- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784758412087
感想・レビュー・書評
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ちょっと急いだ展開の感じがします。
でもこの人の本好き。 -
欲はないけど、やりたいことに頑固で自分の筋をまげない寛斎。こんな人の妻としてよくがんばったなあ、あいさん。と思う。私には絶対にできないし、したくない生き方です。でもあいさんは、すごいと思う。
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貸してもらって読んだ本。タイトルにもなっている「あい」は、幕末から明治を生きた蘭学の医者・関寛斎の妻の名。4つの章は「あい」に掛けて、「逢」「藍」「哀」「愛」とつけられている。
貧しい生まれだった寛斎は、母の姉の嫁ぎ先である関家に預けられ、苦学して医を志す。養親のすすめで関家の親戚だったあいと結婚。医者として世のために尽くし、貧しい人からは診療代をとらなかったという。後には徳島藩の御典医となり、戊辰戦争では軍医もつとめた。
医者として名を上げ栄誉もきわめたような寛斎は、73歳のときに、それまでのすべてを捨てて、北海道開拓に赴く。子どもたちにも止められたというが、決心はかたく、寛斎とあいは北海道へ向かう。
著者の高田郁さんは、安定した生活を捨ててまで北海道へついていった妻のあいのことが気になって、この物語を書いた。寛斎については資料も多くあり、寛斎を書いた著作もいろいろあるというが、あいについて残っている資料はほとんどなく、そこから高田さんはあいの姿を描きだす。
あいの母・コトは、性によって割りふられるそれぞれの枷について語る。時代の枷もあっただろうと思う。
▼「男には男の枷、女には女の枷がある。一家を構えて家族を養うのが男の枷なら、子を生み育て、血を絶やさぬようにするのが女の枷。この枷が、沢山の女を苦しめることにもなるんだよ」(p.16)
関家の年子伯母(のちにあいの義母となる)は、子宝に恵まれなかった。その年子を慮りつつ、コトは言葉を選んだ。
私塾をひらいていた関俊輔と年子夫妻は、近在の貧しい子どもたち、寺子屋にも通えない子どもたちにも心を配った。年子の語る、学問という宝。
▼「蕪かじりの百姓の倅どもに論語など教えても無駄──中須賀の外からはそんな声も聞こえる。けれど学問は、ここと」
年子はまず、自身の頭に右手を置き、それに、と今度は胸に左の手を置いた。
「ここに、宝を築くことになる。この見えない宝が一等大切なんだよ」(p.21)
あいが紡いだ糸に年子が銭を与えたとき、貧しい家に銭があればとそれを持ち帰ったあいを母コトは叱責した。その母の思いを、長姉ヨシが語って聞かせる。
▼「あたしの反物が初めて売れた時に、お母さんに言われたんだ。銭ってのは厄介だ、なまじ味を覚えると、もっともっと欲しくなる。それが叶えられないと、性根がさもしくなる、って。百姓が楽して銭の味を覚えて、良いことなんて何もない、ってね」
さもしくならないためには、銭の値打ちを正しく知るよりない。あいはまだ十歳、簡単に銭が手に入る、と思わせたくなかったんだよ、とヨシは話した。(p.25)
寛斎の育ての親である関俊輔と年子は、ひととしての筋の通し方を心得て、正しい道へと導いてくれる素晴らしい師匠だというあいの父・左衛門の言葉に、ヨシの夫・覚蔵が呟く。
▼「ひととして正しいことは大事だよ。けども、正しいばかりが親なら、子は不幸だ」
椀を置いて、覚蔵は続けた。
「おらの親は学もないし、ひとに誇れるようなとこは少しもねぇよ。子を守るために世間に歯を剥く真似だってしかねない愚か者だ。けど、そんな掛け値なしの情が、子にとって救いになることもある」(p.43)
四つで死に別れた実母は、適切な治療を受けてさえいれば助かる命だったと知ったとき、石にかじりついてでも医師になろうと志した寛斎の胸のうち。コレラ患者を救う手立てをこうじるため江戸へ向かおうとする寛斎に、行かないでほしいと懇願する妻のあいに、寛斎は初めて語った。
▼「助かる命ならば、私はどんなことをしてでも助けたいのだ」(p.108)
その寛斎が、すすめられた長崎留学を断ろうとしたとき、あいは夫に言う。
▼「先生は、コレラ禍の江戸へ行かれる時、私に仰いましたね。自分は強い志を持って医師になった、と。そうであるなら、何故、その志を貫こうとなさらないのですか」
齢十八で寛斎に嫁して八年、初めてあいは人生を賭して、夫に挑もうとしていた。
「銚子に居て、翻訳された医学書に頼るだけで、充分とお考えなのですか? 助かる命をどんなことをしてでも助けたい、と仰るかたが、そのようなことで満足できるのですか?」(p.121)
いずれは病から人を救う堤になれると寛斎を見込んだ濱口梧陵(ヤマサ醤油の当主)は、さまざまな援助を惜しまなかった。寛斎に長崎留学をすすめたのも梧陵である。これ以上の援助は…と断ろうとしていた寛斎は、あいの説得により、長崎へ発つ。
その梧陵が説いた「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」(p.149)が、サブタイトルにもなっている。人として、どう生きるべきか。それは、遠くをみすえ、世のため人のために尽くしていくことだと、寛斎もあいも心に持ち続けていたのだろうと思う。
寛斎とあいは12人の子をもうけるが6人を亡くしている。子の文助を喪ったあいに、「スミも大助も周助も、それに生三も居るではないか。母親がそんなことでどうする」と叱責した寛斎を、徳島で仕えた藩主・斉裕公は「失望したぞ、関寛斎」と言い放つ。
▼斉裕は寛斎に片方の手を広げて見せ、五本の指のうち、いずれが欠けてもそちは良いのか、と尋ねた。返答に窮する寛斎に、斉裕は、
「どの指も大切なことに変わりはなく、残る指の数で慰めを得られるものでは決してない。母が我が子を喪う、というのは常に半身を捥ぎ取られるに等しい」
と、きつく諭したという。(p.180)
古希を迎えた寛斎は、次は新たな道で世の役に立ちたい、北海道に渡り開拓に身を投じたいと、あいに告げる。
▼「子や孫に囲まれ、何不自由なく穏やかな老後を過ごす。ひとはそれを老いの幸せと言うが、私はそうは思わない。生命のある限り、ひとは自らの本分を精一杯に果たすべきなのだ」(p.264)
渡道を心に決め、これが今生の別れと寛斎とあいは郷里を訪ねた。妻を呼び、寛斎は語る。「ひとの一生とは、生まれ落ちて死ぬるまでに、ただひたすらに一本の道を歩くようなものだな。どれほど帰りたい場所があろうとも決して後戻りはできぬ。別れた人と再び出会うこともない。ただ、前を向いて歩くしかないのだ」(p.270)
自分が何者なのか、何がしたいのかもわからないという末息子の五郎をみて、あいは思う。
▼あい自身の若い頃には、百姓身分に生まれた女に人生を選ぶ余地はなかった。従って、自分が何者か、何がしたいか等々、考え迷う隙もなかった。五郎の煩悶は、今ひとつ、あいの胸には染み入らず、かけるべき言葉が見つからない。叱咤激励することも、安易な慰めを口にすることもせずに、あいはただ、手にした握り飯を、これもお食べ、と差し出した。(p.307)
北海道で農の道に進もうとしている甥の貢の「どれほど良い種や苗を植えても、土が良くないと育ちません。手間を惜しまずに土を作ることが、実は最も大切なんです」という言葉を反芻しながら、あいは、ひとも作物も同じなのだと気づく。
▼不平不満を封じ、ただ無心に、そして丹念に心の土壌を耕すことで育つ芽もきっとある。(p.308)
渡道して半年も経つのに、身体の具合が思うにまかせないあいは、開拓地もまだ見ず、何もできずにいる自分に不安と焦燥をおぼえる。空を見上げて、あいは雲を目で追う。
▼先を案じるな。
自ら不安を呼び込むな。
空の色が、雲の姿が、あいを静かに慰めた。(p.319)
「先を案じるな。自ら不安を呼び込むな。」というのが、ぐっとくる。百年余り前の、夫・寛斎とあいの関係や二人の生き方、あいと次世代の子どもらの生き方の違いは、今にも通じるものがあるような気がする。
(1/6了) -
貧しい農家に生まれた
あいの頑張り、
旦那さんを支え、江戸時代から明治時代への女性の頑張り、
感動しました。 -
この作者は読みやすい
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医師関寛斎の妻,あいの物語
幕末から明治にかけて,百姓から藩医師にまでなられた方の妻
とはいえ,二人には立身出世の欲望はまるでなく
ただただ,世のためひとのためがこれほど似合わはる方たちは知りません
ひとは,ここまで無私になれるものなのですね -
8
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みをつくし料理帖シリーズが好きでずっと読んでた
これは実在のモデルが存在する
当時の人たちの生きざまにふれて厳しい自然を愛し
戦った様子にしゅんとなった
すごいなあ
読みやすくて一気でした
≪ 何がある?この愛の先 ただみつめ ≫ -
他の作品同様、主人公に過酷な運命が降りかかるという話であり、その生き様には涙を誘うものがあるが、他に比べて筆致がやや淡々としているのは、実在のモデルは存在するからだろうか。関寛斎夫婦の生き様には感動を覚える。ただ、登場人物が多く、人物造型が今一つなのは残念。これも、実在する人物達だからなのだろうか。