異邦人 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (143ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114018

感想・レビュー・書評

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  • 最後の爆発は、声を出して読んだね。何度も読みたい。一つの壮絶な人生を少ないページで書いている。何回も読みなして思いをはせたいそんな話。
    人間ってどういうことか、自分とは、普通とは、常識とは

  • いつ読んだか憶えてないが、心に引っかかっている本。そのうち読み返そう。

  • 主人公の不条理な世界観であるのになぜかクリアで視界良好に読めた。
    その行動や思考は理解し難いのに情景が目に浮かぶ不思議な作品。

    面倒なことからは距離を置きながら、いざ面倒に巻き込まれるとそうなってしまった状況を正当化し昇華させる自己防衛の極みのような主人公。
    無気力なのに人間臭い。

    「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。」
    この冒頭で作品に引きずり込まれた。
    味わいながら何度も読みたいと思う。

  • 正直に言えば読み終えた今でもムルソーがどのような考えを持っていたかを100%は理解出来ていないと思う。
    ちょこちょこ解りにくい文もあったし、物語の展開について行けない部分もあった。

    でも、なにか凄いものを読んでしまった。
    そう感じた。

    『きょう、ママンが死んだ。』という一文からこの物語は始まる。
    ムルソーの冷酷ともいえる行動に対し、読者は「人間的な欠陥を抱えているのかな?」と考える。母の死の直後に海水浴を楽しみ、女性と関係を持ち、友人と行動を共にするムルソーに、読者である私はある種の嫌悪感を感じてしまった。

    しかし、ラスト。
    筋が通っていない様に思っていたムルソーの行動に一つの行動理念、彼なりの世界の捉え方が描かれる。

    結果、私はムルソーを物凄く人間的な人物だと感じた。

    なにか凄いものを読んでしまった。読んでからも頭の隅で異邦人の事が気にかかってしまう。何故か惹かれてしまう。

    この本に出会えてよかった。
    何度も読んで理解を深めたいと思う。

  • 好きな作品

  • 読んでよかった

  • 不条理と向き合い、正直さを貫き、真っ向から向かいうった姿は、空気を読み自分を偽る私達への命題である。


  •  わたしたちは見放されている、と思う。
     それは“死”を考えれば明白だと思う。わたしたちは、毎日間接的に、無数の死と接触する。朝のニュース番組でかもしれないし、電車の中で眺めるスマホのニュースかもしれないし、交番の掲示板かもしれない。わたしは、そのたびに、とても不思議な感覚を覚えることがある。 
     家族や、友人、恋人、同僚、上司、部下からその名前で呼ばれ、出席番号や、成績表があって、アルバムを覗けば笑顔で映っていて、公共料金の支払いが届き、空腹や眠気、さみしさや人恋しさを感じる、いきもの。それが、ふいにふっと消滅してしまうことに、わたしは、得体のしれないものに対する恐怖を感じる。
     命は幾つかの道徳教育や、最後にはちゃんちゃんと、笑顔で終わるような調和に支えられた“確かな”ものなんかではないんだと思い知るからだ。
     “私ははじめて、世界の優しい無関心に、心を開いた”
     この一文は、『異邦人』を象徴する一文だけれど、“世界の優しい無関心”このことを考えると、わたしじしん、生きている日々のなかで感じる、心細さや不安の正体を分かりやすくしてくれてるんじゃないかと思う。
     そう、わたしたちは、あまりにも、他人に自分に、無関心なのだ。
     上に書いた「他人の“死”に対する態度」がまさにその証拠と言っていい。みんな、自分の目の届く範囲の自分を中心に据えた世界のなかで、笑ったり泣いたりしながら生きている。関心を持てるのもその範囲まで。
     そこに国家(わたしは○○人のような)や宗教や道徳感、季節だったり、文化のような、より大きくて、より抽象的な共同体に生きていると錯覚する。
     主人公ムルソーは、この錯覚をなしに生き、動悸のない殺人を侵す。そのために、共同体に生きている人々からは、その道徳感の欠如や、倫理観の欠如を恐れられ、死刑に追い込まれる。まさに“異邦人”なのである。
     “異邦人”にはこんな意味もある。
      【聖】ユダヤ人以外の人々。神の選民であるユダヤ人に対して、選民ではない他民族・他国民。
     そして、彼が“異邦人”と見なされたひとつひとつの理由を紐解いていけば、彼が追い出された世界の全貌が見えてくる。
     母親の死に涙を流さず、悲しいと思わなかったこと。その年齢を知らなかったこと。その翌日にガールフレンドと海水浴に行き、お笑い映画を見て、セックスをしたこと。友人の痴情の縺れに巻き込まれ、殺人を犯したこと。死体に4発の銃弾を撃ち込んだこと。神を信じるかという問に「信じない」と答え、悔悛ではなく倦怠を感じると口にしたこと。
     つまり、この“邦”の一員であるには、母の死に対して声を上げて泣き叫び、絶望し、そのために生きる希望の一切を失わなければならない。殺人を犯したとしても、その行為に対して「わたしは一体なんてことをしてしまったんだ、こんなわたしを神は決しておゆるしにならないだろう」と深い後悔に打ちひしがれれば、その殺人の罪はぐっと軽くなる。そんな“邦”に彼は生きていたと言える。
     彼が「太陽のせい」で、死体に四発の銃弾を打ったことに関して、もっともらしい理由が描写されない。「そうは言っても本当は」を読者も、作中の裁判に関わった全ての人が聞いたいのに、だ。
     「確実に殺したと確信できなければ、身が危険だと感じたからだ」とか「はじめて人を打ち殺したことにひどく動揺していたから」とか「興奮状態にあって、引き金を引かずにはいられなかったから」とか、言い訳はできないでも無かっただろう。
     ただ、彼は「太陽のせい」と答えて、その誠実さが、評価されると疑っていなかった。自分はこの人々の理解を得るのだと心の中では思っていたのではないか。
     彼は根本的な部分を見誤っていた。裁判所では、公平無私で絶対的な基準に照らされて、その判決が行われるのだと。そして見事に裏切られた。人間を裁くのが、人間である以上、公平無私なんて有り得ないのに。でもそれが彼であって、この事件が成立し得た、もっと言えば、彼の生の辿り着く確実な未来だったのかもしれない。
     彼は自分の誠実さに、もっと言えば、自分の存在そのものから死刑を言い渡されたようなものだった。まるで、自らの口で、自らの尾を飲み込むウロボロスのように。
     その点で、同情はできない。
     が、純粋な“異邦人”である彼が、目にした、現実世界の異様さが、この作品で語られた極致なのかもしれない。同情はできないが、同感な所は多々あった。冒頭の“わたしたちは見放されている”とは、この世界の不確実性ら、ランダム性のことだ。この世界では、自分がいつ“異邦人として追放されてしまうか分からない”のだから。そのことがとても真面目に、正確に描かれていたと思う。
     実用的に本書を読解するのなら、自分が今いる集団における秩序を常に注視する必要があることが読み取れる。日本では、それが“空気”かもしれない。イスラム圏では“宗教”だし、アメリカでは“肌の色”かもしれない。この世界も、動物たちの世界と同じように、臆病な非捕食者が捕食者から逃れ得るということだ。人間世界は、自然世界の暴力的本質をそれぞれに置き換えているということだ。
     文学的に本書を読解するのなら、世界のアルゴリズム的な暴力が無関心と捉えられていて、だけれども、その無関心のなかで生きている人々の営みを肯定している。「死」という確実の中を生きる人々が、達観すればすべて灰燼に帰す、無意味な生を、ママンが死の間際に許嫁をもったように、伴侶や愛する人を求め、夕暮や波や風などの自然に慰められ、サラマノ老人が、女房の代わりに憎しんではいたが、老犬を大切に思っていたように、マリイがボーイフレンドを求め、キスを求め、結婚を求めたように、レエモンが彼に仲間になってもらいたかったように、その生を肯定していたのだ。
     それが驚きだった。そのメッセージが、呼んでいるわたしの胸を熱く抱擁した。作者は、生きているものすべてを“特権者”と読んだ。最後には処刑される死刑囚として、どんなひとの行いをも、文字通り“等しなみ”にして、彼はそんな人間の営み全体を“愛する”。それが“真理”なのだと、彼は自身の死を前に心の底から確信する。祈りや、信仰によって人間を定義(差別し、断定しようとする)する御用司祭(この場合は宗教)に反対する。
     それは“どのように生きてもいい”という人への肯定的なメッセージのように思えた。
     わたしは、この文章を、特にムルソーの生活描写がとても美しか感じて、気に入っているのだけど、それは上に書いたような哲学が彼を貫いているからなのだと思う。
     処刑の日に、群衆から憎悪の叫びを浚うことを願う彼の眼には、その光景が、親愛な家族から慈愛の眼差しで、その最期を看取られるのと同じように見えるのだろう。
     今の段階で読み解ける範疇はここまでだけれど、本作を書くにあたって、ムルソーという人間がどのような経路を辿って造型されたのか。
     いまや、無宗教どころか、共同体としての風習さえ薄れ、途切れてきた日本人にとって、読み考える意義のある一冊だと思う。彼は、あくまでも、解のひとつなのだけれど。

  • 「きょう、ママンが死んだ。」

    という有名な書き出しから物語は始まる。


    『異邦人』 カミュ 窪田哲作訳 (新潮文庫)


    これは、第二次大戦中、八十年近くも前に書かれた小説である。


    物語の舞台はフランス領アルジェリア。

    主人公のムルソーは、隣人のトラブルに巻き込まれ、アラビア人をピストルで殺害して逮捕される。
    裁判では、以前にムルソーが母親の葬儀に際して涙を見せなかったことや、その翌日に海水浴に行き、女と遊び、コメディー映画を見たこと、さらに彼が無神論者であることを理由に、死刑の判決が下される。

    殺人という犯罪そのもので、彼は裁かれたのではなかった。


    タイトルの「異邦人」とはもちろんムルソーのことだが、小説の視点が実はムルソーの側にあるということが読んでいて怖い。
    周りが彼を異邦人に仕立て上げるさまが彼自身によって語られ、最後、彼は斬首刑を受け入れる。


    ムルソーは虚無的で非常に冷めているが、理論的な人物である。
    彼なりのやり方でママンを愛してもいたし、それがこの親子のあり方だったのだ。
    きちんと仕事はしており、同じアパルトマンの住人たちとも仲良くやっているし、単に“変わった人”なのだと私は思った。


    ところが、物語が第二部に入ると、それまでとは全く異質な世界に放り込まれる。
    なんだろうこの感じは。

    違和感の原因の一つはキリスト教だろう。

    ムルソーは、神を信じていないことで周囲から激しく糾弾されるのだが、私たち日本人にはそのあたりが理解しづらい。
    ある意味キリスト教徒にしか理解できない小説なのかもしれない。


    物語全体を覆う、真夏の太陽の描写はすさまじい。
    ムルソーがアラビア人を射殺する直前の描写はこうだ。


    「その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なまぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽のシンバルと、それから匕首からほどばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手が引きつった。引き金はしなやかだった。」


    読んでいるだけで息苦しくなってくる。
    太陽の激しい光で何も見えなくなってしまうという、日常からの疎外感と、夏特有の倦怠感が、この小説の全体を覆っている。


    ムルソーは裁判で、殺人の動機を検事に問われ、「太陽のせい」だと答えた。
    その言葉はムルソーの異常さを表していると思われるが、実際のところは誰にもわからない。
    一発目を撃ち、数秒おいてあとの四発を撃ち込んだ理由も分からないままだ。


    この小説のすごいところは、主人公のムルソーが、最後まで誰にも理解されないままで終わるところだと思う。
    判事や検事や司祭のみならず、読者にも。


    白井浩司さんによる解説では、「ムルソーの回想のごとき体裁を取っているこの小説が果たしてムルソー自身によって執筆されたのか否か」という問題が取り上げられており、白井さんは、「この小説は、法廷でムルソーが視線を交した、ひとりの新聞記者による聞き書きである」という仮説を立てている。


    「青いネクタイをして、灰色のフランネルの服を着た、大分若そうな青年は、万年筆を眼の前に置いたなり、私の方を見つめていた。多少不均斉なその顔のなかで、私は明るい両の眼しか見ていなかった。その眼はじっと私の方を食い入るように見ていたが、はっきり言葉にしうるものは何一つ表わしていなかった。そして、私はまるで自分自身の眼でながめられているような、奇妙な印象をうけた。」


    ああ、絶対そうだ。

    この記者の真っすぐな眼差しは、何が正しいのか分からなくなった世界に一筋射す正義の光なのだろうか。


    それは、ラストシーンの、憑き物が落ちたかのように(いや、逆に何かに憑かれたように、かもしれない)、希望を語るムルソーの独白ととてもよく似ている。


    「私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。」

    「すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」


    異邦人を生み出す顔の見えない裁き人。

    SNSの言葉がそのまま世論になってしまう現代とちょっと似ている。

    古くて新しい、そしてやはり、そこはかとかく怖い小説だった。

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