- Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
- / ISBN・EAN: 9784861825002
作品紹介・あらすじ
半世紀前に刊行された小説が、いま、世界中に静かな熱狂を巻き起こしている。名翻訳家が命を賭して最期に訳した、"完璧に美しい小説"。
感想・レビュー・書評
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雨の日に読んだからか、裏表のない主人公ストーナーの人柄、そして清新な文章が雨粒のように目に沁み入った。
ミズーリ大学英文学科助教授ウィリアム・ストーナーの一代記。(大学名・人物名ともに架空)
このストーナーという人物がとにかく純粋!一途!
あと、恋に落ちやすいタイプってやつ?例えば大学の講義では英文学を、学部長宅のパーティーでは令嬢イーディスを瞬く間に見初めているのだから。
本書で最も彼に影響を与えた出来事は、やはりイーディスとの結婚生活だろう。異性に不慣れな2人が良い家庭を築かんと努力するも、気持ちが噛み合わない。(これがまた、どちらの気持ちもよく分かるんだよなぁ…)
やがて自分が惚れた相手だからと言わんばかりに、ストーナーは次第に不安定になる彼女のために身を尽くすようになる。一人娘から遠ざけられても反撃に出なかったのは口惜しいけど、それが彼なりの責任の取り方だったのかも。誰かが気づいて説得しても「心配ない」と笑って聞かなかっただろうな。
周囲がコロコロと変化を遂げる一方でストーナーは転がる石にはならず、ただそこに佇む石であり続けた。
何か功績を残したわけではなく、老齢ながら助教授から昇格してもいない。
ただ何事にも一途(悪く言えば頑固/不器用)で、やりたいこと・正しいと思ったことは決して曲げなかった。
実家の農家を継がずに教師を目指したこと・前述の妻子への対応・真面目に論文制作に取り組まない院生への処置・一女性講師との交流・シラバスや指定図書を無視した講義etc.
今までのアクションを振り返っても、それは首尾一貫している。自分には彼が不器用どころか、誠心誠意人々や物事に尽くしているように映った。
「自分の人生は値するものだろうか、値したことがあっただろうか」
懸命に生きていても、ストーナー含め誰しも人生のどこかでこう思ってしまうだろう。
本書が本国アメリカで出版されたのは1965年。著者の存命中にヒットしなかったのは、本書がアメリカ人好みの華々しいサクセスストーリーではなかったからだという。ストーナーを「ほんとうの意味での英雄」と評する著者の言葉を理解するのに、半世紀要したわけか。
彼の一生を「悲しい」と言う人もいるみたいだが、自分はそうは思わない。
何かを成し遂げていなくても、 砕けず自分であり続けること。それを最後の日まで完遂してみせた彼は、ほんとうの幸せに秀でた英雄なのかも。あぁ…感動が目に沁みるぜ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
kuma0504が「ストーナー」という真っ白に近い装丁の単行本裏表紙を閉じて読み終えたのは、2021年1月27日の薄暗いコーヒー屋だった。気がつくと、彼の目に滅多にない涙が滲んでいた。
1891年米国ミズリー州の小さな農場の息子として生まれたストーナーは、ミズリー大学農学部生の時に英文学に出会い、鍬を振るう代わりに一生を本の中に埋める気持ちになる。それを指導教授は「きみは恋をしているのだよ。単純な話だ」と言った。本書はストーナーという完全に架空の人物の一生を丁寧に綴った小説である。kuma0504が数えること3度、ストーナーは人生を変える出会いをする。
kuma0504はそれより2か月ほど前に、1909年に日本の田舎に生まれた少女の昔語りを読んでいた(『一00年前の女の子』)。当初彼は日本と米国の民俗学的比較ができるのではないか?と期待していた。ところが紐解いてみると1900年初めの米国は20世紀後半のアメリカと変わりなく、日本のそれは天地ほどにも変化していて、比較のしようがないと思った。冠婚葬祭における、米国都市部の民俗、ジェンダー意識は、それほどまでに長いこと変化しなかったのである(おそらく現在は違う)。
kuma0504は、ストーナーの無欲で実直な生活に、越し方の壮年時代を想った。いっときの火花のような恋についても、経過は丸切り違うが同じ色の気持ちを思い出していた。
最終章に、ストーナー臨終の日々が延々と描かれる。kuma0504は父親のまるまる4か月に渡る看病の日々を思い出し、来るべき日々のことも思っていた。ところが、裏表紙を閉じる前に、訳者の弟子の布施由紀子が「訳者あとがきに代えて」を書いていて、正に訳者臨終の日々に最終章を訳していたのだと知る。
彼はある感慨に耽り、うっすらと泣いた。 -
“「それを見定めたきみの愛はいっそう強いものとなり、
永の別れを告げゆく者を深く愛するだろう」
スローンは視線をウィリアム・ストーナーに戻して、乾いた声で言った。「シェイクスピア氏が三百年の時を越えて、きみに語りかけているのだよ、ストーナー君。聞こえるかね?」”
“「恋だよ、ストーナー君」興がるような声。「きみは恋をしているのだよ。単純な話だ」”
人が運命の扉に触れた瞬間を見た気がした。
ストーナーの人生を追っていくうちに、いつしかわたしは自分の人生を追っているような錯覚に陥っていた。
まだ見ぬ未来にも追いつき追い越し、ああそうだったと思う瞬間が幾度となく訪れる。
自分の進むべき道が開かれた瞬間。
一目惚れした相手への想いと、彼女とのうまくいかない結婚生活。
恋し初めた相手は恋し遂げた相手とは違う人間であることを知ったとき。
戦争で友を失った喪失感。
仕事をしていく上で、うまく立ち回れない不器用さ。
希望、ときめき。
孤独、悲しみ、そして挫折……
ストーナーの人生はいたって特別なものではない。誰しもが同じような運命の瞬間に出会うことがあるはずだ。
その瞬間をこの小説のように美しい文章として綴ることができたら、どれだけ素晴らしいことだろう。
わたしたちはストーナーの人生に愛が生まれ、運命が輝きはじめる瞬間を見ることができる。
わたしはストーナーに共感と、そして羨望の眼差しを抱くのだ。
振り返れば、限りある生のなかであるがまま自由に振る舞える時なんて、ほんの一瞬のことかもしれない。
ある日、ふと自分の運命を静かに受け入れる瞬間がやってくる。それは決して人生を諦めることではない。
ストーナーという平凡な男のありふれた日常から、実はそれがどれほど困難で、そして尊いことなのかをわたしは知る。
人は与えられた生のなかで、今この瞬間にできることを精一杯やって生きてゆく。
人生の一瞬一瞬に情熱をかける。そこには必ずや愛が生まれる。そして愛があるからこそ、わたしたちは生きてゆけるのだろう。
自分が何者であるか、人生の終焉を迎えるときとなって答えはでる。
ストーナーは覚る。自分が何者たるか。自分がどういう人間であったか。
いい人生だった。
それはいいことばかりの人生だったという意味ではないはずだ。
「ああ、安楽な人生ではなかった。だが楽をしたいと思ったことはない」
なんて力強い言葉だろう。-
地球っこさんこんにちは
「シェイクスピア氏が三百年の時を越えて、きみに語りかけているのだよ、ストーナー君。聞こえるかね?」
まさに人...地球っこさんこんにちは
「シェイクスピア氏が三百年の時を越えて、きみに語りかけているのだよ、ストーナー君。聞こえるかね?」
まさに人が恋に落ちた瞬間を目撃しましたよね。
一見冴えない人生ですが、いい人生だったと振返るストーナーは情緒が豊かですよね。2020/12/30 -
淳水堂さん、こんばんは。
そうなんですよ!
あのシーンがとても忘れられません。
その後のスローン講師のセリフ、
「きみは恋をして...淳水堂さん、こんばんは。
そうなんですよ!
あのシーンがとても忘れられません。
その後のスローン講師のセリフ、
「きみは恋をしているのだよ。単純な話だ」
は、わたしにとって珠玉の名セリフになりました。
淳水堂さんがレビューで書かれておられたように、「感情の薄いようなストーナーはその時々の彼なりの情熱を持ち生きていたのだ」と、いうことが読後にじわじわと心に染みてきました。
とても印象深い作品でした(*^^*)
今年は淳水堂さんとも、たくさんお話できて楽しかったです。
が、しかーし、ああー、わたしはなんてことを!!
鬼平がストップしちゃってます。
あれだけ淳水堂さんと鬼平で盛り上がったのにーっ(。>д<)
ごめんなさい。
ゴールは遥か遠くのままです。
でも来年もゆるーりと読んでいきたいと思ってます♪
こんなわたしですが、どうぞ来年もよろしくお願いします。
よいお年を~
2020/12/30 -
地球っこさん
人の一生を書く小説って、案外平凡な人生のものが多いですよね。
しかしだからこそその根底の情熱や、または凡庸さが引き立つ...地球っこさん
人の一生を書く小説って、案外平凡な人生のものが多いですよね。
しかしだからこそその根底の情熱や、または凡庸さが引き立つわけで。
ブクログでみなさんとこうして本のお話ができて嬉しいです!
そして私も鬼平がストップしていたことにさっき気がついた(ー_ー)!!
シリーズ物は待ってくれるのがいいところ。
お互いゆっくり行きましょーー。
それでは来年もよろしくおねがいします!2020/12/31
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アメリカで1965年に刊行され、その後2006年に復刊、海外翻訳から徐々に評価が高まったという本書です。
裏表紙短評の「美しい」の言葉、日本翻訳大賞「読者賞」受賞! の見出しにも惹かれるものがありました。
確かに読み進めて感じるのは、時代背景もありますが、主人公の貧しい生育歴とどこか寂しさを感じさせる風景描写、受け身の性格からか地味な雰囲気が漂い、孤独と忍耐が似つかわしく、物語の展開への期待感は余りもてませんでした。
しかしながら、静かなモノクロ映画を観ているような錯覚を覚えます。主人公である大学助教授・ストーナーの一生が、静謐な日々の連続として淡々と描かれ、詩情がにじむ雰囲気があるのです。東江一紀さんの和訳も素晴らしいと感じました。
人生の中にある些細な喜びと哀しみ、平穏と苦悩、後悔と諦念‥、これらの対比は、誰の日常の中にもあるものでしょう。身近に感じるが故、知らぬうちにストーナーの人生と自分を重ねて読んでいました。自分の人生、ドラマチックなことが起こらなくとも、この程度でいいのかな‥と。
多分に、年齢を重ね、より多くの経験を積んだ方ほど、本書のよさが響くのではないでしょうか? ストーナーの一生は、平凡や憐れではなく、幸せだったと言えるのではないか、と思わせてくれる著者の温かな眼差しを感じさせる秀作だと思いました。 -
こちらも「ずっと読みたいと思っていて、かつきっと好きになる予感」の本のうちの1冊
そういう本って必ずある
大抵その予感は当たるのだ
しかしこれは一体なんなのだろう
ミステリーでもサスペンスでもないのに、止まらない
こんな感覚は何年ぶりだろうか
睡眠時間を削ってまさに貪るように読んだ
注)多少のネタバレ有
ストーナーは主人公の名前
彼は農家の両親の元に生まれ、6歳から農業を手伝うのが当たり前の苦労人だ
想像通り、生活は豊かではなく、狭い世界で肉体労働と学校だけが彼の住む世界だ
しかしあるきっかけで家を出て、コロンビアの大学、農学部に行くことに
はじめて故郷と家族と農業の生活を離れ、世界へ飛び出す
真面目な性格なので、それなりの成績なのだが、何故か英文学だけは思うように習得できない
世の中をハスから眺めるような皮肉屋らしき英文学教師
その彼のシェイクスピア「ソネット」の朗読から、事態が一変する
これまでストーナーは自分を知らなかった
自分に目を向けたことも、自分の心を探ることもなかったのだろう
初めて英文学に恋をし、自分と向き合うことになる
そう、そしてこれを読んでいる我々もストーナーと同じように、はじめてストーナーの生々しい感情に触れ、彼がこの先どうなっていくのか、まるで自分のことのような錯覚に陥るため、本書にのめり込んでいくのではないだろうか
結局ストーナーはいつか父の役にたつかも…という思いで学んだ農学部生の履修を中断して、英文学を受講する
そう行動力がある
現代の不自由ない若者とは立場が違うのだ
さらに両親の期待に背き、農場へはもう戻らず教師になる決意をする
ここから新たな彼の人生が始まる
同僚の友人ができる(おそらく初めて友人を持ったのだろう)
親友とまで思っていなかった付き合いから始まったが、いつしか深い友情で結ばれる
一目惚れから恋に落ち、これまたかなりの行動力でしっかり結婚までこぎつける
妻となるイーディスはいわゆるお嬢様育ち
保守的で道徳教育に厳しくされ、常に母親の監視下におかれ、世間知らずの箱入りだ
釣り合わない身分同士の不均衡な結婚が(これは些細なことに過ぎないとはいえ)多くの波紋を呼ぶ
このイーディスの豹変ぶりがある意味サスペンスであった
予想もつかない行動を次から次へと展開させるイーディス
(初めの頃は一体次な何をやらかしてくれるんだろうか…とブラックユーモアの如く笑いながら読めた上、まぁ育ちが育ちだから壊れやすいのは仕方がないか…とやや同情気味であったが、途中からはもう完全なるサイコとしか思えない)
そのような妻とストーナーは神経を擦り減らし、闘い続けることになる結婚生活
ストーナーもそれなりに努力はしたと思うが、残念ながら、結婚一ヶ月後にはこの結婚生活は失敗だと悟り、一年後には改善の希望も持たなくなる
妻イーディスの何を思ったか、突然の強い願望から女の子を授かるものの、子供までもが両親の不穏な関係に巻き込まれていってしまう
イーディスの容赦ない攻撃により(この攻撃だが機略に富み、進化していく ある意味見物だ)、ストーナーの生活が窮屈で、物質的にも精神的にも多くのものを奪われていくものとなる
そんな彼に追い打ちがかかる
宿命の敵が大学内の同僚に現るのだ
この敵対する同僚の根深い憎しみと、怒りを継続させる負のエネルギーも一体どこからくるのかと呆れるものの、ストーナーはこちら方面からも容赦ない攻撃を長年受けることになる
(ふぅ なかなか読んでいてもぐったりするほどの嫌がらせを受け続けます)
そんな不運続きに見える彼に新たな恋が訪れる
ここで読者はようやくほっとする気持ちになるだろう
彼の不遇な境遇に暖かな光が差し込むのだから
運命の恋はいかに、結婚生活は果たしてどうなっていくのか、娘グレースとの関係は、また逃れられない同僚との闘いの行方は、彼の教師としての人生はどこへ向かうのか…
このようにストーナーの生涯を描き続ける話しなのだが、不思議なほどのめりこんでしまう
なぜだろうか…
彼は一見内向的な人間に思えるが、その奥に潜む激しい情熱と、意外なほどの行動力がある
例えば
英文学の出会い…両親を捨ててでもやりたい道に進もうとする
妻との出会い…一目ぼれしてから、毎日でも会いに行く姿勢、身分差も気にせず結婚へこぎ着ける
同僚との闘い…どれだけ自分の立場が悪くなっても、売られた喧嘩は結果的に買っている(笑)
彼は多くの運命や環境を概ね素直に受け入れはするが、必ずしも屈するわけでもない
自分の生き方に反することに関しては、感情論ではなく、機会をみてその秘めた情熱で打破する
そう反撃に出るときは結構大胆に出て、これがなかなか読み手に痛快だ
大切なものや生き方を見出し、自分を知るに従い、彼はそういった「自分の考えを貫く姿勢」に変わっていった気もする
そういった彼の芯の強さから、ストーナーが敢えて相手を滅ぼしにかからなくとも、結果的に最後には同僚にも勝ち、妻のイーディスも敗北を味わうことになるのだ
同僚との陰鬱な嫌がらせに神経をすり減らしつつも、時にそれを楽しんでいる自分を見出すような意外なユーモアもあったり、戦争により募兵に応じなかったものの、自分の中にあるとは思えなかった暴力性に目覚め、血の匂いに憧れることも…
娘の変貌にも心を寄せ、彼女を尊重し、彼女を受け入れ慈しんでいる立派な父親ぶり(母親イーディスも娘グレースも自分の両親の教育やこの時代背景によって偏った人間形成されてしまい、ある意味二人とも犠牲者でもある しかし同時にただ不運だというよりも、その中に垣間見れる一筋縄でいかない小さな幸せが光る こういう描写がこの作者の素晴らしいところだ)、さらに二度目の恋の相手とはロマンティックで情熱的な一面を見せる
ストーナーの弱さも強さも、ストーナーらしさも意外な一面も、ジョン・ウィリアムズの素晴らしい表現力にかかると、たまらなく魅力的な人物で、不幸が多いとか、結果がどうとか…そんなことはどうてもよくなるほど、彼の人生が輝き出す
彼の欠点や、疲れ切って老けきった風貌でさえも、不思議と当たり前のように受け入れられ、まるで朝露の水滴のように小さく目立たないながらもキラキラ地味に輝いており、それがそっと地面に落ちたようにじわっと染み渡る
とても半世紀前の作品とは思えない
新鮮で意外なストーリー展開と、少しずつ不幸を背負ったようなある意味愛おしいキャラクター達
そしてストーナー
ストーナー
彼は平凡な男だろうか
いや、私からはとんでもない男であった
いつの間にかストーナーから目が離せず、最後まで彼の人生を心から共にしてしまった
なぜなら彼をとても好きになったからだ
久しぶりの没頭読書
しばらくこの世界に浸って余韻を楽しんだ
「アウグストゥス」を読むのもとても楽しみである
最後に…
本書はこのブクログにおいて素晴らしいレビューがたくさんあり、皆さまそれぞれの個性ある内容がとても興味深く、読書後に、「価値あるおまけ」のように楽しむことができる
こんな醍醐味もありますので是非ほかの皆様のレビューも読んでみてください!
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この世の中に「何の変哲もない人生」などというものはない。
この物語はミズーリ大学助教授として人生を全うしたウイリアム・ストーナーの人生を彼の誕生から臨終までを記した小説である。
田舎の百姓の一人息子として生まれ、両親の苦労のおかげで大学へいくことを許された。
大学で農業を学ぶはずであったストーナーであったが、英文学の面白さに魅せられ、大学を卒業後も大学院に残り、英文学を研究することを選んだ。
若き文学研究者として生きるストーナー。
同じ研究者である友人たちとの交流。
のちに彼の妻となる美しい娘との恋。
第一次世界大戦で友人の一人を失う悲劇。
結婚後、精神を病んでいく妻との確執と娘の誕生。
ライバル教員との対立。
娘の教育を巡っての妻とのいさかい。
新しい恋と別離。
文学への愛を確認する日々。
そして病との闘い。
この小説を通じて、読者はストーナーの人生を完全に追体験していく。
彼の人生はヒーローものというにはほど遠く、むしろ満ちたりたというものではなかったかもしれない。
しかし、成功に満ちた人生などこの世界にあるのだろうか?
そんな疑問を本書を読んだすべての読者は感じるはずだ。
全篇美しい翻訳文をとおして、ストーナーの人生の悲哀が語られていく。しかし、そこには人生のきらめきがそこかしこに秘められている。
人生は捨てたものじゃない。 -
いい小説だ。読み終わって本を置いた後、じんわりと感動が胸のうちに高まってくる。一人の男が自分というものを理解し、折り合いをつけて死んでゆくまでの、身内をふくめる他者、そして世間との葛藤を、おしつけがましさのない抑制された筆致で、淡々と、しかし熱く語っている。「文章に気品があり、燃え立つ情感が知性の冷ややかさと明晰さという外皮をまとっていた」というのは、作中で主人公がかつて愛した女性の著書を評した言葉だが、そのまま本書を評したものともいえる。
読む人によって、それぞれ異なる主題が見つかるだろう。主人公は大学で主に英文学を教える助教授である。そこからは、大学というアカデミックな場において繰り広げられる身も蓋もない学内政治の暴露が、また、師が弟子の資質を発見し、己があとを託すという主題が見える。さらには、シェイクスピアの十四行詩と『リア王』が全篇にわたって朗々とした音吐を響かせていることも発見するだろう。
男と女が夫と妻となったが故にはじまる家庭内での葛藤を主題とした小説でもある。自分を見失った中年男が理想を共にする歳若い女性との秘められた情事のなかで再び自分を回復していくという、些細ではあるが忘れることのできない挿話もある。自分以上に自分を知る友との出会いと別れ。また、その反対に、故知れぬ悪意を抱く競争相手との熾烈な闘争、とよくもまあこれだけの主題を逸脱することなく、一筋の流れの中にはめ込むことができたものだと、その構成力に驚く。
忘れてならないのは、戦争という主題である。主人公が大学で教鞭をとるのは二つの大戦期である。戦争に行くことに価値があり、忌避は認められていても誉められる態度ではなかった。優れた素質を持ちながら、主人公が終生助教授の地位にとどまるのは、戦争との関連を抜きにしては語れない。主人公の中にあって、自らは知らない教師としての素質を見抜いた師が迷う弟子に言い聞かす言葉がある。「きみは、自分が何者であるか、何になる道を選んだかを、そして自分のしていることの重要性を、思い出さなくてはならん。人類の営みの中には、武力によるものではない戦争もあり、敗北も勝利もあって、それは歴史書には記録されない」というものだ。教育に携わる人なら肝に銘じたい言葉である。
裏表紙に、イアン・マキューアンとジュリアン・バーンズの推薦文がある。この二人が薦めるなら、何をおいても読まねばならない、と思って手にとったが、はじめはいかにも古風な出だしにとまどった。ところが、学生時代、スローン教授によるシェイクスピアのソネットの朗読を聴いたストーナーが顕現(エピファニー)を実感する場面がある。周りのすべてがそれまでとちがって見える瞬間を描いた部分だ。ここが何とも美しい。主人公が文学に開眼すると同時に、小説は一気呵成に面白くなってくる。
注目すべきは人物。たとえば同僚のマスターズ。大学は自分たち、世間に出たらやっていけない半端者のために作られた避難所で、ストーナーは世間に現実とは違う姿を、ありうべからざる姿を期待している夢想家にしてドン・キホーテだ。「世間に抗うべくもない。きみは噛みしだかれ、唾とともに吐き出されて、何がいけなかったのかと自問しながら、地べたに横たわることになるだろう」という予言めいた言葉を残し、戦死してしまう。
そのマスターズの陰画が他校から赴任してきたローマックス。頭脳明晰で弁が立ち、傲岸不遜。二枚目役者の顔を持ちながら背中に瘤を負い、脚を引き摺る小男というディケンズの小説にでも出てきそうな人物。この男がストーナーを目の敵にして生涯立ち塞がる。その嫌がらせの度合いが半端でない。ところが、世間ではこうした男に人気が集まり、出世も早い。弁証法的な役割を果たし、小説をヒートアップさせる名敵役だ。
シェイクスピアを蔵する英文学という世界はまことにもって恵まれている。主人公のストーナーは大学内では世間知らずで善良であるがゆえに貧乏籤を引かされるエドガー役を勤め、家庭においては、現実とは違う姿を、ありうべからざる姿を期待し、書斎からも放り出され、居場所を探して放浪するリア王の役を演じさせられる。マスターズが囁く「トムは寒いぞ」の科白ひとつで嵐の中を流離う老人の姿が眼前によみがえる。さらに、主人公が文学に目覚める、十四行詩の七十三番は、老教授の思いを伝えて哀切極まりない。
かの時節、わたしの中にきみが見るのは
黄色い葉が幾ひら、あるかなきかのさまで
寒さに震える枝先に散り残り、
先日まで鳥たちが歌っていた廃墟の聖歌隊席で揺れるその時。
わたしの中にきみが見るのは、たそがれの
薄明かりが西の空に消え入ったあと
刻一刻と光が暗黒の夜に奪い去られ、
死の同胞(はらから)である眠りがすべてに休息の封をするその時。
わたしの中にきみが見るのは、余燼の輝きが、
灰と化した若き日の上に横たわり、
死の床でその残り火は燃え尽きるほかなく、
慈しみ育ててくれたものともに消えゆくその時。
それを見定めたきみの愛はいっそう強いものとなり、
永の別れを告げゆく者を深く愛するだろう
しかし、翻訳という文化のおかげで、われわれもこの世界を共有することができる。文学という喩えようもない広く深い森の中に足を踏み入れ、枝葉のそよぎや鳥の鳴き声に耳をすませる悦びを知る者には、五十年という歳月を経て、再びこの小説が陽の目を見ることができたことが何よりうれしい。 -
美しさとは何か、なぜ、それを感じたのか。
ここにあったのは、共感性。人間として直面する壁とそれを乗り越えるための努力。それでも起きてしまうと過ちや後悔。これらはワンセットで誰にでも起こる事。これが起きた時に、どう乗り越えるかで、人生が多様化していく。器用に生きるか不器用に生きるか。不器用というのは、他人との関係性に対する自己調整機能が弱い事。譲れない思想がある場合も不器用になる。
器用に他人に合わせる人生には、憧れない。自我を感じないし、そもそも物語がない。真面目に一生懸命である事の美しさはあるのかも知れないが、そのドラマは抑揚なき複製品だ。
ストーナーという、ファーマーの息子として生まれた男の一生。静謐ながらも、その生き様には静かなドラマがあり、多くの共感がある。派手なイベントや緩急つけて読ませるエンタメ小説ではない、純文学。考えさせられる美しさがあった。 -
冴えない青年が、冴えないおっさんになり、冴えないおじいちゃんになり、静かに消えてゆく物語。
…ということが最初に示唆される。ある意味身も蓋もない(笑)
確かに主人公のウィリアム・ストーナーは内証的で友人も味方も少なく、対人関係や自分の立場向上のための努力も全くしない。そして彼の家族も幸せを見いだせない人生を進む。
しかし読んでゆくと、一見感情の薄いようなストーナーはその時々の彼なりの情熱を持ち生きていたのだ、ということが感じ取られる。
静かに身動きが取れなくなるような、息を潜めてしまうような読後の感覚でした。
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農家の息子ウィリアム・ストーナーは、農業研究のために入った大学でシェイクスピアのソネットの講義を聞く。
「三百年の時を越えて、君に語りかけているのだよ、聞こえるかね?」
この時彼は英文学研究への熱狂が、自分でも気が付かない熱狂が始まった。
文学への恋心を悟った教官は、ストーナーに大学講師への道を示唆する。
静かな農家で一生を終えるつもりだったストーナーは大学残り助教授になる。
生涯昇格とは無縁で、一目惚れで結婚した妻とは終生冷戦状態、大学の同僚教授と意見の相違から長年の恨みを買い、成長した娘との仲は遮られ、まだまだ働くつもりの最中に癌が見つかり退職を余儀なくされる。
端から見ればストーナーは常に抑えられたような人生を送っている。しかし彼には密かな情熱が常にあった。
教壇に立った時に文学への熱は生徒に伝わっていた、そんな時は自分がいい教師になれると感じた。
結婚生活は静かに決定的に破綻していたが、彼女に出会った時には一目で恋に落ちた、その恋心を隠すことなく結婚に進んだのだ。
幼い娘を育てたこと、その娘と確かに心を通じ合わせていた充足。その後娘と隔たってもその充足がふと顔をのぞかせた。
中年になった時に訪れた若い女教官と恋と情事の日々。終わると分かっていても自分にはこんな情熱があったのだ。
嫌がらせのような時間割を振られても淡々と授業をこなした。ストーナーの文学への恋心は枯れることがなかったのだ。
明るい未来も温かい過去もなかったが、学生時代からの友情を感じること、ふとした時に現実から離れたような心理状況で生命を強く感じた。
癌を告知されたストーナーは、静かに終える準備をした。
ある朝病床のストーナーは身体の奥に現れた変化に気が付く。なるほど、こういうものか。死にゆく者の我儘として、彼は最期の時間を自らに独占した。 -
こんな小説を読みたい、と思う気持ちに応えてくれた小説。
ストーナーがどうなっていくのか、気になって中断していても時間があればすぐに手にとる、の繰り返しで二日で読む。その度ストーナーの世界にすっと入れるのは、ひとえに東江一紀さんの翻訳が素晴らしいからだろう。
東江さんの翻訳はあまりに読みやすいので超訳かと思ったら、元の文章に沿ってきちんと翻訳されているのに驚いたと他の翻訳者の解説を何かで読んだ。東江さんの功績は大きい。文学としての価値を損なわないで読むことができた読者の私たちは幸せだと思う。
最後の数ページをご自分の最期に訳されていたのだということを後書きで読むと、ストーナーとご自分が重なっていたのではと思われ、感慨深い。
個人的な話だが、連れ合いとストーナーを度々重ねて読んだ。
自分の力で何かを変えようとすることにはさほど情熱を傾けず、今あるものをそのままの大きさで受け入れる姿勢。自分を過大評価しないで、淡々と、しかし決して手を抜かず日々過ごし、それが感受性の欠如や諦めの早さと受け止められても、他人の評価でその姿勢を変えることはしない。誠実ではあるが、受け身の多い、変化の少ない硬質な人間性。
そんなありようの人間が持つ深い味わいを小説という形で浮き上がらせて見せてくれた作者に、感動と感謝の気持ちが湧いてくる。
これぞ人間。これぞ小説。
この小説を紹介してくださった皆さんに感謝します。