プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫 白 209-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420935

感想・レビュー・書評

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  • 齋藤孝

  • 宗教革命は別の形態による教会の支配
    より厳しい支配を受け入れることの謎
    プロテスタント カトリック 
    非現世的と資本主義的営利生活の親和関係
    カルヴィニズムの影響はルター派よりいちじるしい
    資本主義の精神の非合理性

    ルターはベルーフを広めたけど伝統主義的な思想へ向かう
    伝統主義とは利益の追求は追い求めない(修道士的禁欲には価値を置かない)

    日本での経済発展が停滞しているのは社会への貢献の意識がなく利潤が還元されないから?

    救いの確信を得られるわけでもないのにシステムの中で生きていくために何の喜びもなく労働を続ける自分が怖い
    あるいは職業労働の中に新しい救いが現れる可能性もあるけど

  • 金大生のための読書案内で展示していた図書です。
    ▼先生の推薦文はこちら
    https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=28924

    ▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
    http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BN02949302

  • キリスト教を背景として論が進められる点、なるほどヨーロッパらしい視点だ、という感想です。特に天職の件と、禁欲倫理との結びつきの件は面白かったです。現在に通じる起源を見る感じがしました。

  • 近代的資本主義は労動者を組織化した帳簿に基づく産業経営が特徴であり、それは歴史的に商業やその意識が活発で自由な中国、ユダヤ、ギリシャ・ローマでは発生せず、むしろ大商人や地主が批判され利息が制限された西欧(プロテスタントが大きな社会的勢力を握ったオランダ、イギリス、初期のアメリカ、フランスの一部)で発生したのはなぜか。それは、旧来の商業の勢力を批判するプロテスタンティズムが近代的資本主義の精神を支えたから、特に労動者と彼らに連続する経営者にまで広く禁欲と節制の実践を行わせたからだ。
    20世紀初頭においてプロテスタントはカソリックに比べて、実業の高等教育を受けているものが多く資本家・起業家や熟練労動者も多かった。古プロテスタンティズムは禁欲的でありカソリックのほうが非現世的であるという説明や、プロテスタントが主流な地域におけるカソリックにそういった傾向が見られないことから生地を離れることによる労働強化や政治的・社会的少数派による商業への注力という説明は成り立たない。プロテスタントの考え方自体に資本主義と通底する何かがあるのである
    資本主義的精神とは天職思想に基づく非合理的なまでの職業労働への献身である。経済的な繁栄こそが目的であり、その蓄財により快適な生活を送ることを目的としないのである。
    従来のキリスト教においては古く利子は禁止され貨殖は非道徳的な行いであった。足るを知り、食べて生活をするために必要なものだけを生業のなかで生み出すべきとされた。大金持ちは死の前に教会へ寄付をしたり、免罪符を買うことで金儲けという罪を贖う必要があった。資本主義の発展とともに、一部でその変化を受認し、貨幣を勤労の対価として消極的に認める考え方も出てきたがそれはいまここで論じたいプロテスタンティズムの倫理とは異なる。
    天職思想はプロテスタンティズムの中核である。聖職者の権威を否定し、全ての職業は神が与えたものでその使命を全うすることが神の意志に従うことになるという思想である
    カソリックやルター派は職業への奉仕を消極的に認めたが、カルヴァン派やピューリタンは律法に従い他人を傷つけない限りチャンスを活かして利潤を生むことは神の命令だと考えた。主人に預けられた貨幣を利殖せずに罰せられた下僕の話は実際の行動を規定した。隣人愛は自分のように他人を愛すことであり自分以上に愛することではなく、莫大な金を稼ぐことも必要なときに神の要求に答えるためとして肯定された。肉、被造物神化は相変わらず罪であったが、それに当てはまるのは営利主義ではなく奢侈な消費とされ、限界効用を超える浪費がない限りとめどない営利が奨励された。また肉体的な苦行は否定され、肉の奴隷とならぬよう肉体に必要なものが与えられた。
    予定説は救われるものと救われないものを二分し、カトリック的な懺悔や呪術的な神父による救いの秘蹟による善行の勘定を否定する働きをした。予定説は宿命論には行き着かず、救いの証拠を求める信徒たちに神の恩恵である信仰の帰結としての神の創造した世界に合目的的な行為=善行を一貫して行うことのみが唯一の選ばれしものである証であるという強迫観念を植え付けた
    ※呪術とは他人による奇跡であり、人=被造物であるものによる奇跡は否定されるべき。奇跡を否定するという意味では、ただ諦念をもって現実を受け入れることを説く禅宗に通底するものがある。呪術の否定は聖職者の特別性を否定し、在家主体につながる
    予定説を受け入れない洗礼派などでも、教会の否定による自律的な諸信団の形成は内発的動機を高め、信仰の結果としての精霊との合一のための瞑想と手段が禁欲的な行動に導いた
    プロテスタントの信仰により勤勉と節制が富を生み出したが、富は現世執着や虚栄心をもたらし信仰を弱める作用をした。結果的にプロテスタンティズムの倫理は資本主義の興隆をもたらしたが、資本主義興隆後の市民の精神性からは宗教的情熱はなくなり、ただ功利的な禁欲と戦略としての正直さが残った

  • 最も有名な古典の一つ。近代資本主義がどのように出現したか、何にドライブされて形成されてきたかをマックス・ヴェーバーが解き明かした一冊。

    ヴェーバーによれば、近代資本主義の勃興を促進した心理的起動力はキリスト教的禁欲主義だった。

    ルッターによる宗教革命の際、はじめて「天職思想」(世俗的職業の内部における義務の遂行こそが最高の実践道徳であるという思想)が打ち出され、これが以後のプロテスタンティズムの中心的意義となった。
    これがキリスト教的禁欲主義と結びつく。つまり、外物への執着や金銭を追求する欲から自分自身を忌避させる方法として労働を推奨した。またカルヴィニズムにおける「予定説」もこの思想を強化することになった。

    しかしウェズリーが言ったように、キリスト教的禁欲主義は強大すぎる富の欲に対して無力過ぎた。宗教的熱狂が過ぎるとやがて功利営利主義がこれに成り代わることになった。

    資本主義の終焉が声高に叫ばれこれに代わるシステムが模索される現代において、資本主義を促進してきた心理的圧力について再認識することは重要なことかと思う。ヴェーバーが生涯を掛けた宗教比較学の起点となった本書はそのための非常に有益な一冊。

    古典特有の読みにくさがあり内容自体は難解ではあるが、巻末の訳者解説が丁寧で分かりやすい。一度こちらに目を通してから本文を読んだ方が理解にやさしいかと思う。

  • カトリックの国でもギリシャ・ローマでもなく、仏教の国でもなく、なぜ資本主義はプロテスタントの国から発生したのか?神の栄光のために禁欲的に、勤勉に生きる人々が結果として、富を蓄積し、その生き方が資本主義を発展させる流れに強く結びついたからである。
    マックス・ウェーバーの名著で、以前、小室直樹氏の書で感銘を受け、いつか読んでみたいものだと思っていたが、ようやく実現できた。学生時代は社会学を学んでいたにも関わらず、こういう名著に触れることなく、勉学としては無為に時間を過ごしてしまった。これからの後半生、なるべく多くの名著に、少しでもいいから触れていきたい。

  • 2022.3.25 読了
    宗教観と資本主義の相関から因果追求という非常に示唆に富む内容であった。確かに、ユダヤ人や敬虔なカトリックが実業の世界で成功している例は枚挙にいとまがないが、その理由については深く考えない(視野が広すぎて考えられない)ところがあった。マックスウェーバーはさまざまな批判に対する論拠を数多く挙げているため、全体的には理解に困る部分もあったが、解説が秀逸でとても気持ちよく読むことができた。金融マンは一読を要する。

  • 非常に難解。
    本文読む→訳者解説読む→本文精読→注釈も合わせて精読 が良さそう。

    資本主義の精神の促進を担ったのは、実は営利的な精神を批判する、キリスト教(特にプロテスタンティズム)の禁欲的精神だった。

    しかし、資本主義はキリスト教精神の賜物とまで考えるのは拡大解釈である。(私も読前には、本書は上記のことを言ってるものだと勘違いしていた)

    そして、「歴史的にキリスト教的基盤を持ち得ない地域(例えば日本)でも資本主義は成立しているから、ヴェーバーは間違っている」との批判も当たらない。

    なぜならば、本書最終章でヴェーバーが述べるように、キリスト教的禁欲精神が資本主義の社会構造を強固なものとしてしまうと、今度は資本主義の社会構造が逆に世俗内的禁欲を外側から強制するようになったからである。

    つまり、資本主義の社会構造が進むにつれて、資本主義というシステムと宗教精神の関係は薄れていき、近代資本主義が確立される頃には「資本主義の精神」は忘れ去られ、それらを元にした行動様式のみが残存するにいたったのだ。
    日本や他のキリスト教圏外の地域に持ち込まれた資本主義の構造は、既に宗教の影響を逃れた、確立された近代資本主義だったと考えられる。

    個人的に、ヴェーバーが最終盤で語る、「資本主義か最終的にたどり着くであろう世界」の叙述に感銘を受けたので最後に引用しておく。
     


    「禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるととも に、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、 あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、 圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人 ―直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく― の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう」(本書、267頁)

    「バックスターの見解によると、外物についての配慮は、ただ『いつでも脱ぐことのできる薄い外衣』のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。 それなのに、運命は不幸にも この外衣を鋼鉄のように堅いとしてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ」(本書、268頁)。

    「今日では、禁欲の精神は最終的にか否か、ー誰が知ろう―この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。・・・ 『天職義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。そして、『世俗的職業を天職として遂行する』という、そうした行為を直接最高の精神的文化価値に関連させることができないばあいにもあるいは、逆の言い方をすれば、主観的にも単に経済的強制としてしか感じられないばあいにも今日では誰もおよそその意味を詮索しないのが普通だ」(本書、268頁)。

    「こうした文化発展の最後に現われる『末人たち』 にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。」(本書、269頁)。

  • 現代がいかにキリスト教世界の理論を原理として成立してきたのかを理解できる。自身の世界の成り立ちと現代における社会に対する評価基準を再考できる。

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著者プロフィール

1864-1920。ドイツ、エルフルトに生れる。ハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律学を専攻し、歴史、経済学、哲学に対する造詣をも深める。1892年ベルリン大学でローマ法、ドイツ法、商法の教授資格を得、同年同大学講師、93年同助教授、94年フライブルク大学経済学教授、97年ハイデルベルク大学経済学教授、1903年病気のため教職を去り、ハイデルベルク大学名誉教授となる。1904年Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集をヤッフェおよぴゾンバルトとともに引受ける。同年セント・ルイスの国際的学術会議に出席のため渡米。帰国後研究と著述に専念し上記Archivに論文を続々と発表。1918年ヴィーン大学教授、19年ミュンヘン大学教授、経済史を講義。20年ミュンヘンで歿。

「2019年 『宗教社会学論選 【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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