- Amazon.co.jp ・本 (266ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062173988
感想・レビュー・書評
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同い年のあずまんこと東浩紀の本です。
彼の本は3冊ほど持ってるけど今回のが一番読みやすく理解できました。
来(きた)るべき理想の未来像を描いておりますが賛同することも多く大変為になったのでした。
ついでにルソーの「社会契約論」も読んでみようかと思いました。
やっぱキーワードは「矛盾」だな。
図書館で借りた本だが近いうち購入して再読しようっと。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ルソーの社会契約説や一般意思なんて、大学受験以来という感じだが、振り返るにはちょうど良い機会であった。民意をコミュニケーションなしで知ることなど、これまでは理想論でしかありえなかったが、インターネットやそのうえで展開されるSNSにより個々の様々な意見が吸い上げられるようになり、ある意味で一般意思の見える化が複数の方法で実際に起こりつつある。ツイッターをやれば一般意思が見えるという単純なものではないが、インターネット人口がこれほどまでに普及した現代では、ツイッターやブログでの発言や、グーグルでの蓄積、いろんなものが合わさって見えてくるかもしれない。
さて、とはいいながら、可能性を示しただけといえばそれだけなので、実際にどうなっていくかはこれからである。しかし、このタイミングでルソーが話題になり、一般意思という言葉に触れられたことは新鮮な感じがしました。 -
本書は、インターネットによる情報社会の発達・核心が進んだ現代社会で、新しい政治・民主主義の概念のあり方を描いたものである。とは言え、本書でも記されているが、それは普段我々が抱く「政治」や「民主主義」の概念とは全く異なり、別の新たな概念の提示である。
本書が雑誌で連載されたものをまとめたものであることや、時期的に東日本大震災が重なってしまったこともあったことなどを鑑みるが、私たちは現実の政治や政治家に対して「物事を決められない」「決断力がない」や制度的限界、行政システムの腐敗や疲弊などに苛立ち、評論家や政治家は国民の民度が低いと逆に軽視する。要は、これだけ価値観が多様化し、情報のやり取りが急速化している中で、現代の民主主義のあり方(多数がジョン=ロックが提唱する議会制民主主義/代議制なる間接民主制)が国民の意見を反映させることが不可能な状態なのだ。
その中で、氏が描く政治のあり方は、ブログやツイッター、フェイスブックなどのソーシャルメディアなどに吐き出された個々の意見や感情を集積し(本書ではそのような社会を「総記録社会」と呼ばれる)、その集積を政治システムや制度設計に大いに活用すべきと説く。この個々の集積が、ルソーの『社会契約論』での「一般意志」を現代的に可視化したものと解釈し、これに基づく政治やシステム設計を行い、あとは個々のセクターや各団体による活動が活発化すると描かれる。
このルソーの解釈も面白かったのだが、さらに目から鱗が落ちるほど面白かった点として、熟議による対話的理性・公共性の発現が余計に国民の声を反映させづらくする「私的領域」と化すことや、国家の役割が夜警国家化してリバタリアニズム的社会となったとしても、社会が全て市場に任せるわけではなく、そこでも人間的な共感・感情(身近な人間への共感、それに基づく人々への普遍的共感)で動くなど、より人間の感性の面から未来の世の中を描いている点だ。氏の言葉で言えば「動物化」だろうが、たとえ「動物」が沢山いるとしても、それに基づくリアルな生が展開される社会は構想できることを、精緻な理念として語られている点が非常に興味深かった。 -
十一月ごろに書店で始めて見たときはかっちょいい表紙だなぐらいに思って通り過ぎていたんですが、帰り道にずっとこの「一般意志2.0」という言葉がリフレインしていて、タイトルからルソーの思想が修正パッチでも当てられるのかな、とか想像していました。概ね当たってましたね。
筆者の考え方はさほど真新しいものには感じません。ネットを媒介した世論を政治に反映させるという考え方は、ネットを少しでも嗜み、政治的な意識を多少なりとも持った人なら誰しも胸に抱くものではないでしょうか。そしてそれは我々に直接的な政治への関与と、それによる理想社会の実現を夢想させるでしょう。
けれど、声なき声を政治家達にただ意識させることで、本当に政治に我々の意見が反映されるのかどうかは、正直何とも言えません。世論、という大雑把な形では、条件付きの意見も全て賛成か反対に集約されてしまいますし、民衆が声なき声に留まる限り、無責任な意見を吐き散らす可能性もあります。更に言えば、そのような公的な場における思想警察の台頭をまねくかも知れません。
けれど全体的にいって僕もこの本の中で語られる構想には肯定的です。最早ネットの力は即ち民衆の力といっても過言でない位、その規模は拡大しています。政治家がこれを無視して天の岩戸で国の方針を決めることは不可能でしょう。
ただ、この構想の実現には恐らく若い政治家達の献身的な努力が求められるはずです。そして少なくとも、ネットのない時代が大半だった議事堂に居を構える老人方がこんな構想を受け入れるわけがない。このような考えが現実味を帯びるには、二十の僕が老人になるくらいの時間が必要なでしょう。そのときこの本が時代の先駆けとなることを期待します。 -
ルソーの一般意志からフロイト、グーグル、そしてローティと展開されていく将来の政治のあり方について展開されていく。
読んで思い出したのがACIPだ。あれは一般公開されていたし、ネットでも中継されていた。今後の政治のあり方は、ネットを通じてオープンになり、「一般意志」を顧慮した形になっていくのが望ましいと思う。もちろん、軍事、外交など「密室政治」のほうがよい場合もアルと思うけれど。
ただ、ツイッターなどのスモールメディアの拡張に対する信頼はそこまでおけるのか?という疑問はある。ローティに至るに議論が「飛んでいる」ように思う。ネット上にあるのは憐れみよりもむしろ怒り、罵倒、フレーミングのほうが多いからだ。著者のツイッターもしばしば「ブロック」される人がいてコミュニケーションは一意的に分断される。そこに齟齬はある。
ただ、近年メーリングリストがあまり荒れなくなったこともあり、これは慣れと成熟の問題かもしれない、という可能性も残っている。「夢」としては成熟した小さな政府と多様な価値観が同居するのは望ましいと思う。できるかな。それを媒介するのはネットか、いやそれとも。 -
ここブクログも含めて、ネット上に書き込まれる膨大な情報を集積、分析して、意識的な民意・世論とも違う、無意識的な一般意志ともいうべきものを抽出し、それに沿うべく政治・行政を行う…ようにいずれはなるのではないか…という本です。
今はまだその端緒についてるのではないかと思われますが、理論的には実現可能でしょうね。
実現を阻むものは色々あるでしょうが、第一には人でしょう。ネット弱者というか、主に高齢者なのかな?政治・官僚の世界でも、年長世代は抵抗するでしょうね。
しかしながら、全体を見渡すことが不可能な時代に、全体を見渡したい・コントロールしたいという欲望は、どう考えても無理があります。人個人の能力には限界があるのだから、世界全体は見渡せません。コントロールも出来ません。
見渡す必要なんかない、島宇宙化してる世界を繋ぎ合うものがあれば良い。しかも、途方も無く大きそうに見えて、実は、世間は狭いというスモールワールド論も引き合いに出されている。
SFとしても読めるが、今は失われた未来への夢があります。-
「今は失われた未来への夢があります」
私が生きている間は、夢でしかないと思いますが、きっと何らかの形で実を結ぶと思います。しかし、先鋭的なテ...「今は失われた未来への夢があります」
私が生きている間は、夢でしかないと思いますが、きっと何らかの形で実を結ぶと思います。しかし、先鋭的なテクノロジーが「金」でしか買えないならば不幸な結果になるでしょうね。2012/08/21
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ソーシャルメディアを活用した未来社会を構想するにあたってルソーやフロイト等を召喚してくる意外性。これまで批判されてきた対象に新たな解釈を施して既成価値を反転させる着眼と手腕。一般読者を念頭に置いて先行思想を丁寧に読み解きつつクリアカットな論旨展開がなされる。古典的な熟議による合意形成などもはやあり得ないという諦念から出発し、凡庸な青写真に止まらない全く新たな民主主義の予想図を示す建設的な論考が好ましい。学術論文様式の慣習的な軛から逃れてエッセイという形で夢を語る学者としての潔さと真摯さにやや胸打たれるところがあった。
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新しい民主主義の構想について書かれた本。
ルソーの一般意志という概念を柱に展開する。
一般意志については、本書の前半のほとんどが割かれているほどの内容を含むので、ここでは説明できない。
一般意志は、ルソーの時代には夢物語でしかなかったが、現代では情報技術の発達により、人々の意思を把握することが可能になった。
これを政治に使おうではないか、というのだ。
本書でいう一般意志とは「誰かが誰かに向かって言ったこと」の集積ではない。
「言うか、言わないかに関わらず、そう思っていることそれ自体」の集積(正確には、その集積に現れる多様性や差異)である。
そういう意味では、選挙や世論調査は人々の意思を反映させているかのようでいて、「誰かが誰かに向かって言ったこと」の集積でしかない。
しかも、これらは最初から「選択支」が絞られていて、多様性が失われている。
例えば「今の政権を支持しますか?」のような質問は、「震災対応には不満だが増税は賛成だ」というような意見を排除してしまう。
一方で、本書で提唱されている一般意志2.0は、誰に向けたわけでもない「ツイッターの呟き」や「GPS連動アプリによる人々の移動履歴」、「フェイスブック上の人間関係」、「グーグル検索での頻出ワードや、ワードごとの関連性」といった記録から得られる「それと意識して表出したわけではないが、表出せざるを得なかった意志」を分析し、相殺し、意味づけしたものである。
こういった意志は自由であり、多様である。
もはや、「民主党を支持しますか、それとも自民党を支持しますか?」といった質問はほとんど機能しない。
であれば、政治は「党」でもなく「選挙結果=民意」でもなく「一般意志2.0」を元に(少なくともそれを気にしながら)行われるべきだ、というのが本書の主張だと思う。
これらは一見、斬新なアイデアだが、実はすでにビジネスの世界では実装されている。
例えば、TSUTAYAの「Tカード」は日本人口の30%が保有し、多様な加盟店によりあらゆる生活材を購入する際に利用され、それによって蓄積されているあらゆる購買データ(商品、関連性、頻度、リピート率、位置)が記録され、Tカード加盟店に提供されているという。
加盟店はその「購入」という「単純で多様な欲求から現れたデータ」の蓄積を元に、「誰からもクレームや意見をもらうことなく」、事業改善を図ることができている。
もはや「そうでなければ支持されない」と言っても良い。
「民意ではなく一般意志に従う政治」とは、「クレーマーではなく購買データに従う企業戦略」に近いだろう。
もちろんクレーマーの意見にもヒントはある。
でも、それは「特殊意志」であり、必ずしも全ての意志を含有していない。
一方で、現在の政治はクレームの嵐である。
例えば、閣僚などが責任をとって辞任するのは「散々言われた後」だ。
(そういう意味では、2度の迅速な辞任をした前原氏、あるいは早々に引退した小泉元首相は「一般意志」を鋭敏に感じ取ったといえるかもしれない)
なんにせよ、政治のしくみは企業に数歩遅れをとっているわけで、その遅れを取り戻そう、という提言とも読むことができるだろう。