逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 34
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  • Amazon.co.jp ・本 (305ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480021076

感想・レビュー・書評

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  • 『逃走する文明』(1983)というエッセイがある。近年のとゆうか数年前のノマド論よりも圧倒的に明るくてドライブ感がある楽しい文章。

  • [ 内容 ]
    《パラノ人間》から《スキゾ人間》へ、《住む文明》から《逃げる文明》への大転換の中で、軽やかに《知》と戯れるためのマニュアル。
    ―現代思想の最前線を疾走する若き知性がドゥルーズ=ガタリ、マルクスなどをテクストに語る《知》的逃走のための挑発的メッセージ。

    [ 目次 ]
    逃走する文明
    ゲイ・サイエンス
    差異化のパラノイア
    スキゾ・カルチャーの到来
    対話 ドゥルーズ=ガタリを読む
    マルクス主義とディコンストラクション
    ぼくたちのマルクス
    本物の日本銀行券は贋物だった
    共同討議マルクス・貨幣・言語
    ツマミ食い読書術
    知の最前線への旅
    N・G=レーゲン『経済学の神話』
    今村仁司『労働のオントロギー』
    広松渉『唯物史観と国家論』
    栗本慎一郎『ブタペスト物語』
    山本哲士『消費のメタファー』
    柄谷行人『隠喩としての建築』
    山口昌男『文化の詩学1・2』
    蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • ニューアカ、というより、浅田その人がフランス現代思想の普及に力あったことは紛れもないが、そのポップ志向とは裏腹に、哲学がますます浮き世離れしてしまったのは悲劇である。
    体系なきスキゾがまき散らした断片を、哲学の側ではなく、実用の側からコラージュできないものだろうか。オタクやサブカルは前衛にも庶民にもなりえていない。世間はそんなにナイーブなものではない。
    いつになったらポストモダンはそのことに気づくだろうか?

  • 了。

  • 雑多な本を書きたかったそうだが、本当に雑多だった。最初のほうは想像してたより軽い読み物(雑誌のエッセイ)だったが、未知の用語のオンパレードの節は疲労。私はドゥルーズ=ガタリを知らず…オント・テオ・テレノロジーも初耳、、、徐々に読み広げて見聞深める方向で。。蓮實重彦の話等は、辛うじて読んでた事もあり雰囲気に共感。読書案内も、興味ある分野ではあるので、参考になりそうな気はする。

  • 「構造と力」で繰り返し出ていた「カオス/象徴秩序」の二項対立図式に否定的な発言がいくつかあった。
    象徴秩序とその外部との「交通」という思考が賛美されているように思った。

  • 新人類の旗手とよばれた浅田彰の「構造と力」につぐ書籍。
    当時は、どれもこれも参考になったと思った。

    今読むと、一番役立つのは、今、一番役立つのは、「つまみ食い読書術」。
    個人的には、浅田彰に追いついたような気がする。

    時間があれば、参考文献一覧を創ってみようと思う。

  • 学生時代大いに影響を受けた一冊。難解と思われがちなポスト・モダンがスーっと入ってくる感じ。

  • 後期資本主義社会を生きる人間の形態として、パラノイアとスキゾイドという2つの類型が紹介される。パラノイア、妄執症型人間は、1つのことに固執する。会社人間、生真面目で禁欲的名人、ひたすらコレクションを増やすオタクはスキゾイドに該当する。浅田彰が称揚するのは、スキゾイド、分裂症型人間の方だ。

    スキゾイドは、既存のルール、社会の型を破って自由に飛翔する。広告人間、80年代バブルに浮かれた軽い人は、スキゾイド。キャッチコピー、CMの短い時間に生きる。パラノイアが蔵書をためて、コレクション化していくのに対して、スキゾイドは溜め込まない。感性にフィットした知識を瞬時に取り出し、あきたら捨てる。

    浅田彰はスキゾイドの方に後期資本主義社会の可能性を見ていた。オタクは、子宮のような自室にこもって自分のコレクションに耽溺するマザーシップ・コンプレックスの人間として批判された。浅田彰はオタク文化の興隆にも同調せず、東浩紀とも決裂している。さて、2010年現在から振り返ると、浅田彰の方が敗北しており、早稲田のゼミで同人ゲーム『うみねこのなく頃に』を扱う東浩紀の方が勝利している(同時代性と対決しているという点において)。何故浅田彰はオタクを理解できなかったのか。

    浅田彰の批判するオタクは、自分の部屋にとじこもって、ただひたすら自分のコレクションに耽溺するノン・コミュニケーションの人間だった。つまり、そこにはインターネットの視点が欠けていた。 80年代なのだからしょうがない。90年代後半、オタクたちは、ネットの網の目という社会空間を手にする。オタクたちは、インターネットの仮想空間内でコミュニケーションをする。ネットでのコミュニケーションの爆発的増大がなかったならば、オタク文化が現在のように、消費のメジャーになることはなかっただろう。

    ネットでのコミュニケーションでは、外見、性別、年齢は問われない。どんな服を着ているか、どんな肌の色をしているか、学歴は?、話し方は? 社交性は? といった90年代以前の社会で必要された社交力は、ネットの世界で不要となった。

    もちろんネットの世界ではネットの世界独自の社交力が必要となるし、学歴差別、人種差別的発言も掲示板では散見されるが、ネットが生まれる以前の社会ほどには、服や話し方で差別されることがなくなったのである。つまり、ネットの社会は、浅田彰が活躍していた頃の社会の価値観では、服装や話し方の作法がなっていない、趣味がおかしいとして差別されてきたオタクたちが、コミュニケーションの中心に位置し、消費文化を盛り上げているのである。

    オタクこそスキゾイドであり、後期資本主義というかグローバル時代の資本主義社会を自由に飛翔しているといえないだろうか。

  • 逃げるなら本気で逃げろと。徹底しろと。

    都合のいいときだけ、逃げちゃえっていう人がいて困るんだよねー、と浅田先生がご立腹しております。

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著者プロフィール

浅田彰(あさだ・あきら)批評家、経済学者、京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。1957年兵庫県生まれ。著書に『構造と力』、『逃走論』、『ヘルメスの音楽』、『映画の世紀末』他、共著に『天使が通る』(島田雅彦氏)、『ゴダールの肖像』(松浦寿輝氏)、『憂国呆談』(田中康夫氏)他、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』他がある。

「2019年 『柄谷行人浅田彰全対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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