時間と自己 (中公新書 674)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (193ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121006745

感想・レビュー・書評

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  • 「もの」としての時間と、「こと」としての時間。

    われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。
    カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。

    しかし、「もの」としてしか意識できないとしても、「こと」としてある「いま」。
    この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。

    「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略)

    われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なるものが、あらかじめ未来や過去を起点として存在しているかのような、いわば「分断点」としてそれを意識しがちである。
    しかし、そのような過去/未来がまずあって、その「あいだ」に「いま」がはさみ込まれているのではない。
    「あいだとしてのいまが、未来と過去を創り出すのである。」

    このような「あいだ」という「こと」的な感覚。
    平常われわれはこの感覚とともに、未来と過去、いままでとこれからの「あいだ」にある「いま」を、「…から…へ」という移行性のなかで生きている。

    ところが、この「こと」としての時間感覚が失われる場合がある。
    本書では、そうしたなにかしらの均衡が失われた時間感覚について、精神病と関連づけながら論じられている。

    時間感覚から精神病についてみていくことが大変興味深く、その病気について理解が深まるとともに、「自己」と「時間」のつながりが、あるいは「自己」である「時間」、「時間」であるところの「自己」を考えさせられる。

    新書のわかりやすさ、手に取りやすさを有しつつも、よくある多くの新書よりもはるかにタメになり、かつ興味深い一冊!

  • 新書なのだけれども、新書レベルの内容ではないという意味で収穫の一冊。

    時間考察がメインであり、ハイデガーを手がかりとして、木村独自の「時間論」を展開させてゆく。ハイデガーは、『存在と時間』において、「人間=現存在とは、時間によって定義されうる」といったことを示そうとしたと言われている。要するに、人間という生き物は、「いま」という特定の時間を生きることによって、自己を自己足らしめることができる。もし、いまがなければ、人間とは一つの位置に固着できない不安定な存在となりうる、といったことがここにおいて示される。逆を言えば、時間がうまれたときに人間が生まれた、と言える。そして、人間とはいましか生きれない以上は、過去も未来も、ともに「未来性」を持ちうる、といった見解が示されていると木村は解釈している。

    だが、木村からするとこのあたりがいくらか乱暴なのである。まず、人間が人間たるには「いま」が必要である。そのため、まず最初にあるのは、「絶対的ないま」であろう。そこにおいては人間は「個々」としては「未分化」であり、不連続ないまを生きていると言える。この状態は、「祭りの最中(イントラ・フェストゥム」と呼ばれ、これが極端になったものを癲癇、躁うつ病、さらに言えば、癲癇の発作時に見受けられる「アウラ状態=死から現実を見やる快感状態」と言うことになる。そして、ここから「個々」に人間が「分化」する中で、未来と過去という時間が成立することとなる。この未来と過去とは「いまの拡大」によってうまれたものであり、それゆえ未来と過去の根源にあるのは「いま」である。そして、いまより前が過去であり、いまより後が未来となり、その位置は、「個体としての死(≠アウラ状態における死)」によって前後付けられるのである。そして、未来性によって脅かされる場合、つまり、「自己が自己として未来においても一貫し続けている」ことへ不安を抱くことこそが「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」であり、それが極端になれば分裂病になる。逆に、過去に対して、既存の過去へと依存することが、「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」であり、これが行き過ぎて、過去を「取り返しのつかない、けれど未済」のものとまで捉えてしまうと、うつ病(単極型=うつのみ)になる。ちなみに、うつ病→躁うつ病へとなることがあるが、これは、ポストフェストゥムが根源ということではなくて、原初的状態がイントラフェストゥムである以上、うつ病者も分裂病者も、誰もが、イントゥラフェストゥムを持ちうる、といったことを指し示している。そして、人間が人間である以上、すなわち、個々の人間である以上は、誰もがこの三つの状態を持ちうるのであり、そのバランスが著しく崩れ、何かが極端となったときに分裂病などが発症する、といったことになるのだろう。

    ちなみに、「こと」と「もの」という区別はそれではどこに出てくるのかと言えば、われわれ人間における「本質」とは「こと」なのであろう。だが、本質と言う言葉自体が「もの化」されてしまっているように、言葉を使う上で、ことは確実にもの化されてしまう。しかし、反面で言葉以外でわれわれはことを認識しえないのだ。つまり、アウラ状態では、われわれはことを認識できないだろう。しかし、だらかこそ、アウラ状態は純粋なことに近い。われわれがアウラ状態を認識するのは、事後や症例を通してしかありえず、それはもう「もの化」されてしまっている。これは、過去と未来をもつわれわれが「もの」を避けては生きられないことを示しており、しかし、過去と未来をもつからこそ、われわれは個別の人間足りえる、だとすれば、われわれ人間個々は「ものとことのあいだ」を生きていると言えるだろうし、われわれが「未来」と「過去」の「あいだ」の「いま」を生きているとすればやはり、「ものとことのあいだ」にわれわれが位置しているとも言えるだろう。

  • 大切なことらが記されているが、未だ自機来たらず。

  • 使われている精神医学の用語や内容は、本書が書かれた1982年当時のものであることを前提として読む必要がある。それでもなお、思弁的のみならず、臨床的にも示唆に富む本だと感じた。臨床場面で患者さんと接しているときに、自分自身の時間感覚も同調しているように感じることは多く、一日の臨床のなかで、時間の流れは一定ではない。患者さんのためにも、医療従事者が己を知り守るためにも、ここに書かれているような内容を知っておくことは有益だと思う。

  • 冒頭の我々の周りの「もの」と「こと」の解釈から引き込まれた。
    そこから精神病への展開は難解で、一回読んだだけでは理解が追いつかないが、とても興味深い。
    そして最後のまた映画のマトリックス的な自身の他者性についても、共感できるところも。

  • 難解な内容である。著者の言おうとするエッセンスは何とか理解したつもり!

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/685424

  •  精神病患者の精神世界から、人間の時間と自己に対する認識について書かれた本。過去・現在・未来の捉え方、時間概念は全ての人、時代、世界に等しいものではない。

     やや難しく感じたので、また読み直したいと思う。

  • 木村敏先生の本が全然登録されていなかった。最重要書籍の1冊なのに。

  • クリシュナムルティの参考文献として紹介しよう。木村の文章が苦手である。思弁に傾きすぎて言葉をこねくり回している印象が強い。ドイツに留学したせいもあるのだろう。西洋哲学も同様だが思弁に傾くのは悟性が足りないためだ。
    https://sessendo.blogspot.com/2020/04/blog-post_9.html

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著者プロフィール

1931年生まれ。京都大学名誉教授。著書に『木村敏著作集』全8巻(弘文堂)、『臨床哲学講義』(創元社)、共訳書にヴァイツゼカー『ゲシュタルトクライス』(みすず書房)ほか。

「2020年 『自然と精神/出会いと決断』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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