- Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
- / ISBN・EAN: 9784488006518
感想・レビュー・書評
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常に会社に文句を言ったり、こうしたりしたらいいのにと発言している人が「じゃあお前らの好きにやっていいぞ。何やりたい」と言われて自由を与えられると途端にシーンとなる場面はこれまでよく見てきた。そこで今まで、いかに束縛された身は楽だったのか、なぜなら自分自身の力で選択する労力もなくただしたがっていればよかったのだから、と思い知らされる。自由というものが急に苦痛になる。自分の言葉に責任を持たなければならなくなり、逆にその言葉や行動に縛られ自由がなくなったかのように思われ、ただ無意識に会社に従属して何も考えず上司や会社の意向を汲んでいたほうがどんなに気楽だったか、と思わされる。
そんな日常を思い出させた。 -
1941年に出版された古典的名著。
「人間は自由を希求しながらも、自由の孤独感に耐えられず、自らの自由を投げ出すことがある」ということを社会心理学の視点から分析したものである。
自由には近代人にとって常に2つの意味合いがあり、能動的に生きるためのものであると同時に、孤独や不安を引き起こすものである。それゆえに、自由を活かし、自己実現をする人々がいる一方で、自由を捨てて会社や他者に従属して人形のように生きる人々も出てくる。
これは、現代に生きる私達の状況を見事に描き出しているだろう。自分のしたいことに熱中して社会の注目を浴びている人がいる一方で、ブラック企業で酷使されている人もいるのだから。
では、解決策は何だろうか。フロムは次のようなことを述べている。
・社会に流されないで自発的な行動をする。金銭など目標や結果に縛られず、自分がしたいことに打ち込み、プロセスを楽しむ。自分と自分のすることを愛し、他者を愛することで、支配や従属ではない連帯が生まれる。
・個々人が自己実現を目指すと同時に、他者を尊重し、社会の問題を自分の問題のように考え、積極的な社会参加をすることができれば、孤独や無力感という絶望を克服し、デモクラシーを前進させることができる。
2020年になっても実現できていないのだから、プラトンの哲人政治を聞くような空想めいた感じがするのは否めないかもしれない。
しかし、自分の在り方や、社会との関わり方を再考するヒントにはなるだろう。
この本は今読んでも色褪せない古典的な名著である。 -
ドイツの大衆は自発的にファシズムを欲した。ファシズムによって欺かれたのではない。ヴィルヘルム・ライヒReich『ファシズムの大衆心理』1933
産業社会で合理化が進むと、高度な専門家が必要になる。限られた少数のエリート(政治家・官僚・技術者)に知識・能力が集中していく。一方、産業社会では大衆が政治に参与するようになっていく。大衆は知識・能力を持たず、エリートと大衆の距離は大きくなる。大衆(平均的な普通人)はエリートに指導されることを望むようになり、指導されることに慣れていく。カール・マンハイム『変革期における人間と社会』1935
ドイツは第一次大戦の敗北で、皇帝は逃げ出し、宗教は力を失った。旧来の権威が力を失い、自由なワイマール体制になった。しかし拠って立つものがない。下層中産階級の人々は何が正しく、何が悪いのか分からない。無力感・不安・孤立感に苛まれる。自由はかえって心理的な重荷となった。何かにすがりたい。そこにヒトラーが現れた。ナチズムこそが権威であると示した。権威なき社会がヒトラーを生んだ(cf.アーレント)。▼ドイツで高度に資本主義が発展した。すると労働者と資本家の対立が激化して、社会主義革命が起きるはずだった。しかし労働者は革命に立ち上がらず、独裁者を支持した。これは労働者の内面にある権威に依存する傾向のせいだ。▼権威に依存し、独裁者や体制に服従する一方、弱者には強気で振る舞う。意識の上では自由や平等を重んじながら、実際には権威にたいして服従し、弱者には抑圧的な態度をとる。▼支配されたい願望のマゾヒストは自分がちっぽけだという感覚をもち、孤独感を感じており、権威に従うことで自分は権威の一部だと思い込み、孤独を癒している。支配したい願望のサディストは孤独に感じており、支配して苦しめる相手を得ることで孤独を癒している。こうした性格傾向は家族での社会化によって再生産される。エーリヒ・フロムFromm『自由からの逃走』1941
近代の理性は自然や人間を支配するための「道具」として発展してきた。利益を最大化するため。人を効率的に殺すため。物事を合理的に考えてばかりいると、複雑で多様な自然を簡略化して一面的に見てしまう。人間がもつ感情や欲望を軽視してしまう。それがナチスのような暴力を生む。理性の中に暴力の契機がある。野蛮を克服するための啓蒙が野蛮を生む契機をその内に含んでいる。▼人間の衝動・欲望(内なる自然)と理性は互いに対立するが、うまく統合することでより高次のものへ。マックス・ホルクハイマー&テオドール・アドルノHorkheimer & Adorno『啓蒙の弁証法』1947
個人の内面にある権威主義的な傾向を測定する尺度。反民主主義的な宣伝に流されやすいかどうかの尺度。ファシズム尺度。F尺度。伝統を重んじ、権威に対しては無条件に服従し、伝統的な価値に反するものを攻撃・排斥する。好戦的、迷信や固定観念、人種的な偏見を持ちやすく、性的抑圧が強いかどうかの尺度。▼伝統に対する無批判の同調・権威への非合理的な従順・弱者への攻撃・理想主義に対するシニシズム。▼幼児期に親から厳格なしつけを受けると権威主義的になりやすい。親が怒りっぽく、寛容でなく、家庭の中に支配と従属の関係がある場合。▼民主的パーソナリティ。自発的。新しい事態にすぐに対応できる。責任感が強い。自分の使命が分かっている。テオドール・アドルノAdorno『権威主義的パーソナリティ』1950
※ファシズム尺度(F尺度)。エスノセントリズム尺度(E尺度)
同じ社会的・文化的な条件におかれた個人は共通の性格特性をもつようになる。階級・職業・地域。アレックス・インケルスInkeles ※国民性、社会調査
近代社会では制度化された宗教(教団)は力を弱めた。しかし、人々は何らかの信念体系がないと生きていけない。人々はそれぞれ私的に生の意味を模索し始めた。神秘体験。占い。超能力。超常現象。トーマス・ルックマンLuckmann『見えない宗教』1967
近代化以前は宗教が社会的秩序を意味づけていたが、近代以降は宗教が力を失い、私的なものに変わった。ピーター・バーガー『聖なる天蓋』1967 -
今まで生きてきた資本主義社会に対して、言語化できずとも何となく抱えてきた違和感とか気持ち悪さとか、そういうものの理由が明確に分かる本だった。いつの時代も人間の本質は変わらないのだと思った。
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アバタロー氏+県立図書館(あとがき)
1941年出版
自由が与えられた大衆の行く末に関する概念
政治や心理学の多岐にわたった内容
《著者》
1900年生まれユダヤ系
ドイツの社会心理学者
1934年アメリカに亡命
1941年アメリカが参戦するタイミングで著書を発表(ファシズムに対する危機のためこの時期に発表か)
《感想》
とても興味深かった
個人でいたいが属していないと不安
自分がいざ個人になったとたん、まさにこれに当てはまり身に沁みた
自由は欲しい
自由すぎると人間はダメになる
制限があると自由を求める
つまり人間は矛盾している
身近すぎて深く考えず、自由の扱いは何とも難しい
本書を読んで、続けてオルテガやル・ボン等の人間心理を探ってみたい
著書を借りてきたが難しくて何ヵ月もかかりそうで断念
巻末にある社会学科出身の元東大新聞研究所教授、日高六郎氏の訳者あとがきは読みやすかった
米と英で版を重ねており、問題意識の深さに由来するものだと記載されていた
戦争や悪いことに思想を使ったのかなと思ってしまった
《内容》
〇逃げたくなる3つの心理
逃げ道の詳細
・権威主義
自分が欠けている力を獲得するために、自分以外何かと自分を融合させようと心理的傾向のことを意味する
権威にすがって安心したがるマゾヒズム的
(カリスマの言葉を信じる)
自分自身が権威を奮って安心したがるサディズム的
・破壊性
対象を壊して苦しみから逃れる安心感
友人がいなくなってしまえ
私なんかいなくてもいい
・機械的画一性
自分が自分であることをやめる
自分の思考感情意見を放棄して、みんなの意見に依存することで溶け込ませる
まとめると何かに依存、何かを壊す、自分を溶け込ますによって自由からの逃走をする
近代以降の多くの人々はアイデンティティーを失い、従属する人形のような存在になってしまった
20世紀初頭にその受け皿となったのがファシズムだ
ヒトラーは無力な個人よりも強力な組織に身を投じ、一員として生きろと民衆を扇動した
○現代の個人
自由の重みに耐えられない個人はどうすればいいのか
・自発的な活動によって自分と世界を結び付ける
・愛するという行為(著書あり)
愛は与えるもの、外側の世界全部が対象
自由の代償として孤独と不安がまん延してしまった
かつて存在していた世界との絆を再構築し、真の自由を手に入れられるか… -
自由を手に入れた後、人はなぜ再び束縛された専制的な社会に戻ってしまいがちなのかを考える社会心理学の名著。中世における宗教改革からナチスドイツまで事例に挙げている。近代人の求めた自由とは何だったのか?人間は社会的な動物だから周囲の人と同調しないと孤独になって精神的に耐えられない。自由になると人間はその孤独が嫌で何か強いものに依存を求めるのだ。それをフロムは権威主義的性格(サドマゾ的性格)と呼ぶ。他人への依存が必要なのだ。フロムは文中で、言葉の意味が変化して大事な概念がネガティヴになってしまったせいで人の思考に影響を与えている例を挙げている。例えば「感情的」という言葉は、人間の感情という大事な要素を現代人が否定的に使うせいで、悪いもののような気がしてしまうといったことだ。そして自分達の思考や意見が本当の自分の判断ではなく他人からの情報に基づくものばかりであることを指摘する。そして最後に、どうすれば理想とする幸福な自由を手に入れられるのかを語るが、そのハードルは高い。「〜への自由」という目的のはっきりした積極的な自由ではなく「〜からの自由」という消極的で行き先のはっきりしないむしろ逃避と言い換えられる自由を求める限り、また社会の中で他人と繋がって生きる限り、束縛を求めて自由から逃走してしまうことは本能的に避けられないのだ。となると、我々はやりたいことをやって幸せを実感し、最後は神か天を信じてそこに委ねるしかなかろう
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タイトルから連想されるとおり本書は、自由が近代人にとって何を意味し、そして近代人がどのようにして自由から逃れるかをテーマにしている。
中世世界にあった疑う余地のない帰属感と安定性を奪われた人々の多くは自由によって、力と自信よりも孤独と個人の無意味さを痛感させられた。絶対的な安定を奪われた人間が新たな絆を求める努力の多くは、「サド・マゾヒズム的性格」として表れる。サディズムとマゾヒズムの根底にみられる目的は共棲であり、「権威主義的性格」と言い換えられる。この性格はただ支配と服従だけを経験し、連帯は経験せず、平等と自由に基礎づけられる「愛」と対立する。
1941年の著書である本書は、第二次世界大戦のさなかにあったドイツ・ナチスによるファシズムを具体的な問題としている。「ナチズムの心理」と題された第六章ではヒトラーの分析に多くを割き、彼のパーソナリティーが、前述のように自由がもたらす孤独や無力さに怯える人々のサド・マゾヒズム的な衝動を受け入れる土壌になったと指摘する。
安定を求めて「自動人形」となった人々は自分自身の思考や決断を失う。このように自らが本当に欲するものを知らない人々がファシズムの土壌を育む。そしてこのような人びとは、人間を巨大な経済的機械の歯車として組み込む資本主義下においてありふれている。著者は、自由が導く新たな権威主義的な依存を回避するために必要なのは個々の自発性だとし、その主な構成要素として「愛」と「(自発的で自らの意志による)仕事」を挙げる。同時に、自分が本当になにを欲しているかを知ることは困難な課題であることを説いている。
最近読んだ『カルトはすぐ隣に』において、犯罪に加担した元オウム真理教信者たちの多くが、「自分の感受性を信じ、自分で考えるべきだった」と悔いた事実が、本書において著者がファシズムに侵されないのは自発的な思考であるとする結論と同様の着地点であることに説得力を感じた。また、「ナチズムは純粋な政治的ないし経済的な原理はなにももっていなかった」「ナチズムの原理といえばまさにそのはなはだしい日和見主義である」という指摘についても、有権者が為政者のありようを監視する際のポイントとして有用な知見だと思える。
自由によってもたらされる孤独と無力感によって陥る「権威主義的性格」による状況は、上記のように今日的な多くの問題をも想起させられ、1951年に刊行された邦訳版の本書が版を重ね続け、購入時点で127版を数えている事実にも納得する(そのこともあって、やや古めかしい語彙も使用されている)。終章には勇気づけられる。