- Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163248707
作品紹介・あらすじ
60年後の原爆小説!無原罪のマリア像が見つめる現代の闇。著者渾身の問題作。
感想・レビュー・書評
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私が大学で所属していたゼミでは、先生が広島の原爆を巡る研究をしていたこともあって、毎年8月に有志が集まって広島に調査旅行に出かける風習がある。私はこの本を、その広島へ向かう車中で読んだ。向こうについてから分かったことだが、現地・広島では、この本は非常に厳しい評価を持って受け入れられたようである。中国新聞には「戦争の記憶の風化を感じさせる」と評論されている。それは、偏にこの本の持つ「語りの主体」の問題性に起因するものだと考えられるだろう。従来、「原爆文学」と言えば、例えば林京子や原民喜のように、原爆を実体験として語りだす一人称的な取り組みがほとんどであった。しかし、戦後60年以上を経て、そうした取り組みに限界が訪れている。実体験を持つ人々が高齢により死んでいくという世界の中で、「原爆文学」は一人称の主語を持てなくなりつつある。本書の著者である田口ランディは、戦争も原爆も経験していない世代の人間である。今後は、彼女のような戦後世代の人間たちが「原爆文学」の書き手にならなければならない(それを描き続けることの是非は別として)。「自分が体験していない<原爆>という体験をいかにリアルに描き出すか」というランディの取り組みに、同じく戦後世代の読者である私などは、凄まじい共感を持って接することが可能であった。しかし一方で、もう少し上の世代、原爆や戦争の影響を色濃く受けた世代や、あるいは広島の人間にとっては、若干抵抗感があるかなと思う節もある(特に、原爆による「恐怖」あるいは「突然の暴力性」の描写を、DVのそれにオーバーラップさせるようなことは、果たして問題の本質を矮小化させているとは言えまいか?)。ただ私は、広島からも原爆からも隔絶された場所で育ちながら、なぜかそれに関心を持たずにはいられなかった個人としては、この作品でランディが伝えるものから、大変な勇気をもらった部分がある。私たちの世代の「原爆文学」として、これからも是非読まれていってほしいと思う本の1つである。
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私は原爆についてほとんど何も知らないと言っていい。
体感として知れるはずがないことは当然だけど、知識としても知らない。
そんな自分を正当化するつもりはないが、現代人はそういう人が多いのではないかと思う。「原爆の存在は知っている。だけどその中身はほとんど知らない」。それは罪深きことであり、平和に埋もれている証拠なのだと思う。
そんな現代人である私にとって、事件としての原爆が描かれた小説というものはきっと、リアルには入ってこなかったと思う。だけどこの小説はとても身近。その辺に転がっていそうな事象と原爆のつながりが描かれていて、そのほうが却って私のような人間にとってはリアルなのだと感じた。
「知らない」ということは恐ろしい。「知らない」からこそ、無邪気に振る舞えてしまう。「知っている」人は、その重さを身をもって分かっているからこそ、無邪気にはなれない。
原爆について「悲惨な過去だ」「凄惨な出来事だった」と語れるのもきっと、何も知らない人たちなのだと思う。
知っている人たちはきっと、そんな一言では済ませられないし、ひと括りにも出来ないだろう。それ以前に、言葉にすることさえ躊躇ってしまうかも知れない。
私も「知らない」から、こんな風に書けるのかも知れない。
映画『火垂るの墓』を観たときにも感じたことだけど、心のどこかで“いつかの話”と思っているところがあるんだと思う。自分には無関係だという意識がどこかにあるからこそ、物語も客観的に見てしまう。
この短編集もきっと、読む側によって全く異なる感想になるような気がします。
経験者に言わせれば「こんなのリアルじゃない」だろうし、未経験者的には身近なものになるだろうし。
私は基本的に田口ランディさんの文章や書かれる雰囲気が好きです。精神的に迫るところがあるから。
そして私は「知らない」現代人だから、物語として「好きな小説」だと言える。
ただテーマとしてはとても難しいと思います。無意識であっても現代人であっても、日本人であればいつの間にか根付いているテーマなのかも知れない…と感じました。 -
作家の田口ランディさんが何度か広島へ行かれていたことは知っていた。そのうえで、この本を書いたのだろう。漠然とそんなことを思いながら読まずにいた。
今回、これを手にしたのもたまたま目につく場所におかれていたからで、「さぁ読もう」といったものではない。
ただ、昨年そして一昨年と広島で語り部さんの話を聞く機会に恵まれたので、読む準備はできていたのかもしれない。
自分もそうだが、田口さんも戦争を知らない世代の方だ。
だからこそ、想像するしかない。共感するしかない。
戦争や原爆は伝えていかなければならないことだろう。
でも、あくまでも想像と共感が原点となってしまう。
当事者である人々、戦争を知る人々からすれば、冷たい。分かっていない。そう言われるかもしれない。
でも、限界があるのだ。想像にも共感にも。
そのうえで伝えていこうとするならば、どうすればいいのか。
この本にあるのは一つの答えだと感じた。
ただ百点満点の何点であるかは分からない。
気に入らないという人も少なくないと思う。
それでも次の答えを出さないといけない時期にきている。
だから、否定されることを恐れずに、こうやって一つの答えを出した田口さんは素晴らしいなと思えた。 -
田口ランディぽい。「イワガミ」が良かった。
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やはりこういう季節なので原爆関連の小説を読んでみた。
短編集で、感想はというとちょっと?だがまあ難しいテーマだろう事は想像に難くない。何を言ったら良いのか僕ももう一度広島長崎に行って考えてみようかと思う。 -
予測できたとはいえ、原爆に対し、我々以降の世代による思いは変わってきた。薄れたとは言いたくないが、時と共に冷めるのは否めない。唯一無二の被爆国でもあるのに、世界で最も戦争を身近に感じない国民なのだ。語りべを務める被爆者は高齢となり、さほど遠くない将来には失うだろう。そうした時、これまでのような平和記念館での紹介やらでは、果たして次世代に反戦非核を訴えられるだろうか。史実は遠ざかり、世相は変遷する。常にその時代に適した伝搬方法を考えていかなきゃいけないんじゃないか。それが著者の言わんとするところだと思う。
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ヒロシマの本はたくさん読んだけれど
こういう角度からヒロシマは、読んだことがなかった。
ランディさんの視点はやはり、独自だ。
「時の川」にも考えされられたけれど
「イワガミ」には、浄化された感じがする。
浄化されるような小説に出会ったことは無かった。
3.11からのモヤモヤも少しだけ、晴れた気がする。
この広島で
もっとヒロシマのことを知りたいと思った。
原爆が落ちる前の広島も、もっと知りたい。
二葉山にも行ってみよう。 -
『原爆』をテーマにした短編集。
4話。
広島と長崎に行き、少しだけですが被爆という過去に触れてきました。
晴れていれば新潟に落とされていたんだ。
だから、なんとなく他人事じゃない気がして。
平和記念公園も、町のいたるところに見受けることができる、被爆の爪あとも、
私の胸にはしっかりと刻まれています。
表題にもなっている被爆のマリア・・・
すぐに長崎のものを思い出しました。
だけど、内容としてはかなりの違和感。
他の3話は、胸に伝う何かがあったけれど、
この話は、かなり異様。
結局何????
だけど、3話目の『イワガミ』がとても良かったです。
何千年も前から、ずっと広島を見つめてきて、
戦争が起きて、原爆が落とされて、
苦しむ人々を、そしてまた平和になっていく広島を、
ずっと見つめている磐神。
いくら時が経っても、「広島」は広島。
永久不変である・・・そんな風に感じました。
被爆のマリアがやっぱり・・・。 -
短編集。
良かったとは思うけれど、表題作だけがなんだかぴんとこない。
ので、★3つ。