- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480082091
感想・レビュー・書評
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スペインの哲学者オルテガによる1930年に発表された著作。
二つの世界大戦の間で、ファシズムが台頭しつつあったヨーロッパという環境下で書かれ、欧州各国でベストセラーになったと言う。
本書で著者は、
◆社会は、特別の資質を備えた個人である「少数者」と、特別な資質を持っていない「大衆」に二分され、「大衆」とは「自分に特別な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであるというふうに・・・他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだしているようなすべての人」である。「大衆」を生み出したのは「自由民主主義」と「科学的実験」と「工業化」であるが、1930年代のヨーロッパでは「大衆」が社会的権力の座に登った。
◆社会はよりよく生きるための道具として国家を作ったが、国家主義の高まりにより、社会は「大衆」によって構成される国家のために生きなければならない矛盾に陥った。ファシズムとは、このような大衆人の運動から生まれたものである。
◆また、世界中で台頭する「民族主義」は、歴史を形成してきた「創造的民族」(=ヨーロッパに反抗しようとする「大衆民族」の運動である。
◆nation stateとは、独自の原動力、即ち成員に共通した自己の計画・共通性を持つ必要があり、ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による、そのような一大nation stateを建設することのみがヨーロッパを強化し得る。
と述べている。
「大衆」に関する分析は普遍性を持っており、現代日本における政治・社会の根本的な問題を的確に表している。佐伯啓思が月刊誌『新潮45』で繰り返し取り上げる民主主義の課題がここにある(新書化され、『反・幸福論』、『日本の宿命』、『正義の偽装』で刊行されている)。
一方、「創造的民族」vs「大衆民族」という主張は唯物史観的な発想であり、違和感を覚える。
民主主義について考えるための、一つの視点を与えてくれる。
(2011年2月了)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
名著
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原著が書かれたのが1930年。訳書の初出が1953年、神吉訳が67年。そして神吉訳がちくま学芸文庫で再版されたのが95年、いま手元にあるのはその二十二版で2014年発行。
2015年になってから読んだ本書は、あと十数年で原著の出版から一世紀が経とうとしているが、未だに色褪せないばかりか、今日の社会の様相をよく言い当てているという感じがする。
今日的に解釈しなおすべき部分があるとすれば、それは大衆の可視的な現象が都市の中だけでなく、インターネット上に現れているということである。大衆による無知の押し付け、私刑(リンチ)の執行は、見えない暴力として目に見える形で人を襲っている。技術によってインターナショナルになった世界はしかし、あくまで機械としての超国家(スーパーステート)を構成しているだけで、そこには何らの試みも、何の目標も計画も意志もない。だからテロリズム、ゲリラが容易に跋扈するのである。これらのものには目標があり、計画があり意志があるからだ。
オルテガのこの本は、論旨がやや雑駁であちこちに飛び、確固たる論理構成を持つというわけではないが、警句、箴言としては傾聴に値する。わかりやすいし。その意味で楽しく読ませてもらった。 -
1930年の本だそうな。
当時のヨーロッパにおける国家、そして大衆の在り方について書かれた本だが、現代にも当てはまる事が多くて驚く。予言、と言ってもいい。
現代「大衆」とは何なのか。国家の中でどうあるべきなのか。
しかし難しかった‥ -
2015/3/1読了
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有名な“大衆批判”の書。
大衆を批判できる者は、当然「自分は大衆の一人ではない」と自覚していなければならないはずだ。 どんな上から目線やねん……と“大衆根性”丸出しで読み始めたら、早々にねじまがった根性を叩き直されるような一文に遭遇。
(以下、引用)
『一般に「選ばれた少数者」について語る場合、悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。つまり人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求をもたない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である』(pp17-18)
ギャフン!
「エリート・貴族擁護」と批判されることもあったようだが、著者はむしろ「大衆を脱却して精神的貴族になろう」と読者に鼓舞しているのであり、本書の批判の矛先は(いわゆる社会階層上の)エリート・貴族にも向けられている。
ニーチェの超人思想に近いものを感じる。あくまで「個人の在り方」であった超人思想を社会論的に発展させた感じかな。異なるところは「他者・社会とのかかわり合い」を大前提としているところか。 -
オルテガ曰く大衆とは『凡俗な人間が、自分が凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとする』人間である。
そして大衆は、国家というものが、人間の創造物であるという自覚を持っておらず、また、彼らは国家の中に一つの匿名の権力を見るのであり、国家を自分のものと信じ込んでしまう。
その結果、重大な困難や問題が生じたとき大衆人は、国家がそれに対し責任をとり、巨大な権力を直接行使し、解決をはかるよう要求をする。
第一次世界大戦後のヨーロッパに向けて書かれた本であるが、今の日本にも有益な書だと思う。 -
西洋の没落を嘆く自称知識人にとって、それってお前たちの考えてた理想そのものじゃないか、という事実を突きつける本書が与えた影響は、計り知れないものがあったに違いない。もはや、マイノリティーが眉をひそめることにはなんら効果がないのだ。
そこには、自称知識人、教養人が、自覚しているか否かを問わず、すでに大衆化してしまっているという現実がある。大衆の堕落を嘲笑する態度自体が、そもそも大衆的なのである。その意味では、この本の著者であるオルテガでさえ、すでに大衆の一人である可能性も否定できない。自分は大衆とは違うという意識に安住するのであれば、すぐにでも大衆に転落してしまうのである。
オルテガの大衆に対する分析の中で面白いのが、大衆は自身が凡俗であることに充足していながら、同時に環境によって与えられる潜在的な可能性の多様性を前にして、立ちすくんでしまうというところである。結局のところ、大衆は数と力を持ちながら、何もしない。何もしないがゆえに、既存の制度を破壊してしまう。
大衆の反逆にはなんら手立てが存在しない。ただ、大衆の生活の基盤が破壊しつくされ、大衆でいることができなくなるまで、見守ることしかできない。しかし、今このときはまさしくユートピアである。マイノリティーにとっては、という留保を付けたくもなるが、しかし我々はみな結局は大衆なのだ。 -
いったいこれはどこの時代のどの国の人たちのことを描いているのだろう?と思えるくらいに普遍的な内容で、粗暴で愚かな人々の行動の数々は現代の私たちの写し鏡のようでドキっとしてしまいます。 醜い人間の本性から逃げることなくまっとうに正面から格闘する大切さを学ばせてくれる名著です。