目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334038540

感想・レビュー・書評

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  • 前回「AI vs 教科書が読めない〜」を読んでいたこともあり、「意味を見出す(認識する)」ことは人間の特権的行為だということに気づかされる。

    自分の周りに目の見えない人がいなかったので、あまり考えたことがなかったが、視覚がないことによる捉え方の違いが分かって面白かった。見えていないが故に分かることなどは当事者から言われないと気づかなかっただろう。

    健常者と障害者との優劣をつけないということは本書の土台にあるルールだが、実際に読んでみると表現に苦労しそうな内容もあった。こういったテーマで自分の考えをできるだけストレートに伝えることは素人には難しそうだ。

  • 「鑑賞とは自分で作品を作り直すこと」

    ★本の概要・感想
     美学と現代アートを専門とする著者が、見えない人がどういう風に世界をを見ているのか、解説していく本著。タイトルの問いが筋の良いと思い買ったが、予想通り良い本だった。視覚障害者を扱った本を初めて読んだ私にとって、書かれている内容は知的に興奮できるものばかりだ。これまでの視覚障害者のあり方、そもそもの障害者のとらえ方を変えてくれた。

    ★本の面白かった点、学びになった点
    *危惧するのは福祉そのものではなくて、障害のある人とそうでない人の関係が「こうした福祉的な視点」にしばられてしまうこと
    ・健常者が、障害のある人と接するときに、何かしてあげなければいけない、とくにいろいろな情報を教えてあげなければいけない、と構えてしまう
    →そういう、「福祉的な態度」にしばられてしまうのは、ふだん障害のある人と接する機会のない、すなわち福祉の現場から遠い人なのだろう
    ・情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされる。そこに生まれるのは、健常者が障碍者に救え、助けるというサポートの関係です
    ・福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感である

    *「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです」
    ・資本主義的な広告や刺激に誘発されない安らかさを感じるようになった

    *見えない人は物事を3次元的にイメージする。見える人は物事を2次元的にイメージする
    ・見える人は「見える映像」をイメージするため、物事は2次元的に想像される
    ・一方、見えない人は物事の全体像ごとイメージする。太陽の塔や富士山も、その一面方向の映像ではなく、立体的にどういう形をしているのか、という所に焦点があてられる

    *見えない人でも点字を読める人は一割以下
    ・点字は高度な言語である。高度な触覚があれば理解できる、というものではない

    *触角と快感を結びつけないように

    *見えなくなってから転ばなくなった
    ・意志をかたくなに通そうとするのではなく、自分ではないものをうまく「乗りこなす」こと。そうしたスキルが、見えない人の運動神経には組み込まれているのかも

    *印象はという、目の、目による、目のための絵画 を目の見えない人と見る
    ・印象派というのは、光を描くこととをその特徴とする
    →見えない人に伝えるのが最も難しい様式の一つ
    ・物の姿を固定的にとらえず、目にうつる瞬間的な像に注目する。だからこそ、印象派にとっては、それが野原であるのか、果たして湖であるのか、区別はあいまいなものになる

    *情報を得ることが美術鑑賞の目的ではない

    *陶器だと言われた瞬間に陶器になる
    ・見えない人の物へのイメージは柔らかい。あるコップで飲み物を飲んでいても、そのコップの像はあいまいなまま。陶器だと言われた瞬間に、コップは陶器になる

    *鑑賞をさまたげる根強い誤解に、「解釈には正解がある」というものがあります
    ・多くの人が、正解は作者が知っているとか、批評家が正解を教えてくれると思っている
    ・自分なりの見方でみればいい

    *ソーシャル・ビューが志向するのは「特別視」ではなく「対等な関係」ではなく「揺れ動く関係」

    *マゾヒスティックがユーモアにつながる
    ・ユーモアの秘密は視点の移動にある。自分という視点を超越して、置かれた状況全体を俯瞰的に見下ろしているかのようです
    ・自分の置かれた正反対の視点を獲得し、別の意味を施す

    *障害はその人ではなく社会にあるという視点に立てば
    ・2011年に公布された改正障害者基本法では、障害の定義は「障害および社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」
    ・「障がい者」という表記は、障害は個人に由来するものという思考に立っている。それは遅れた考えだ

  •  視覚障害者が晴眼者と話をしていて、「そっちの世界(目の見えるほう)も面白そう!」と言った、というエピソードを読んで、「あれ?どっかで聞いた話だな」と思ったら、著者の本は2016年も読んでいた(『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか』)
     しかも、その本の元となったのが本書のほうだった。
    パラリンピックに出るようなトップアスリートにフォーカスし、その“能力”の素晴らしさに迫ったものが前著だった(というか、出版順としては後だが)。
    本書は、より身近な視覚障害者を通じて、その世界観に迫ったもの。

     内容、主張に両著ともに差はなく、「見えている状態」と「見えていない状態」は別のフェーズとでもいおうか、それぞれ独立したものとして捉えようとしている。

    “「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。”

     と著者は言い、その分かりやすい喩えとして、「四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなもの」という。
     なるほど、分かりやすい。
    「脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。」
     いや、むしろ三本脚のほうが安定はいい。 ゆえにカメラの固定は昔も今も“三脚”だ。

     三脚の視覚障害者が、なぜ安定しているか!?
    「人は多かれ少なかれ環境に振り付けられながら行動している」からであり、
    「視覚的な刺激によって人の中に欲望がつくられていき、気がつけば「そのような欲望を抱えた人」になって」しまうからと説く。
     まぁ、それでも見えないより見えたほうがよいのは動かしがたい事実ではあろうが、要は、ものは見方というところか。発想によって、いくらでも視覚障害者と晴眼者双方の関係性は再構築が可能だということだ。

     本書では、その関係性を、これまでの固定概念から解き放ち、優位劣位の関係ではない、“「特別視」ではなく、「対等な関係」ですらなく、「揺れ動く関係」” の在り方へ読者を導いてくれる。

     そのため、見えているのは「情報」に過ぎないとし、それよりもそこに存在する「意味」に注意を払うよう呼びかける。 情報に限れば、晴眼者に有利なのは疑いのない事実(「情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。」) けれども、その見えている情報だけで、物事の本質ははかれるだろうか?ということか。そこにある「意味」を問うとき、晴眼者であろうと視覚障碍者であろうと、思索の大海原に漕ぎ出せば、あとは感性の問題。  お互いに「意味」を探りながら協力し、「互いに影響しあい、関係が揺れ動く、そういう状況を作りたかったんです」という、「ソーシャル・ビュー」というイベントを企画するNPO代表の言葉へとつなげてゆく。

     ものの見かた、考え方、捉え方で、可能性の地平線が広がっていく感覚が味わえる。

  • タイトルに惹かれて購入したが、期待はずれ。
    それ、わかるよね。という事をクドクド書いていてイライラした。もちろん、知らなかった事も書いてあったが。
    もっと多くの見えない方の話、特に先天性の方が、どのように世界を捉えているか、感じているかに「注目」して書いて欲しかった。

    「見る」 という文字に捉われた本。

  • 目の見えない人と会議で同席する機会があって、その人の意見にすごく驚いたり、いまひとつピンとこなかったりした自分がいて、そんなときに書店で見かけたので買ってみた。

    この本を読んだからって見えない人のことが全部わかるわけじゃないけど、読んでよかった。

  • 美学・現代アートを専門とする東工大の先生が,視覚障害者へのインタビューと論考を綴った本.面白かったです.

    元々生物学者志望(現在は文学者)で,さまざまな生物への変身願望があったという著者が,観察対象へ没入するような丁寧な観点で世界を見直す事例が紹介されています.

    例えば,ハチから見える花畑とヒトから見た花畑では色の波長も違うだろうし,ヒトはきれいだと言うがハチは食事だと空腹を感じるかもしれない.
    では,身障者(生まれつき目が見えない人)と健常者ではどのように世界の見え方が異なるのだろうか?という問いから丁寧な対話を通じたエピソードと共に解説していきます.

    読み進めるうちに,身障者と健常者という区分が自然と溶けて個人と個人の違いに意識が向きますし,また,過去の自分と未来の自分の違いにも思いを馳せる感覚になってきました.

  • 障害を持つことに対する価値観を全く変えてくれる本。
    視覚障害者へのサポートは「情報」の提供に留まりがちだが、その先の「意味」こそ重要である。健常者の価値観を障害者の世界観に押し付けてはダメ。
    ではどうするのがよいのか?「違いを面白がること」「意味を共に創ること」。印象的だったのは、著者が視覚情報を全盲の方に伝えたところ、「へー!そっちの世界ではそう見えてるんですねー!」と、まるで見える世界が、隣人の“オタク、どう?”みたいなカジュアルな距離感だったそう。
    それから、美術館で視覚障害者と共にグループで鑑賞を行うという「ソーシャルビュー」という取り組みも強烈だった。美術鑑賞の楽しさを“絵画などを観ること”自体ではなく“その作品の意味への探究”とした場合、見えないからこその役割があるという。
    図書館で借りたが、良書だったので購入。

  • 目の見えない人の世界が少しだけ想像できた本。
    何か足りないことに嘆くのではなく、今の状況を受け入れて前へ進むことの大切さを改めて感じた。目が見えない状況でのスポーツに関して興味がもてた。

  • 見える人主体で「見える」が欠落している、と考えるのではなく、違う捉え方をしていると考える。客観的でニュートラルな情報と情報を具体的な文脈に置いたときに生まれる意味。

  • 推理的・演繹的に 変幻自在に 柔軟に
    直したり壊したりしながら


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著者プロフィール

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『どもる体』『記憶する体』『手の倫理』など多数。

「2022年 『ぼけと利他』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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