うのだが、そこで語られていることは「事実」というよりも「解釈」として受け取ることがなによりも「真実」に近付くコツなのではないかと思う。そして専門家の優れたところは「本当のこと」を語っているということではなく、それに少しでも近付くための方法を示していること、そのための解釈や提案をまとめてくれていることではないか。本書はそうした語部の解釈が物を言う世界史という分野を、教育に精通している齋藤が非常にコンパクトにまとめてくれている。

齋藤先生による世界史の視点は「5つのパワー」。モダニズム、帝国主義、欲望、モンスター、宗教。これらの概念説明を追っていくだけでもとても勉強になるのだが、そこをお互いに関連付けていくことが著者の特徴が出るところ。本書の日本史バーションでもそうだったと思うが、こうした視点を固定化することによって膨大な範囲の知識を体系的にインプットできる。そして他の視点でまとめたマクニールなどの歴史観と比べてみるのもおもしろいだろう。

歴史を学ぶ意義は「過去を知ることによって現状を認識し未来を見通す」ことにある。さらに「物を知り場所を知り人間を知ることができる」ことも見逃せない。すなわち、歴史はあらゆる分野を浅く広く知るとても便利な学問であるということが言えるのではないか。そう考えると歴史は教育とくに義務教育においてもっと然るべきポジションにおく必要があるのではないかと思う。

2016年8月8日

読書状況 読み終わった [2016年8月8日]

 「1」という数から「2」という数となるとその性質はガラッと変わる。「1」は単数であり「2」以上は複数。単数はそれが消えたり失ってしまえばそれまで。複数であればそうした事態に陥っても「残るもの」はある。しかし多数を維持するコストというものもあり、複数の最も小さい自然数が「2」。こうしたことを考えて「2つ」という数は日常において最も選択されやすい数字ではないだろうか。例えば、日常使っているものの予備を確保しておくことはその物を「2つ」所有することになる。この状態は完全に安心するというわけではないが、先述のコストとの兼ね合いから納得のいく状態であろう。しかし、どうもこの「2」という数は「安定」という観点からみると決して有用な数字ではないのではないか。そう考えていた矢先に見つけたのが本書である。

 2つか1つかを選択する場合において、「安定」という観点からみれば「1」という数字に軍配が上がりやすいように思う。これは「邪魔するものはいない」という安定であろう。当然これは至極危険な考えで、当該対象に暴走を許すことになるし、それがコケれば後釜はいない。そこで二つのものを対立させることによってシーソーのごとく安定を図るという発想が生まれてくるのであろう。しかしそれは両者の重さが拮抗している場合にのみ言えること。片方が弱ければ実質的な独占となる。そこで「3」という概念。両者ともに選択できないのならば「第三の選択」。両端の安定性が極まっていないのならば「三つ巴」。「三大なんとか」や「ホップ・ステップ・ジャンプ」などなど。すべてが「3」に収まるとは言わないが、まとまりのある概念であるということは間違いないのではないだろうか。

 こうして「複数」というものを考えてみると「単数」という概念についても考えが深まる。「かけがえのない」あるいは「唯一無二」といった形容詞が付けられて然るべき物事にはいかなるモノがあるか。そこから自分が今何をどの程度必要であり欲しているのかも分かるような気がする。さらに、思想というものは「正しいか否か」よりも「有用か否か」に価値があるということもいえるのではないだろうか。

2016年1月16日

読書状況 読み終わった [2016年1月16日]

 ブームを経て一般化してきた感のある「断捨離」であるが、これは一つの技術である。技術である以上身に付けるには訓練が必要。訓練は反復継続して身に付けるしかない。この営みはライフワークとしてやる価値が極めて高いのではないか。身の回りのモノがすべて自分に必要なモノだけになり、快適な生活を再開したとしても再びモノは溜まっていく。それは周囲との関係性によっても影響を受ける。まさに生きることそのものと言ってもいい。断捨離はヨガ由来ということもあり「片付け術」「整理術」「収納術」を越えた自己形成手段といえる。

 一度に使えるモノは限られる。あるモノを使えば他のモノを使う機会を失うことも多い。「もったいないから」あるいは「早く使い切りたい」という理由から、気に入らないモノを優先的に使っているとお気に入りのモノを使う機会が少しずつ先延ばしになる。そうしているうちにお気に入りのモノが時期的にも機能的にもじわじわと劣化する…。こういうことを繰り返すと生きることそのものにも影響が出てくるのではないだろうか。モノを長持ちさせるコツは使うこと。これに尽きる。使えば自分の意識は使っているモノに向かう。モノの状態を把握し、必要であればメンテナンスをする。場合によっては使うことそのものが手入れとなるようなモノもある。モノと自分との間に「身体」を設定してみると理解しやすい。身体も使っていない部分は劣化していく。もしもオプションで手を何本でも増やすことが可能であるならモノと同様な事態となるだろう。

 一般に断捨離や節約術の類は、経済最優先の思想をお持ちの方々から痛烈な批判を受けることが多いが、こうした方法論は戦争反対、自然回帰、個人主義といった思想と同じく自分の感覚と相談して持つべきか否かを決するものである。そのへんを弁えていないと周囲の影響で流されてしまうこととなり、いつの間にか必要なのかどうなのか分からないモノに包囲されてしまう事態となるだろう。何を貫くにも自信や信念、信頼といった「信」モノと無縁ではいられないようだ。

2016年1月16日

読書状況 読み終わった [2016年1月16日]

 田舎暮らしの早川さんのお宅に出版社勤務のマユミちゃんと旅行代理店勤務のせっちゃんが訪ねてくる。早川さんの含蓄ある言葉をおみやげにそれぞれに日常へと戻っていく。世間の不条理さに直面し先の言葉を思い出す。こんな感じのパターン。とても入りやすく読みやすいものの、その思想的内容には考えさせるものがとても多い。

 それぞれの平日都会での日常と、休日森での暮らし。このコントラストがこの作品を独特の雰囲気に仕上げている。半分作者の体験、半分作者の理想といったところだろうが、それほど現実離れしているというわけではない。綺麗事を纏った田舎暮らし推奨というわけではなく、ご当人の早川さんの現実主義がまた好印象。その考え方に説得力を付与している。スローライフやロハスを否定しているわけではないものの、それを標榜しているわけでもない。この狭い日本でむりやり自然主義を掲げることもないし、そうした前提で眺めれば早川さんのライフスタイルは決して不可能なものではない。

 ところどころに散見する毒もさすがといったところ。ほのぼの画質全開なのだが、訴えようとしていること、あるいは自分が描く理想というものを表現しようとしているミリさんの力強さを感じる。このバランスがミリさん一番の特徴だと思う。

2015年9月12日

読書状況 読み終わった [2015年9月12日]

 著名人による読書本は数多くあり、いわゆる名著というものは古いのでどうしても内容が現代に追いついていない場合が多い。しかし読書の本質は変わるものではなく、要は「情報の収拾」ということ。その結論は多くの読書本がたどり着いているものであろう。本書は20世紀に出版されているので、その内容は古そうなイメージがあるが、現状のKindleまでは網羅していないものの電子本の可能性にまでしっかりと言及しており、しかもその本質についても見事に論じているのはさすがというところ。インターネットでの読書にたどり着いてから締めに図書館の利用法を持ってくるあたりはいかにも読書好きらしい。

 意見が分かれるところであるが「本は捨てる」人もいるし「本は捨てない」人もいる。書籍の本質を情報と考えれば前者だし、書籍の本質は情報が具現化した物と捉えれば後者になる。どちらが有益真実と言えるかは分からないが、そうした方法論にあれこれ悩んでいるうちに情報は流れていく。私の場合はとりあえず読んでみてそれから考えよう、というスタンスに落ち着いてしまった。落ち着いてないけど。

 本書をきっかけに図書館を見直すこととなる人も多いと想像する。情報収集として図書館はもっとも経済的なものではあるが、その便宜性ではインターネットに劣る。そこで本書で提案しているのは、図書館は従来のように「〜を調べる」ということではなく、ぶらりと入って目に入った本をパラパラとめくってみる。これはどうしても読みたい本があればAmazonnで検索して注文し、町の本屋へはぶらりと入って立ち読みして偶然出会った本を見つけて買っていく、という住み分けに対応している。

 情報と食は人間が生きていくのに不可欠なもの。着るものや住むところがなくても「絶対に生きていけない」というわけではない。水分や栄養がなければ「生物として生きていけない」。そして情報がなければ「人間として生きていけない」。最近は情報を安易に規制したりといった「情報に対する敬意」が欠けているように思える。もっともこうした情報をないがしろにしているヒト達は一部の情報については重要視している場合が多いのではないか。しかし情報に「良い悪い」はない。「正しい正しくない」もない。情報をすべて流したうえでその受け手が「良いか悪いか」「正しいか正しくないか」判断することである。これは教育という情報伝達手段でも変わることはない。子供に判断力はない、というヒトもいるかもしれないが、教育を受けた子供が重要な判断を下すのは成人してからである。パターナリズムというものは親切なようにみえて人間をコントロールする意図が潜んでいることは覚えておきたい。

2015年9月6日

読書状況 読み終わった [2015年9月6日]

 「実践的」という割には抽象性が強いような気もするが、前著「カルチュラル・スタディーズ」よりも理解しやすい。政治に対してどうアプローチしていけばいいのか、いまいち分からない人には「カルチュラル・スタディーズ」という概念を少し突っ込んでみるのは有効ではないかと思う。すぐに結論が出るものではないが、政治は人間が生きている限り一生つきまとうものであり、無関心を理由に自らの無知をネタにして笑い飛ばすよりもよっぽど有益ではないか。

 政治が絡むとどうして美術や音楽というものがクローズアップされてくるのか疑問を持ったこともある。その点については、政治がすべての人の生活に関わってくるものであることを前提とすれば、人間が生きるうえでなにかしらのカタチでの「表現手段」を持っているか否かは影響が大きい、ということを意味しているのかもしれない。

 本書のように専門書というには柔らかく、新書にしては敷居が高いイメージを纏ったものを読んでいると、その分野での権威ある文献の文章を引用していることが多い。これをたどってさらなる深い内容へと向かうことが多いのだが、そうしたリンク機能とでもいうべきものは、書籍の質を大きく左右する要素のひとつであろう。引用が多いということは著者がそれだけ多くの文献に接していることを意味しており、別分野での人気に乗じて出版業界に紛れ込んだ似非論客とは一線を画するものである。

 本書で紹介されている若者たちの活動を見ていて共通しているのはあらゆる活動を楽しみ、その結果政治的な影響を与えている、ということ。日々の日常の発端には政治があり、日々の日常の結果も政治に繋がるということでもある。日々勉強している学生が、日々子育てに奮闘している主婦が、日々会社へ通勤している会社員が、政治から発せられた違和感を感じた時、行動のベクトルは日常からずれた活動へと向かう。違和感を感じても無関心でいられる状態のほうが異常なのではないか。そうした「にらみ」が効いている社会には自分勝手な為政者は育ちにくい。政治や国はほんの一部の「優秀な方々」によって成り立つわでではない。

2015年8月18日

読書状況 読み終わった [2015年8月18日]

 「手」と脳との関係は身体論や生理学などの分野でよく論じられる。実感としても「手」の複雑な動きはサルから進化した人間の特徴であるといえ、その成果である文化や科学の発展は「手」を使うことなくしてはありえない。だからと言って考えながら手を使っているうちはまだ「身についていない」という段階であり、考えることなく手が動く、というレベルまで達して初めて「手を使う」ことの実感がでてくるように思う。

 本書は脳生理学の専門家による「手」を使った脳訓練メソッド。どの方法も実践的かつ説得的。どれか一つでも癖にしておくだけで一生モノの財産になるのではないだろうか。ただ、人によっては、というよりもほとんどの人は「手」を使ってなにかしらの営みを普段から行っているものだろう。デスクワークでもペンを走らせることや、キーボードを打つこと、料理や食器洗い、楽器を演奏するなどなど。博学な方々からの意見では「ゲームは頭が悪くなる」ということがよく言われるが、ディスプレイによる目への影響はともかく、「手を使う」という視点から観ればゲームパッドの複雑な操作は上記の動作とそれほど変わるものではない。特に対戦格闘系のゲームはそれなりの訓練をしなければ楽しむことはできないはずである。ひとそれぞれの経験によって物事の評価が変わるのは当然であるが、少しでも接点を発見した分野には少しでも関わって体験してみたほうが良いのではないかと思う。

 どうしても「脳トレ」チックな話題では老化云々に話が流れてしまうが、むしろ問題はそれほど年齢を重ねていない人たちの指先の不器用さなのではないかと思う。これは「面倒なことはやらない」という現代文明の副作用が作用していると考える。手の使い方はもちろん、足の衰え、内蔵の衰え、ひいては脳の衰え…。若いうちからの習慣が年齢を重ねていくうちに顕在化する。これは人間の「老化」というよりも「怠慢化」に起因する現象ではないか。そうした社会的な考察はともかく、本書は脳の専門家からの神経系の説明が詳しい。これはこれでとても有益ではあるが、やはりこうしたメソッド本は実践するに限る。

2015年7月30日

読書状況 読み終わった [2015年7月30日]

 確かに絶対音感を持っていると耳コピなどをする場合に便利であるし、ちょっとした名人芸を披露して周囲からの関心をもらえるかもしれない。しかし、音楽の要素は音階だけではないし、音階もすべて割り切れるデジタル的なものではなく、例えばギターであればチョーキングやスライドによるアナログ表現は不可欠なものであろう。

 芸術としての音楽の評価が絶対音感そのものによって左右されるわけではない。認識としては「絶対音感を持つほど音楽に関わっている故に音楽的な能力に長けている」ということが本当のところではないか。故に絶対音感は何がなんでも身に付けるものではないし、音楽に関わっている人がこれを持っていないからといって特に大きな問題があるわけではないように思う。とは言うものの、本書の絶対音感保持者が、それを有することによって新たな世界観を持つことができる、という趣旨の発言を聞いてみると、やはり羨ましいなと思ったりもする。

 外国語を見聞きしてイメージすることと母国語を見聞きしてイメージすることにズレがあるように、曲からイメージすることと楽譜からイメージすることにもズレが生じるのだろう。こうした「事実」と「表現」の齟齬はあらゆる場面で生じ、人間関係にも影響する。絶対音感を持つ者同士に見解の相違が生じたときに、こうした人間関係の縮図を見て取れると考えるのもちょっと面白い。

 本書では、絶対音感を身に付けるには幼少期からの訓練が必要としている。しかし技術的には高度な絶対音感ではあるが、音楽に関わるには相対音感を持つことで対応できるという提案もしている。確かに相対音感はチューニングなどに実用的であり、これは訓練で身につきやすい。ただここも考え方の問題ではあるが、比較対象の存在を必要とする相対的なものと、それを必要としない絶対性というものを比べると、後者のほうが「カッコイイ」と思ってしまう自分がいる。チューニング用の音叉を何度も使っているとA音が分かるような気がするのだが、これを絶対音感とするのは少々自己満足的な買いかぶりだろうか。

2015年7月25日

読書状況 読み終わった [2015年7月25日]

 チェ・ゲバラ発言の厳選集。演説、論文などからのもので、他のゲバラ関連の書籍と比べると少し難解。しかしゲバラの思想を探るに本書は欠かせないものである。

 医者であり、革命の指導者としての役割を担ったという印象が強いゲバラであるが、彼の発言で重要なものはむしろ革命後の外交や経済に関するものであるように思う。政治に関心がないという場合でも、外交は人間関係、経済は生き方との繋がりがあるため、ゲバラの考え方はすべての人間に参考になるのではないか。逆に言えば、それはすべての人にとって政治は必要不可欠のものであるということでもある。ゲバラは革命を達成したヒーロー、というイメージでは終わらせたくはない。本書の内容を読むとそう感じる。

 当時におけるキューバのポジションということもあるだろうが、日本とアメリカとの関係についての発言は、現状の日米関係を考える場合に非常に参考になる。どうしてもアメリカの非難が前面に出てくるが、果たして日本にいる立場でそうした観方を否定することができるだろうか。

 社会主義、共産主義というだけで毛嫌いする人も多いが、現在の日本がそうした体制と無関係でいることを確信できる人はほとんどいないはずである。はっきり言えば、現状は不公平な社会主義体制。富んだところから回収して貧しいところに分配することはなく、すべての人から回収してすべての人に分配するのでもなく、貧しいところから回収して富んだところに分配する。そして「これからみなさんに配りますから待っててくださいね」と先延ばししていくうちにバブルがはじける。その埋め合わせのために…(以下略) 。

 他人の意見を聞くことによって学ぶべきことは数多い。しかし、ある範疇の方々は自分の考えとは異なる思想からは学びもしないし、耳を傾けることもしない。反対に自分に賛同する思想には「そうだろう、そうだろう」とニコニコしながらご褒美を授ける。こんなヒト達に支配された人間は不幸の極みである。いずれ彼らにも制裁が下るだろう、と考えるのは認識不足というべきである。彼らは自分達には決して制裁が下らない仕組みを造っている。そんな不条理なシステムををどうするかは、関わりのある個々人がいかなる考え方をするかということと、いかなる行動をするかにかかっている。

2015年7月8日

読書状況 読み終わった [2015年7月8日]

 「アンネの日記」スピンオフ。客観的な視点から書かれているので、本家よりも状況の把握がしやすい。何よりも日記が完結した後に拘束された状況の描写が生々しく、証言から得られた収容所での各人物の様子や終戦後の後日談もとてもよくわかる。また日記の記述では混乱しやすい人間関係も本書では系図も用いて説明している。ただし完全版ではない日記とは人物名が違っていることは注意したい。

 アンネ・フランクをめぐる作品には付き物である当時のドイツ政権についても政治的視点から書かれている。偽りの民主主義、「国民のために」という常套句、対抗勢力への圧力、集会・言論の自由の破棄、ユダヤ人へのヘイト、人命の軽視、体制に対する疑念を口にする者への対応、他国への挑発的言動、芝居がかった演説、国民の不安と沈黙などなど…。こうした歴史的事実と現在のある国の状況を重ね合わせて何も感じないヒト達はほんとに大丈夫なのだろうか。

 当時のナチスの横暴までやられればどんなに鈍感な国民でも政治に関心を持たざるを得ないだろう。しかし、そこまであからさまな振舞いを見せない物事への対応はそうした抵抗をさせないための巧妙なテクニックではないかと思う。当時のドイツは連行するさい、あるいは収容所内において劣悪な環境を維持することによって「気力」を奪っていった。自尊心を失わせることによって抵抗する意思すら失わせたのである。現代においてはもうすでに「抵抗する気力」が奪われている、と言ってしまっては言い過ぎであろうか。「政治に期待しない」「政治に関心がない」「誰がやっても同じ」そういった街頭インタビューでの発言は為政者の思惑に合致している、と言ってしまうことは認識不足と反論されて然るべきであろうか。政治に話を及ばせなくても、あらゆるところに存在する偏見、それのもととなる画一的な価値観などによって個性を奪われる。その結果失われる「気力」があることも想像に難くない。収容所で行われた尊厳の剥奪は普段の日常から行われているとは考えられないだろうか。気付いたときにはもう何もできなくなる。気力を奪い、抵抗が生じない状況を作り、その隙にルール自体を変えてしまえばどんなに横暴なことを行っても大義名分がつく。

 歴史から学ぶ反省も一つだけではない。「もう戦争はしない」という反省もあれば「もう戦争に負けやしない」という反省もある。表面上の謙虚さに騙されてはいけない。また世界的ベストセラー「アンネの日記」と今日の中東問題と関連も、氾濫する美辞麗句との対比で注意しておきたい。

 ドイツだけに限らず、あるいは公に明らかになっている争い事だけに限らず、こうした一連の歴史的出来事から間違いなく学ぶことができる一つの教訓。それは「権力を持った人間は怖い」ということ。「自由」は全身全霊を賭けて死守すべきものである。

2015年7月7日

読書状況 読み終わった [2015年7月7日]

 今回は挫折してしまったが、いつか機会があれば次こそ47都道府県制覇してみたいと思った私であった…こんな感じのオチだと予想していた。まさか完全制覇とは…。

 ミリさんのエッセイ数多くあれど、本書はテーマに特殊性があるものの彼女らしさをもっとも著しているといっていいだろう。これだけ日本全国個々の場所でおこるエピソードを絡めてのミリさん的考え及び行動が描かれているのだから当然である。あちこちで起こるトラブルも「旅」という特殊性よりも日常におこるそれが場所を移しただけというものが多い。度々登場する友人や家族とのやりとりもいつものノリと変わらない。また何気ない出来事に涙腺が緩むシーンにはミリさんの年輪も感じるが、47都道府県を周るという壮大な企画のおかげでミリさん自身の時系列も本書では前面に出ているように思う。そうした出来事を47都道府県への訪問に沿って語っているのだからその内容が濃いのは当然である。

 女性の旅エッセイといった雰囲気の文章が続くが、各章の終わりに挿入されている「今回の旅で遣ったお金」にはミリさんの性格がよく出ていておもしろい。ブラックな皮肉も散見されるものの「自分土産」で買った物のセンスがすべて中和している。なんだよ「クリオネ指輪」とか「讃岐うどんマグネット」って…。つづく4コマ漫画では相変わらずカワイイ絵柄とシュールなオチのコントラストが素晴らしい。

 ミリさんらしくテキパキした空気の少ないノンビリした旅であるが、その場所独自の文化に積極的に関わろうとする姿勢には脱帽。地方創世というのならば、どこかから何かを持ってくるのではなくこうした視点を見習ってほしい。とにかく47都道府県制覇した人ってなかなかいないんじゃないか。日本全国網羅したエッセイというだけでも大きな価値があるはず。ちなみに本書で初めてミリさんの写真を見ることができた(たぶんこの人だろうと思う)。

2015年7月6日

読書状況 読み終わった [2015年7月6日]

 著者の小中さんは作家であって、心理学者や精神科の先生ではないのだが、その経験の豊富さからか本質をついた心理模様をわかりやすいカタチで描写している。それはよくありがちな精神論やキレイゴトではなく、あまり公表したくはないであろう自分を晒すことによる生々しいもの。それ故その説得力はとても大きい。

 一定の分野で成功している人が書いたエッセイ特有の人間関係の披露が多いように思うが、そこから生じた自分の表面的精神的な姿勢を戒める意図が伺われる。結果的に我々読者に貴重な教示を提供していることにはなっているのだが、その本来の目的は自らの内面を振り返ることだったような様相がある。そして数多く羅列している心理的傾向は現状を生きるほとんどの人達に潜在的に備わっていると言ってもいいようなもの。それ故にどのエピソードも非常に参考になる。

 全般を通して読んでみると、タイトルにある「こころを強くする技術」は「他人への接し方」に置き換えているようにみえる。たしかに心の弱さを実感するのは他人との関係においてであることが多いだろう。「孤独に対する強さ」といえども「いるはずの他人に対する関係」といえば納得できる。ただ、それ以前に「他人を介しない強さ」と言うものも完全には否定できない。それがどんなものかというと…まだちょっとわからないや…。

2015年7月5日

読書状況 読み終わった [2015年7月5日]

 ちらほらと耳にしたことはあったのだが、あまりはっきりとした主張が聞こえてこない。人間は1日に3食もほんとに必要なのか?病院などは体の回復を図る場所なのでなるべく動かず栄養を蓄えるのが望ましい。しかし普段の生活で3食の食事というのはどうも多すぎるような気がする。健康系の情報はほとんどが朝食を推奨。ひどいのになると朝食抜きは「太る」とか「癌になる」といった脅しまで登場している。普通に考えればいくら1食抜いた反動があるとはいえ2食よりも3食のほうが摂取カロリーが多いの当然であるし、同じく発がん物質だけを考えれば食事量は少ないほうが悪い方向へ行く確率は少ないと思える。

 どんな見解にも反対説がある。1日3食説に対して1日2食説とくに朝食不要論を唱えているのが本書。様々な理由を述べているが、説得力あると思えるのが「午前中は排泄器官が働く時間なので栄養の摂取はそれを妨げる」というもの。人間のエネルギーに限りがあることを考えれば「取る」ことと「出す」ことにそれを分配することはとても効率が悪いのではないか。アーユルヴェーダにおいても朝は消化器官が活発な時間ではないが、こうした現代医学に対する「異説」は一定の方向性を持っていることは間違いないだろう。

 実際にやってみて思ったことは、空腹が不快であるわけではないということ。むしろ食事の時間が楽しくなり、どんなに質素の食事でも美味しく感じる。体重の増減は感じられず、副次効果で毎日の食費が減った。朝食を食べないようになって数カ月が経っているがメリットこそあれデメリットは感じない。

 後半は朝食から離れて著者の体系に基づいた健康法をいくつか取り上げている。どうしてもこうした方法論は人によって違いが大きく、既存の知識との食い違いに混乱してしまうが、どれも定説化しているわけではないことを考えると、それほど神経質にならないのが健康マニアの鉄則。そしてできることは実践して自分の身体との相性を確かめるのがもっとも有効な利用法である。

 朝食だけに限らず、人間の生理現象というのは「欲求」が生じてから行動に移るのが望ましいのではないか。欲が生じないのに無理やり食事したり運動したり排泄も睡眠も推奨するというのは何かしらの意図があってのことではないか、と勘繰ってしまう。いずれにしても選択肢を絞ってしまうことにより健康、ひいては今後の生き方を狭めてしまうことは避けたいものである。

2015年6月17日

読書状況 読み終わった [2015年6月17日]

 適切な骨盤の位置とはどういう状態をいうのか。ある解説書によれば、後ろに傾いた位置を推奨している。また中国拳法における「含胸抜背」という態勢も同じように後ろに傾いた状態をいう。そしてそれらの反対にどちらかといえば前向きに骨盤を傾けた状態を推奨するのが本書の著者である中村氏。ただ、どちらも「骨盤を傾ける」というよりも「骨盤を起こす」ということで共通しているようなニュアンスもあり、要は個々人の普段の姿勢が「出っ尻風」であれば後ろへ、「猫背風」であれば前へという意識の問題なのかもしれない。

 後ろへ傾けると腰全体が締まる感じがするし、前へ傾けると腰全体の可動域が広がる感じがする。この両端の特性を理解しながら、骨盤を前後に動かすという意識はとても重要に思える。例えば、静止している状態は骨盤を後ろへ傾けつつどちらへも動ける態勢を作り、そこから骨盤を前へ傾けることによってフリーの状態を作る。同時に体重移動を行い、そのあと「極め」の態勢に至ると再び骨盤を後ろへ傾ける。当然どのような動きをするかによって変化はするだろうが「初動」と「極め」は大凡こんな感じなのではないだろうか。こうした議論を眺めてみるとどうしても混乱は免れない。著者は足の指についても一般的な「親指重心」ではなく「小指重心」を提唱しているが、骨盤と同じく「ニュートラル」にもっていく意識の問題として考えるとある程度が合点がいく。

 本書は中村氏の他著と比べてみてもとても解りやすく、各メソッドについてはそれほど詳しくはないものの、同氏の体系を広く概観することができる。日常における姿勢については上記のような混乱はあるが、著者が推奨する股割りを練習することは大きな意義があり、ある程度できるようになるととても気持ちがイイ。

2015年6月16日

読書状況 読み終わった [2015年6月16日]

 具体的な写真の技術・知識というよりも、撮影法というソフト面に特化した指南書。単なる「心構え」的な論調ではなく、精神的なスキルとでもいうべきノウハウを語っている。

 画像関連の作品はほとんどそうかもしれないが、それを作成するということは製作者の「モノの観方」を具現化することを意味する。著者は、写真を見ると撮影者の「目のつけどころ」がわかる、と言う。今自分が見ているビジョンをなんとかして他人に伝えたいということは多くの人が持つ願望だろう。それを比較的厳密な形で伝えることができるのが「写真」というものである。現実以上のビジョンを表現する手段の位置づけとしては絵画や文章がある。もっとも今や写真でもそうした加工は可能となっているが。

 かつて露出・絞りを自ら選択するのが当然であり、そうした行為を繰り返すことによってある種のスキルが身についた。ピント合わせもスポーツ的な感覚がとても好きだったのだが、今やピントも自動が当たり前。こうしたカメラのメカニズムとそれを取り扱う経験が物事を観る「目」を創ってくれたように思う。もちろんその手間を他の方面に廻すことによって得るものもあるのだろうが。

 デジカメが普及したことによって、多くの人達が手軽に写真を撮れるようになり、それを公開することによって撮影者本人も評価され、作品を見た人達も多くの示唆を受ける。特に現像が不要なことは躊躇なく「失敗」することが可能となり、それもまた経験の豊富さを生み出して技術の向上が望める。しかし本書でも触れているが、カメラの導入から準備、撮影そして現像という一連の過程から学べることも多いはずである。今からフィルム中心で写真を手掛けるというのはなかなか難しいことではあるが、写真の製造過程とでもいうことを頭の片隅に置きながら作品を創造していくのもとても有効なことだと思う。

2015年6月8日

読書状況 読み終わった [2015年6月8日]

 ヒップホップの発展史…ではあるのだが、サブタイトルにあるとおり全体的なテーマは「カルチュラル・スタディーズ」の面からみたヒップホップという音楽分野。カルチュラル・スタディーズってものはとてもわかりづらい…。とはいえ、ヒップホップを聴いてみようという人達に対してもその導入書としての役割もきっちり果たしている。中心となったラッパーが時系列や地域別に取り上げられており、とりあえず聴いてみようと思ったときの目安となる名盤も掲載。さらに、シュガーヒル・ギャングから始まって、アフリカ・バンバータ、グランドマスター・フラッシュ、エミネムさん、NWA、パブリック・エネミーといった大御所を取り上げて、個々の関連はそれほどないものの、ヒップホップ界を横断した概観ができる。

 日本における「フォークゲリラ」などをみればわかるように、音楽あるいはもっと広く文化と社会との関わりは極めて深い。これは「生き方」そのものに繋がるものといってもいい。しかし今の文化とくに音楽は商業的色合いに傾いており、上記のような観点は極限まで少なくなっているように思える。もっともそうした傾向はヒップホップが登場する頃から存在したことは本書によって書かれているが、ヒップホップ、音楽、芸術、文化というものは「表現」であり、表現とは単なる「ガス抜き現象」ではなく個々人の思想を世に広め、それを受け取った人に影響を与えるもの。ここを履き違えると「望ましくない」という画一的な理由で規制の対象となり、あらゆる可能性を摘み取ってしまうこととなる。本書からは、そうしたことに対峙する意義や意欲を受け取ることができるだろう。

2015年5月21日

読書状況 読み終わった [2015年5月21日]

 「生きていてもいいかしら日記」から大幅パワーアップ。前作も笑えたが今回は腹筋が痙攣するほど笑える。日記形式で展開される「日常」におけるあらゆるテーマが網羅されており最後まで飽きがこない。

 「その後」で刺されるトドメには見事な「オチ」が付与される。それに加えて、一つの考察をする際に限りなく続く妄想連鎖、絶妙のタイミングで放たれる周囲のツッコミ、幅広い趣味趣向と無意味なその意義、場面に応じて適宜切り替えられる文語体口語体そして暴言の各モード、北海道という気候的地域的アドバンテージを活かした状況設定。こうした要素が全体的に「ふつうに生きてても楽しいことあるよ」といった雰囲気を創り出している。こうした日常的情景の描写はどうしても男性よりも女性のほうがうまい。

 何気ない日常をおもしろおかしく描いたエッセイは単なる「息抜き」といった付属的なものではない。その日常こそが生きていく過程の大半を占めていることは間違いないだろう。いかに難解な人生哲学を確立している人間でも日常に充実がなければ生きることに満足感を抱くことは難しいはずである。毎日の営みを息を止めて駆け抜け、たまに「いただける」休日で満足を補う。こうした生活を長期に亘って続けることによる影響は計り知れない。

2015年5月20日

読書状況 読み終わった [2015年5月20日]

 本書は「わからず屋さん」への対処法はもちろん、読者自身の「わからず屋さん」であった場合についての対応についても言及。あらゆる方面の「面倒な人」についての考察を行う。これは「人間関係」全般に応用できるスキルと言ってもいいだろう。

 「わからず屋さん」というのは、あくまでも個々人の評価であって、本人がそう思っていない場合はもちろん、周囲の人間もそう考えているとは限らない。それゆえに「わからず屋さん」認定した本人も実は「わからず屋」で周囲から孤立してしまうこともある。これはこれで寂しいのだが、だからといって認定した「わからず屋さん」と周囲に同調してしまうのもバカバカしい。この解決法でよく言われるのが「つかず離れず」ということ。このいわゆる「間合い」というものは、人間同士でも人間と物事との関係でも基本となるものかと思う。要は「ほどほどに」ということ。

 このような人間関係に関する書籍は「嫌な奴とはさっさと離れる」とか「自分の欲求を克服してみんなに好かれる」といった論調のものは流行らない。嫌な相手に対しては反面教師としてのそれも含めてうまく利用。自分については相手に悟られないように上手に偽装といった方法論を説くものが多いように思う。確かに社会に生活する以上露骨に関係を切ることもできないし、自分の我を通すことも不可能だろう。しかし相手に対しても自分に対しても全く「見て見ぬふり」ということを続けていても、相手も自分もその行動を正当化することに何の躊躇もなくなってしまう。そのためには何かしらの「表現」というものは工夫していく必要があると思う。多くのコミュニケーションは消極的に我慢することから一歩踏み出す身構えを持つだけでもかなりの違いが出てくるのではないだろうか。本書の分析はそんな対応の下準備としてとても有効だと思う。

2015年5月19日

読書状況 読み終わった [2015年5月19日]

 自殺未遂者の証言が目白押し。とはいえ単に数を撃ちまくって世間に訴えるということではなく、数人の話が連続しており、ひとつの物語的展開を形成している。登場人物は死の淵からの生還者であるため、そのステージは大病院の病棟が主。そこからあふれる証言はどれも目を覆うようなものばかり。単に「血が出た」とか「気が遠くなった」といったありきたりなものではなく、「痛い」だの「苦しい」だのといった次元はもはや超越している。

 自らの意思で向かう死と、そうではない死は同じものなのか。この問題提議は「人の行動」あるいは「選択」というものの深層へと迫るものである。空腹時には何か食べたいと考える。眠気が襲ってきたときには布団に入って思い切り寝たいと考える。「死にたい」という欲求もそれと同じようなプロセスを経ているように思う。あらゆる欲求でも「自分は今これを本当に欲しているのか」と考えることはあるだろう。単に習慣的に「やらなければならないこと」を自分が「やりたいこと」と認識したり、周囲の承認を得ることが自分の目的であることの延長で道徳的な振る舞いをやりたいと思ってしまうことなどなど。他のケースと異なるのは「死の欲求」満たしたときには、満足を感じる自分がもうそこにはいないということである。

 単純に「生きててよかったね。もうバカなこと考えるのはよそうね」というありきたりな結論で済ませるのもどうかと思うが、それはそれで事実である。死ねば無となり、その後の心配はする必要がないとしても、万が一生き残った場合は身体的後遺症や経済的問題といった今後の見通しがさらに悪くなるという大きな損害を被る。そうした読みができれば自殺を考えている人も躊躇せざるをえないだろう。しかし本当に死を覚悟した人はそんなことすら考えるほど冷静ではない。自殺を図ってその結果を左右するのは、そうした心情も影響しているのかもしれない。

 現状よりも死を選択しようとしている人に、綺麗事は通用しない。しかし、そんな追い詰められた人にも説得力がある理屈は「死は取り返しがつかない」ということではないかと思う。どのような人間でも間違える、というテーゼは誰しも納得のいくものであろう。今自分がしようとしている選択は正しいのか。よほど自信に満ちた人生を歩んでこなかった限り「自分は間違っていない」とは言い切れないはずである。そしてそういう人が自殺しようと思うのは極めて珍しい。世の中に「正しい」「正しくない」といった議論は数多くあるが、あらゆるテーマと「死」というテーマとの確かな違いは「可逆性」の有無である。

2015年5月18日

読書状況 読み終わった [2015年5月18日]

 北川さんのシステマ本の中で最もよくまとまった入門書。他書も含めて著者が語るエピソードに度々登場するマスターたちの写真がまとまって掲載されているのもうれしい。

 システマのブリージングは肉体的な護身術にとどまらず、精神的なトラブルと伴う人間関係全般に亘って利用できるとてもベーシックなメソッド。「何かあればまず呼吸」という習慣は単純なだけに身につけやすいし、その効果も極めて高い。本書は「ブリージング」プロパーの解説にとどまらず、格闘術をも含めたシステマ全般について浅くではあるものの広い範囲で触れている。日本の武術と比較することによって浮かび上がってくる思想もまた興味深い。

 システマの練習で使うナイフやチェーン、ハンドガンといった物騒な武器についても解説しているが、これもなかなかお目にかかることは滅多にないだろう。読んでいるだけでも痛さが伝わってくる…。武器あるいは道具についての考察は、自分と「モノ」との関係において考える機会を与えてくれる。自分には何ができて何ができないのか。それを補うためにいかなるモノに頼るのか。それに依存することによって何が失われるのか。こうした「発見」も幅広い情報に接することによって生まれてくるものである。

 「呼吸」というか「意識的な呼吸」の効果は「平静」を保つこと。「勝つ」ためにはテンションを上げる必要がある、と考えることもできるだろう。しかし、テンションを上げるのは「勝つ」ためというよりも、見る側にとってもやる側にとっても「面白くする」ためなのではないだろうか。また「勝つ」ことが必ずしも自分の身を守ることにはならない。これはよく言われる格闘技あるいは武術とスポーツを考えるうえで大きな要素であるように思う。

 「まず呼吸」という考え方はどこまでも広がりを持つもの。あらゆる行為における「呼吸」のポジションを位置づけることは、その分野を深く知ることに多大な貢献をすることになるはずである。

2015年5月3日

読書状況 読み終わった [2015年5月3日]

 とんでもない数の神秘感満載能力開発著書を持つ藤本憲幸氏であるが、本書は現実的な方法論で「睡眠」にスポットをあてた極めて有効なメソッド本。もちろんヨガに基づいた藤本さんの思想体系に位置づけた短眠法であるので、超人的能力の秘密も垣間見える内容である。

 限られた時間を有効に使うには、今の生活で長く占めている時間をいかに削るのかが問題となる。その対象はほとんどの人の場合「睡眠時間」ということになるだろう。24時間のうち6時間から8時間、四分の一から三分の一、1日のうちこれだけを占める。これだけを占めている睡眠時間以外の時間を削るとするならば、もうその時間に割り当てた行動は一生のうちほとんど取り組むことができないと思ったほうがよい。誤解を恐れずに言うと、何か新たに取り組む必要性が生じた時、1日のうちで削れる時間は睡眠時間と労働時間だけではないかと思う。ほとんどの人は食事の時間、風呂の時間、トイレの時間、読書の時間、趣味の時間といった時間を削ることを考えるが、僅かな時間をさらに削ると、もうその行為の質を落とすことを越えて、最早その行為を行う根本的な意義すら失うこととなるだろう。睡眠時間と労働時間ほど無駄に長い時間は他にはない。

 もう定番化している90分単位睡眠時間法に基づいた方法で、他の医者や心理学者によって書かれた「短眠法」との親和性もあり、納得のメソッドが並ぶ。良質の眠りを獲得するための食事や運動についても言及。これも「ただ寝れば良い」という安直な考え方とは一線を画している。

 藤本さんをはじめ、幅広い実績を多く残している人はその専門性だけにとどまらず、生活を始めとして社会、経済など幅広い見識を持っていることに気付く。このアンテナの大きさが、各々の分野での効果を生み出しているのだろう。ただし、そうした好奇心の広さも、その発端は専門性に深く入れ込んだことにあることは間違いない。

2015年5月2日

読書状況 読み終わった [2015年5月2日]

 ゲバラの生涯が伝記的にまとまっている。ゲバラ日記など他のゲバラ自身による著書よりも彼の行動を概観できるので取っ付き易い。著者の主観もそれほど強くなくて読みやすいのもうれしい。

 時系列を進めていけばゲバラよりもフィデルの人間性が前面に出ている部分もあるが、彼とゲバラとの関係もキューバの特性を示すうえで必要不可欠のものであるゆえに注意して読み進めるべきだろう。それに加えて革命時、そして現在でもそうかもしれないが、キューバが目指している政治思想についてもわかりやすく表現されているので非常に参考になる。

 「ゲバラ日記」もその描写はリアルなものであったが、本書で描かれているジャングルの行軍の様子も苛酷さがよく伝わる。そしてアメリカとの関係も当事者外の視点で書かれていることから、現在までの流れや将来への見通しも伺うことができるだろう。なぜ当時の革命が話題になりやすいのかは、ゲバラの冒険活劇的な人生を追ってみると非常に納得ができる。

2015年4月20日

読書状況 読み終わった [2015年4月20日]

 出すために入れる。入れるためには出す。物事はこの繰り返しのような気がする。読書に関して「インプット」「アウトプット」はよく言われることであるが、読んだことを読書ノートに記録するとか、友人と議論するとかいう優等生的な方法論にはどうしても拒絶反応をしてしまう。しかしそこまで構えなくても、例えば日常のなかで問題に突き当たり、何かしらのアイディアが浮かんでくれば、それは自分が今まで蓄積されてきた情報が生み出してくれたもの、と考えてもいいのではないか。それだけでも本を読む意義は充分にあるはず。アウトプットは活用するということである。本書はそのための様々なアウトプット方法を提唱。またそれだけにとどまらずアウトプットを睨んだインプットの方法論も指南。「読書」というものについての取り組みが変わることが期待できる。

 「趣味が読書」と誰かに話すと「真面目なんですね」と言われることがある。これが「趣味はネットサーフィン」と言うとこんな反応は返ってこないだろう。しかし本でもネットでもそこから得るものは「情報」以外のなにものでもない。その質に差はあるかもしれないが、どちらも「摂取」することに慣れていないと、一部の情報に振り回されることになりかねない。情報の吸収ということについて、それを学習と呼ぼうが情報収集と呼ぼうが「教養」を摂取することには変わりがない。「教養」と「栄養」は人間が生きるためには必要不可欠のもの。「無駄な知識」かどうかを判断するために「無駄な知識」を一度は吸収することも必要なのである。そう考えると、いわゆる「有害情報」というレッテルを貼ってそれを排除することは、今後「有害情報」に対する免疫を失わせることとなるだろう。免疫を失った人間は偏った思想に簡単に傾倒することになるのは言うまでもない。栄養の摂取においても、不要なものを排泄する能力を失うと深刻な事態を招く。教養も一般的に言われる「望ましくない情報」を排除すると、いずれ取り返しがつかないこととなるだろう。

 本書の著者は経営コンサルタントなのでビジネス書色が強いが、その柔軟な思考からか「こうすればこうなる」的記述がそれほど多くないように思う。「読書本」にお約束の「おすすめ本」はその人の個性をよく表されるが、この部分が蓄積されていくのもおもしろいかもしれない。

2015年4月19日

読書状況 読み終わった [2015年4月19日]
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