- Amazon.co.jp ・本 (143ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102114018
感想・レビュー・書評
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あまりにも有名な不条理小説ですが、思っていたのと違いました。
母の死の翌日に人を殺して「太陽のせい」と言った主人公ムルソーの行動が不条理なのだと思っていました。
が、母の死と殺人事件に関係はなく、せいぜいが過剰防衛にすぎない出来事で死刑を喰らうという不条理でした。
やっぱり名作文学は読んでみなくてはわかりませんね。
ムルソーは確かに感情が希薄で、理解の難しいタイプの人ですが、だからといって死刑?
ポイントは、母親が死んでも涙を流さず、悲しみを見せることなく、葬式後に女と関係を持ち、喜劇映画をみて大笑い。
「なんだ、こいつ。むかつく」と思う人もいるかもしれないけれど、死刑?
彼は本当に、人の感情の機微がわからないので、彼女から「愛してる?」と聞かれても、正直に「愛してないと思う」と言っちゃうくらい。
それでも「結婚してくれる?」と言われ、ちょっと考えて不都合のないことを確認後「いいよ」と言っちゃうくらい。
誠実と言えばあまりにも無情に誠実。
検事の言い分
「われわれは彼をとがめることもできないでしょう。彼が手に入れられないものを、彼にそれが欠けているからといって、われわれが不平を鳴らすことはできない。しかし、この法廷についていうなら、寛容という消極的な徳は、より容易ではないが、より上位にある正義という徳に替わるべきなのです。とりわけ、この男に見出されるような心の空洞が、社会をものみこみかねない一つの深淵となるようなときには」
この作品が発表されたときは、ムルソーのような人は衝撃的だったのかもしれないけれど、「どっちでもいい」「なんでもいい」「まかせる」というように、身のまわりのことにも自分のことにも執着のない、愛想はいいけどとっかかりのないような人は、いまたくさんいるような気がする。
殺人事件だって、ムルソーが隣人のトラブルに巻き込まれたせいなのだ。
ただ、めぐりあわせの悪さで、隣人の代わりに襲われ、反射的に銃を撃ってしまった。
けれど、殺してしまったと気づいた後の4発の意味。
死刑判決後の彼の心情。
難しい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自分が到底理解できない人を異邦人(キチガイ)と捉えるか、頑張って理解しようとするかを問われる内容だった。
でも結局世の中はマイノリティを排除しようとすることが今も昔も変わらないということを学んだ。
人は死を前にしたときにやっぱり境地に達するというか、本性が出たり、自分の真の考え方が現れる。
歴史的名作難しすぎる。これを理解するまでに解説動画見ないといけない。
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主人公がサイコパスっぽい感じで書かれてるのに、死刑が決まってちゃんと悲しんでるのがインパクトあった。キリスト教を信じないインテリが主人公だし、ニーチェ的な感じの話かと思ったけど、それとも違う。なんか不思議な感覚の本だった。
あとマリイの乳房の表現が何回も出てきて笑った。いいおっぱいしてたんだろうな。 -
私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。太陽の眩しさを理由にアラビア人を殺し、死刑判決を受けたのちも幸福であると確信する主人公ムルソー。不条理をテーマにした、著者の代表作。母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。
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長いことあらすじだけ知っていた作品をやっと読んだ。
裏表紙の紹介での印象と違った。
主人公ムルソーの考え方は全く理解できないものではなくて誰にでも少しずつある感情や考えだと思う。ムルソーはその誰にでもある感情が人より極端に出るのに加えて、それをごまかしたり隠すことをしないから「建前」の秩序を壊す存在として裁かれたけど、そういう秩序を壊す存在に過剰に厳しい世の中は不気味だと感じる作品。まさにそうなりつつあるいまの世の中では、もっと読まれて良いと思う。紹介のされ方が違ってればもっと早く読んだのに。 -
2023年6月24日(土)に読み始め、翌25日(日)に読み終える。文学カフェのため。
二十歳のころに購入し、何度も読もうとしては最初の数頁であきらめということを繰り返していた本。「ママンが死んだ」とか「太陽のせいだ」といったようなフレーズは何となくこの作品と結びつけて知ってはいたけど、恥ずかしながらどんな内容なのかはぜんぜん知らずに読んだ。本書の解説でカミュ自身は実存主義者であることを否定していたようであるが、それを読むまではカミュのことを実存主義者だと勝手に思い込んでいたし、解説を読んでもなお作品そのものはサルトル的な実存主義なのではないかという認識は持ち続けている。
誤解を恐れずに書くならば「ASDかどうかはさておき、現在の基準で言うところの発達障害当事者である主人公が、人を殺して極刑を下されるという物語」で、それこそなんにも感じるところがなく、ただただ退屈な小説だった。この小説の何がそんなに評価されていのか、ざっと一度読んだ限りではわからなかった。
文学カフェの参加者と最初のうち話が合わないなと思っていた点について。フランスは2001年に参審裁判で上訴の仕組みが導入されるまで実質的に1審制だった。これは市民の名のもとに判決を下すので、それに誤りはないということだったはず。『異邦人』の中でもそのような市民の名のもとにといった表現がでてくる。それで、私の翻訳は「特赦請願」となっているところがあってそれほど気にせずに読むことができたのだけど、他の参加者が同じ翻訳者のものなのに「上訴」と話していて、上訴はないはずだけどなあと思って「特赦請願」のことではないかと言ったら「本文中で何度も上訴ということばが使われていたじゃないか」と言う。それで確かめ合ったら、私の者だけ阿g「特赦請願」で他の参加者のものは「上訴」と訳されていた。これはフランスの裁判制度をよく知らなかった訳者が辞書的な意味からそのまま「上訴」ということばをあてたのか(原文を確認していないのでわからないけど)いわゆる誤訳で、どこかの時点でそれを修正したのだなという話。ここの部分はざっくり書いたので時間のあるときにもうちょっと丁寧に書き直す。 -
裁判中の主人公も検事さんも弁護士さんもマリイもみんな救いようがなくてなんでこうなっちゃうんだろうって読んでいるのが苦しくなった。
主人公がマリイと結婚できなくなったのがとても悲しい。
主人公のマリイを含めお友達がみんな彼を擁護していて、そこだけでも少し気持ちが楽になった。
最後の主人公が司祭に叫んだことの意味が一回読んだだけだとわからなかった。 -
あまりにも高名な名作なので誉めそやしたくて仕方がないのだけれど、翻訳のせいなのか文体のせいなのか、はたまた宗教感の違いなのか、あまり胸に迫るものはなかった。淡々と語られる一人称は確かに淡白で無感動な筆致だけれど、そこで起こる日常の出来事は結構と処世的で魅力的なものでもあったので。恋人もいて友人?もいて普通に仕事もこなせていて、はなから虚無的で無感動な人間にこんな日常があるのだろうか?という違和感がつきまとった。
文学の時代的、歴史的な背景もあっての名作なのかもしれないが、この分野なら中村文則のほうが数段上に思える。