プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫 白 209-3)
- 岩波書店 (1989年1月17日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003420935
感想・レビュー・書評
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学生時代にあまりに難解すぎて投げ出した一冊。
当然、今読んでも難しい事は変わりありませんが、理解できないなりに最後まで読み終わりました。
資本主義が禁欲的なプロテスタントと、どの様に結びついて発展して行ったのかを解説しています。禁欲と言う言葉が良く分からず、読んでいましたが、大塚久雄さんの解説で視界が開けました。逆に、解説がなかったら何のことやらでした。他のあらゆる事を忘れて、一つの事に取り組むと言う事だったんですね。
比較宗教学と結びついたり、マックスヴェーバーと言う人はすごい人だと思いました。
ライブドア事件の様に利益の追求を目的にするだけでは会社は生き残れない。公共の利益(他者を慈しむ心)の上に会社があり、副産物として利益があると私は解釈しました。
今の自分の職業を天職と考えて明日からまた仕事に励みたいと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昔、一息に読んだのだが、あまり問題意識を持たずに読んだのでいまいち頭の中に入らなかった気がする。それこそ表紙に書いてある概要そのままぐらいのものしか得られなかったのではないかと…
最近、またマルクスとか読んでみようかなとか思い始めているのでこれも再読検討したい。 -
高校時代想い出の2冊のうちの一冊。
愛、愛ってなんなのよ。みんな一体どうしたの?成長、成長ってどうしたの?みんなコワイ。キリスト教にやられちゃったんだきっと。「好いたの惚れたの」が経済に乗っ取られてる。なにこの自動機械は。
と思ってたところにドンピシャリの題名で読んだ。
当時は社会学って言葉も知らなかったし(30過ぎても知らなかった!)この本が古典だとも知らなかったが、大変興奮した覚えがある。
私の中では、ボードリヤール「消費社会の神話と構造」になぜか繫がっている。 -
世界史で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とやたらと長ったらしいタイトルを暗記させられ、いったいどんな内容なのかと興味を持ち手にとった世界の名著。この論文ほど何度も挑戦し、そして敗北したものもない。何度読んでも興味深いが、完全に理解するにはほど遠く、いつも知識の限界を思い知らされて歯が立たない(苦笑)だが経済関係の本を読むたびに、また読みたくなるのだ。このタイトルから、カトリックで卑しい事と禁止されていた「蓄財」が、ルターの宗教改革により「天職を得て働く」ことを肯定され、それが資本主義につながっていったと言う主旨だと誤解している未読の人は案外多いんじゃないだろうか。かくいう私もその一人だった訳だが…結論から言うとヴェーバーはこの論文で「営利の追求を敵視するプロテスタントの禁欲こそが、資本主義が生まれる根底となった」という歴史の逆説を唱えている。 これだけ読むとまったくナンセンスで意味不明なのだが…長くて難解で何度読んでも頭の中で上滑りしてしまう文章を少しずつ読み進める内に、ぼんやりとその意味がわかりかけてくる。その時に大いに手助けしてくれるのが巻末の「解説」だ。この解説を先に読んでから本文を読み進めると大分とっつきやすいかもしれない。彼は「利益の追求を肯定」する地域から資本主義は生まれなかった事を古代中国、ユダヤ、イスラム、古代オリエントのあらゆる地域の検証から論述し、「禁欲」と「勤労の対価としての報酬の蓄財」の矛盾する双方をモットーとした禁欲的プロテスタントから資本主義が発生したという「事実」をあげてくる。「事実は事実」という実にシンプルで説得力のある論拠だ。禁欲と勤労が蓄財を生み、それを社会への奉仕として還元するシステム。そしてシステムを続ける為に「利益を得なければならない」経済活動循環。その循環が続けられるにつれ、次第に利益追求のみが重要となり、その根幹である禁欲は忘れられていき、資本主義へとつながっていった。というのが彼の最も重要な主張と言えるだろう。ヴェーバーは経済学者ではなく、比較宗教社会学者だ。彼が生涯を捧げたのは「比較宗教」の研究であり、この「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はその比較宗教社会学の一端であると捉えた時、彼がなぜこれほど画期的な視点から歴史に残る名著を著したかが理解できる。西洋、東洋、イスラムと古今東西の宗教の造詣が深く、それを比較研究した彼だからこそ、事実を検証することでこの歴史の逆説とも言える論文が書けたのだと思う。ヴェーバーは最後に最終未来を予想している。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは人間性のかつて達したことのない段階にまで登り詰めたとうぬぼれるだろう」まさにヴェーバーから100年後の未来の私達、カネを得る手段としてマネーゲームのように巨額のカネを動かし、数字上では大金持ちになったと思っていたらある日一気に破綻し未曾有の不況に襲われている現在の状況を表しているようだ。さて、もし今ヴェーバーが生きていたら、精神のない専門人や享楽人が歩むこれから百年後の未来はどう予想するのだろうか…?
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NDC8版
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初の古典。とにかく日本語が意味がわからない。最後の解説から読めばよかったと読み終わったあとに気づく。
解説いわく、宗教的な強制的禁慾という精神が、本当の意味での資本主義を形成していき、最終的にな宗教的倫理観に基づく禁欲行動が形骸化してしまい、鉄の檻として、自分たちを資本活動に邁進させてしまっている。そんな分析をしている本だと分かった。
鉄の檻という言葉を使っているから、ヴェーバーは資本主義の活動自体を、生活を制限するものとして考えていたのかな?とか考える。
ただの漢字と平仮名に目を通す作業だったが、背景がわかったうえでもう少し読んでみても面白いのかもしれない
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営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ヴェーバー(1864‐1920)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の出発点を画す。
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「ウェーバーは100年前、「禁欲」倫理から生まれ落ちた近代資本主義の最終段階に現れる「末人」をこう「預言」した。「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」―宗教倫理が資本主義を発展させるダイナミズムを描いた名著。」
「社会分析の書としてもそうですが、実は「論文」としても第一級品である。ここで扱われているのは、「西ヨーロッパの特定の地域と時期に資本主義が誕生したのはなぜか?」。なぜ中国や西アジアでも、ロシアでもインドでもなく、西ヨーロッパであったのか。この本には常識的なものの見方や考え方を次々とくつがえしてくれる「発見」がたくさん含まれており、非常で高度で難しい内容を、論理的に明らかにしてくれる楽しさがある。ーなお、このウェーバー説をもう少しやさしく解説した著者『社会科学における人間』もおすすめ」
(『世界史読書案内』津野田興一著 より紹介)
目次
第1章 問題提起(信仰と社会的な層の分化;資本主義の「精神」;ルターの天職の観念―研究の課題)
第2章 禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理(世俗内的な禁欲の宗教的な基礎;禁欲と資本主義の精神)
著者等紹介
ウェーバー,マックス[ウェーバー,マックス][Weber,Max]
1864~1920。一九世紀から二〇世紀初頭に活躍したドイツの社会科学者。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『儒教と道教』『古代ユダヤ教』を中核とする比較宗教社会学と、『支配の社会学』『社会学の基礎概念』『法社会学』など、死後、『経済と社会』としてまとめられた膨大な研究を残した。また、社会科学の方法論でも有名な『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を書いている -
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