ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622076537

感想・レビュー・書評

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  • 半分ほど読んだところ。めちゃめちゃ面白い。
    アガーピ(村人のひとり)がカオアーイーボーギー(精霊)のように話しているのを対面で確認したのに、翌日アガーピに聞くと全然心当たりがないように振る舞うのとか、コーホイビイーイヒーアイ(村人のひとり)がある日ティアーアバハイになって(改名して)いて「コーホイはここにはいない」と言ったりするのとか、何かこう自己同一性というものが全く重視されていなくて面白い。
    もともと人間はこんな感じで暮らしていて、そのために解離という機能を持っているんじゃなかろうか、と思った。

    読了。
    先だって読んだ本ではカティ族には東西南北の考え方がないらしいということに驚いたけれど、ピダハンには左右という考え方もないらしかった。自分を基準に相対的に右、左というのではなく、周囲の地形を基準に例えば川の「上流の方、下流の方」という考え方。圧倒される。
    著者がキリスト教の伝道師だったため、そちらの点でも面白かった。マジで信仰している人はこう思っているのかー、という興味深さ。ピダハンの文化で暮らす中でその価値観が揺れ、変化する様もつぶさに描かれていて最高だった。良い本。

  • アマゾン奥地に少数民族である「ピダハン」の村に住み、その言葉を研究した宣教師が書いた本。ピダハンの言葉には左右も、数も、色もない。過去も未来もなく、自分が体験したことしか話さない。昼起きて夜寝るという概念もないようだ。彼らは、他の民族より自分達のほうが優れていると思っているから外部の文化を取り入れない。モノは持ってないし多くを語る言葉もないけれども、決して怒らずいつも笑っているそうだ。ピダハンをダシに現代人を批判するつもりは全くないですが、ひとつの極北を知ることで自分のポジションを絶対認識するようなことはありますよね。そんな気がしました。ちなみに、そんなところに行ってキリスト教の布教も何もなかろう、と思って読んでたら、結局著者自身、キリスト教を捨ててしまったというオチでした。面白い本でした!!

  • 最早、未開の地ではなくなったアマゾンの少数民族ピザハン
    著者は、キリスト教の伝道者でありアメリカの福音協会の支援を受けて、村を訪れることになった。言語学者でもある。 初めに疑問に思ったのは、何故そんな未開の地に、キリスト教の信仰に伴う倫理や文化を受け入れるようにするために赴くのか?
     現代の言語学者や言語を扱う哲学者たちは、人間のコミュニケーションを理解しようとする道筋で、言語と文化を切り離すことを選んだ。しかしその道を選んだことで「自然現象」としての言語に正面から向き合うことが出来なくなった。1950年代以降、多くの言語学者と哲学者は言語をまるで数学理論のごとく扱ってきた。
    言語に意味があり、人間によって話されている事実など、言語を理解するという一大事業に何ら関係が無いかのような扱いだった。
     言語は、人類という種がたどりついた最も素晴らしい到達点だと言えるだろう。ルソーの言う社会契約は、少なくともルソーが考えていたような意味での人間社会形成の基盤となる最初の契約ではなかったわけだ。言語こそが、初めての契約なのだから。
    この書を読み終えて、なんて精神的な合理主義なのかと思わざるを得なかった。世界中の宗教家と精神科医・科学者は必死で反論を試みるでしょう。嘘でも反論しないと、その世界で職業として成り立たなくなってしまいます。それとも初めから戯書だと宣言して読みませんか!

  • いゃあ 面白かった
    「読書」の楽しみを満喫させてもらいました

    地球上には
    我々が
    行ったことがない
    逢ったこともない
    見たこともない
    聞いたこともない
    触れたこともない
    ものが
    それはそれは どっさり
    あることでしょう

    私たちの文化というモノサシが
    単なる 一つにすぎない
    ということを
    改めて 思い知らされました

    それでも
    「共感」してしまう部分があるところに
    自分の中の 人類のDNAを感じてしまいます

    それにしても
    ウーギアーイ先生はたいしたものだ

  • 言語学、文化人類学いずれの領域でも驚くような報告。アマゾンの支流域マイシ川に暮らす人口400人あまりの先住民族ピダハンの人々は、狩猟採集のみを生活の糧として暮らしている。彼らに比べれば、ヤノマミでさえも文明との接点は多いと思える。ピダハンの言語には、挨拶言葉も、数の概念も、右左の概念も、色を表す言葉もない。音素は、わずかに11。高低の声調はある。例えば、「おやすみ」の挨拶の代りには「眠るなよ。ヘビがいるから」と告げる。ワニ、ピラニア、電気ウナギ、アナコンダ、ジャガー、マラリア―これが彼らの住む環境だ。

  • 消滅が危惧される言語をもつアマゾンの少数民族。「乱交」システムや、文明を拒否し自分たちのスタイルに満足していること、原罪も死の恐怖も無く(そのため伝道の試みは失敗)、彼らは幸せそうにも見える。が、アマゾンの自然は厳しい。死は日常のことだ。
    「直接体験の原則」は強力で、テープレコーダーをトランシーバーと思い込むし、イエスなどという過去の人の言葉は信じない。
    世界に類似するものが無いというその言語は特殊で、構造は単純。and/orにあたるものも、数詞もない。音素は少なく、しばしば交代する。そのかわり、声調や5つのチャンネル(口笛、ハミング、音楽、叫び、普通の語り)をもつ。自分の文化に特化するというエソテリック性が高い。そして、チョムスキー派によれば普遍的に存在するはずの再帰構造がまったく見られない(これはかなりの論争になった)。
    筆者は、生活シーンや文化から切り離されてきた言語学研究に異を唱え、フィールド調査に基づく人類学のような方法論で行うべきだと主張する。
    これだけ文法が簡単なら、幼児語がないのもある意味当然と思える。

  • アマゾン奥地の少数民族ピダハンの元にキリスト教を布教しに行って、うっかり信仰を棄てるに至った作者の文化言語的ルポ。

    面白かった!
    第一章で詳細に描かれたピダハンの生活や考え方が第二章の言語論に無理なく続き、そしてそれが非常に生きている。
    文化と言語の繋がりって言われるまで気がつかないけれど、当たり前に存在するんだなぁと。
    日本には色を表す言葉が多いとか、モンゴル(だったかな?)には羊を表す言葉が多いとか、そういうことだよね。
    そして語学学習者としては、作者がピダハン語を習得するのに苦労する様にも共感できた。
    もっと小難しいかと思ったけれど、スイスイ読たよ。

  • ピダハン言語の直接体験の原則とは「直に体験したことでない限り、それに関する話はほとんど無意味になる」といことだ。これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃していない遠い過去の出来事・・・実証を要求されたら創世神話など成り立たない。
    ピダハンに罪の概念はないし、人類やまして自分たちを「矯正」しなければならないという必要性も持ち合わせていない。おおよそ物事はあるがままに受け入れられる。死への恐怖もない。彼らが信じるのは自分自身だ。(p375)
    世界でも類縁語が見当たらないというピダハンの言語。それは言語とそれを持つ社会との密接な関係を問いなおし、もののとらえ方や考え方やおよそ文化と呼ばれるものと言語や精神や思考との関係、人間の認知というものの奥深さ、広がりを別な視点から眺めることを西欧社会を起点とした文化にようきゅうするものでした。
    けれど、一介の日本人の視点からはピダハンの社会はとても我々の文化に近いものを含んでいるようにも思われます。
    ひるがえると、それはいかに日本が西欧社会から遠い文化を根底に持っているかの証拠なのでは・・・
    読み進むうちに、西欧キリスト教社会という、日本人にはわかりにくい文化の一面がピダハンの社会から浮かび上がってくる本でもあります。

  • ピダハンというアマゾン奥地の部族にキリスト教を広めに行った言語学者の話。


    「わざわざそんなところになにしにいってんだw」というのが要約を読んだときの感想だったが、著者が言語学者であることと、布教が失敗に終わったこと、何よりピダハンが幸せそうだという描写が本書を手に取った動機だ。俺は今自分が幸せじゃないと知ってるからw



    ピダハンというのは動物に極めて近い生態であるようだ。

    ピダハンはほとんど眠らないらしいが、動物であればそれは当然のことで、自然界で動物が眠るというのは死に直結するリスクだ。

    ピダハンは直接体験しか語らないらしいが、動物であればそれは当然のことで、自分が獲得していない体験はそんなものが存在するとも考えないだろう。

    こういう生態をみると単純にそういう感想で、そもそも言語を話す必要があるのかすら疑問だw

    しかし、ピダハンは人間であって、動物ではない。

    ピダハンに知性がないわけではなく、周辺の部族やブラジル人、アメリカ人とも交流があり、意思の疎通が取れる。確実に人間だ。



    著者は聖書の翻訳のために現地に行って、言語の理解からスタートする。言語学者であるため言語構造の理解のため、ピダハンがなぜそんな風に言葉を使うのかを理解しようとする。また、キリスト教の布教が目的なので、ピダハンがなぜそう考えるのかをピダハンの中で生活しながら理解しようとする。その過程で著者は言語学的に貴重な発見を積み重ねていく。ピダハンの言語には再帰が含まれないというのが最も特徴的なことのようだった。

    本書の大半はピダハンの描写で埋め尽くされており、著者がいかにピダハンをよく観察し、体験しているかがよく分かる。

    キリスト教を信じ、それがないと生きていけなかった人が、キリスト教がなくても生きていける人に出会う。その人たちは、キリスト教を信じている人より幸せで楽しそうにみえる。結果、著者は結果キリスト教を捨てる。


    迷ったときやどうしようもないときに、自分では自分の心を処理できず、何か別のものに処理を任せる。いわば思考放棄のひとつの形が宗教と言える。しかし、ピダハンにはそれがない。事実と自分のみたもののみを信じるという簡単なことが、いわゆる文明社会ではできないのだが、ピダハンの社会ではそれが可能で、それが正しい姿であることをピダハンは知っている。

    ピダハンは非常に賢いんだなというのが正直な感想だった。



    ピダハンの考え方を知って、岡崎二郎のマンガ『宇宙家族ノベヤマ』に出てくる文明の発達をやめた宇宙人の発言を思い出した。賢いピダハンをついつい頭の悪い現代人と比べてしまう。



    人は自分の考えと欲望に素直に生きて、不要なことは考えないし、考える価値もない。それが最も正しい生き方なんだなと素直に納得してしまったw

  • 言語の特殊性が興味深かった。アマゾンの生活にも芳醇に触れられている。

    ・母音が3で子音が8で音素が最も少ない言語のひとつ。アクセント、声の高低が大きな意味を持つ。代わりに子音を変えても同じ意味のままの言葉も多い。アパパイー、カパパイー、パパパイー、アアアイー、カカカイーなどはすべて”頭”を意味する音として伝わる。なので、口笛やハミングで会話ができ、ジャングルなどで伝わりやすい。
    ・左や右は無く、川の上流と下流を表す語で方向を指示する。数字も相対量を示す言葉しかない。色も赤、青などは無く、血のような、未熟な、のように形容詞に包含されている。

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