ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622076537

感想・レビュー・書評

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  • 著者を伝道師から無神論者へと変えることになったピダハンの人々は実に興味深い。
    "西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えないだろうか。"
    言語学の説明の部分がちょっと難しすぎたかな。

  • 文化と言語によって自分(人間)の思考回路が作られているというのは感じていても、この本の中で何度も自分の言語に関する常識をひっくり返された。
    「直接体験の原理」。ピダハンが未開の地の原住民族ではあっても、彼らを魅力的にするのは全てこの原理なんだって最後にストンと来るのはとても面白い。
    言語学としても面白いし、前半のピダハンの文化も面白い。ずっと著者の話に爆笑させられながら読める。
    まだ自分の言葉に落とし込めるほどこの本を理解しきれてないのだと思うけれど、信仰や文化などと言語の関係性など、自分の思考原理となる大部分を理解するヒントがこの本にあるって思ってるし何回も読みたい。

  • 【はじめに】
    ピダハンはアマゾンに暮らす原住民族である。本書は、言語学者で当時キリスト教伝道師であった著者が、足掛け30年以上ピダハンとともに暮らした経験をもとに、彼らの言葉と思考・行動について愛と敬意をもって綴ったものだ。

    本書では、言語学的に貴重なピダハンの言語構造の話と、アマゾンで暮らすピダハン族の「哲学」、直接体験の原理、の話の大きく二つがテーマとされている。その二つは分かちがたく結びついているのだが、自分にとって、そしておそらく多くの人にとって、心に訴えかけるのは後者のピダハン族の「哲学」の方ではないだろうか。

    いずれにせよ、われわれからして完全に異文化であるピダハンとの長期にわたる交流から得られた知見による記述は、言語学や人類学という範疇を越えて非常に貴重な記録であり、広く読まれるべき貴重な考察である。

    【概要】
    ■ ピダハン語
    「文化と言語はセットであり、だからこそ言語は守られる価値がある」

    著者がピダハンの村に滞在した目的は、ピダハン語の研究とキリスト教の布教活動のためであった。そのうち、ピダハン語の習得は言語学者としての著者を大いに悩ませた。なぜならピダハン語が「度外れて独特な言語」であったからだ。

    またさらに、著者はピダハン語を話す現地の部族民との間で、英語やポルトガル語を介した学習ができない、いわゆる「単一言語」環境での調査が必須であった。さらに、ピダハン語が声調言語であることから発音やヒアリングが難しいことが習得の困難さに輪をかけた。母音が3つ、子音が8つと音素が少ないので、単語が長くなりがちとなる。これだけでも相当に困難であるのだが、その上ピダハン語が現存する他のどの言語とも似ていない独特な言語であるため、難易度がさらに増したのである。具体的な例としては、比較級に相当する表現がなかったり、色を表す単語がないなど、当然あるだろうと考えていた表現がない。また、「すべての」や「それぞれの」や「あらゆる」などの数量詞が存在しないし、物を数えたり、計算をせず、数の概念もどうやらないらしく数を表す言葉もない。ピダハンの言語利用には、「こんにちは」や「さようなら」といった「交感的言語使用」が見られない。「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉もない。言明は、情報を求めるもの(質問)、新しい情報と明言するもの(宣言)、命令のどれかしかない。さらに関係代名詞などのリカージョンを表現する文法が存在していない。

    このことから、著者はチョムスキーの生成文法・普遍文法や、スティーブン・ピンカーの『言語を生み出す本能』の言語本能の存在を批判するようになる。著者の結論は、言語はチョムスキーの言うほどには互いに似ていない、ということだ。言い方を変えると、自分たちが知っている言語はたまたま似ているのであって、ピダハン語のようにまったく似ていない言語の存在もまた許されるということだ。また、著者は、言語上の文法や表現上の欠如は、文化的制約から来るものだとしており、チョムスキーの生成文法・普遍文法の概念を批判している。大御所のチョムスキーをここまで批判するのは、著者がよほど自信を持っているからに違いない。それは、長年のピダハン語の実地の研究から得た自信と自負というものだろう。

    ■ ピダハンの文化 ― 直接体験の原理
    「人類すべてがそうであるように、ピダハンの語る意味も彼らの価値観、彼らの信念に厳しく制約されているのである」
    ピダハン語を理解するためには、彼らの文化・価値観を共有することが必要となる。彼らの文化は、その言語と同じくわれわれの文化と似ていない。

    「人々は経験していない出来事については語らない ―― 遠い過去のことも、未来のことも、あるいは空想の物語も」

    ピダハンの文化は、「直接体験の原理」に根差している。彼らは、自らが直接体験をしたことか、話をしている相手が直接体験をしたことしか話題にすることがない。間接的な情報や空想に類することを話すことは文化的禁忌となっているとも考えられる。この原理が、言語を含めてピダハンの行動をも形作っているのである。

    著者は次のようにまとめる。
    「ピダハンの言語と文化は、直接的な体験でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。その制約とは、これまで深めてきた考えからすると、次のように要約できる。―― 叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる」

    先に述べたようにピダハン語には数を表す言葉がないが、彼らに数の概念を教えようとしても、計算ができるようにならなかったどころか10まで数を数えることもできなかった。これをもってピダハンの知的水準が低いという結論を出すことも可能なのかもしれないが、著者はそのようには捉えない。彼らの直接体験の原理にしたがうと、直接的な実体験を超える抽象化された計算の概念を身につける理由がないのがその原因だと考えるのだ。また、ピダハン語には親族を表す言葉が非常に少ないという。それも、自分たちが直接知らない曽祖父の代や直接会うことのない遠い親族のことを語る必要がないことからくるものだと著者は考える。このように、ピダハンの言語は、彼らの文化に強く制約を受けているというのが著者の主張である。

    また、ピダハンは外部の知識をなかなか採り入れない。カヌーの作り方を教えてもらいながらそれを一度は実際に作っても、次からは「作り方を知らない」と言って作らない。また、肉の保存方法(燻製や塩漬け)を知っていても、自分たちのために保存することもしない(ほかのアマゾンの先住民でそのような部族はほとんどありえないらしい)。食べ物にはあまりこだわらず、日に一度か多くても二度、ときには食べない日もある。これもまた、単純な見方をすれば、ピダハンが未開のままでいる原因であると解釈することも可能だが、著者はそれよりも未来のことよりもまず現在を大切にする彼らの文化を反映しているものだというのである。

    性交に関する道徳もかなり柔軟で自由だ。多くのピダハンが、躊躇いなく多くのピダハンと性交する。特に満月の夜の歌と踊りの際にはいつもよりも奔放にさらに多くの異性と性交する。それは彼らの将来ではなく現在に重要性を置く文化にも由来しているのではないかと考えられる。また、著者はこのように性交が非常に広く行われていることが、ピダハンの民族への帰属意識の強さのもとになっているのではないかと想定している。

    ピダハンでは、将来を気に病んだりしないことが文化的価値になっており、将来よりも現在を大切にする。したがって、彼らは進歩を望んでいないし、想像もしない。これが、ピダハンが変わらない理由だという。そのことは、いわゆる文明社会に住む人間からは後進性のように映る。しかし、それは他方の価値観からの一方的な見方であり、単に価値観の違いだということもまた可能である。著者によると、ピダハンは穏やかであり、彼らの敵意が内部でもよそものにも向けられるのを感じたことがない。誰に対しても、たとえ子供のしつけにおいても、暴力は許されない。浮気をされても、怒りをあらわにすることがない。

    著者も含めてピダハンと交流したものは口を揃えて次のように評価する ―― 「ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ」

    ■ キリスト教伝道師の物語
    最初に述べたように、著者がピダハンと暮らし始めた理由のひとつは、キリスト教の伝道のためだ。著者はピダハンの人々に神の福音を伝えるためにその地に降り立ち、そのことを通して神の栄光を世界に広めるために来たのだった。ピダハン語の習得も、聖書の翻訳がその理由のひとつでもあった。

    しかしながら、ピダハンは外国の思想哲学や技術を受け入れなかったのと同じように、ほとんどキリスト教を受け入れることがなかった。聖書をピダハン語に翻訳する作業がまったく上手くいかなかったのは、彼らの文化に昔起きた出来事を伝える必要がなく、したがってその言語にもそれを伝える手段がなかったからであった。それらは文化的に翻訳不可能で、文化的な原理において受け入れ不可能なものであった。

    「ピダハンには、「見ることは信じること」であるばかりではなく、「信じることは見ること」でもある」

    そもそも、誰も会ったことのないイエス・キリストなる人物が語った言葉を受け入れることは彼らの理解の範囲外のことでもあり、彼らの価値観からは愚かなこと以外のなにものでもなかった。直接体験の原理による制約によって、彼らは神話を受け入れず、キリスト教の信仰もまったく受け入れることはなかった。

    ピダハンは、宗教的なことを信じない。絶対的なるものを信じない。それは、彼らには必要のないものであった。彼らは、「一度に一日づつ生きることの大切さを独自に発見している」。

    「自分たちの目の凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ」

    思えば、キリスト教の教義も聖書の言葉も非論理的なものであることには間違いなく、何でそんな昔生きていたのかもしれないおっさんの言うことをありがたがらないといけないのだという意見は、キリスト教徒の考えよりもよほど合理的だ。ましてや誰も見たこともない天国や地獄などを信じるのは頭がおかしいと考えるのは全く正当なことだと言える。

    結果的に著者はキリスト教を捨て、布教活動をあきらめる。著者はキリスト教以上にピダハンの生き方に憧れと正統性を見出したのだ。一方でその結論は、布教活動を意義あるものとして一緒にピダハンの村に赴き、非文明的な生活に耐えてきた著者の家族にとっては、受け入れ難いことであったのは想像に難くない。結果として、離婚につながるのだが、著者の元妻がピダハンの思想に触れ、著者がそれを論理的に説明をしても、キリスト教を捨てることを受け入れることがなかったのだというのは、逆に不思議なことに思える。

    ■ ピダハンの死生観
    本書を読んで、ピダハン語の分析や、ピダハンの直接体験の原理から来るさまざまな行動や考えにも深い驚きを覚えるのだが、それらの中でも大きく衝撃を受けるのは、ピダハンのその死生観である。

    冒頭のプロローグを締める次の言葉は、本書を読み終えた後、再度読み返すと改めて深い意味を持っていることがわかる。
    「ピダハンはわたしに、天国への期待や地獄への恐れをもたずに生と死と向き合い、微笑みながら大いなる淵源へと旅立つことの尊厳と、深い充足とを示してくれた。そうしたことをわたしはピダハンから教わり、生きているかぎり、彼らへの感謝の念をもちつづけるだろう」

    赴任当初、家族がマラリアにかかったときにピダハンはそのことを知りながら、誰も助けようとせず、それが当然であるかのように振る舞われたことが、著者が強い衝撃を受けた経験として描かれている。それにも増して衝撃的なのは、母親を亡くして死にかけているピダハンの赤ん坊を見殺しにしたところだろう。母乳を飲むことができなくなり、衰弱した赤ん坊を、著者の家族はチューブでミルクを入れてやるなど必死で助けようとするが、手を離して父親に任せたとき、父親はアルコールを摂取させて殺してしまったのだ。彼らの判断では、もうその赤ん坊は助かる見込みがなく、著者の行為はいたずらに苦しみを長引かせているだけのように映ったのだろう。いやむしろ、苦しみがどうのというよりも、そのまま息を引き取ることが彼らの価値観として正しいことだと考えただけなのかもしれない。

    「ピダハンはひとり残らず、近親者の死を目の当たりにしている。愛する者の亡骸をその目で見、その手で触れ、家の周りの森に埋葬してきたのだ。... ピダハンの生活に、死がのんびりと腰を落ち着ける余地はない」

    ここで思い出したのは、同じくアマゾンの原住民をNHKが取材した『ヤノマミ』である。『ヤノマミ』では、生まれてきた嬰児を母親が殺す場面がある。NHKスペシャルの放送でも触れられた衝撃的なシーンだが、そこには苦しみを長引かせないためであるというような理屈もない。母親が嬰児を殺す理由も明かされないし、われわれの理解を拒む。彼らにとって、そしておそらくはわれわれ現代人にとっても、人は理由もなく死ぬものだし、人が死ぬことは正しく正常なことなのだ。

    「ピダハンたちには、西洋人が彼らの二倍近くも長生きできると見込んでいることなど、知る由もない。見込んでいるどころか、それが権利だと考えているくらいだ」

    われわれは、あまりにも命を大事にしすぎているのかもしれない。どうせ死んでしまうのに。

    【所感】
    著者はこう書く ――「自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば」

    こうやって本に書かれ、そして翻訳されることがなければ、日本に住む自分がここに書かれたことに触れることはなかっただろう。それだけでも読書体験というのは素晴らしい。そう書くと、文字を持たないピダハンのことを下に見ることになってしまうのではないかという懸念もある。著者は、ピダハンが遅れた未開の民であるとすることを拒絶する。著者のガイドなく、ピダハン語の特徴やその外部の技術や知識を受け入れない態度について聞くと、単純に彼らは未開な部族であると結論づけていたかもしれない。しかし、それは集団としての価値観の違いであって、将来を気に病むことがなく、伝聞を拒否する文化であれば、そして彼らの死生観を受け入れることができたのであれば、文字や文明はまったく必要のないものだ。

    言うまでもなく、人類がここまで地球上で繁栄をしてきたのは文明化のおかげである。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』、マット・リドレーの『繁栄』、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』などでも人類史におけるいくつかの革新を描いている。競争と成長の原理が、規模の拡大を押しすすめて繁栄を支えてきた。その現代文明的価値観は世界のほとんどに行き渡り、いまや当然のものとされている。SDGsなどで修正は加えられることはあっても原則的な価値は変わることがないだろう。しかし、この本を読んで、もしかしたらそうではない文化的価値観も成長と平均寿命を諦めれば持続可能なものとして成立しうるのではないかと思った。ピダハンの存在はその証左である。われわれが今持っている価値観は倫理的にも論理的にも絶対ではないということを知らしめてくれる。

    想像するにピダハンの文化と価値観は、古来ずっと続いてきたものではなく、どこかで大きく変わったのだという可能性もあるのではないかと思った。彼らは、昔は他の部族と同じように創生神話を持ち、成長に向けて将来を考え、抽象的なことを考え、そして争いと苦悩とを抱えていたかもしれない。そういった中で、争いと苦悩とを克服するためにあるときから直接体験の原理が積極的に選び取られたものとなったということも考えられないだろうか。幸せを手に入れるためにあえて皆で利便性や成長とそして部族としての記憶を自ら捨てるのだ。そして、それがピダハン部族の信ずるところとなったということはないだろうか。他の部族がほぼ例外なく創生神話や他部族や西洋技術を容易に受容してしまうのに対してピダハンがそれを受け入れることがめったにないことは、彼らが無知で未開であるのではなく、あえてその道を集団として選んでいることを逆に示しているのではないか。

    もちろん、ピダハンの文化が成立するためには、まずピダハンの部族の全員がその文化を信じてそれに沿って行動することが必要条件となる。抜け駆けや心変わりは許されない。また、外部の変化は拒否されなくてはならない。部族の外部の人間は「仲間」とは異なるものである。そうであるがゆえに、憧れや嫉妬の対象とはならないのだ。そのことを考えると、ピダハンの文化が成立するための条件は、かなり不安定なものと言えるのかもしれない。

    この後の人生をピダハンのように生きたいと思うものではないし、文明化された世界に生きるものたちにはそのように思うことももはや許されない。それでも、自分の生きている社会の価値観が必ずしも絶対的なものではないということを理解することは必要なことではないにしても、努力をして理解する価値があることのように思う。そして、その上で敢えて今の価値観を選んでいるのだということを意識するべきことのように思うのだ。

    決して易しい本だとは思わないが、読まれるべき本。少し前に出版された本だが、ずっとKindle化されなかったので、手にとって読むまでに時間がかかったが、読んでよかった。


    ----
    『ヤノマミ』(国分拓)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4140814098
    『ノモレ』(国分拓)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4103519614

  • 評判は聞いていたけど、ほんとに面白い!
    ピダハンとは、ブラジルのアマゾンに暮らす狩猟採集民族のひとつ。著者は、もともとは聖書をピダハン語に訳すというミッションを負ってアメリカから派遣された伝道師かつ言語学者で、70年代末から30年以上にわたって、彼らと付き合い続けてきた。文化人類学者がアマゾンの部族について書いたものはいろいろあるけれど、言語学者の目から見たピダハンのユニークさは、実に魅力的だ。
     たとえば、ピダハン語で使われる音は、母音が3つ、子音も男性で8つ、女性で7つだけ。これにさまざまな音調や歌、ハミングをくみあわせてコミュニケーションをとる。「1,2,3…」という数の概念、「右」「左」の概念もない。入れ子構造の構文もないという、きわめてシンプルな言語なのだ。
    しかも、シンプルなのは言語だけではない。彼らは、基本的に自分が直接体験したことしか言語化しないため、親族関係を示す語に「祖父」はあっても「曾祖父」はない。創世神話すらなく、祖先や神のための儀式も行わない。まさに言語学の、いや「人間」という存在に関するこれまでの常識をくつがえしてしまうような人々なのである。
    このシンプルな言語・生活・文化は、ピダハンが「低い」レベルにとどまっていることを意味しているのだろうか?著者自身、最初は、ピダハンが複雑な儀式や文化様式をもたないことに失望し、もっと「興味深い」部族のところに派遣されればよかったのにと思ったことを告白している。だが著者によれば、彼らのシンプルな生活様式は、アマゾンの環境と完全に合致しているのだ。ピダハンたちは食糧を貯めこまず、複雑な道具も必要としないかわり、よく働き、夜も害獣がいるのでぐっすりとは眠りこまない。それで必要十分な生活ができている。つまり、この人々は、現代の高度文明に達する能力がなかったのではなく、あえてそうしようとはしなかったのだ。
    たしかにピダハンの社会に創造や個性、進化は欠けているかもしれないが、「しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。」
    実際、彼らはもっともよく笑い、よくおしゃべりし、人生に満足している人々だと著者はいう。彼らの存在は、私たちのあり方こそがもっとも優れており普遍的だという思いあがりを心地よく打ちのめして、異なる生のありかたに想像力をひらかせてくれるだろう。
    しかし、ピダハンがこのように魅力的な人々として私たちに紹介されたのは、ひとえに、先入観や価値判断によって自分を閉ざさず、異なる人々から謙虚に学ぶ態度を備えたこの著者の曇りなき眼差しのおかげだ。ピダハンとその言葉を知るにつれ、聖書をピダハン語に翻訳するという任務の不可能性に気づかされた著者は、ついにキリスト教の信仰を捨て、家族も崩壊することになったと告白している。自分の物差しを捨て、他者の目で世界を見て、自分を変えることのできるこの著者の勇気に、深く力づけられる。

  • 過去回のゆる言語学ラジオで聴いて、なんか面白そう!と思ったので、夫からのお誕生日プレゼント資金で購入。

    著者のダニエル・L・エベレット博士は当初キリスト教福音派の伝道師として、アマゾン川流域の一部族であるピダハンの村に赴く。1970年代から30年がかりのフィールドワークで、ピダハンの言語と文化、認知世界を解き明かしていくのだが、結論から言うととにかくめちゃくちゃ面白かった。
    まずピダハンの言語、文化が面白い。
    数がない。色がない。左右がない。
    創世神話もないし、自分たちのために食糧を備蓄することもしないから、お腹が空いても狩りに行かず、今踊りたければ一晩中でも踊る。
    自分の常識はアマゾンの奥地ではまったく通用しない。
    第1章ではそんなピダハン族の生活について描かれているのだが、まったくわからない言語を1から習得するという苦労、異文化を知るって簡単に言葉にするけど、その中で生活するとなると、当たり前ながら全然簡単じゃなくて、著者の奮闘ぶりにすごく引き込まれる。
    マラリアで死にそうになったり、交易商人に唆されたピダハンに命を狙われたり、普通にエンタメ系な読み物としてもとてもエキサイティングだった。

    第二章はピダハンの特殊な言語から、現在の言語学の主流であるチョムスキーの生成文法理論との齟齬を語っていて、
    うーん、…正直めちゃくちゃ難しい。
    チョムスキーって名前、ゆる言語学ラジオでは聞いたことあったけど、どんな理論を言っている人だとかは知らなかったので、wikiで調べたよね。
    よくわかんなかったけど笑
    ところどころ、おっ!と思うところもあったけど、一章よりページ捲るペースは遅くなった。

    そして第三章。
    これは素晴らしかった。
    読み始めの頃からぼんやりとあった問いに一定の解を得たような、さらに大きな問いが生まれるような結びで、
    少し高価な本だったけど、買ってよかったと思わせてくれた。

    有用な実用性に踏みとどまり、未来を憂うことのないピダハンにとって、この民族の言語や文化を継続させようという外部からの意思というのは是か、非か?
    その意思とは誰のものなのか?

    …面白いなぁ。

    実はこの本にも登場したエベレットの息子さんの、最近出た本も一緒に購入したので、そちらを読むのも今から楽しみ。


  • 過去や将来を考えない。その日一日を生き延びていく生活。独立した一人でありながら、集団の中の仲間意識は強い。
    美しくて、優しい自然と人に囲まれているから充足していて、神話も民話も必要がない。
    だから、不安や心配はない。
    必要のないものを無理に取り入れない。発展せず、程よいところで維持するということこそ幸せが続くコツなのかもしれない。

    文化的なところに面白さを感じたので、言語学や旅行記的な部分より文化の比重がもっと重めだったらよかったな〜、と個人的には思う。

  • 同じ言語でもその人の見てきたものや置かれている環境によって、言葉に内包された意味やイメージは変わってくる。今まで経験した会話の中にも危ういものがないか反芻する機会を得た。定説を再考察する言語学として、また作者の冒険記として(どんでん返しあり)の読み応えもあった。

    ※追記
    筆者がピダハンと共に過ごしたこれだけの時間も費やしても、人間同士の関係性は研究対象の域を越えれないのであれば、隣の人を理解することも到底困難であろう。
    良い関係を築くために大事なことは、双方向で研究対象であり続けることなのかもしれない。

  • まず、この本が生まれたことに感謝。
    日本語で読めることもありがたすぎる。
    自分がいかに小さな世界で枠にとらわれて生きているか気付かされる。
    より良く生きるとは、幸せとは…
    素晴らしい体験だった。

  • キリスト教であった著者が、ピダハンという民族に布教しに彼らの世界へ足を踏み入れた。彼らと共に生活していく中で、何にも縛られず、自然と共に共存する今を楽しむ生き方に惚れ込み、今まで生きかたの座標を与えてくれていた宗教を捨て、彼らと共に生きることを決断した。


    私達が過ごしている文明社会は、元々人類が当たり前にしてきたもの、自然との共存であったり、
    人間本来の力である自然治癒力などをわすれるように仕向けてしまう。元々ある自然ではなく
    人間が作った決まりや抽象的なもの、会社や法律、お金などに価値がおかれ束縛されて生きている。それは集団生活を円滑に進める上でなくてはならないものであるが、人間を傲慢にしてしまった。自然日々感謝して生きることを忘れてはならない。
    本来人間は自然の一部であったが、今は自然に
    とって、害虫になってしまっていることを忘れてはならない。

  • 言語本能を超える文化と世界観

    原題Don't sleep, there are snakes(おやすみの挨拶)
    by Daniel L. Everett

    Piraha=ピダハン言語

    音声が少ない

    ブラジル先住民

    1977年

    一緒に暮らし、言葉を採取して文化を知る

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