- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101121024
感想・レビュー・書評
-
【始】
壁というものがある。(序)
目 を覚ましました。(S・カルマ氏の犯罪)
ぼくのことをお話ししましょう。(バベルの塔の狸)
日が暮れかかる。(赤い繭)
ある貧しい、しかし誠実な、哲学者が宇宙の法則をさぐるために、屋上の平屋根に一台の望遠鏡を持ち出して、天体の運行をさぐっていた。(洪水)
雨もりと料理の湯気で、ぶよぶよになった場末のアパートの便所の隣に、貧しい画家のアルゴン君が住んでいた。(魔法のチョーク)
聖プリニウスは言った。(事業)
【終】
その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。(S・カルマ氏の犯罪)
もう詩人ではなくなったのですから、腹がすくのが当然なのでした。(バベルの塔の狸)
しばらくその中をごろごろした後で、彼の息子の玩具箱に移された。(赤い繭)
多分過飽和な液体人間たちの中の目に見えない心臓を中心にして。(洪水)
それは丁度絵になったアルゴン君の目のあたりからだった。(魔法のチョーク)
「彼の中の彼」殿(事業)
最初の2作は面白いけどそこそこ長いのでシュールに胃もたれする時があった。
後半の短編群が読みやすかった。
Sカルマ氏の犯罪、バベルの塔の狸、魔法のチョークが好み。
藤子F不二雄、夢野久作、筒井康隆、小林泰三を感じた。
2023.5.28
いや面白過ぎる。今までの小説で一番かもしれない。
挑戦もしている。
インスピレーションの塊。
相変わらずわからないところもあるがそれがいい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読了。
「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」「赤い繭収録。
芥川賞受賞。
凄くシュールだ。
混乱する。 -
かなりシュールで理解するのが難しい。「砂の女」よりも難しいと思った。面白い部分ももちろんあったが、結論的なところがわからず、正直言って立ち往生してしまった。これが芥川賞とは、その時代は読み手のレベルが今より高かったのだろう。現在のライトなものがもてはやされる感じは好きではないが、ここまで難しいと…。
-
こんなに訳わからん世界なのに、分かる言葉で分かるかのように書いてくれてる事がもう天才。凄い面白かった。
ちょっとずつちょっとずつ、でも確実にズレていって、最後はとてつもなく変なところに居るのに納得してしまう。なんて天才なの。凄いな〜〜 -
ある日、名前を失ってしまったことで、社会の外に放り出されることになった主人公。その世界は奇妙さを増していき、ある意味で支離滅裂な夢のようなイビツなものとなっていく表題作の『壁』と、他、二章からなる作品です。非現実的なタイプの小説です。現実性からかなり高くジャンプしています。そこには、現実性の強い重力から逃れながらも、現実性から逃れたがゆえの、孤独による、よるべなさのようなものがあります。しかし、その世界観といい、文体といい、何故かとても心地よくもあるのです。その幻想世界にある、現実社会を照らすするどい寓意。それはメインに表だって飾られたものではなく、うっすらと感じる程度に内包されているというか、抽出的に読解してみることで感じられるものだったりします。
-
冒頭部分を読んだ際、率直なところ、サルトル『嘔吐』の二番煎じではないかと思った。よく指摘されるカフカっぽさももちろん。しかし、主人公のあとを追ううちに、これは様子がちがうぞということに気づいた。サルトルっぽさ、カフカっぽさはある。けれど、『壁』には『嘔吐』のようなどうしようもない悲壮感がない。たしかに、『変身』や『城』のような倒錯したユーモアともいうべき不可思議な感触がないわけでもない。しかし、カフカのそれとはまた違った世界観が『壁』にはある。楽観的でもないし、心地よくもない。だからといって不快でもない。読むわたしのまえにはただ、壁のような砂漠、あるいは砂漠のような壁があるだけで、その先に歩みを進めようと思っても終わりがなく、終わりがあると思っても進めない。それまで歪んでみえた世界がまっすぐになり、まっすぐにみえた世界が歪みはじめる。ー不条理、彼はまさにそれそのものを表現しているのだろうか。カフカの作品に符号する箇所は多いが、安部公房の描く光景は砂漠なのであって、人を飲み込む大地とその渇きこそが魅力なのである。
巻末の解説にて、佐々木基一氏はこう分析する。曰く、「安倍公房のばあい、この砂漠は、同時にまた、壁と云い直すことができる。砂漠と壁、(中略)目路をかぎるものといっては、地平線のほかに何ひとつない広漠たる砂漠は、同時に、われわれのつい目の前にあって、われわれの目をさえぎっている壁と同じものであり、(中略)云いかえれば、壁によって仕切られた内部の空間と、壁外にひろがる外部の空間とは、まったく同質の素材からなる同質の空間ということになる。この、内部と外部の同質性の発見、同質であるがゆえに両者のたえまない相互滲透と自由自在な変換の可能性の発見ーそれこそ、ほかならぬ安倍公房の独創性がある」。
不条理を壊すことは、無限を消すごとく困難である。不条理などは知らぬが仏、でなければ本書の主人公のように、「習慣に塗り固められた現実での存在権」(本書のあらすじより)を失うだろう。しかし、壁は頑としてある。意識しようとしまいと、それはあるのである。安倍公房はそのことを、よいかわるいかという次元に捨ててしまわない。より高次なものに昇華する。暗く重く、美しい。読了後、わたしはそのように考えた。 -
『砂の女』が好きなので、他の作品も読んでみるかと手に取りましたが…全然分からない。なんなんだこの作品は。アイデンティティの重要性?形にはまった政治揶揄?はたまた人間の傲慢さ?解説や他の方の感想も読んでみたものの、釈然としない。感想なのだから正解はないのだけれども。作品を無為に書く作家ではないとおもうので、何かしらのメッセージは隠されてる筈だけれども汲み取れない。ごめんなさい安部先生。自分の馬鹿さにちょっとヘコんだ。いつかリベンジしたい。
-
第一部 S・カルマ氏の犯罪
第二部 バベルの塔の狸
第三部 赤い繭
第一部で全体の半分を占める。「注文の多い料理店」ってどんどんドア開けて進んで行くけど、そんな感覚だった。どんどん次の事柄が起こって、理解出来んまま次の部屋に進む。異世界。 -
安部公房(1924〜1993)
1951年芥川賞受賞作が収められた本作、「壁」は、第一部 S・カルマ氏の犯罪、第二部 バベルの塔の狸、第三部 赤い繭、から成る。
とっても久しぶりに安部公房。昔はもっと読みにくい気がしていたんですが、いま読んでみると文章は驚くほど平易で読み易い。しかし内容は非常に難解。難解なものを、ユーモラスに平易に、フィクションに託すという特徴だけ取り出すと意外に村上春樹に通じる。わたしは第二部の「影」について、春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出した。カフカ、安部公房、春樹、には圧倒的不条理とユーモアと内容に反して軽みのある文体が共通しているのかもしれない。
内容については、とにかく不条理で、世界に対して怒りと敵意に満ちていて、それを力技でユーモラスにしているような印象を受けた。普通にわたしたちが生きている現実の、不安定で不確かで残酷で馬鹿げた部分をぐっと取り出してデフォルメしてフィクションに託したらこんな風になるんじゃないか。名前が奪われ、存在権が奪われ、影が奪われ、わたしたちが当たり前のように感じている「社会で生きる」「存在する」ということの不確かさに、それを当たり前だと思ってしまっている人びとの鈍感さに、憤りを感じていて、でもそんな憤りも含めてニヒリスティックな想いもあって、もう、笑うしかないでしょう、というような。
読みながら、あるものをフィクションに託すとはどういうことか、と思った。ぐっと本質をつかみ取り、それを限定する場所や時代や事件性を取り払って、より普遍的なものとして提示することなのかなあ、とか。わたしにはまだわからない。
とにかく難解で、わたしの理解力じゃ追いつかない部分も多いので、佐々木基一さんの解説を以下にメモ。
「安部公房には、総じて、失われたものにたいする郷愁は皆無である。かつてはこれ以上確実なものはないと思われていた世界、そのなかでは自分の名は自分の本質と等しく、自分と他人とのあいだには共通の通路があり、共通に使用可能な通貨によって人びとが互いに結びつけられていると思われていた亀裂のない世界、母親の懐ろに抱かれた子どものように、何の懐疑もなくそのなかで安らかに息をつき、安らかに眠ることのできた世界への郷愁はまったくない。それがないということは、安部公房が失うに足る世界をいまだかつて一度ももたなかったということの反証にほかならない。」
あと、石川淳の序文も非常に良かったので、メモ。これ本編読み終わってから再度読むとすとんと来るものがある。歯切れの良い文章も素晴らしい。
「壁というものがある。こいつは絶対に思想なんぞではない。堅固な物質でできている現実の壁です。…(中略)…このとき、安部公房君が椅子から立ちあがって、チョークをとって、壁に画をかいたのです。安部君の手にしたがって、壁に世界がひらかれる。壁は運動の限界ではなかった。ここから人間の生活がはじまるのだということを、諸君は承認させられる。諸君がつれ出されて行くさきは、諸君みずからの生活の可能です。どうしてもこうなって行く、この世界は諸君の精神をつかんではなさない。というのは、そこに諸君の運命が具象化されているからです。…(中略)…精神の生活はここに安部君のチョーク的に必然の形式を取る。それが現実の生活と相似の形態に固定していないのは、安部君が精神の運動に表現を与えているからです。この形式に於て、この仕事は現実の生活上に普遍的な意味をもつ。」
ここで言われている壁は、現実、人生、生活、小難しく言えば「実存」であり、それをひたすら写し取るように描こうとすればするほど滑り落ちていくものであり、安部公房はフィクションに託すことによっていわゆるリアリズムよりもより良い描き方を手に入れた、というような意味でしょうか。とにかく石川淳のリズム感ある文章、すきだ。安部公房についてはもっときちんと読み込まなければ、これからもっとどんどん読んで行こう、とおもいました。 -
毎回毎回「レビュー」を書かなならんわけですけど(義務じゃないけどw)、reviewって評論のことなんですよねえ・・・。で、「評論」と聞くとどうしても堅苦しい文章とか難しい文章が連想されるわけですけど、紹介する本を読んでもらうことが目的だとすると、ものすごくわかり易いことを書いた方が良いのかな?と思うんです。
「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」
(マーシーじゃなくて井上ひさし、の仏教説法訳)
他の方のレビューも読ませて貰いました。
わかってる人は一発でわかるし、難解だと思う人は難解かもですが、
みんなが知ってる作品と関連づけるとものすごくわかり易いし、
とっても面白い作品です。
以下、自分が感じた関連作品について。
ぱっと感じるとこでは、「あーシュールリアリズムを文章にするとこんな感じなんだなー」でした。と書くと一瞬で終わるんですけど、「じゃあシュルレアリスムって何よ!?」って話になっちゃう。
だから映像で挙げると、僕の頭の中ではテリー・ギリアムの世界観でした。
絵画で言うとダリが有名ですけど、シュルレアリスムってもうファンタジーって言って差しさわりないと思うんです。だって時計って現実ではぐにゃってならないですもん(笑)。『ラピュタ』だって現実で城が空に浮かびませんもん。
あと『不思議の国のアリス』。
アリスは色んな人が元ネタにしてますけど、シュルレアリスムの元にもなってます。
先述のテリー・ギリアム、デヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』
ヤン・シュヴァンクマイエル、『マトリックス』、『となりのトトロ』
最近で言うとギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』。
だからみんなが知ってる世界観で、映像を頭に浮かべて読むと楽しいと思います。
読み進めて行くと、まんまブルトンが出てきて笑いました。
ブルトンって、ウルトラマンの怪獣・・・っていうか
ホヤの塊みたいなやつなんだけど、出てきますね。
有名だけどウルトラマンにはダダも出ます。
ウルトラマンは前衛芸術の塊ですよ、ヌーヴェルヴァーグとかさー。
そして、一番近いと思ったのはエヴァンゲリオンでした。
特に後半、2本目の短編『バベルの塔の狸』以降。
この作品は『2001年宇宙の旅』にも似てて、
解説には『オデュッセイア』のことが書かれてました。
(※『ラピュタ』→『ふしぎの海のナディア』→『エヴァ』ね)
だから、今の作品のそこらへんの要素が全部詰まってます。
俗っぽい言い方だけど、1951年のエヴァンゲリオンです。
壁はATフィールドだし、液体になるのは人類補完計画でしょw
セカンドインパクト(サードか?)も、アダムとイヴも出てくるし。
(エヴァと安部公房の関連性を書いたような文章読みたいんですけど、
Web上にあんまり無いような・・・)
そして、これ僕がバカなだけなんだけど、
諸星大二郎の『壁男』と、安部公房の『壁』『箱男』がいつもごっちゃになってた。
これも結局エヴァなんですよ、諸星先生って。
次に、テーマ的なものについて。
『砂の女』を以前読んで、面白かったので『壁』を読んだんですが、
http://booklog.jp/users/gmint/archives/1/410112115X
共通するものは、人間の社会性の死みたいなもんかなと。
人間って動物だし、生物的な生き死にがありますよね。
動物と一緒の部分・・・メシ食ってクソして寝て、セックスして子ども産んで。
そして死ぬ。
人間と他の動物の違いは社会性なわけだけども、
『砂の女』と『壁』の短編に共通するのは、社会性の喪失とか
社会的に死ぬことなんです。
フィジカルな面もあるんだけど、大概ソーシャルな面で。
社会と隔絶されたり、名前を失ったり・・・
安部公房は実存主義って言われてますけど、
これまた「実存主義」とかそんなこと言うと難しい。
今日、たまたま他の映画についての町山解説を聴いてたら、
みんな知ってる『ショーシャンクの空に』の話が出てきたので書きますが、
あの映画って、壁で囲まれた刑務所から穴掘って脱出して
生きる意味=希望や、心の幸福=楽園を目指すって話じゃなかったですか?
この『壁』も、そんなような話なんですよ。
ショーシャンクで穴掘ってますけど、『壁』も自分の心を掘り下げる話です。
空想の世界、心の楽園=エデン等々を目指すって話で。
結末は違うんですけど、精神の話。
それに関連して、資本主義や物質文明に対する警鐘。
最後に収められてる『事業』とかまさにそうなんです。
この作品は、金=宗教、金=神 みたいな話。
そしてこれはSFです。今の方が実感持って読めるかもしれない。
というわけで、短編集『壁』は、シュルレアリスムであり、
ファンタジーであり、SFだという・・・一粒で二度も三度もおいしい作品。
新潮文庫のカバー、『壁』だけは安部真知の旧版で、
書店にもずっと残ってたんですけど、重刷されて変わりましたねー。
新しいのも安部公房本人の写真で、それはそれで良いんだけど、
古い方に味わいを感じてました。因みに挿絵は元のままです。
で、新カバーにはどどーんと『The Wall』と。
『The Wall』と言えばピンクフロイドですけど、
安部さんも大ファンだったそうです。
ピンクフロイドと言えばヒプノシスのジャケットでもありますね。
(『The Wall』は違うけど)
僕らには教育なんかいらないよ
僕らには思想誘導なんかいらないよ
ヘイ、先公ども!子どもたちを放っておけ!!
結局、お前らもみんな、壁のたった一つのレンガでしかないんだ
と、いう曲。
今だったらもうちょっとちゃんと意味がわかると思うんで、
また『The Wall』の映画も観たいんですけどねー。
個人的にはこの時期のピンクフロイドはあんまり聴いてません。
若い頃は音が嫌いで・・・シド関連のやつ、サイケ時代のは
『シー・エミリー・プレイ』とかもCDで持ってるんですけど・・・。