絶望の裁判所 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882507

感想・レビュー・書評

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  • 延長すれば良かったのに時間切れ 裁判員制度も刑事裁判官の自己顕示欲の道具とか面白いことが書いてある

  • ここに書いてあることが、本当の話だとしたら日本の司法に救いはない。友人の弁護士に聞いてみたところ、多少のデフォルメはあるが真実に近いとのこと。本当に救いがない。

  • 著者は、法学研究者に転身した元裁判官。『絶望の裁判所』という挑発的なタイトル。その内容は、裁判所という著者の元の職場について、内部から見た組織システムの課題として糾弾する本となっている。

    自分の関心ごとであり、本書に期待していた、検察と裁判所の関係についても触れられている。もちろん否定的に。無罪率が極めて低い日本の刑事裁判の環境条件において、検察は無罪が出ると評価が落ちるので微妙なケースは起訴しなかったり、無罪となった場合に検察の評価に傷が付くことを裁判官が慮ることで評決に影響がある、と指摘している。結果として、日本の刑事司法においては、検察官が有罪無罪を決定し、裁判所は判断ではなく審査を行っているというゆがんだ実態であると批判している。また、裁判員制度が導入されても、検察官が、裁判員、弁護士、被告人に知られないところで口裏を合わせている可能性もあるとまで書いている。

    ただ、この本の主題は、検察との関係や裁判の手続きの問題以前の組織としての裁判所が根源的に抱える問題の指摘である。この本の内容を正しいと考える限り、そのシステム上の課題は重いと言わざるをえない。裁判所というクローズドな職場において、メンバーである裁判官の評価が内部評価のみで定まり、かつ高度に職位が階層的であることから様々な問題が必然的に出ているように思われる。本書で紹介されている、各役職に付随する細かい序列には単純に驚いた。また、おそらくはこの細かい序列を各々の裁判官自身が意識をしているであろうことにも驚く。序列を付けるということは、その中で内部競争させるということである。またその中でも、刑事と民事とで所属が分かれており、事務総局といった明確な出世ポジションがあるなども硬直化を促すだろう。もし裁判所が劣化しているというのであれば、原因は司法という特殊性にあるのではなく、この硬直化したインセンティブシステムにあると言ってもよいように思われる。価値観は評価システムによって作られ、その価値観に沿って行動が決定される。それは最終的に個人をある程度規定することになり、結果的に類型化された個人を形作ることになる。

    またその評価が、処理件数などの一面の数字で測られる限り、丁寧に審理をしようとするのとは逆のインセンティブが働くだろう。民事において和解を勧めることが多いのは、審理を早く処理したいというインセンティブが裁判官にあるからということらしい。また、その評価システムにおいて、公式な評価以外での排除や報復まで含めた減点主義の評価を恐れるあまり、そうとは意識せずに事なかれ主義の行動に走ることも容易に想像できる。そして、そのシステムの中で上がった人間がそのシステムを否定することはなく、通常の民間企業のように外部との競争環境による脅威もない中では、内部の自浄作用は全く期待することはできない。

    そして、本書ではあまり指摘されていないが、裁判官がほぼすべてかつてその世代において優秀とされた人間であるということも問題をさらに根深いものにしていると思われる。つまり、「もし別の道を歩んでいたらきっと成功をしていたはずだ」という思いが積み上がり、ここまでの間、優秀だった自分の人生を投資してきたのだから、よほどのことがない限りそこまで積み上げた立場や権利を、それがどういうものであろうと、手放そうと思うことは非常に難しいことだろう。

    著者も東大法学部在籍中に司法試験に合格した最優秀のひとりである。著者は、40代のころに鬱病を発症し、長期休暇を取得したそうだ。裁判官たちを「精神的被拘束者」と呼び、職場としての裁判所を「ソフトな収容所群島」と呼ぶ著者も、おそらくはそれまでは、裁判所内のヒエラルキーにそった価値観に囚われていたのではないだろうか。その意味では、職場である裁判所や何人かの個人に対してある種の「恨み」もあるだろう。またそれ以上に自分の人生を費やしたことに対する「後悔」があるのではないだろうか。そこにはニーチェのいうルサンチマンが鬱屈して積もる様子が容易に想像できる。

    このような状況で、さらにメンタルケアが手薄だとも言われる中で、著者がかつてそうであったように一種の鬱状態となっている裁判官が他にも多くなっているのではないかと懸念する。プライドが高く、また将来の人事にも関わることを恐れて、申告を控えることで、その真相は影に隠れることになる。通常鬱状態となると、集中力や判断力が低下することは明らかで、そのような状態の裁判官に審理されるというのは憂慮すべき状況でしかない。

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    この本の中でまだ分からないところが二つほどある。
    ひとつは、裁判員制度が刑事系裁判官の権力拡大に利するために、原崎最高裁長官の下で進められたというところだ。裁判官制度の導入は、刑事裁判の現状を是正するために導入されたものではなかったのか。裁判官の秘密保持義務(違反した場合は懲役刑もある)や裁判官の補佐が三人も入ることなど裁判員制度の不備や当初の目的からの逸脱が指摘されているが、裁判員制度の導入がなぜに刑事派に利することとなるのか不明だ。

    もうひとつが、解決策としての法曹一元化だ。そもそも「法曹一元化」という言葉が何を指すのかさえ分からなかった。裁判所の人事システム的欠陥が納得いったところは満足だが、法曹一元化がなぜその解決策になるのか。その点についての説明が少なかったことが残念だ。解決策を示さないままでは、司法システムという公的組織に対する批判とはいえ、昔の仲間の欠陥を無責任に指摘しているだけではと言われても抗弁できないのではないだろうか。もちろん、自分の「法曹一元化」の理解が乏しく、これを導入するだけであっさりと解決できる問題なのかもしれないのだが。そもそも裁判所の中でも民事と刑事に分かれているようでは、言うは易し、行うは困難この上ないというところではないのだろうか。

    2000年代以降、裁判所の劣化がひどくなったというのは、一面にすぎるのかもしれない。全員ではないとしながらも裁判官という個人に対して、心がゆがんでいて内面がなく幼く嫉妬深いと言い切る。その一部はそのシステムの中で20年近く過ごしてきた著者にも当てはまる部分がないとは言えないだろう。竹最高裁長官に対する評価は半分公人とはいえ個人攻撃にも近い。そして、そういったことも含めて重要な指摘であると捉えるべきであろう。何となれば自分も裁判の当事者になることが十分にあるからだ。

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    同著者の新刊でもある『ニッポンの裁判』も購入してみた。↓
    http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062882973

  • 本書では、裁判所、裁判官の実態がよく書かれている。読んでいて本当に絶望した。一番良いのは裁判所には近付かないことだ。裁判所(筆者はここを精神的な収容所と言っている)に近付けば、檻の中の囚人・制度の奴隷によって理不尽な判決を下されることとなる。どうしても裁判所に事件を持っていって自らが願う正義を実現したいと思えば、「あなたは運がいい人ですか?」と問いたい。運が良ければひょっとしたらあなたが願う正義は実現するかもしれないが、ほとんどの場合、あなたの願う正義は理不尽に踏みにじられること請け合いだ。
    P218
    もしもこの制度をより意義のあるものにしようというのであれば、たとえば、判事補全員について、総合法律支援法に基づく法テラス(日本司法支援センター。常勤スタッフ弁護士が多数存在)のような公益を目的とする機関で数年間の弁護士経験を積ませる、やはり弁護士として、社会福祉あるいは家族や子どもの問題などを扱う国民生活に密着した公的機関における法的なサポートの仕事を数年間体験させるなどといった方向を考えるべきであろう。しかし、このような方向については、事務総局は、拒絶反応を示す可能性が高いのではないかと思う。そんなことをして、判事補たちの「大きな正義」と「ささやかな正義」に関する感覚がちょっとでも目覚めたりしたら、大変不都合であり面倒だからである。

  • 裁判官がいびつな精神構造に陥っていく様がよく分かる。
    "朱に交われば赤くなる"

  • 日本の裁判所がどのような変遷をたどって変わっていったか。裁判所という閉ざされた空間、組織がどのようなものなのか。硬直してしまい権力を嗜好した組織の生々しさ。幾分愚痴っぽく聞こえるところも見られた。

  • お世話になることがないので分からないが、著者によると日本の裁判所、裁判官の劣化が進行しているようだ。それもシステムとして劣化に向かっているようだ。裁判員制度が導入されたのもみせかけに過ぎないようである。著者によると、司法修習終わってすぐに裁判官に任官するシステムが問題のようだし、法曹一元化が必要のようである。自分がお世話になることがいつ起きないとも知れないのだから、人ごとと思ってはいけないのかもしれない。

  • 裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべられるのだろうか? ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような裁判官によって行われる裁判についても、同様に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?
    しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。前記のような国民、市民の期待に大筋応えられる裁判官は、今日ではむしろ少数派、マイノリティーとなっており、また、その割合も、少しずつ減少しつつあるからだ。そして、そのような少数派、良識派の裁判官が裁判所組織の上層部に昇ってイニシアティヴを発揮する可能性も、ほとんど全くない。近年、最高裁幹部による、裁判官の思想統制「支配、統制」が徹底し、リベラルな良識派まで排除されつつある。
    33年間裁判官を務め、学者としても著名な著者が、知られざる裁判所腐敗の実態を告発する。情実人事に権力闘争、思想統制、セクハラ……、もはや裁判所に正義を求めても、得られるものは「絶望」だけだ。

  • 良心に基づいた裁判官が排除される厳格な支配体制は、聞きしに勝る。上りつめるか退官を決意すれば果敢な判断ができるという精神的「収容所群島」だというのは、わかりやすい比喩だった。
    裁判官から大学に転身した筆者によると、今世紀に入って腐敗が進んだそうで、良心を発揮しようと裁判官を志した友人達の現在が心配になる。その一方、とても裁判官になってから歪んだとは思えない、壊れた人々にも慄然とさせられる。
    裁判所に送られる羽目になったら、破滅である。

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著者プロフィール

1954年、名古屋市生まれ。東京大学法学部卒業。1979年から裁判官。2012年明治大学教授に転身、専門は民事訴訟法・法社会学。在米研究2回。著書に、『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(第2回城山三郎賞受賞)『民事裁判入門』(いずれも講談社現代新書)、『檻の中の裁判官』(角川新書)、『リベラルアーツの学び方』『究極の独学術』(ともにディスカヴァー・トゥエンティワン)、『教養としての現代漫画』(日本文芸社)、『裁判官・学者の哲学と意見』(現代書館)、小説『黒い巨塔 最高裁判所』(講談社文庫)、また、専門書として、『民事訴訟法』『民事保全法』『民事訴訟の本質と諸相』『民事訴訟実務・制度要論』『ケース演習 民事訴訟実務と法的思考』(いずれも日本評論社)、『民事裁判実務と理論の架橋』(判例タイムズ社)等がある。

「2023年 『我が身を守る法律知識』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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