絶望の裁判所 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882507

感想・レビュー・書評

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  • 7月新着

  • ■裁判所(官)を信頼している人にとっては,
     ガッカリさせられるかもしれない。
     しかし,どこの世界でもありがちなことばかりなので,
     個人的に驚くことは特になかった。
    ■そもそも裁判所(官)を信頼している人って,
     あまり多くない気がする。
    ■元(最高裁)裁判官だけあってリアリティが
     あるとも言えるが,裁判所(官)に嫌気をさして
     外に出て行った人だからネガティブな方に
     バイアスがかかっているとも言える。
     多少,割り引いて読んだ方が無難だろう。
    ■著者は学者(肌)だけあって,理想・理念先行タイプ
     のようだ。
     ゆえに,現実とのギャップに絶望してしまったのだろう。

  • ○元裁判官で、明治大学教授の瀬木氏の著作。
    ○裁判官としての自身の経験を踏まえ、裁判所という世間からは遠く隔離されたコミュニティの内部構造や裁判の裏側を描いた作品。
    ○民事裁判がどのように行われるのかなど、なかなか知ることができない世界が描かれている。
    ○一方で、全体的に「著者の個人的恨み」や「前の職場の悪口」といった一方的な内容となっており、読んでいて不愉快になる。仮に、現在の裁判所の内部制度について不満や改善点があるのであれば、私情を挟まず、より客観的に描いて欲しかった。その点で、文章としては極めて稚拙で読む価値が下がる。
    (もちろん、改善点があるということは、私にも分かったが・・・)

  • 森炎さんの司法権力の内幕と合わせて読むと裁判所・裁判官が抱える問題がよく分かる。

  • 裁判官が清廉潔白ではなく、裁判所が理想的な状態で運営されておらず、数多くの問題を抱えているらしいことは分かった。
    しかし、本のほとんどが問題点の指摘ばかりで、どうすべきかの具体的な主張に乏しいため、読んでいて妻ら楽感じてしまう。

    例えば理想とされる外国の具体例と比較してみるとか、根本には日本の学歴偏重社会があるとかに議論を発展させて欲しかった。

    最近流行の暴露本の一つでしかないという印象しかないのが残念だ。

  • 勧められた本なんですが、最後まで読めませんでした。言葉が難しい過ぎました。

  • 瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書。「杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通す」裁判官の裁判なら「おおむね正しく、信頼できるもの」とごく普通の市民であれば考えるかもしれないが、日本の実態とはそのようなものではないと元裁判官の著者はいう。「絶望の収容所群島」がその実だ。

    その実態とは「内に対しては理念なき絶対的統制、外に対しては可能な範囲で迎合、さらに、情実人事によって脇を固め」た醜悪なシステムであり、旧ソ連の全体主義的共産主義体制に酷似する。良識ある少数派の善意で克服できるほど甘いものではない。

    一部良識ある人々をのぞき、イヴァン・イリイチ的官僚的性格か、イリイチ「以下」の高位裁判官によって裁判官は公正され、その「収容所群島」としての裁判所は「国民、市民支配のための道具、装置」として機能する。体験に裏付けられた告発に戦慄を覚える。

    勿論、前時代的な汚職の横行する暗黒世界ではないが、廉潔・公正・透明とはかけ離れ、先進国の水準から見ても後進的な世界がその実情。著者は「お上」の用意するキャリアシステムから法曹一元化への転換、奴隷根性の払拭と憲法裁判所の設置に光明を見出す。

    「つまり我々の誰からも声が上がらなかったら、何も起こらず、〔人々の〕期待を裏切る結果になってしまう。特に問題なのは、権力を持った者の沈黙による『裏切り』、彼らは、何が実際起きているかを見ることさえ拒否している」(ボブ・ディラン)。

    著者はボブ・ディランに言葉を紹介しながら、知りかつ考えることを訴える。本書は裁判所の現状とその問題の分析、そして変革への道筋をつける一冊だが、事は裁判所に限定され得ない射程を秘める。日本的馴化の心性更新のきっかけになる一冊だ。






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     日本の社会には、それなりに成熟した基本的に民主的な社会であるにもかかわらず、非常に息苦しい側面、雰囲気がある。その理由の一つに、「法などの明確な規範によってしてはならないこと」の内側に、「してもかまわないことにはなっているものの、本当はしないほうがよいこと」のみえないラインが引かれていることがあると思われる。デモも、市民運動も、国家や社会のあり方について考え、論じることも、第一のラインには触れないが、第二のラインには微妙に触れている、反面、その結果そのラインを超えるのは、イデオロギーによって導かれる集団、いわゆる左翼や左派、あるいはイデオロギー的な色彩の強い正義派だけということになり、普通の国民、市民は、第二のラインを超えること自体に対して、また、そのようなテーマに興味をもち、考え、論じ、行動すること自体に対して、一種のアレルギーを起こすようになってしまう。不幸な事態である。
     これは、日本の論壇におおむね右翼に近い保守派と左派しかおらず、民主社会における言論の自由を守る中核たるべき自由主義者はもちろん、本当の意味での保守主義者すら少ないということとも関係している。
     そして、日本の裁判所は、先の第二のラインによって囲まれる領域がきわめて狭く限定されている社会であり、また、第二のラインを超えた場合、あるいはそれに触れた場合の排除、懲罰、報復がきわめて過酷な社会なのである。
     ソルジェニーツィンの小説やドキュメント、ショスタコーヴィッチの音楽や自伝(S・ヴォルコフ編、水野忠夫訳『ショスタコーヴィッチの証言』中公文庫)は、裁判官を務めながらそれらに接すると、実に身につまされるものがある。日本の裁判所は、実は、「裁判所」などではなく、精神的被拘束者、制度の奴隷・囚人たちを収容する「日本列島に点々と散らばったソフトな収容所群島」にすぎないのではないだろうか?
     その構成員が精神的奴隷に近い境遇にありながら、どうして人々の権利や自由を守ることができようか? みずからの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか?
     これは、笑えないパラドックスである。
        --瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年、111-113頁。

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  • これだけ多くの付箋を付けつつ読んだ本は、珍しい。
    そして、読み進めながら、これだけ暗澹たる気持ちになった本も、また、珍しい。

    言うまでもなく、三権分立のなかで、大きな意味と役割を占める司法権、裁判所。

    憲法では、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と定められている。裁判所や司法権が独立しているのではなく、「裁判官」の独立が定められているのだ。
    しかし、実際の裁判官は、最高裁判所長官を頂点とする、外の世界からは窺い知れなくかつ緻密に構成された、ピラミッドの一部としか機能しなくなっており、司法権が正常に機能しなくなっていると言うのが、本書の指摘。

    先日、福井地裁で、大飯原発の運転差し止めを命じる判決が出たが、画期的な判決と思うと同時に、高裁、最高裁と進む過程で、必ずこの判断は覆されると思った方は多いと思う。

    しかし、こうした実績を積み上げ、また、それに対する国民の大きな支援と支持表明を続けていかなければ、我が国の司法に対する信頼と希望は潰えて、暗黒時代に突き進んで行ってしまうに違い無い。

  • 裁判所って、公正、公平、正義だと思っていました。裁判官は人格者で立派な人というのは思い込み、いや妄想なのかもしれません。読んでショックでしたが、裁判官といえども人間なのですから、出世欲があっても、マイルールに生きていようとも、それはそれで仕方ないかもしれません。勿論、立派な方もいらっしゃると信じたいですし、きっと信頼できる裁判官もいらっしゃると思います。閉じられた世界ですし、裁判に係ることもなかったので気にしていませんでしたが、これから裁判に対して全幅の信頼を寄せることは出来ないと思いました。

  • 裁判官といえば真面目ながらやや世間知らずというのが世間一般のイメージかも知れない。では裁判官はどういう人がなるのかというと司法試験に合格した人が司法研修所に入所し司法修習を受ける。裁判官、検察官、弁護士のいずれであっても原則として同じカリキュラムを受け終了後、判事補(裁判官)、検事2級(検察官)、弁護士(弁護士会への登録)のいずれかを選ぶ。これが日本の法曹のキャリア・システムだ。最近では優秀な学生の多くが弁護士を希望している。

    瀬木氏が批判しているのは主にこのキャリアシステムといっていいだろう。学生が社会に出ずに研修だけを受けすぐに裁判官になる。そして裁判官として出世するためには官僚制のウチワの理論が優先し、裁判官として優秀かどうかはあまり関係がないからだ。一般的な裁判官の評価は事件処理の数とスピードで決まる。そして最も労力がかかるのが判決文の作成なのでできるだけ和解に持ち込ませようとする。判決文を書かなければ後から批判されることもない。実質的には裁判というより前例に基づいた事件処理だ。

    前例ではなく自分の考えを主張する様な人はほとんど高裁長官にはなれない。官僚制度は最高裁の事務総局を中心としている。最高裁長官は滅多に開かれない大法廷にしか関与しないので実際の仕事は裁判官を統制、管理することになる。1980年代以降は全員が事務総局系で4/9名が事務総長経験者である。また14名の最高裁判事のうち裁判官出身者の6名はこれまた近年ではほぼ全員が事務局系だ。事務総局局長は長官の言うことに黙って従う歯車でしかないが、現場の裁判官に対しては強大な権力を持つ。こうしてイエスマンが出世するヒエラルキーが出来上がって行く。

    瀬木氏の見るところ裁判官によくある性格は四つに分類される。人間としての味わいを持つ個性豊かな人物は多くて5%、頭がよく人当たりもよくしかしあまり中身のないエゴイストが45%、出世主義者の俗物が40%、分類不能の怪物が10%だという。2番目のエゴイストタイプはまだましな方なのだ、そして怪物と俗物が出世して行く。例えば1976年に司法研修所事務局長と教官が「女性は法律家、裁判官にふさわしくない」との差別発言をし国会でも問題になったがこの事務局長はその後事務総長を経て最後に東京高裁長官となりもう一歩で最高裁入りするところだった。

    セクハラ、パワハラも数多く瀬木氏自身も早期退官して大学教官への転身を決めた時、事務総局人事局は承認があるまで退官の事実も、大学に移ることも口外するなと告げて来た。講義準備の有給休暇を申請すると認めようとせず、有給休暇を取るなら早く辞めろという。審理中の裁判があったのにも関わらずだ。瀬木氏は日本の裁判所は実は制度の奴隷を拘束するソフトな収容所ではないか、「みずからの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか?」と言っている。

    日本の刑事司法はかなりの部分検察官の主張の追認となっている。問題点は2つあり異常なまでの検挙率の高さはよく知られているが、もう一つは拘留状の問題がある。きちんとした審査が行われている逮捕状と違い拘留状はほぼフリーパス。痴漢冤罪についてある弁護士は「相手の女性に名刺を渡してともかくその場を立ち去ること。(これで拘束には逮捕状が必要になる)その場で現行犯逮捕、拘留されてしまったらおしまいだよ」と言った実例も紹介されている。連続20日間に拘留に耐えられる人は法律家でさえ多くない。疑わしきは罰せられる。

    ではどうするか?瀬木氏の意見は法曹一元化で優秀弁護士を裁判官に任官させることと、事務局は純粋な裏方として法律家以外に任せることだ。しかし検察以上に普通の人が興味を持たない裁判官、どうやってやるかが問題の様な。

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著者プロフィール

1954年、名古屋市生まれ。東京大学法学部卒業。1979年から裁判官。2012年明治大学教授に転身、専門は民事訴訟法・法社会学。在米研究2回。著書に、『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(第2回城山三郎賞受賞)『民事裁判入門』(いずれも講談社現代新書)、『檻の中の裁判官』(角川新書)、『リベラルアーツの学び方』『究極の独学術』(ともにディスカヴァー・トゥエンティワン)、『教養としての現代漫画』(日本文芸社)、『裁判官・学者の哲学と意見』(現代書館)、小説『黒い巨塔 最高裁判所』(講談社文庫)、また、専門書として、『民事訴訟法』『民事保全法』『民事訴訟の本質と諸相』『民事訴訟実務・制度要論』『ケース演習 民事訴訟実務と法的思考』(いずれも日本評論社)、『民事裁判実務と理論の架橋』(判例タイムズ社)等がある。

「2023年 『我が身を守る法律知識』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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