話の終わり

  • 作品社
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861823053

作品紹介・あらすじ

年下の男との失われた愛の記憶を呼びさまし、それを小説に綴ろうとする女の情念を精緻きわまりない文章で描く。「アメリカ文学の静かな巨人」による傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 西部の大学に教師として赴任してきた「私」は、その大学に通う12歳年下の男子学生と知り合い、その日のうちに部屋に入れた。
    彼と知り合ってから最後に会ったときまで1年にも満たなかった。
    もう彼は私を忘れただろうと思った頃に、彼から詩が届いた。返事を悩んだ私は、彼に短編小説として返事を書くことにした。
    私が自分の気持ちに区切りをつけたのはその1年後だった。

    恋愛の終わりという「話の終わり」から始まるこの小説には、二つの「私」の語りが入り交じり、話が続く。
    西部に住み男子学生との恋愛を思い起こす大学教師兼作家の「私」、彼女はその数年後に東部に移りヴィンセントという夫とその父親と暮す翻訳者兼小説家となり、また「私」として語る。二人の「私」は昔の恋愛をもとにした小説を書いている。(または、書いた)

    大学教授の「私」は、当時の手帳(日記のような)をもとに男子学生との恋愛を振り返る。
    出会った日に部屋に入れて恋愛関係を始めたが、会いたくない気分のときに出会うと不機嫌さを隠せなかったんだとか、する気のないプロポーズをされたので断ったんだとか、長続きしない前提で付き合っている。
    しかし学生との恋愛関係が終わった後は彼の姿を探して街を放浪し続ける。彼の車にばったり会うのではないかと街中に車を走らせる。勤務先のガソリンスタンドに行き姿を見る。彼がいそうな道沿いのレストランで他の男とデートして彼に見せようとする。家の前に車を止めて新しいガールフレンドを窓越しに見ようとする。
    男子学生の方は若いので、恋愛関係が終わった後も気にせず金銭面などで助けを求めてくる。だが大学教授の「私」は、追い回している男子学生が助けを求めても、とくに力になろうともしない。
    よりを戻したいわけではなくて自分の一部が彼のものになったという状態を長続きさせようとしているのであり、そして自分が彼の姿を追い回している方が自由でいられるのだ、と分かるんだか分からないんだかの行動心理を滔々と語り継いでいく。自分の行動を振り返るために、当時の手帳を見るのだが「記憶と記載の内容が違うんだ」と思っている。記憶と記録が違うのならどちらを小説として残すのか?

    そんな大学教授の数年後である翻訳者の「私」は、作家だが翻訳もしている。どうやら翻訳者というものが低く見られたり、同じく作家である夫ヴィンセントとは創作の違いがあるようだ。そして同居のヴィンセントの父親の介護に煩わされたりもする。
    翻訳者の「私」の語りで見えるのは小説を書くことへの悩みだった。私と彼の名前をどうしよう?どこまで本当のことを書こうか?時系列はそのままにする?長編になるか短編になるか、下書き段階の原稿を誰に読んでもらうか…、読者としては、小説を書く実況を聞いているような気分になるのだ。そして大学教授と翻訳者二人の「私」の語りは、「私」自身が当事者なのにあまりにも客観的でなんだか不思議な感触を味わう。

    そして私は読んでいるうちに、この二人の語りの繋がりがよくわからなくなってきたのです。(@@?)
    普通に読めば大学教師がその後翻訳者になってヴィンセントと結婚したのだろう。
    しかしどちらの「私」も昔の恋愛をもとに小説を書いているので、大学教師と男子学生の恋愛の話は、翻訳者が過去の体験をアレンジして書いた小説なのか?いや、反対に、翻訳者私の話が大学教師の書いた小説だったりする??などとわからなくなってきまして(@@??)

    二人の「私」の語りは、自分の行動や自己分析は詳細だが、感情は直接的には書いていないんです。悲しい・涙が出た、などとは書かずにただただ「彼の姿を街中探した」と行動で、そして当時自分が見ていた物、いた場所の風景を描写することで伝えていきます。この現実味の薄さも「実は片方は、もう片方が書いている小説なのか?」と考える理由となりまして。

    …と、このように書くとひたすら陰鬱お話のようですが、自己完結しているだけあってところどころ笑えるんですよ。
    男を探している間に彼が家に来て会えなかった?! 自分で自分を冴えない女のように書いてるけど、男子学生以外ともデートしたしその後結婚もしたんだよね?! 男子学生と別れて雨の夜にレインコートとレインシューズで彼のマンションのベランダによじ登ることにした?! 風変わりなルームシェアの相手に「あんたみっともないから辞めなさいよ」と言われて「そうか、では辞めよう」って自分がみっともないって認めたね?!

    まあ、冴えない中年女性でも、別れた若い男を追いかけ回しても、それを過去として新しい生活ができるんだよ、うん。

    そして小説としても、学生との恋愛の区切りをつけた「話の終わり」から初めて、それまでのこととそれ以降のことを250ページかけて語り、終盤でなぜ冒頭で語った場面を「区切り」にしたのかを語る、とても綺麗に始まり終わっているという美しい作りだと思いました。

  •  この本はかなりいい。他人が書いたとりとめもない日記を延々読んでいるような気分。物事の捉え方とか言葉の選び方の点で自分と重なるところが多くて、十秒に一回くらい禿同した。眠れない夜とかに永遠に読みたい感じ。

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    p.16
     そのとき彼と何を話したのかは覚えていない。もっともあの頃の私は、初対面に近い人に会うと、いろいろな雑念に気を取られて話の内容はまるで記憶に残らなかった。話しているあいだ自分の服や髪が変でないかと気になったし、立ち方や歩き方、首と頭の角度、足の位置までもが気になった。(中略)そういったことを考えるので手いっぱいで、相手の言ったことは、それに返事をするあいだは覚えているが、それ以上は考えないので、あとまで記憶に残らなかった。
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     と、途中までは思っていたのだけれど。途中までは。

     主人公は30代半ばの女性。教え子で12歳年下の大学生と出逢ってすぐ互いに惹かれ合い、その日のうちに恋人関係になる。しかしこの女性なかなかの情緒不安定。一緒に過ごしているときは彼を鬱陶しく感じてぞんざいに扱い、離れていれば会いたくてたまらなくなって彼の姿を探し求めて闇雲に街を彷徨う。一人で文章を書いたり読書したりして過ごすのが好きな彼女と、社交的で友人が多い彼。いつしかすれ違いが続くようになり、彼女が旅に出たことをきっかけに二人の関係は終焉を迎える。ここまではよくある話。

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    p.25
     まだ何ひとつ始まっていなかったあの時間こそが、ある意味では最良の時だったのかもしれない。二本めのビールを開けたとき、私たちは秋の終わりから冬にかけて起こったその後のすべての出来事もいっしょに開けてしまった。けれどもまだ二本めを開けずに座っていたあの島のような時間には、幸福だけが二人の目の前にあって、二本めを開けないかぎり、それは始まらずにいつまでもそこにあった。
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     この本の醍醐味はその後、一人になった彼女が異常なまでの彼への執着を見せる展開。職場へ押しかけ、行きつけのスーパーで待ち伏せをし、パーティに誘い、彼が新たな恋人と住む家へ夜中に偵察に行き、あたかもそれが自分の使命であるかのごとく執拗に付け回す。友人たちとは疎遠になり、孤独を深め完全なるストーカーと化した彼女の奇行の数々が、感情を排除したフラットな語り口で淡々と語られるのが非常に不気味でシュール。え、なんか変なことしてます私?っていうテンション。

     ひとつ解せない、というか逆にそれもそれで男女関係の「リアル」なのかもしれないなあと感じたのは、彼女のストーカー行為の数々に気付きながらも彼がこれっぽっちも嫌がっていない点。新しい恋人が居ながら思わせぶりな態度を続け、まだ一筋の希望があるような素振りを見せ続ける。待ち伏せしていた彼女の車に普通に乗るし、車内で肩は抱くし、家に入るし、家に入れる。うーん、ここまで奇々怪界なラブストーリー、読んだことがない、、、

     作品の終盤、ある程度諦めがつき冷静さを取り戻してきたように見える彼女が語る「書くこと」の意味付けにはとても共感した。ある種の自浄作用のような。その紙の上に怒りとか虚しさとか苦しみとかそういう負の感情を全て置いてくるつもりで書くのだけれど、書いているうちに精神がどんどんマイナスな方向に行ってしまって、結局本末転倒ということも多々ある。書くと残るしね。時間が風化してくれることも文字にしてしまうとずっと消えないからいいのか悪いのかわからない。それでも書く。そうするしかないから。

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    p.226
     まず最初に怒りがあり、ついで悲しみが膨らんでいき、あまりに悲しみが大きくなると一部だけでも書き留められないかと考える。そして気持ちなり記憶なりを正確に書き留めることができると、しばしば胸の中に穏やかな気分が広がった。書くときには細心の注意を払う必要があった。うんと丁寧に書くのでなければ、悲しみをその中に移すことができなかった。私は激しさと用心深さを同時に備えて書いた。書いていると、身内に力がみなぎってきた。一パラグラフ、また一パラグラフと前のめりになって書くうちに、自分はいまとても価値あるものを書いているのだという気がしてきた。だが書くのをやめて頭を上げると力の感覚は消え、つい今しがた書いたものに何の価値も感じられなくなった。
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     起こったことも感じたこともひとつも漏らさずにとにかく全部書く、という執念と狂気を感じた作品だった。眠れない夜とかに永遠に読みたくはないわ。

  • 5/28 読了。
    三十五歳の女性大学講師が、十二年下の男子大学生と付き合いだす。二人の関係ははじめから食い違っていた。傷付くのは嫌だが若い男に対する所有権は主張したい女と、年上の女と付き合う恩恵を受けつつも対等に扱われたいと望む男は、ついに修復不能な倦怠に達する。それでも男への所有欲を断ち切れない女はストーカーまがいの行動にまで出るが、やがて男が同世代の女と結婚したことを知る。
    という歳の差恋愛を扱った小説なのだが、構成は独特。完全に恋が終了した時点から過去を振り返り、<話の終わり>はどこにあるのかと思索をめぐらせる女の視点で書かれた断章に、それを小説に仕立てる作業の最中らしい女性作家の視点で書かれた断章がランダムに挟まってくる。女性作家は不本意な翻訳の仕事を受けながら小説を書いており、執筆中から批判的な読者である夫の意見に悩まされている。恋愛小説の主人公の女と、女性作家が同一人物なのかは明示されていないのだが、夫の拒否反応を見るに彼女の過去の恋愛に材を採った小説ではあるらしい。
    となると今度は、女性作家と著者のリディア・デイヴィスは同一人物か、という疑問が湧いてくる。著者はフランス文学の研究者で翻訳の仕事のかたわら小説も書いている女性作家で、確かに作中の女性作家と重ねてしまいたくなる。だが、もし仮にこの三人が全て一人の女性の経験から生み出されたキャラクターであるとしても、細部の曖昧になった記憶を探り、もはや遠い人物のように感じられる過去の自分の感情を想起し、「書く」という作業に還元していくうちに、同定は難しくなっていくだろう。それは、終わってしまった恋の物語における本当の<話の終わり>を明確に指し示すことぐらい、不可能なことなのだ。

  • 何層もの「私」がいる。その別々で且つ同一の私が、入れ替わり立ち代わり頁の最表面へ現れては語りかけてくる。その語りかけは常に一定の口ぶりであるので、個々の私の境界はあいまいになりがちだ。しかし個々の「私」が存在する各層の間には明確な跳躍があり、語りの内容によって、ただの「私」と「メタな私」の差がきっちりと存在することは確認できる。その差異の、鮮明さと曖昧さの渾然に、めまいのような感覚をおぼえる。冗長な物語、果たしてそれを物語と呼んでしまってよいかどうかの判断は今一つつかないところがあるけれど、その内容と何層もの私の存在が相俟って、何か得体の知れない世界へ引きずり込まれてゆくような感覚が生まれる。

    冗長、と言ってしまったけれど、その正確な意味は、この小説の一番下層のレベルでは何か先を知りたくなるような話の展開がある訳ではない、という位の意味だ。あるいは、そこだけを取り出してしまえば、多少退屈な話、ということも出来るかも知れない。そのレベルでの興味は、ひょっとしたらこの逸話の元がリディア・デイヴィスの実体験にあるのかも知れないということ。であれば、この「彼」の一部はポール・オースターが投射されたものなのか、というミーハー的興味がつきまとうだけの読書になってもおかしくない。もちろん「彼」の年齢の設定などはオースターとは異なってはいるけれど。

    しかし有り体に言ってしまえば、一人の女が一人の男と別れた、というだけのことを、口悪しく言えば「ぐちぐちと」思い返しているだけの話が、この小説の何層もの私によって、とびきり変わった感じの小説に生まれ変わる。「私」たちは錯綜する。そしてどこまでも下位の「私」の内面へ分析のメスを深く突き刺し何かを明らかにしようとする。その動きはどこまでも自己完結的で主観的である。但しその視線の動きの働きはとても影響力があって、読者にも浸透する。

    もちろん、それゆえに反対にどの視線にも客観性のようなものが担保されているという印象は残らない。よしんばメタな私が下位の私を分析するという構図があったとしても。また、私が描写する風景はどこまでも薄っぺらく書き割りのようであるし、詳細に語れば語るほどに虚構めいた響きが勝ってしまう。しかしそれゆえにまた、不思議なニュアンスが生まれ得てもいる。虚構めいているにも係わらず、この中には何らかの真実が存在する、という確信のようなものが生まれる(だからこそ、この彼がオースターで私が著者である、という当て嵌めをしたくなる思いが断ち切れないのだ)。そのギャップのようなもの。嘘から出た真と言いたくなるような、事実を積み重ねて立ち現れる虚構とでも言うような。読み取りがたい何か。中々に頁が進まないのは一つの文章を読み取り読み解き脳に収める手順の多さによるのだが、その意味では、少々逆説的に響くけれども、この小説はとても刺激的であると言ってよい。

    また、この作品はリディア・デイヴィスの「長篇」と銘打たれているけれど、輻輳する「私」は純粋に独立的でもあって、その意味ではこの小説は一つのかたまりとしての長篇とは呼べないようにも思う。むしろ「ほとんど記憶のない女」に収められた超短編を読みつないでいる時と読書の感覚は似ている。この作家が、時間軸の長い話をかくよりも、一瞬の内に込められたニュアンスや相反する意味などというものを切り取って見せるのが得意なのだ、という印象を強くする。刊行予定の短編集(それもまた岸本佐知子翻訳!)は、どんな風変わりな物語を見せてくれるのだろうか。

  • 同著者の短編集「ほとんど記憶のない女」に、道端に転がった動物の死体を見てそれを哀れに思った「私」が、もっと近寄ってよく見たところ動物ではなくてそれは紙袋だったのだけれども、紙袋と分かったあとも哀れむ気持ちが消え残って、紙袋を哀れに思っている、という短い話が収録されています。リディア・デイヴィスの作品で特に面白いと個人的に思うのは、そのように混乱した意識や記憶が混乱したまま正確に描写されるところです。「話の終わり」にも似たような箇所は多く出てくるし小説全体がそれ自体混乱の描写になってるようでとても面白いです。

  • 三十代半ばの「私」と十二歳年下の彼。
    二人の恋愛。そして別れたあとも彼に執着し続けた「私」の心境。

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    別れてから数年後、彼の住む街に行ってみたけど会えなかった、というくだりから始まり、彼との出会いや何度かの行き違いを「私」が思い出しながら書いていくのを”眺める”感覚で進む話だった。

    彼を思い通りにできないせいで不安定な、当時の「私」。
    当時の心境や街の様子を思い出しながら詳細に書く「私」。
    ヴィンセントという別のパートナーと暮らしている「私」。

    ”一回り年下の恋人にフラれて、そのあとも執着し続けてストーカーみたいな状態になったけど、今はまあ人並みの暮らしを送っているよ”という話を様々な「私」の視点から眺めたので、大河ドラマを続けて観たような気分になれた。

    リディア・デイヴィスさんの本でしか味わえない感覚がある。もっと読みたい。もっともっと。

  • 「まだ何ひとつ始まっていなかったあの時間こそが、ある意味では最良の時だったのかもしれない。」

    繊細をえがく潔さと曖昧さにおける誠実さが、とても気持ちがよかった。幾つもの言葉と感覚に、じぶんじしんの欠片をみつけた。わたしはお酒を飲まないので、もし飲めたとしたら、彼女みたいに飲み続ければ新しい世界に到達できると信じたかもしれない。
    ひとまわり年下との恋愛なんて、考えたこともなかったからとても新鮮な気持ちで聴いていた。痛々しくて滑稽なのか、なにがしかのパワーをもらえるのか。
    淡々と語られる恋路はまるで他人事のようだけれど、恋をしたあとに気がつくのは、なぜこの人じゃなくてはならなかったのか、はじまりもあやふやで、"このときわたしは恋に落ちた" なんていうドラマチックなことは、たぶんほとんどが誰かの理想で、そう信じたいだけなのかもしれない。
    こんがらがった感情と記憶の糸をひとつずつ解いてゆくような追想は、あらたな過去をみつけてくれる。あたらしい疑問とともに。

    赤いタイルの床とパイプ椅子。ファーストネームを知らなくても不自然でない言葉少なな会話。あの夜の踏切の警報音。冬の歩道橋に吹きつける冷たい風。汗で湿った柔軟剤の香りを放つハンカチ。

    どうしてこんなふうにすれ違っていってしまうんだろう。かみ合わなく(あるいはかみ合わそうとしなく)なってしまってゆくのだろう。彼と、そしてじぶんじしんとも。わたしはぜんぜん上手くあなたを愛せていなかったのかもしれない。そんな気がするけれど、重力 を失ったあとの浮遊感の心許なさが、止まっていた時間を動かしはじめるのだろう。そしてうんざりするのは、またきっといつか、同じことがくりかえされるのであろう、ということ。儀式 としての苦い紅茶やなんかがあれば、少しは慰めになるのかも。



    「彼はしょっちゅう誰かに失望していた。ほとんどすべての人間に失望し、怒りを感じてたと言ってもよかった。」

    「私は自分が若くなりたいとは思わなかった。ただ、安全な距離を保ったまま、若さのそばにいたかった。彼の中にあるされを感じていたかった。」

    「だが答えなどどこにもありはしない。あるにしても、たぶん後になって振り返ったときにふっと浮かんでくる類のものなのだろう。」

    「たとえ自分のやりたいことが間違いだったとしても、私は正しいことをするよりも、間違いを犯してあとで後悔するほうを選ぶことのほうが多かった。」

    「私はいつも彼に何かを与えてもらおう、どうにかして楽しませてもらおうとそればかり考えていた。そのくせ彼に対して、そしてたぶん誰に対しても、心の底から興味をもつことはできなかった。」

    「とるべき道は三つあった。他人を愛することをあきらめるか、身勝手をやめるか、身勝手なまま他人を愛せる方法を見つけるか。」

    「だがあの頃の私は、完全にのめりこめるような本は選ばなかった。読んでいるうちに魂の一部がページを離れ、もう何度もしゃぶった古い骨を求めてあてどなくさまよいはじめるような、そんな本ばかり選んでいた。」

    「自分の中に賢さが生まれると、ちょうどそれに見合うだけの愚かさも生まれるのだ。」

    「ひどいときには言葉の意味も理解できなかった。氷の結晶の中に閉じこめられたように、ただ言葉が宙に浮かんでいるのを眺め、ちりちりと音を立てているのを聞いているだけだった。」

  • 女性が十二年下の男性と恋に落ち、それが朽ちて"次"に進むため自ら"終わり"を定義していかねばならない、そう思い立ち女性が"終わり"を綴っていく、それがこの本である。
    情緒的にならないよう、メモを手繰り寄せながら、何度も何度も反芻しながら、様々な手段を用いて物語は進んでいく。
    物語では、私と私を見ている私が介在し、それらのもつ鮮明と模糊の落差たちによって制御され、時にだるさを覚えるが、それでも緻密さに対する姿勢が手に取るようにわかるし、それを可能とさせない言葉の不自由さ(または解れ)が新しい歪んだ世界観を作っていると、どきどきする(解れの矛盾をひとつひとつ砕いていく作業もまた魅力的であったといえる)。

    ───女性が書き起こそうとするたび、綴った文字、少なくとも女性の中ではひたむきに書いたはずの言葉たちはすれ違いを起こし、緻密さは解れを起こす。
    そして女性は、私ではない何かが書いているのではないか、私の中にいる何かが(もちろん私を見ている私ではなく、無意識にさまよっている何かが)いるのではないかと思い始める。
    それらはひとつじゃなく、様々な部分からずれはじめ、色々な解れがレイヤー化され、(女性がそう思ったかはわからないが、あくまで憶測では)複雑な世界観を生み出したのちに気づくのだろう───様々なメモなど選択肢による言葉は、その言葉の不自由さをもって明確な"( 私の )終わり"に近づくんではないかと───

    女性が置く言葉は、女性が見て感じたことでしか形成されないのだとすれば、二次的な"終わり"でしかなく、女性自身の終わりには近づかないだろう。
    そして小説にすることによる障害、言葉の不自由さをもって、解れによって初めて女性は女性の"終わり"を迎え、最後女性は女性の中で気付き(おそらく)、儀式的な何か(本の中だと紅茶であった)で幕を閉じる。

    だとすれば、この解れってなんなのだろう。
    読んでるうちに錯覚という眩暈という、とてもフィクションとは思えない実体を持った小説に、ただ、何者なんだ…、と感服しました。
    打ち込んでるこれもまた、解れが起きているんだろうと思うだけ、私もまた頭をかき乱される。

  • 30代半ばの翻訳家であり、大学教師でもある主人公「私」と学生の年下男性との恋が始まって終わるまでの顛末を「私」が、恋が終わって何年も経ってから記憶を呼び覚ましながら小説に書く小説。

    「私」がひどく自意識過剰で最後の方ではストーカーみたいになってしまうのだけど、その感情の揺れが感情的ではなく淡々と書かれるので逆に凄みがある。
    文章自体も極度に説明的で、慣れるまでは奇妙な感じだったんだけど、だんだんと心地よいリズム感にはまって魅力的に感じた。

    面白かったのだけど、なぜだか周辺的なことが気になってしまって、入り込みにくい部分もあった。ガソリンスタンドの仕事を「下等で屈辱的な仕事」と読んでしまうあたりとか、年中パーティばっかりやっているようなインテリで洗練されたライフスタイルとか。僕自身のリア充コンプレックスが強すぎるせいなんだろうけど。

    あと、終始私と彼の話なんだけど、不思議と「彼」が若い、という以外にほとんど特徴がない。顔立ちやキャラクターにも説明的な記述はあるんだけど、一般的な学生のステレオタイプなイメージの域を出ない。そのせいで逆に小説全体が「私」で埋め尽くされているような鬱陶しさがある。悪い意味じゃなくて、怖いくらいのエネルギーを感じる、てこと。

  • 小説を読んで「酔う」という感覚を味わったのはこれが初めて。気持ち悪いし不快感さえあったけど、途中で終えたら余計にそれが残りそうで、一気に読み終えた。

    以下本作の印象と好きな部分の引用。

    忘れようにも、思い出せない。人を失うということ、その事実が自分の内面に巻き起こす果てしない思考、問いかけの繰り返しと混乱。冷静な筆致とは裏腹に時系列も人称もごちゃ混ぜで支離滅裂で、だからこそそれがものすごくリアル。メモや日記、当時書いていた書きかけの小説、そういったものから記憶をたどりながら綴られる、「私」の「彼」を巡る記憶の旅。

    「彼女とのことを、どうしても書かずにいられなかったと友人は言った。彼女と直接話すことはできなかった、会ってもどうせ聞いてくれないに決まっていた、だから他人の目に触れるような形でそのことを書いた。彼女の目にも触れればいいと思った、そうすれば彼女はその言葉に影響されるだけでなく、それが公になることで余計に影響を受けるはずだから。たとえ彼女が影響を受けなかったとしても、そのことを世間に知らしめたというだけで、彼の意図に反して短命に終わってしまったその恋愛を、言葉という息の長いものに変換できたというだけで満足なのだ、と彼は言った。」

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著者プロフィール

1947年マサチューセッツ州生まれ。著書に『話の終わり』(1995)、『ほとんど記憶のない女』(1997)、『サミュエル・ジョンソンが怒っている』(2001)、【Can't and Won't:イタ】(2014)他。マッカーサー賞、ラナン文学賞などを受賞したほか、短編集【Varieties of Disturbance:イタ】(2007)で全米図書賞にノミネートされる。2014年には国際ブッカー賞を受賞した。フランス文学の翻訳家としても知られ、ミシェル・ビュトール、モーリス・ブランショ、ミシェル・レリスなどの翻訳に加え、マルセル・プルースト『スワン家の方へ』の新訳を手がけた功績により、2003年にフランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを授与された。ニューヨーク州在住。

「2016年 『分解する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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