坂の途中の家

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  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022513458

感想・レビュー・書評

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  • 補欠裁判員の里沙子が、子どもを殺してしまった被告の水穂に自分を重ね合わせて、苦しみ、そして気付くお話。途中は私も主人公同様、大分苦しくなった。
    私も元夫との結婚生活では本当に辛い毎日だったし、洗脳的な状態だったと思う。そこから抜けた今が本当に幸せで・・・。そして、インスタ等を見ていると、今まさに辛い毎日を送っている人がたくさんいて。そんな人達が早く気付き、救われますように、、水穂のような人が生まれませんように、、と願う。

  • 角田光代にはまったきっかけになった本。
    主人公の感情の揺れが自分のものかと思うくらい、感情移入してしまった。
    ちょっとした言葉や態度からの、すれ違い…みたいなものに、若干恐怖心を感じたほど。

    角田さんの感情描写、ホントすごい!!

  • 虐待がテーマ?なのかな。
    子育てを経験した母親は共感しやすい内容なのかも。
    と、思ったけど、みんなは共感しないのかも。
    共感した私はやっぱりそっち側の人間なのかも?とも思えた。
    私も思い込みが激しい方だし、ネガティブだから。
    きっとこうだろうって相手の気持ちを決めつけがちで。
    本当は違う事たくさんあるんだろうなって。
    私の中では最後が尻つぼみだったので★3
    だって結局何も変わってない。
    その後どうなったのかもわからない。
    モヤモヤだけが残った。

  • 裁判員制度の裁判員に選ばれた主人公が、被告の女性を通して自分のことを見つめなおす、といったような話です。

    淡々とした日常、2歳の反抗期が始まった子供との毎日が裁判所にいくようになって少しづつ変わっていくのか、変わったのは主人公の心情か…。

    全体的に重い感じなのですが、だんだん、被告についての話だったか、主人公の主婦のことだったかわからなくなるような感じもあって、たとえば子供が居なくても、夫婦間の関係でなくても、同じような状況になって同じような心理状態になることがあるだろうと共感できて、あっという間に読んでしまいました。

    おもしろい、というより、興味深い1冊でした。

  • ため息をつき、眉間に縦皺を刻み
    うっすらと息苦しささえ感じながらこの本を読んだ。
    いやいや期の娘を育てる主人公の思いや、
    彼女が姑や夫から投げつけられた言葉の数々が
    忘れていたはずの過去の記憶を鮮明に浮かび上がらせてきて辛いのだ。
    だけど先を読むことを止めることなんかできない。
    私が漠然と感じ、感じていながらも言葉にできなかった感情を
    作者の角田さんは、見事なロジックで紐解いてくれたのだ。
    あぁ・・・そうだったのか、
    だから私は幸福な時間を過ごしていたはずなのに
    あんなにも悲しくて、あんなにも孤独だったのかと
    20年以上歳月を経て差し出された答えに
    泣きたいような、でも懐かしくて愛おしいような気持になった。
    この瞬間も、朝も夜も泣き止まない赤ちゃんに疲れ
    子育てに悩んで孤軍奮闘している全てのお母さんたち
    どうかどうか、がんばって。

  • 同じような専業主婦として娘を二人育てたので里沙子の気持ちや状態がよく分かる。

    「後半同じことの繰り返し」「閉塞感」が読んでいて辛かった、というレビューを見かけましたが、そう読者に感じさせられたならそれは角田さんの思惑通りだったんじゃないかな?

    あの堂々巡りな繰り返し感とか閉塞感こそが子育てしていた時のあの時そっくり。

    里沙子が外へ出ればその感じる閉塞感は薄らぐと思うけど・・・

    もしこの話に20年後くらいの続編があるならば

    文香ちゃんが大きく育ってお父さんの顔色を伺うようになってその父親の呪縛から解き放たれるには主人公である母親が文香ちゃんの味方になって一緒に旦那に必死に自分の気持ちを伝えようとする事がくるのかな、とか

    そんなふうに味方になったのに娘に疎ましく思われちゃうけどそれが親離れなんだからちょっと寂しいな、とか

    いや、あーちゃんはここまでイヤイヤ言える子だから里沙子とはまた違って、むしろ旦那と一緒になって主人公を下に見るような態度とってきたりして陽一郎とあーちゃんのステレオ状態で苦労するのかな、とか

    旦那の親の死とか介護とか老いに直面して
    里沙子自身が亡くなった後、旦那は娘にどういう扱われ方をするんだろう、娘にどう負担になるんだろう、とか。

    家から出て働いたりして閉塞間はなくなっても
    結局悩みはたぶん死ぬ直前まで続くのかな

    とか色々考えさせられる本でした。

  • 主人公の里沙子さんは、専業主婦です。育児をしています。まだ幼稚園に上がる前の子供。いつもいっしょです。

    「預かってくれる義父母がいるんだから恵まれている」
    「児童館に行って友達つくれば」
    「子供はかわいいんだから、幸せじゃないか」
    「毎日仕事せずに、楽じゃないか」

    というような言葉たちが、世間にありますね。

    義父母に預けるだけで、いくつも電車とバスを乗り換えて、歩いていかなくてはならない。

    その道のりが、反抗期の三歳児を連れている親にとって、どれだけストレスになるか。

    ママ友って言っても、そんなに気楽な関係ではない。

    子供がかわいい?もちろん総論かわいいけど、生活の中で、かわいいばかりな訳がないのだ。

    仕事をしていないということは、仕事仲間もいない。

    家事育児という仕事は、仕事仲間とおしゃべりもできなければ、喜びを分かち合う同僚も、愚痴を共有する仲間もいない。そもそも、うまくいった時に誰も評価もしてくれない。

    そして、駅までバスに乗っていかなくてはならない住宅街。

    いやいや期の三歳児を連れて、気軽にお茶1つ、できるわけでもないのだ。

    #

    そういう、具体な生活の細部が分からないと、総論として「専業主婦は呑気で良いね」で終わってしまう。

    バスや電車の中で、子供がぐずったときのストレス。

    義母から持たされた重たい食べ物を持って、子供を引いてバスに乗って、夜道を歩く。

    ひとりきりで、喫茶店でお茶をするだけでも、久しぶりでほっとする。

    ママ友との会話も、お互いに踏み込まない、互いの子どもの優劣の刺激の無い範疇の会話しかできない。

    そして、ネットから情報が入る。一方で、意外と人と話す機会がない。あの人と友達になれるかな。互いの家庭について話したいな、と思っても、子供がいる身。時間が取れない。

    そして、働いている女性、結婚しても働いている女性、を観たときの、気持ち。働いている人の独特の、なんというか、自信があふれているかんじ。

    夫が浮気したら。離婚を言い渡されたら。不景気の世の中、どうすればいいのか。

    #################

    角田光代さん「坂の途中の家」。

    かなり、重く苦しく、でも面白い本でした。

    「すごいなあ、傑作だなあ」、という感想と、「でもちょっと不満がある!」という、両方の感想があります。

    主人公は、どうやら吉祥寺からバスで10分とか20分とか?の住宅街に住んでいるよう。
    「いやいや期」の娘。三歳。
    基本は優しいし、殴ったりは当然しないけど、なんとなく上から目線の夫。会社員。
    同居ではないけれど、夫とよく連絡をとっている、義理の母。

    この主人公が、「裁判員」に選ばれてしまう。
    そして、手がける裁判は、
    「専業主婦の女性・水穂さん、が、育児に疲れ、1歳弱の娘を、風呂場で溺死させた事件」。

    物語は、この裁判が始まってから終わるまで、という時間の中で進みます。

    裁判が進む中で。
    一見、「たかがそんなことくらいで、いたいけな娘を風呂場で殺してしまうなんて」
    という事件にしか見えません。
    被告の水穂さんは、夫から暴力を振るわれたわけでもなく、極貧だったわけでもない。

    ところが。「娘を殺してしまった」ということは、許されないことだったとしても。
    「自分は仕事をして稼いでいるのだから」という無言の上から圧力の夫。
    仕事とその付き合いを優先して、心理的に育児に協力してくれない夫。
    うまくいかないことを伝えると、全て「君が悪いのでは」という論法にすり替えられてしまう関係。
    浮気はしていないにしても、黙って元彼女の女友達と連絡していた夫。それも自分のことを相談されていた。
    そして、「アドバイス」「協力」という言葉のもとで、自分のことを下に見てくる、夫の両親。
    ゼロ歳児の育児。初めての子供。完全母乳のプレッシャー。エトセトラエトセトラ...
    そして、「そんなのは当たり前」「みんなやっていること」「すぐにそんな時期は終わる」「母親なら当然できるはず」...

    「娘を殺した」という結果はともあれ、過程としての苦しさを、裁判員である里沙子さんは痛いほど感じてしまう。

    一方で自分も。
    三歳児の育児と家事に追われる日々。
    帰りの遅い夫。
    反抗期の娘。
    たまにしか会えない父親には媚を売り、父親も娘を甘やかす。
    疲れていらいらしているときも、夫は「君おかしいんじゃないの」という感じ。
    ちょっと自宅でビールを飲むと、「アル中扱い」を軽口でされる。
    日々、細かく、カミソリで切られるように傷ついていく。

    反抗期の娘に手を焼き、ちょっとしたことで、
    「君それ虐待じゃないの?」みたいな軽口と不信の目で夫に見られる。

    そして、裁判員をやっている間、娘は浦和の義父母に預けるしかない。
    表向きは友好的だが、常に結局は息子の味方、息子の心配しかしない、義父母。
    そして、夫は自分に黙って、「妻が疲れてるみたいだから助けてやって」など勝手に連絡しているのだ。

    実の両親とは仲が悪い。というより、ほぼ、仲が無い。
    岐阜の両親は、昭和の田舎町の精神風景から全く抜け出せていないのだ。

    仕事をやめなければ良かった、と後悔することもある。
    だが、一方で「仕事と家事育児は両立できなかっただろう」「あたしには無理だったろう」という思いもある。と、言われるから。

    …と、まあ。

    そういうカタチで小説は進んでいきます。

    裁判の進行と、里沙子の心象風景。

    そしてこの小説は、犯罪ミステリーではありません。真犯人、どんでん返し、などはないんです。

    どこかで、里沙子さんは、被告のことと自分のことを考えているうちに。
    気づくわけです。

    自分の周りは今、何故だか、誰も暖かく自分を応援してくれていない。

    と、言うと、無論語弊があります。
    みんな、「そんなことないよ」なんです。
    協力してくれる。
    殴ったり怒鳴ったりはしない。

    なんだけど。

    日常のやり取りの中で、
    カンナで削られるように、微妙に自分を低く押し付けてくる。
    なにもできないだろう?常識がないのじゃない?普通はそうなのかなあ?
    それは違うんじゃない?おかしいんじゃない?普通はそうじゃないでしょ?…

    いつの間にか、それに支配されている自分がいた。
    気がついたら、缶ビール一本飲むだけで、夫や娘に見られまいと緊張している自分がいた。

    ここのところが、この小説の、いちばん凄いトコロで、素晴らしいところです。

    つまり、

    「家族なんだから、義父母なんだから、友達なんだから、あなたに悪意があるわけないじゃない?良かれと思ってるのよ?」

    という言葉がある訳です。

    「だって、あなたに悪意を持って、傷つけても、何の特もないじゃない?」

    ということなんです。

    そのとおりだなあ、と。

    一見そう見えますが。

    そこに縛られて、そこに囚われて。
    「あたしの方が気にしすぎなのか」「あたしの方が悪いんだな」という、スパイラル…。

    そうでもない、と。

    #

    人は、周囲のひとを、自分より下、劣っているもの、と位置づけることで、自分を正当化する。

    あるいは、自分のやり方、自分の価値観に、同意を求める。強要する。従わせる。

    そのためには、相手を傷つけることなんて、実は全く、かまわない。

    相手を愛してる、とかと、全く矛盾しないんですね。同居できます。

    だって、「自分が従わせることが出来ているから、相手を愛することができる」という愛し方しか出来ないことが、いっぱいあるんですね。

    気づいていないだけで。

    特に、相手が自分と違う生き方や環境にあるときに、なおさらそうなる。

    つまりそこに、自分を肯定して、自分を優位に置くためだけに、

    夫婦でも親子でも、平気で悪意を持てる。

    「悪意を持ってる」と言葉として意識することは、ゼッタイに無いのだけど。

    でも、確実に「悪意を持っている」としか言いようのない態度、言い方をするのは、そういうことでしかないんですね。

    #

    ということなんです。

    考えてみれば、実は当たり前のことなんですけどね。
    殺人事件の、被害者と加害者の関係でいちばん多いのは、「家族」ですから。
    そして、愛しているからこそ、憎んだ末なんでしょうから。
    もしくは、「愛しているはず」「ということは、相手も自分を愛しているはず」「自分は愛される権利を持っているはず」「なのに、自分の望むように愛してくれない」「自分は被害者だ。悪いのは相手だ」
    というロジックの末、でしょうから。

    この、
    「近しい間柄に、普通に悪意が潜在することがある」
    という炙り出しが、この小説のモノスゴく、面白いところですね。ぞくぞくします。

    そして、主人公の生活感、細部、ストレス...
    主人公の心理を、きめの細かい布で丹念に濾していくような、筆力。

    さすがですね。

    #

    その代り...

    で、そういうことに主人公が気づきます。
    だからまあ、やはり、夫や義母の望むままに、家にばかり居ても、あかんなあ、と思います。
    お友達と会ったり、これから働いたりしようかな、と思います。

    というあたりで、フツっと終わるんです。。。

    ちょっとまあ...フィクションの小説な訳ですから。ノンフィクションの新書などではないわけですから。
    もうちょっと、小説ならではの、救いと言うか、爽快感というか...欲しいじゃないですか...

    確かに、面白い。視点が強烈です。
    また、ココまでの事態にならなくても、知らず知らずに自分が、被害者もしくは加害者になっているのでは、という警戒の一助ともなります。すばらしいです。

    でもねえ...

    これ、読み手によっては、却って心理的に追い込まれちゃったりするんじゃなかろうか。
    見方によっては、ワイドショー的に「かわいそうな専業主婦さん」を悲劇ドラマチックに書いてるだけって受け取られるのでは...。

    もうちょっと、リアリズムからずれてでも、フィクションらしい気持ち良さが...

    ハッピーエンドに持って行く力技、一粒のユーモア...そんなものが個人的には欲しかったです...。

    もし、万が一、主人公と類似の立場にいる人が読んだ時に。
    自分の状況の見方について、目からウロコ的な感動があるかも知れません。
    そこからもう一歩、なにかに向かって勇気が出せる、応援歌の要素が欲しかったなあ...って。

    まあ、完全に、その辺、好みなんですけどね。

  • ネット上に本作について語る著者のインタビューがありました。「出版前にゲラを読んでいたとき、最後の最後に、実はこの里沙子という女がおかしくて、周りは何ひとつ悪くないんじゃないか、と思ってぞっとしたんですけど、まさに読み手がそう感じるように書きたかったので、ぞっとした後で、自分で『よっしゃあ』と思いました(笑い)」
    私は、まんまと、著者の術中にはまっていました。

    この作品キャッチフレーズは「感情移入度100%の社会派エンターテイメント」だと帯にありますが、かなり強烈な皮肉ではないかともいます。
    実は、これほど世代、性別、経験(子供がいるかどうか、あるいは何歳か)によって、共感できるかどうかに差が出る小説も珍しいのだから。
    ある人にとっては、「これは私の話だ。」かもしれないけど、ある人にとっては著者の狙い通り、「里沙子だけおかしい」になりうる。その気持ち悪さ、これがこの作品の最大の「味」なのだと思います。

  • 気が詰まるというか、息苦しさが満ちた物語で、実際に子育て真っ最中だったりする方は、はたしてフィクションとして楽しめるのか、不安になるほどでしたが…

    補充裁判員に選ばれた主人公が担当することになったのは幼児虐待死事件。その事件にのめりこんでいくうちに、彼女は自身と被疑者を重ね合わせていき、それまでの平和な日常すべてがずれていくようになる…

    細やかな日常描写、なにげない台詞の応酬から、どうしようもない無理解が横たわっていること、その絶望的な悟りがやってきて、深い崖底を覗きこんでいるような気持にさせられます。そしてけして主人公の「結論」が正しいのかどうかはわからないというぼやかし方が、やはり読み手を不安にさせます。彼女の懸案は本当に、そうなのか?否定する材料も肯定する材料もない。

    ただ、「彼女の事件」はだれにでも日常に起こりうるものだったと感じさせる手管に飲み込まれてしまいます。そうでない、と否定したいのに。

    …この後彼女は、つつがなく日常を送るのだろうとは思います。胸底に不穏をため込んだまま。けれどいつそれが表出するか、それとも沈殿するのかは、だれにもわからない。

    それがとても恐ろしくてたまらなく思うのでした。

  • 幼児虐待事件の裁判の裁判員に選ばれた里沙子の目線で語られる公判の様子と、その事件に自分を重ねていく様になる里沙子の苦悶の日々の話。

    かなりきつい話でした。
    先が知りたくて、目が離せず、一気読み。
    今は、ズシンと、重苦しい読後感を味わっています。

    過ぎてしまえば、何だったんだろうとも思うことでも、私も最初の子の時には、同じような思いを感じたこともあり、他人事とは思えないシーンがいくつかありました。
    一生懸命であればあるほど、子育てって大変で、でも、だからこそ実りが多いものなのだろうなと、この年になり静観出来るようになっている気がします。

    虐待、モラハラ、嫁姑問題、アルコール依存など、ひとつぐらいは心当たりがありそうな問題が目白押し。

    興味があった裁判員制度にも触れられて、勉強にはなりましたが、考えさせらたかな。
    裁判後の里沙子がどうなるのか、少し心配にもなりました。

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著者プロフィール

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。90年『幸福な遊戯』で「海燕新人文学賞」を受賞し、デビュー。96年『まどろむ夜のUFO』で、「野間文芸新人賞」、2003年『空中庭園』で「婦人公論文芸賞」、05年『対岸の彼女』で「直木賞」、07年『八日目の蝉』で「中央公論文芸賞」、11年『ツリーハウス』で「伊藤整文学賞」、12年『かなたの子』で「泉鏡花文学賞」、『紙の月』で「柴田錬三郎賞」、14年『私のなかの彼女』で「河合隼雄物語賞」、21年『源氏物語』の完全新訳で「読売文学賞」を受賞する。他の著書に、『月と雷』『坂の途中の家』『銀の夜』『タラント』、エッセイ集『世界は終わりそうにない』『月夜の散歩』等がある。

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