- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103022510
感想・レビュー・書評
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エッセイが面白かったので。
ゆったりとした気分にさせてくれますが(エッセイじゃあんなに爆笑させられたのに)、続きが気になるっていう展開がなかったので読むのに2週間もかかってしまった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ゆるゆるとした感じが好き☆またパリに行きたいなぁ。
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それぞれが違うことをしているのに近くにいる。
その距離感が好きです。
休日をぎゅっと集めたような心地良さでした。 -
好き。
ゆったりとした感じの中に、
ふいに、泣きたくなるような空気。
こういう雰囲気を書くの、うまいなーと、思う。
長嶋有の、こういう空気の本、好きだ。
『夕子ちゃんはインスタントコーヒーをインシタンスコースーという。
アイスコーヒーはアイシコースーだ。』
お気に入り。 -
まぁまぁ。かなぁ。
描写を頭の中で描くと、なんか、ほのぼの? -
読んでいると、穏やかな気持ちが満ちてくる。かと思えば、ちょっと不穏な空気が漂ってきたり、しんみりとした空気が漂ってきたり。日常をなにげなく淡々と過ごしているのと似たような心持ちになる。
主人公のことはほとんどわからない。最後まで名前もわからないし、なんでこんな状態になったのかもわからない。
ここで淡々と過ごすことは、たぶんこの主人公の人生の休息であって、その休息中に係わり合っていくひとの自然なやさしさが胸に響く。
よく映像である、主人公の周りにひとが集まっていくけど、ときがたてばひとりひとりがそこから去っていって、最後は主人公もそこから去っていく、というのが頭の中で再生された。それはやっぱりちょっとさびしさが伴うものなんだけど、この話ではそれぞれがいつのまにか旅立っていて、それがさびしさよりも前向きな感じがした。
こうやって、なにげなくつながりあえるって、うらやましいなあ。
(229P) -
とても淡々とした物語。
何も起こらないし、何も変わらない。
でも、ほんとうに?
毎日はそれぞれ異なる表情や色彩を持っている。
どんなに平凡に見えても、どんなにありふれて見えても、まったく同じ時間が流れることは二度とないのだ。
淡々とした中に滔々と流れるやさしさと、くすりと笑えるユーモアのあるあたたかな連作中編集。 -
深く深く掘り下げていくわけではなく、さらっとした心地の良い人間関係が好き。
エンタメ小説のように笑わせようとして笑わせるのではない、たまにくすっと笑ってしまうような文体がよかった。
最後の「パリの全員」がないほうが、綺麗な余韻で終わったような気がする。 -
短編かぁと思っていたら話しはつながっている。
古物を取り扱うお店でバイトってしてみたいよ。なんか面白そうな物や人に出会えそうだもんね。
タイトルには夕子ちゃんと入っているけれど、主人公はこの古物屋でバイトしている人だわ。お店に来る人や近所の人との密接な関係が魅力的。 -
町はずれにある西洋アンティークの店・フララコ屋を舞台とした読み切り7編からなる連作短編集。古道具屋や骨董屋を舞台にした作品というと川上弘美さんの『古道具 中野商店』を思い浮かべるけれど、お店の周りに集まる人々のなぜか淡々とした様子はこの作品にも通じるようだ。骨董屋に集まる人々は、実利を求める肉食系のギラギラタイプは少なく、どこかしら草食系の変わった雰囲気を持つ人が多いのかもしれない。実に魅力的なこれらの登場人物たちと「僕」とのやり取りが、7つの物語となっている。最後まで読み通すと、フラココ屋は主人公である「僕」を含め登場する人々にとっての、大事な舞台装置「仮の巣」だったことがよく分かる。フラココ屋は新しい世界へ踏み出していくための孵卵器の役割を担っていたのかもしれない。長嶋さんの実父(長嶋康郎氏)が経営する古道具屋での様々な出来事が参考になったことは想像に難くない。
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大して何事も起こらない中の、この空気感。
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2009.8.14
『ねたあとに』を読んで、もっと長嶋さんの作品を読みたくなって
借りた本。連作短編集
人と人との関わり方なんかが、『ねたあとに』に通じるモノがある
感じ。
最初から最後まで、「僕」について詳しくは語られず、名前も出て
こない。
骨董品店フラココ屋でバイトをしながら、その二階(ほとんど物置)
に居候する「僕」の日常なんだけど、そこに登場する、店長、大家さん、
買わない常連客で初代居候の瑞枝さん、大家さんの孫で美大生の
朝子さん、よく似た妹で定時制高校に通う夕子ちゃん、相撲好きな
フランス人のフランソワーズ・・・みんなそれぞれに変わっていて
おもしろい。 -
メモ2007.6
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長嶋さんの小説の、会話が好きです。それから、うまくかちっとはまる言葉を捜しているんだけどなかなかみつからない、そんな感情やものごとをそのまま文章にしてしまうような表現がとても好きです。なんだかうまく言葉にできないんだけれど、あーそれわかる、私も知ってる、みたいな気持ちになる。
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すーっと入り込むことができる本です。 骨董屋さんに集まる人たちのおはなしです。
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高校の図書館で読みました。文庫化したら買います。
長嶋有っぽい作品だった記憶。 -
読んでいてのんびりするのがいい。あまり誰もいじわるでないのもいい。
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どう足掻いても好みなのだ。細くて濃紺のペンを使っている女子、自分と友だち以外にも一人発見。
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<table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4103022515/yorimichikan-22/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21BDT8RM1KL.jpg" alt="夕子ちゃんの近道" style="border:none;" /></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4103022515/yorimichikan-22" target="_blank">夕子ちゃんの近道</a><br />(2006/04/27)<br />長嶋 有<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4103022515/yorimichikan-22/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table>
<blockquote><p><strong>アンティーク店フラココ屋の二階で居候暮らしをはじめた「僕」。どうにも捉えどころのない彼と、のんきでしたたかな店長、大家の八木さん、その二人の孫娘、朝子ちゃんと夕子ちゃん、初代居候の瑞枝さん、相撲好きのフランソワーズら、フラココ屋周辺の面々。その繋がりは、淡彩をかさねるようにして、しだいに深まってゆく。だがやがて、めいめいがめいめい勝手に旅立つときがやってきて―。誰もが必要とする人生の一休みの時間。7つの連作短篇。</strong></p></blockquote>
物語り全体に漂う なにか寂しげで地面からほんの少し浮かんだままのような心もとなさは、フラココ屋のアルバイトで二階に居候している「僕」がどこの誰ともわからないことがいちばんの理由だろう。いつでもどこへでも行ってしまえる不安定さを、しかしフラココ屋の店長は危ぶむでもなく大事な仕事を任せているのが不思議でもあるが当然であるようにも思えてしまう。
フラココ屋というちっとも儲かっているようには見えない古道具屋が、普通に暮らしながらもそれぞれに寂しさを抱えている登場人物たちをゆるく束ねていて、安心させられる。
タムラフキコさんの装画が物語の雰囲気をとてもよく表わしていると思う。
切なく寂しく、それでいてほっとあたたかくなるような一冊である。 -
ひととひととがつながりあっていてかつそれだからどうでもない、っていうことはすごくいいことだとおもう だれもつながっていることからはどうにもならない すきなようにささえあったりられたりしているけれど どうにもならないということはほんとうにどうでもよくて これをよんだからってどうにもならないのが好きだとおもった それはカフェでよむポップだけれどもそれだけじゃなくて、どうにもならない<BR>
もちろんここでも書くけど、この人の良さはその視点がいいとか、書くのがうまい、ということではなくて、だいじにしているというところだとおもう<BR>
ことばにするとくだらないうすっぺらい(ということばさえすでにくだらなくうすっぺらい)ようなことだけど、永田もえが大島弓子に、ファンタジーは感覚のリアルがそのファンタジーの境目っていったけど、でもほんとにそういうことだとおもう とあることばにこころがきりとられて、そちらのせかいにいく、ということがつまりはなんかいい、こころにそうというようなことになっていくようなきがする
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そんなことをかいてさらにかくけど、このあたらしいかんじ(大事なことはのほうず・ことばにはしない・かといって行間にかかれてもいない)は共感でもない(これジャージの二人にも言える)
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