宗教の本性: 誰が「私」を救うのか (NHK出版新書 656)

著者 :
  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140886564

作品紹介・あらすじ

死にゆく自分を支えるのは―― 神か、仏か、私自身か?

NHK「100分de名著」の指南役としてもお馴染み、科学にも通じる仏教研究の第一人者による驚きの宗教概説書が登場!
「原始仏教」を題材にした『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』、「宗派の教え」に着目した『大乗仏教――ブッダの教えはどこへ向かうのか』につづき、本書では、自分や家族の生き方の規範であり、死に際の救いとなる「宗教の本質」を取り上げる。
仏教はもちろん、一神教、多神教、二元論宗教、そしてイデオロギーまで。それぞれの宗教の種類と成り立ち、向き合い方までを立体的に見ながら、「宗教がなぜ人間にとって必要なのか」を解き明かす。

プロローグ 宗教とは何か
第一講 多神教からはじまった
第二講 一神教、二元論、そして仏教
第三講 イデオロギーという名の宗教
第四講 「私」が宗教と向き合うとき
第五講 自分で自分を救う教え
第六講 宗教の智慧を磨く

感想・レビュー・書評

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  • 神学書を読む(73)宗教家必読の一冊『宗教の本性 誰が「私」を救うのか』 : 書籍 : クリスチャントゥデイ
    https://www.christiantoday.co.jp/articles/30062/20211012/theological-books-73.htm

    NHK出版新書 656 宗教の本性 誰が「私」を救うのか | NHK出版
    https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886562021.html

  • 『感想』
    〇著者は自分の信じる宗教以外にも寛容で、否定はしないところに好感が持てる。だからほかの宗教を冷静に分析できる。

    〇宗教にのめりこんでいる人って、自分たちが正しい、他は全部間違っていると疑いもなく言ってくる。そう言うなら正しいのは1つしか存在せず、世の中のほとんどが嘘ということになる。それなら自分の信じる道が正しい確率はほぼないよ。

    〇資本主義というイデオロギーは宗教だという意見には納得する。金を稼ぐことが行動規範となるのなら、それはもはや宗教。

    〇宗教は選ぶものではなく出会うものか。確かに商品のように見比べて自分が一番良いと思うものを決めているのではない。それよりも環境で自分の意志とは関係なく決められている。そこから変わる人もいるのだが、それも出会いだ。

    「フレーズ」
    ・釈迦は「人間の苦しみの原因となっているのは欲望(煩悩)であり、演技の法則を理解し、法則を踏まえたうえで正しい生き方を選択すれば、欲望は消滅し、心の安寧が得られるはずだ」という結論にたどり着きました。(p.76)

    ・「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系」というのが、ハラリさんが提示した宗教の定義です。(p.87)

    ・私たちは生まれながらに資本主義や共産主義といったイデオロギーにどっぷり浸かって生きているため、一定の法則(超人間的な秩序)が自分の思考や行動を支配していることに気づきません。しかし、じつは誰もがイデオロギーを信じて生きています。(p.88)

    ・人にとって、自分が死ぬということ以上に重大な問題はありません。理に叶っているかどうかは二の次で、一番重要なのは、その人にとって説得力のある言葉かどうかです。その話を聞いた本人が信じて、本人が救われるのであれば、それはその人にとって、まぎれもない真実だということです。(p.142)

    ・宗教の本性(p.151)
     1)ハラリさんのような客観的視点で見るなら、超越存在の力を前提とする従来の宗教はもはやその信憑性を失いつつあるが、その代わりに、科学的世界観を背景とする、別形態の現世完結型宗教が我々を取り巻いており、その意味では今も昔も、我々人間は宗教世界に浸かりながら生きている。
     2)しかしその現代型の宗教は、科学的世界観を前提として成り立っているため、現世で生きている人間の社会だけを救済対象にしている。したがって、死にゆく者の、死に対する恐怖を取り除くことはできない。我々現代人は、従来の宗教が果たしてきた「死の恐怖の完全除去」という効用を享受することのできない立場に置かれており、一人ひとりが個別に死と向き合わねばならない、絶望的な状況に陥っている。

    ・宗教には、よいか悪いかの絶対的な基準は存在しないと思っておいたほうがいいでしょう。置かれた状況や立場によって、見えているものは違います。たとえ大多数の人の目から見て悪い宗教だったとしても、当事者がそれを心から信じ、生きる支えにしているとしたら、それはその人にとってはよい宗教ということになるのです。(p.194)

  • タイトルの「宗教の本性」の結論としてP151-152に記してあるものは、ある意味、救いのない内容となっている。

    それについて著者なりにP187-189でフォローしているが、これも万人向けではない。

    著者は仏教の方なので結論も仏教に偏りがちです。
    全般を見渡すと、かなり客観的に捉えているとわたしには思われます。

  •  著者は花園大学文学部仏教学科教授.著者紹介によると専門は,仏教哲学・古代インド仏教学・仏教史.


     「宗教とは何か」について語るには,客観的・学術的な視点を持って語ることと,主観的な観点をもって語ることの両方が必要である.

     前半の3章では,ユヴァル・ノア・ハラリが書いた『サピエンス全史』に基づき,客観的・学術的に,宗教について語る.
     人類は統一に向かっている.統一に重要な役割を担う要素として「貨幣」「帝国」「宗教」があげられる.ただし,先の3つの要素はすべて虚構(多くの人が実在すると思っているから実在しているように見えるが,実際には存在していないもの)である.
     宗教は,多神教・一神教・(善悪)二元論・自然法則を信じる宗教・イデオロギー(資本主義や共産主義,自由主義など,平等や人権)に大別できるが,実際の宗教はこれらうちいくつかの混合であることが多い.
     イデオロギーは人間至上主義の宗教である.
     ただし,ハラリの意見によると,科学は宗教ではない

     後半の3章では,著者の経験と物理学者戸塚洋二の記録(『がんと闘った科学者の記録』著者 戸塚洋二,編集 立花隆)に基づき,主観的な視点から宗教について語る.
     釈迦の仏教では,欲望を消すことにより苦しみを消滅させることを説く.
     多様な価値観・世界観が存在することを知っただけでも苦しみは和らぐ.
     我々は何らかの宗教を信じながら生きている.ゆえに,我々は常に・既に,世界を我欲のフィルターを通して偏向してとらえている.この自覚から始まるなら,どのような宗教に出会ってもいいのではないか.
     釈迦の仏教の原点を言い表すと,価値観を変えて自己の欲望を捨てること.そう考えると,大乗仏教でも一神教でも,釈迦の仏教の「横に連なる」のではないか.宗教の多様性を容認できるのではないか.


     本書は,NHK出版新書における著者の前2作,『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』,『大乗仏教――ブッダの教えはどこへ向かうのか』に続く3作目である.この本は,著者の宗教者としての著作の集大成ではないだろうか.


    2021.08

  • 死にゆく自分を支えるのは―― 神か、仏か、私自身か?
    科学にも通じている仏教研究の第一人者、佐々木先生による宗教論です。
    自分の生き方の規範、死に際の救いとなる宗教の本質を語ります。
    仏教から、一神教、多神教、二元論宗教、そしてイデオロギーまで、それぞれの宗教の成り立ち、違い、向き合い方までを見ながら、なぜ人間は宗教なしで生きられないのかを解き明かしていきます。

    この世をどうやって生きるかと考えたとき、私たちはどうしても苦しい道を避けて、自分にとって楽で快適な道を選ぼうとします。宗教で言えば、「自分を律せよ」と説くものよりも「願いは叶う」と説くものに惹かれてしまいがちです。一概には言えませんが、私の経験から言えば、たいていは、自分がつらいと感じた道のほうが結果的に正しかったということになるようです。欲望を満足させるかたちの選択肢は、欲望が叶った瞬間は満足しますが、さらなる上を求めて終わりがないので、結局は究極的な解決策に至らないものなのです。 ー 210ページ

  • 世界で起きていることを理解しようとするとき、私は地理と歴史と宗教の知識が理解を助けてくれるのではと思っています。そこで、宗教とはそもそもどういうものか知りたくて読んだ本がこの本です。
    宗教とは、教科書に書かれていたような○教だけではない。すると、無宗教だと思っている人の多くが、何かしらの宗教を信じながら生きているということになる。そして、宗教の中には、今生きている社会の問題は扱っても、死の恐怖から救ってくれないものもある。
    私には新鮮で驚きの連続でした。
    死や不幸に直面して、何かにすがらずには生きられないような状況に追い込まれない限り、宗教の本質を知ることはできないと書かれています。だから、この本を読めばあっさり宗教の本質を理解できるということにはなりませんが、少なくとも宗教というものの捉え方が変わる本だと思います。
    【事務局図書課主査 赤石知香】

    ●未所蔵です。読みたい方は学内者限定ホームページから「読みたい!」を送信してください。

  • 現代において宗教がもつ意味について考察をおこない、釈尊の思想にもとづく仏教が「私」にとってどのような意味で救いとなりうるのかという問題についての著者自身の考えが提出されている本です。

    本書の前半では、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』の内容を紹介しながら、宗教が人類の歴史においてどのような意味をもってきたのかということを論じています。後半では、『がんと闘った科学者の記録』(文春文庫)の著者である物理学者の戸塚洋二の闘病記を参照しながら、死に直面している人びとが直面している苦しみに対して、初期仏教の立場からなにがいえるのかという問題について、真摯な問いかけがなされています。とりわけ著者は、現代人にとって宗教の提示する救済の物語を信じることが困難になっているという事実に向きあい、「自分自身を変えることによって本当の安楽を手に入れること」をめざした初期仏教の考えかたの意義を示そうとしています。

    一方で科学的世界観が浸透している現代の状況を受け止めつつ、「私」にとっての死という問題に対して、欲望を捨てて自分を変えることで心が静かで安寧な状態をめざす道を示すという著者の企図はそれなりに理解できますが、初期仏教の研究者に多く見られる倫理主義的な傾向を感じてしまいます。

  • 釈迦の仏教を説く、科学者仏教研究家の斬新な宗教論。要望実現→満足→安心と願うキリスト教、イスラム教等他宗教と違い、仏教の原点である釈迦の涅槃への道を「欲望の抑制・消去」に拠る「不安の解消」とする。宗教とは「心の薬」であり、人類の祖先であるホモサピエンスが他の類猿人を凌駕して生き残れたのは、貨幣(経済)、帝国(政治)そして宗教(文化)
    の存在と言う。

  • 「宗教の本性」

    興味深く読みました。
    当然ながらところどころ私の見方とは異なる視点が散見されてツッコミも入れたくなりますが、それも込みで面白かったです。
    何かしら宗教観があると宗教の偏りなく語るのは難しいですね。一度染められたら無色透明には戻れない。尤も宗教観に染まるまでとて、言うほど無色透明でもないのでしょうけれど。

    以下読みながらの私のツッコミです。

    P40
    「動物は鳴き声やうなり声などを使って、敵が近づいたことや餌のありかを仲間に伝えますが、伝達できるのは目に見えている事実だけです」
    これは当然の前提として語られることも多い認識ですね。ただ、本当なのかな、と私は幾分懐疑的に思っています。鳴き声やうなり声でももしかしたらすごく高度な意思伝達をしているかもしれない。人間が理解できないだけで。
    蚊や蠅を叩こうとするとき、それらの虫がふいっと手から逃れることって多いですよね。もしかしたらああいった虫たちは人間の五感では捉えられない、例えば殺気などの情報を私たちの視力や聴力のような感覚器官で感じるものと同様に感じ取っているのかもしれない。人間の五感外の感覚が人間でない生きものには備わっていて、情報を受け取ったり発したりできているのかもしれない。
    人間が己れの優位性を信じ込んでいるその裏で、それ以外の生きものたちは高度な情報のやり取りを行っているのかもしれません。

    P51
    「キリスト教には三位一体という概念があり、イエスは神の子であり、「父なる神(主)」と「イエス・キリスト」と「聖霊」は一体であると考えます」
    この箇所(前後含めて)の書きかたでは、キリスト教初期指導者のパウロの時代に既に「三位一体」の概念があったように読み取れます。ですが、三位一体はアタナシウスに端を発する考えかたで、アタナシウスは西暦298~373年の人物。対してパウロは前10~65年頃を生きた人物です。このことからパウロの時代には三位一体の概念はまだ存在していなかったと考えるのですが、著者がこの辺りをどのように理解しているのか、多少不安です。

    P129
    「若いころはやっぱり死ぬのが怖かった」
    ひとそれぞれだなぁと強く思いました。私の個人的な経験を語れば、若い頃は死ぬのは全然怖くなかったもので。青年期に発した病気の所為で、死とは隣りあわせにいた時間が長かったのですが、それでも若い頃、死をどんなに真剣に感じていてもそれは怖いものではなかった、現実的な脅威ではなかったのです。それが私にとっての若さでした。いま、あの時分から較べれば齢を重ねて、死を現実的な肌触りで感じます。私自身の差し迫った怖さとして、死を考え恐れることが多くなりました。

    P130
    「死ぬことが怖いのは、「死んだ後にどうなるかわからない」という不確定性に対して不安を感じるからです」
    死後に極楽や天国が待っている、死後の世界は恐ろしいところではない、という確信があればひとは死に恐怖を覚えない、とこのあと展開する文章です。揚げ足取りのようになってしまったら申し訳ないですが、死後必ず地獄に落ちる、とか、まったくの虚無に飲まれて何も残らない、とか、そういった「確定性」「確信」がある場合も死を恐れるように思います。読みながら何度も感じたことですが、想定している着地点へ辿りつくために予定調和で論理を巡らせたくて、ところどころ理屈が甘いところが気になって仕方ありません。

    P144~146
    科学と宗教の両立について、語られている部分です。
    科学と宗教は相容れないものだという前提に疑問があります。科学者は宗教を敬虔に信じていることも多いと感じます。親族に化学を教えていた大学教授がいますが、彼はキリスト教信者とのことでした。科学で世界を考えていくと、こんな法則が自然界に存在するなんて何かしらの神秘の意志があるとしか思えない、という考えに至ることがあるのでしょう。

    P151~152
    「この講義のタイトルは「宗教の本性」ですが、その結論がこれです」
    と、いう切り出しで一応の「結論」が語られるのですが…うっすい結論だなぁ、としか言いようがありません。

    P154
    反論するひと(一種の仮想敵)の反論をわざわざ恣意的に軽く、穴だらけに設定するのはいかがなものか。

    P186
    ここで提示された結論には(ここまでの論理展開に不満はあるものの)納得できます…が、

    P188
    納得できると思ったのも一瞬、やはりちょっと独善的だなぁと思わざるを得ません。

    P206
    宗教は選ぶものではない、出会うもの。どの宗教がいいかと目移りできるひとに宗教は必要ではない。宗教は「苦しみの中で必死につかむ」もの。この意見には全力で同意します。わかる。

    P208
    っていいこと言ってたのに、ここで語られる提案は結局「出会う」のではなく「選ばせる」ということになってませんか? 矛盾がひどい。

    P213
    著者自身が「変わらぬ私」に深く囚われているように感じます。

    P215
    結論ありきの一冊でした。
    もちろん、着地点を想定して論を進めるということ自体を否定するつもりはありません。論文でも小説でもエッセイでも、例えばTRPGのシナリオであったとしても、着地点を見通さずに進むことはむしろ悪手だと思います。ただ、その論理展開があまりにも恣意的だと見透かせてしまうのは説得力を減じてしまうのではないでしょうか。

    面白く読みながらも、その「見え透いた著者の意図」がとても残念に感じました。

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著者プロフィール

1956年福井県生まれ。花園大学文学部仏教学科教授。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科仏教学専攻卒業。同大学大学院文学研究科博士課程満期退学。カリフォルニア大学バークレー校留学をへて現職。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。著書に『宗教の本性』(NHK出版新書、2021)、『「NHK100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば』(NHK出版、2012)、『科学するブッダ』(角川ソフィア文庫、2013)ほか多数。訳書に鈴木大拙著『大乗仏教概論』(岩波文庫、2016)などがある。

「2021年 『エッセンシャル仏教 教理・歴史・多様化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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