アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))
- 早川書房 (1977年3月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150102296
感想・レビュー・書評
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わたしたちの道徳はわたしたちにしか当てはめることができない。
ここでい言う「わたしたち」は、コミュニティのことだ。道徳の拘束力は、コミュニティの内側から外側に向かって、次第に影響力を無くしていく。内側では始終、秩序を保つための自浄作用が働く。家族内で、学級内で、社内で、街で、地方で、国家で。表に現れる形には、いじめがあり、差別があり、迫害がある。
本作で、アンドロイド狩りの仕事に努める主人公リックは、アンドロイドのいる世界の内と外の境界に立っている。そこがまず面白い。アンドロイドと人間を判別する必要に迫られる立場の人間の倫理観。読み手は彼と一緒に自問自答しながら物語を進めることになっていく。
有機アンドロイドの活躍するSF世界であっても、社会の実態は現状と何も変わらない。
火星に移住した人間・移住こそしてないが地球での社会的地位を有し“毎月の身体検査で適格者と太鼓判を押され~法律の定める範囲内で生殖を許可された”人間(さらに上流、中流、下流に分かれる)・移住が不可能で生殖も禁じられた「マル特、本バカ、ピンボケ」・「アメリカ特殊職業技能養成所」に収容される仕事にも付けない、もっと頭の悪いピンボケ、と階層化している。
世界観を作り出すひとつひとつの要素(例えば、放射線降下物~死の灰~が降り注ぐ、キップル化する世界、清掃業者の大発展)も面白い。
が、特に「動物を飼う」と「マーサー教」は絶対に外せない。
“動物を飼わない人間は~不道徳で同情心がないと思われる。~法律的には最終戦争直後のように犯罪と認められないが~”とある。
動物を飼っていない人間に向けられる視線は、前科者か、反社会的勢力へ向けられるそれになっている。どうしてだろう?
以前は不道徳で同情心がない人間が、法律で罰せられていたと示唆されている。まるで、徳川綱吉政権下における生類憐みの令のよう。
道徳や同情心などの人間らしさへ非常に敏感な注目が寄せられる社会とはどんな環境だろう?
人間達が自分自身の人間性に疑心暗鬼になっていたと仮定する。悲惨な戦争だったことが伺える。9,11同時多発テロの直後であったり、チェルノブイリ原発事故の直後であったり、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後の武力への恐怖が蔓延していた時代に特有な心理。
さらに死の灰に覆われていく世界では、地表から人間らしさが消失しつつある。
そこから生まれた抑制作用としての道徳への希求。
リックとアンドロイドの邂逅もあるが、冒頭と末尾は模造動物をめぐる顛末に集約されている。
火星に移住した人間にはアンドロイドが無料で付与される。地球に残った人間は生きた動物が是が非でも欲しい。ペットが欲しいというのとは違って、もっと切実な要求だ。どこか西部開拓時代の人々のようなその心境には、この時代の一つの希望に思えてくる。
動物は自然とともに人間の手によって失われたしまったもの。
もしかすると、物語の時代に生きる人間はみな、贖罪の意識に駆られているのかもしれない。とすると、アンドロイドは人間が自分たちのなかにある凶暴性や暴力性を切り離して具現化した存在と見えなくもない。
人間だけに許された特権。感情移入。人々が自らの人間性に縋るためのよすがとして動物が指向されているようにも思える。
この世界の宗教と信仰は、マーサー教の他には描かれない。教義が“共感”で唯一の宗教であるマーサー教は動物愛護とともに人間性の担保を支えている。
共感ボックスがまるでセルフメンタルケア装置のようにも思われるけれど、実態は違うように見える。
2023年時点、日本いおけるテレビ世代のテレビであって、SNS世代のSNSに近いと感じる。
細分化、セクション化された社会システムで、価値観を共有できるコミュニティーは自然と数を減らした。技術がそれを壊したとは思えない。壊された、人間にとって必要な共感環境を補うようにテレビやSNSは普及してきたのだとも感じる。
テレビ、youtube、共感ボックス。これらに共通するのは、大多数がアクセスできること、視覚化されていること、リアルタイム(もしくはそれに付随する通信環境の整備)であることだろう。結局、参加者の多さが、共有される価値観を育み、“いいね”に集約される。現代のパンとサーカスだ。そして、サーカスが、ない世界に人は生きていけないことが、示唆される。終身雇用制時代を遠い未来で、懐古し幸せな時代だっただろうにと思うときが来るのかもしれない。完全能力主義は、個別化と個人化を進める。非力な人々の受け皿になっているコミュニティは、たちまち衰弱していく。集団の余地はどんどん削られていく。人は社会の歯車の部品にすらなれず、孤独と言う名の自由からの逃走に失敗した人々が奈落に飲まれていく。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか』の日本Verを考えてみるのも面白い。歴史を振り返ると、今の時代が十分SFなのだと気付く。
リックはアンドロイドのハントを通じて、よっぽど人間らしい側面を落ち合わせているアンドロイドに触れていく。妻イーランの抑鬱を彼は“自分の存在価値を見失ったことからくる感情鈍麻”に陥るこで理解する。アンドロイドを殺す行為主体がアンドロイドに共感する行為主体になる。共感しながら、共感した相手の命を奪う矛盾した存在。“おれは不自然な自己になってしまった”と語るリックは分裂病の症状のような症状に苛まれる。
キルケゴール言う“人間は動物より勝っているからこそ、言い換えれば人間は自己であり精神であるからこそ、絶望することができるのである。(『死に至る病』)”絶望が彼にも訪れる。
彼はアンドロイドを殺すという人間性を喪失する行為に及んだあと、本物の動物を買い育てるという、人間性の回復行為に及ぼうとする、自分の矛盾に目もむけられなくなる。
望みは望まないこととセットでしか成立し得ない。
マーサーが坂を上り続けるというビジョンは、リックや、全ての人間が宿命づけられた反復のジレンマ、ウロボロス的存在の象徴だったことが考えられる。
最後の電気ヒキガエルのシーンは忘れられない。
本物だと思って、命からがら持ち帰ったそのヒキガエルは電気ヒキガエルで、偽物だった。
本物か偽物かは、実際のところ繰り返されるいのちの虚構の前には、対して影響を持たないことという結末に物語の結びが引き取られていく。矛盾の許容。一寸後はキップル(ごみと化す)化する登坂をひたすら繰り返し続ける人間の営為の虚しさと、それこそが「人間の条件」であり「人間の証明」なのだと鮮やかに結論付けられた。
「思いやり」とは「思い込み」だ。相手が自分に優しくしてくれると思う。だから自分も相手に優しくできる。じゃあ、相手が自分に優しくしてはくれない場合、自分は相手に優しくするだろうか?
あの人は今こう思っている、と思い込む。共感ができると、思い込む。コミュニティによって変わる道徳という幻想。それが人間らしさなのだと感じる。
思い込む限りにおいて、人は無限の可能性を生きることができる。
物語を明るくとらえるとこう思える。
そして「無限」とは「矛盾」の言い換えでもある。
“「わたしたちは利口すぎた」”とアンドロイドは反省する。アンドロイドは人間みたいな幻想を持てない。思い込むことができない。人間の利口さとがそこにある。白を黒にできる。
アンドロイドには白は白で、黒は黒だ。集団生活する上で、一番大切なのはこの「思い込み」だろう。
でも、もしそうだとしたら、不安になる人がたくさんいるのではないかと思う。
思い込むことのできない人々。
アンドロイドみたいな人々が。
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最近、SFを読み始め、名作としておすすめされた
本作品を手に取った。
いや〜、面白かった。
感情や目標を失っていく人間と自分達の意思を持ち、人間に寄せてきたアンドロイド。騙し騙され、違いがわからなくなる。
動物の場面が心にグッとくる。動物は裏切らないから。魂の交流ができたかに思えたリックとレイチェル。最後のレイチェルが取ったリックへの仕返しに人間らしさを感じ、より恐ろしくなった。
1968年にこんな発想を思いつくなんて、著者はどんな頭の構造をしていたのだろうか、と感心する。
ようやく現代が著者の発想に追いついてきたようだ。 -
これが1977年の作品とは。今実現しているの映話と機械動物はあるけど、空飛ぶ車は何故か遅々として実現されないなーと思ったり。
感情移入がキーワードになっており、人間とアンドロイドの見極める指針とされている。しかし、本当に共感のできない人間や、動物や他人を思いやるアンドロイドっていないのか。リックはアンドロイドを狩求める道程で、逡巡する。人間としてのアイデンティティーが揺さぶられる。
AIは人間性を持てるのか、シンギュラリティーはあるのかいう話題が日増しに実生活に差し迫ってきている昨今、手に取って思いを巡らせるのに最適な作品ではないでしょうか。逆に感情移入や親切心なんてものを搭載したシステムが構築されてしまえば、それは身体的、生物的には人でなくても、「人間」として認めざるを得ない世界が来るのかもと少し恐ろしさも感じる。 -
ものを”区別”することを拒絶しているかのようだった。
言い換えるなら、二項対立に揺さぶりをかけている。
Ex
人/アンドロイド、現実/虚構、人間/動物、「普通」の人間/「精神異常者」の人間、本物/偽物
人をアンドロイドっぽく描いたり、現実と虚構が無い混ぜになっている。
なぜなら、こうした二項対立は、前者によって後者を抑圧・疎外してしまうから…
たとえば作中では、「精神異常者」という存在を”作り出す”ことで、「普通」の人間を保証しようとしている。
「異常な存在」を作り出すことで、自分達が「正常な存在」だと確認しようとしている
本作のタイトルもまた、人間/アンドロイドの区別に揺さぶりをかけるものとして解釈できるかもしれない
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久しぶりにSF小説読んで、なかなか深い物語で面白かった。アンドロイドがより人らしく人間に近づく事は、いけないのか。荒廃した世で生命ある生き物に価値が見出される世の中。人よりも人らしいアンドロイドと向き合ってきた主人公の心理描写や登場するアンドロイド達がとても魅力的だった。「アンドロイドは、電気羊の夢を見るか?」人とアンドロイドの境目がぼやけ始めた事を示唆する様なタイトルにセンスを感じる。
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やはりSFはとっかかりにくい!面白くなってきたと思うまで半分くらいかかった。でもそれ以降はさらさら読めて尚且つ面白かった。1/3程度のところで読むのを止めていたのでもったいなかった。
改めて考えると主人公デッカードの波瀾万丈な1日という内容で、物語時間は1日程度しか経っていないというのも驚きだ。
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優しさがあった。
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SF、ロボット、AI系が好きなので読んでおきたかった一冊。原点だからこそ、使い古されてる感は仕方ないし、それでも面白かった。ロボットに感情移入しちゃう自分がおかしい。
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生身の「人間」と全く見分けがつかない究極の「アンドロイド」8体(人)が、火星の刑務所から脱獄します。核戦争で放射能汚染された地球都市を舞台に、〝バウンティ・ハンタ-(賞金稼ぎ)〟のリック・デッカ-ドらを通して、荒廃した社会での人間と機械の共生を描く【P.K.ディック】不朽のSF作品です。本物の動物を飼うことが、人間の地位を証明するステ-タスとなった社会では、高額な動物の代用品として電気仕掛けで動くまがい物が売られていました。リックは、獲得した賞金で生きた羊を得ようとします。人間風刺がテ-マの作品です。