べつの言葉で (Crest books)

  • 新潮社
4.05
  • (52)
  • (55)
  • (31)
  • (4)
  • (2)
本棚登録 : 822
感想 : 71
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (136ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901202

作品紹介・あらすじ

「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • アメリカで名を成した作家であるジュンパ・ラヒリが40を過ぎてから外国語であるイタリア語を選び取り、ローマへ移住した経験をイタリア語で綴ったエッセイ。

    手に取ったとき「言葉に関する本なのに、表紙の女の子がジャンプしているのはどうしてだろう」と思っていたのだけど、読み終えた今、境界を飛び越える・新たな世界に踏み入って挑戦する、という意味を込めたかったのかなと思った。

    エッセイを読み進めるほどに、文章が長く、語彙も多彩になり、ときおり物語も登場するので、著者の語学習得のスピードが肌で感じられて恐れ入る。

    読んで二つのことを考えた。まず外国語を学ぶ楽しさ。次に言語とアイデンティティの関係について。

    一つ目の、大人になってから学ぶ外国語について。著者の語学学習に取り組むときの情熱的な姿勢が色んな感情を呼び覚ました。新しい語彙(つまり新しい世界の切り取り方)を知る興奮。辞書を使いながらでも本を読み終えたあとの達成感。靄がかっていた世界が理解できるようになったときの晴れ晴れとした気持ち。

    私も大人になってからタイ語を学んで、全く違う語彙の世界の前に立ちすくんだ記憶が蘇った。今まで習ったどんな言語とも語彙レベルでは似ても似つかなくて、単語を何回も声に出しながら書くという泥臭い作業をしてもなかなか覚えられず、途方に暮れていた。そんなある日、住んでいたコンドミニアムに帰ってきたときに警備のおじさんから話かけられた「今日は何をしてきたの?」が意味を伴って耳に飛び込んできたとき、霧がわぁと晴れるような感動を覚えた。それまでノイズ・雑音としか聞こえなかったタイ語が突然言葉として理解できるようになった瞬間が、忘れられない。
    言語への愛に当てられてフランス語や英語の本が読みたくなった。(※フランス語や英語のメンテナンスもままなっていないのでタイ語は放置でもう忘却の彼方…涙)

    著者はまた、自分の語学力は不完全だと認識することによる緊張感が、言葉について深く丁寧に考えることに繋がり、それは創造力を刺激するとも指摘する。私はこの境地に至ったことはないけど、初めてのことに取り組むときの真摯さって大事(=初心忘るべからず)ということを改めて感じた。

    二つ目の、アイデンティティについて。著者は母語ベンガル語と継母語の英語が敵対関係にあって、それから逃れるためにイタリア語に自由を求めた、と説明をしていて驚きがあった。

    おもえば、私は母語日本語とのどっしりとした安定的な関係を築いた上で海外に放り出されたので、言語的アイデンティティが揺らぐことなく、フランス語とも英語ともあくまで友好的に付き合えたのかもしれない。ここ数年でいろんな書物を通して「言語的アイデンティティに悩む」という事象を「発見」していたのは、私にとっては言語的アイデンティティは疑いようもなく安定していたからだったのだと、逆説的に理解できた。何事にも良い面・悪い面はあるけど、母語が確立するまでは焦って外国語に手を出さないという教育方針はアイデンティティの安定においては一定の意味がある気がした。(もちろんマルチリンガルな家庭もあるので、何が絶対正解というのはないけれど)

    過去の投稿、タイ語について
    『マリンのタイ語生活〈1〉挫折しないタイ文字レッスン (マリンのタイ語生活 1)』
    https://booklog.jp/users/shokojalan/archives/1/4839601976

  • ベンガル語を話す両親に、幼少期からいたアメリカでは英語があふれ、イタリア語に絆や情愛のような『雷の一撃』をおぼえたジュンパ・ラヒリ。

    私だったら環境の過酷さに腐ってたかもしれないのに、アメリカで小説家として偉大な賞を獲得しているだけでも、その心の強さ、あるいは凄さを感じられるのだが、その後の出来事で、真の『生きる』ということを実感するという、彼女の人生の先の読めない面白さ、怖さに、なぜか共感じみた親しみを感じた。

    なぜ、そう感じたのかは、私の場合、先に「わたしのいるところ」という、このエッセイより後に発表した、初のイタリア語で書いた小説を読んでいることもあり、彼女の孤独の部分に深い共感を覚えているからだと思う。

    このイタリア語で書かれた初のエッセイでも、『わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法』とあり、小説家であることは、彼女の存在意義のためには必要不可欠であることが分かり、また『言語の壁を壊し、自分を純粋に表現するために書く。書いているときは、わたしの顔かたちや名前は関係ない。偏見やフィルターなしに耳を傾けてもらえる』ともあり、言語の壁に今でも苦しんでいる彼女の姿が垣間見える。

    また、単純にエッセイとして、すごく励まされた。

    『無知なことが何かの役に立つことは分かっている』や、『不完全であると感じれば感じるほど、わたしは生きていると実感する。もし、すべてが可能だったら、人生に何の意味があるだろうか?』など、彼女のイタリア語として紡ぎ出されると、妙に説得力がある。

    このエッセイ集には、彼女のイタリア語の言葉ひとつひとつを摘み集めていく、喜びと共に、苦難に満ちた日々に、生きているということを実感している姿が、真摯かつ丁寧に描かれていて、イタリアに興味がなくても、新しいひとつの人生論みたいなものを感じられるので、私的には、下手な日本人が書いたエッセイよりも遥かに共感出来た。おそらく、真面目な方なんだろうなといった雰囲気が、文章の端々に漂っている。翻訳の中嶋さんもすごいのだろうと思う。

    表紙の女の子が溝を飛び越える写真も、ラヒリの挑戦する気持ちと重なって見えて、すごくこの作品に合っていて良い。

  • ジュンパ・ラヒリが米国にて小説家として大成功したのちにイタリアへ移住。そしてイタリア語で書いたエッセイ。第二言語を学習する際の心持ちが赤裸々に書かれていて興味深かった。小説家である彼女にとって言語は特別な存在、人生そのもの。これまでの作品でも描かれてきたとおり英語とベンガル語の2つで板挟みになっていてアイデンティティクライシスに苛まれている。そこにイタリア語という何のルーツもない言語が入ってくることで自分のバランスを整えていく過程がオモシロい。第二言語の学習においてはどのようにモチベーションをキープするかが重要だと思っていて彼女はイタリア語に対する愛がそれにあたる。知りたい/話したい/書きたいという欲求のベースに言葉への愛を持っている人はうらやましいし強いと思う。また彼女がイタリア語を学ぶ上で不安に思うことを正直に書いている点がかなりグッときた。というのも英語話者が第二言語を習得しようとする過程を書いた本を読むのが初めてだった。「よそはよそ、うちはうち」というのは重々分かっているけど同じような困難に直面していることに安心した。分からないこと、変化すること、不完全であることに価値を見出す気持ちが大切だと思い知った。大きな達成感や喜びは大きな障害や苦しみを乗り越えないと得ることはできない。年を取ると予定調和に流されていくのが常である中、本著は何か止まってしまいそうなときに人を奮い立たせる能力を持っている。また本著には2篇の短編小説が含まれておりイタリア語で執筆されたものである。英語の小説では縦横無尽だった彼女の時間や場所のレンジの広さや大胆な展開はないものの、設定のシンプルさゆえの奥行ある感じが良き。英語話者が獲得したイタリア語で書いたエッセイを日本語訳で読むという言語を巡る不可思議さも本著の魅力と言えるだろう。

  • 自分が探していた何かが見つかった。今まで自分でそれを探していたことにすら気がつかなかったけれど、見つけて初めて、こんがらかっていたホースがピンとなった。今、その中を水が通っている感じがする。素敵だ。

  • イタリア語に魅せられ、イタリアに移住したジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いたエッセイ、というので、勝手に、もっと日常的な軽いエッセイを想像していたのだけれど、そういう部分もないわけではないけど、やはりジュンパ・ラヒリなので、軽く読むような感じではなく、一語一語丁寧に読むべき本、といった感じだった。わたしは丁寧に読めなかったな、と自覚があるのでいつか再読したい。。。

    ラヒリが、両親が話すベンガル語と幼少時に習得して今では完璧に身につけた英語と、大人になってから学んだイタリア語のあいだでの苦しみみたいなものが伝わってきた。出自と、欧米人に見えない容姿のせいで、英語もイタリア語も、完璧だとしてもそうは思われず、育ちのせいでベンガル語も完璧とは思われないという。。。

    あんなふうになにかひとつの言語に魅せられるっていうのはどういう感じなのかなあと思う。わたしなんかが英語をマスターできたらいいなとか思うのとはまた違うような気がする。

    • meguyamaさん
      私ももう少ししたら読む予定で、すごく楽しみにしている本です。期待を裏切らない内容みたいでうれしいな。
      私ももう少ししたら読む予定で、すごく楽しみにしている本です。期待を裏切らない内容みたいでうれしいな。
      2015/10/25
    • niwatokoさん
      わたしはもうちょっと軽い感じを期待してたんですけど、やっぱり日本の小説家のエッセイとは違って、エッセイといえども深いというか。でも読みごたえ...
      わたしはもうちょっと軽い感じを期待してたんですけど、やっぱり日本の小説家のエッセイとは違って、エッセイといえども深いというか。でも読みごたえがあったし、よかったです。「低地」読んでないので読まないと、と思いました。
      2015/10/25
  • 外国語を学ぶ期待と失望と苦しさ、はーめちゃわかる〜と思いつつも本まで出しちゃうラヒリに対し私は甘いなもうちょっと頑張ろうと思った。

  • 属してるのか属していないのか分からない微妙な境界線。入り込もうとしても完全には入り込めないもどかしさ。言語が変わることで弱くなってしまう自分自身。

    ただ外国語を勉強するだけじゃない、その場所に芯から溶け込もうとして初めて湧き出てくる感情、そして所属することの難しさ。色んなことを思い出した本だった。

    外国語で書くと母国語で書くのとはどうしても変わってしまうように感じるけど、最後の一篇でラヒリらしさが出てた気がして、根底は変わらないんだなと改めて。

  • 彼女とイタリア語は、出会うべくして出会った。運命だったんだろうな。狂おしいほどに熱狂し、葛藤し、日々こころを揺さぶられている。自分というアイデンティティの一部を担うまでの何かに出会えるって、すごい。奇跡だと思う。

  • 素晴らしかった。

    ラヒリ曰く、外国語を学ぶことは湖を泳ぐこと。考えてみたら言葉を生業とするひとが、別の湖畔を目指したくなるのは至極自然なことなのかもしれない。水で繋がっているのだから。

    そして、その探求の始まりは、二重のアイデンティティからの逃避だと言う。生まれたときから英語を話す一流作家が、見た目から英語を母国語だと思われない。深いテーマを内包した秀作エッセイ。

  • 母国語でも母語でも、仕事で使うためでもなく純粋にある言語に惹かれてやまない気持ちを短編小説や様々な比喩で描いている語学好きにはたまらない一冊です。使うあてもないものだけれど、なぜか惹かれて触れ続けてしまう。言語に限らずなぜか心惹かれるものがある人。学んでも学んでもゴールが見えないと思いつつ取り組むものがある人にオススメしたい一冊。

  • ベンガル語、英語、そしてイタリア語… イタリア語への情熱が印象的。「変身」がよかった。あまりほかに類を見ない、実験的なエッセイ。気まぐれでもあり、自分のアイデンティティを求める旅でもある。書くことや読むことと生きることが不可分な、作家の性というか業というか。とても印象的な本。

  • どうしてイタリア語の習得にそんなに熱心になるのか、最初は理解できずに読みすすめた。(途中で説明してくれたので、そこでわかった)そんな感じで、共感はあまりできないのに、文章には、自然にひきこまれてしまった。そこはラヒリの筆力のなせるわざだろう。
    ことばのはしばしから、ラヒリの謙虚さ、率直さ、ひたむきさが伝わってきて、素敵な方なのだろうなあと思う。
    そして、エッセイとともに収められている短編2編がこれまた秀逸で、うなった。エッセイのテーマとも重なる異国や旅や不在などを描きながら、あらがえない自分の変化と変わらなさを伝えていて、こちらは、すごくよくわかる感覚。エッセイでは、個人的な体験・感覚をひたすら掘り下げているのに、小説(創作)では、それを普遍的なものにしてしまう。やっぱり作家ってすごいよなあ、と感嘆せざるをえませんでした。

  • 『停電の夜に』で、衝撃的なデビューを果たした後も、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と確実にヒットを飛ばし、つい最近は『低地』で、その成長ぶりを見せつけていたジュンパ・ラヒリ。その彼女がアメリカを捨て、ローマに居を構えていたことを、この本を読んではじめて知った。単に引っ越したというだけではない。英語で書くのもやめてしまい、今はイタリア語で書いているという。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。もちろんこの本もイタリア語で書かれている。もっとも読んでいるのは当然のことながら日本語に訳されたものであるわけなのだが。

    コルカタ生まれの作家の両親はアメリカに来てからも家ではベンガル語を話しつづけた。ロンドン生まれで幼い頃アメリカに渡ったラヒリは、小さいころは両親の使うベンガル語をつかっていたが、幼稚園ではまわりの子とまじって英語を話すことを強制された。ずいぶん居心地の悪い思いをしたことだろう。その当時の気持ちは、ここに所収の言語習得に関する自伝的エッセイにくわしい。しかし、成長するにつれ、英語で話したり書いたりすることがあたりまえになると、今度は両親と話すときにだけつかうベンガル語が疎遠になったと感じるようになる。そのへんの喩えを、メタファーの名手であるラヒリは、実母と継母の喩えを用いて説明している。無論、英語が継母である。

    しかし、この実母と継母は仲が悪かった。コルカタに帰れば、周りはベンガル語を話す人ばかりで、今や英語で書く作家になったラヒリにとって、そこは父母の祖国ではあっても自分の祖国という気にはなれない。では、アメリカが祖国かといえば、それもちがう。そのあたりのことを作家はこう書いている。

    「ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。」

    そう感じる作家には、「べつの言葉」が必要だった。しかし、イタリア語との出会いはそんなふうに理詰めに進んだわけではない。その美しい出会いについては、本文中に、時系列に沿って、水泳や雷の一撃といった的確かつ美的なメタファーを使用しながら詳しく書かれている。すごい美人ではあるが、どうみてもオリエンタルな印象を与える彼女の外貌のせいで、買い物をした店でイタリア語の発音の流暢さを、スペイン語訛りのイタリア語を話す夫に負けてしまう悔しさなど、笑ってはいけないのだが、つい笑ってしまうようなエピソードもまじえながら。

    いくら好きでもラヒリがイタリア人でないのはその外見だけではない。歴史や土地との結びつきそのものがネイティブとは決定的にちがうのだ。パヴェーゼが『ホメロス』の訳について書いている書簡の内容に触れて、その深さ、広さに到底追いつくことのできない限界を感じながら、それでも言葉を覚えはじめたばかりの少女のように、目を輝かせて、新しい世界に飛び込んでゆくことの感動を語るジュンパ・ラヒリにまぶしいほどの感動を覚えずにはいられない。それと同時に、人間というものと言葉との結びつきの深さにも今一度再考させられた。

    「小さいころからわたしは、自分の不完全さを忘れるため、人生の背景に身を隠すために書いている。ある意味では、書くことは不完全さへの長期にわたるオマージュなのだ。一冊の本は一人の人間と同様、その創造中はずっと不完全で未完成なものだ。人は妊娠期間の末に生まれ、それから成長する。しかし、わたしは本が生きているのはそれを書いている間だけだと考える。そのあと、少なくともわたしにとっては、死んでしまう」

    このような深い省察が、二十年にわたる努力はあったにせよ、まったく自由に選び取られた言語で綴ることのできる才能に呆然とするばかりだ。ただ、その達成のために、自分を世界的に有名な作家にしてくれた英語を捨て、アメリカを捨て、ローマに移住してしまう行動力、意志力にも驚かされる。

    はじめは誰にも見せない日記からはじめたイタリア語は、やがて週刊誌に毎週寄稿するにまで至る。原稿はまずイタリア語の先生に見てもらい、その後知人である二人の作家に目を通してもらい最後に編集者の意見を聞くことになる。それを作家はローマ時代のポルティコを支える足場にたとえ、その足場にありがたさを覚えると同時に、今はまだ足場がなくては崩れてしまいそうな段階だが、いずれは足場を外しても建っているだけの文章にしたいと決意を語っている。

    イタリア語に惹かれるようになってからこれまでの経緯をつづる短いエッセイが二十一篇。いずれも、この人の手にかかると読み応えのある、しかも端正でみずみずしい筆致にあふれる読み物になっている。それに図書館で突然降ってきたかと思われるようにして書かれた短篇、というより掌編が二篇付されている。英語で書いていたころとはひと味もふた味もちがう新生ジュンパ・ラヒリがそこに息づいている。これからも、この人から目が離せない。そんな思いにさせる一冊である。

  • イタリア語への愛がある故に傷ついてしまう心があり、喜ぶ機会がある。
    愛情があるから求める。喜ぶ。傷つく。
    愛情が無ければそれらも無い。
    何かと向き合う時には「違いを知る」ことを避けられないから、対象が人であれ、物であれ、言語であれ、自分が絶対に傷つかない守られている状態では愛は自分の中に宿らないんだと思う。

  • 語学を学び直すにあたって、このラヒリのイタリア語での試作は実に考えさせられる。ぼくが学ぶ英語とラヒリのイタリア語の学びはもちろん歴然とした違いがある(ラヒリの学びの姿勢から、あえて英語よりも「マイナー」とされかねない言語を学ぶ矜持についてぼくはもっと深く考えねばならないはずだ)。だが、同じ「言語の学び」という所作を愛しそこから新しい感覚(おそらくはそれこそ「新しい自分」)に触れようとするラヒリを必要以上に「敬して遠ざける」のはもちろん「もったいない」というもの。この本はその点で、学びの動機づけに実に最適だ

  • わたしのいるところ
    から派生して読みましたが、
    こちらの作家さんの作品をもっと読みたいし
    じわっとなじむという感じなので孤独な老後に読んでも幸せだと感じられるのではという見解

  • 言語とアイデンティティーというものを問い直させられる。
    筆者は、アメリカへの移民であり、母語としてのベンガル語は完璧に操ることはできない。一方で、生きていくために必要であった英語は血となり肉となり、自身の言葉として浸透している。
    大人になって、自分自身で学ぶことを選んだイタリア語。その不自由さと困難さの中にある自由。言葉を覚えるということが、また新しい世界を発見することにつながることが静謐に語られている。

  • アメリカ育ちの英語話者だけど、これはイタリア語で書いたんだって!
    イタリア語、に心を惹かれ、とりつかれてイタリア移住までするのか!すごい。
    コトバのことでまるで恋みたいに一喜一憂している。作家にもいろんな人がいるんだなーと思った。

  • A.K

  • 母語以外を好んで使う人の頭の中でいったいどんな冒険が繰り広げられているのかを知りたくて手に取った。言葉を上手に使えなくて当たり前の立場であることがときにその人を助け、時に傷つけるようすを垣間見た。

全71件中 1 - 20件を表示

ジュンパ・ラヒリの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×