- Amazon.co.jp ・本 (602ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103534259
作品紹介・あらすじ
そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だった。
感想・レビュー・書評
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牛河の登場によって、ぎゅっと2人の距離が縮まる。
どんどんスピーディになり、物語が加速するイメージ。
良くわからない部分もあるが、こういう世界観好き。
本物はどこにあるのか。
愛って良いですよね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
1Q84の第3巻。
季節は秋になり、冬の気配がする。
第2巻までは青豆と天吾の章が交互に描かれていたが、第3巻ではそこに牛河の章が入ってくる。
物語は収束していく。登場人物の輪は徐々に狭まっていく。
ある種のハッピーエンドで終わっていて少しほっとする。
ふかえりはどうなったのかとか、戎野先生はどうなったのかとか、気になることは色々あるが、とりあえず結末は来た。
イサク=ディネーセンの「アフリカの日々」が引用されていて嬉しかった。
まだ買っておいて読んでいない(または途中で読みやめた)村上春樹の本が何冊かあるので、この際だから読んでしまおうと思う。 -
壮大なラヴの物語や。
青豆と天吾のハッピーエンドでよろしかったです。
分からないものは分からないままに後ろに置いてきたし、良かったです。
好き。 -
等閑にうんざり。または、パチンコやバラエティ番組との相似
一気に読める。洒落た会話に、視覚的な情景描写、ブランド名や性的な事柄も遍在し、暴力や醜悪さの露出もあり、手軽に「文学的な気分」を楽しめる。チャンドラーの洒落た会話、アーヴィングの露悪的な人物描写、その他翻訳小説の影響らしき文が垣間見え、パチンコのリーチ予告のような快感もある。BOOK1、2の読後に「で?」と思った気分は解消しない。あのノルウェイの森の頃から、もう四半世紀。それなりに笑わせてくれるが、風刺も機知も無く、顔見知り同士のお決まり冗句しかないバラエティ番組を、延々と見続けているような気分だ。
一九八〇年代に読書好きもしくは単に本屋に通う者にとって、村上春樹は看過しえない事件だった。英米文学の書棚には一九八一年から彼の訳書が増殖しつつあったし、一九八七年には、どうやっても、赤と緑の商業的に合理的な装丁のあの本からは逃れようが無かった。チャンドラーはともかく、フィッツジェラルドとアーヴィングに関しては、村上春樹訳のおかげで、出会えたかもしれない恩はある。
「どうもありがとう。村上春樹先生」
とはいえ、説教であれ、教養主義、自然主義であれ、報道的な観点であれ、経済小説でも、はたまたポルノ小説だったなら尚更、物語は何かを伝える意図を含むべき、と考えると、彼の作品は全く評価できない。相変わらず何も関与していないことは徹底の度合いを増している。その上、性行為の無い妊娠、電話越しでの煙草アレルギー、日本が舞台なのに、皆が英米文学の古典から引用することなど、言っている振りがもっと巧緻になったことは悪質ですらある。。
積極的に性交しないが結局は女性に求められる男性を格好良くみせる癖も相変わらずなら、NHK集金人や麻薬に関するふざけた姿勢は不愉快だった。プロフェッショナルと記された人物が、仕事中に致命的なくらい饒舌に語り、想い出に浸る場面も多い。そして、流行を散りばめ仄めかしつつ、明確な価値観は示さない。言い訳をしながら行為が積み重ねられる。「いははや」、「やれやれ」、「仕方ない」、「もちろん」。
何も肯定も否定もしない。彼が好んでいるだろう翻訳対象の作品は饒舌だった。たかだか200年の歴史しか無いアメリカの上流階級に無邪気に憧れたフィッツジェラルドですら、もう少し、世の中に関与した。『金持ちは善だ。僕もそうなりたい』、と。生前に恵まれなかった彼と違い、経済的にも名誉としても恵まれている村上春樹には、最早、富と名声の維持が、主たる関心事項で、そのために小説を発表しているのだろうか。そう穿ちたくなる。何も言わないなら、サリンジャーのように黙っていることはできないのだろうか。
作中、NHKの集金人が、しつこくしかも不適切に料金回収に訪れる。「村上春樹」自体が、そのような存在だ。本屋で図書館で、僕が病的な読書好きであることを知る他人との他愛無いやり取りにおいて、彼は執拗に扉を叩き続ける。
繰り返すが、文章は分かり易く、筋立ても魅力的、暇つぶしのネタとしてはよくできている。ただ、再読することもないし、人に勧めることも無い。非常に刹那的で他の刹那的な娯楽同様、恐らく常習性があり、パチンコやTVのバラエティ番組を時間の無駄とするなら、これもそうだと思われる程度に、内容が無い。
しかし、きっと新刊は手にするだろう。行きつけの書店で、図書館で、TV、新聞で、嫌になる程、見せつけられ、したり顔で語られるなら、手垢が付く前に自分で試すしかない。誰か発明してくれないものだろうか、彼にサヨナラを言う方法を。
2010/07/06、誤字脱字修正
等閑にうんざり。または、パチンコやバラエティ番組との相似
一気に読める。洒落た会話に、視覚的な情景描写、ブランド名や性的な事柄も遍在し、暴力や醜悪さの露出もあり、手軽に楽しめる。チャンドラーの洒落た会話、アーヴィングの露悪的な人物描写、その他翻訳小説の影響らしき文が垣間見え、パチンコのリーチ予告のような快感がある。BOOK1、2の読後に「で?」と思った気分は解消しない。あのノルウェイの森の頃から、もう四半世紀。それなりに笑わせてくれるが、風刺も機知も無く、顔見知りのお決まり冗句しかないバラエティ番組を延々と見続けているような気分だ。
一九八〇年代に読書好きもしくは単に本屋に通う者にとって、村上春樹は看過しえない事件だった。英米文学の書棚には一九八一年から彼の訳書が増殖しつつあったし、一九八七年にはどうやっても赤と緑の商業的に合理的な装丁のあの本からは逃れようが無かった。チャンドラーはともかく、フィッツジェラルドとアーヴィングに関しては、村上春樹訳のおかげで、出会えた恩はある。「どうもありがとう。村上春樹先生」
とはいえ、説教であれ、教養主義、自然主義であれ、報道的な観点であれ、経済小説でも、はたまたポルノ小説だったならなおさら、物語は何かを伝える意図を含むべき、と考えると、彼の作品は全く評価できない。相変わらず何も関与していないことは徹底されている。いや、性行為の無い妊娠、電話越しでの煙草アレルギー、日本が舞台なのに、皆が英米文学の古典から引用することなど、言っている振りがもっと巧緻になった。
積極的に性交しないが結局は女性に求められる男性を格好良くみせる癖も相変わらずなら、NHK集金人や麻薬に関するふざけた姿勢は不愉快だ。プロフェッショナルと記された人物が仕事中に致命的に饒舌で想い出に浸る場面も多い。また、流行を散りばめ仄めかしつつ、明確な価値観が無い。言い訳をしながら行為が積み重ねられる。「いはやはや」、「やれやら」、「仕方ない」、「もちろん」。
何も肯定も否定もしない。彼が好んでいるだろう翻訳対象の作品は饒舌だった。たかだか200年の歴史しか無いアメリカの上流階級に無邪気に憧れたフィッツジェラルドですら、もう少し、世の中に関与した。金持ちは善だ。僕もそうなりたい、と。生前に恵まれなかった彼と違い、経済的にも名誉としても恵まれている村上春樹には、富と名声の維持が、主たる関心事項で、そのために小説を発表しているのだろうか。何も言わないなら、サリンジャーのように黙っていることはできないのだろうか。
作中、NHKの集金人が、しつこくしかも不適切に料金回収に訪れる。「村上春樹」自体が、そのような存在だ。本屋で図書館で、僕が病的な読書好きであることを知る他愛無いやり取りにおいて、彼は執拗に扉を叩き続ける。
繰り返すが、文章は分かり易く、筋立ても魅力的、暇つぶしのネタとしてはよくできている。ただ、再読することもないし、人に勧めることも無い。非常に刹那的で他の刹那的な娯楽同様、恐らく常習性があり、パチンコやTVのバラエティ番組を時間の無駄とするなら、これもそうだと思われる程度には内容が無いからだ。
しかし、きっと新刊は手にするだろう。行きつけの書店で、図書館で、TV、新聞で、嫌になる程、見せつけられ、したり顔で語られるなら、手垢が付く前に自分で試すしかない。誰か発明してくれないものだろうか、彼にサヨナラを言う方法を。
2010/05/04、読了。杉並図書館から借用。 -
単純にこの世界観が好き
-
『説明しなくてはそれがわからないというのは、
どれだけ説明してもわからんということだ。』
何度も繰り返されるこの言い回し
自分の作品はそういうものだと言っているようにも思える
確かに彼の作品を読んでいる時は楽しくて
(でも長くて読み終えるとほっとする)
感想らしきものも浮かばず そして忘れる
(なにも心に残らない)
ただ楽しかった~
(別の世界に行ってた~)
という余韻だけが残るので
また他の作品も読んでみたいなと思ったりする
一か所だけ気になったところ
3巻の真ん中で青豆と天吾がニアミスするところ
ここでいくつかの「もし」が我々の頭に浮かぶ
我々って?作者と私たち読者?
なんだか妙な気分になった -
BOOK3はあんまり評判が良くないと聞いていたのだが、これはこれで面白かった。
青豆と天吾が出会うまでは引っ張り過ぎとは思いつつも、いつ出会えるのかという期待が高まっていて、出会えたときはちゃんとカタルシスを感じた。
それとBOOK3は何よりも牛河が良かった。
牛河の出自が語られる章は非常に良かったし、牛河がタマルによって退場させられるところも村上春樹らしいダークな面が感じられて良かった。
終わってみると村上春樹の長編作品の中ではかなり上位に位置する作品かもしれないな、と感じた。 -
読了。滑り台、高速道路の非常階段のくだりは、『わたしは真悟』の名シーンを思い出した。
長い作品だし、そこかしこに良い場面や表現があるから、どうしても終盤にかけて期待感は高まる。回収する、しないはそれほど問題ではないし、投げっぱなしやとっ散らかしは気にならないが、終わり方、着地のし方が長い物語を支えきれていない感じ、膨らんだ期待感のやり場のなさは否めない。 -
2で終わってたらすごい作品だったと思います。
3とってつけたような展開で終わり方もおざなりな感じがします。
2で終わる予定だったと聞いて納得しました。
それを踏まえて読むと、読者への皮肉も感じられてそこは面白かったです。 -
最後は?ハッピーエンドだけど。これでいいのか。