新装版 関東大震災 (文春文庫) (文春文庫 よ 1-41)

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  • 文藝春秋
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  • / ISBN・EAN: 9784167169411

感想・レビュー・書評

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  • 吉村さんらしい冷静な無駄のない文体で綴られることで、
    関東大震災の壮絶な様子が怖ろしいほど身に迫るように感じた。
    印象に残ったのは、家財道具を持って逃げることが火災の延焼を招いたということ。
    2万坪の避難地に逃げた4万人の人々が焼け死んだ原因も、
    荷物に火の粉が降りかかり、大量の家財道具が避難の妨げになったことだという。
    江戸時代から火事の多かった東京では、
    避難の際に家財道具を持つことは厳しく禁止されていたらしい。
    その教訓が大正の時代にはすっかり消えてしまったゆえの悲劇だったのだ。

    デマによる朝鮮人虐殺のことは知っていたけれど、
    それが震災翌日にすでに始まっていたことには驚いた。
    そして、デマを否定していた官庁も結局それを信じてしまうこと、
    情報が錯綜して地方の新聞にもデマが広がり、
    地方に避難した被災者がそれを強化し、
    自衛団が暴走し始め、朝鮮人と間違われた日本人が殺されたこと。
    極限の状態に置かれ、正しい情報を知るすべもなくなった人間が
    いかに怖ろしい行為にいたるのかを突きつけられた。
    また、遺体の埋葬の問題や、焼け出された人々のし尿の問題なども
    生々しい後日談として紹介されていた。

    そして意外と知られていないのが、
    関東大震災は首都直下地震ではなく、
    相模湾が震源だということではないだろうか。
    当時は震度計が東大にしかなかったので、
    横浜や湘南地域の詳しい震度はわからないけれど、
    被害を受けた家屋や地震火災、怪我人の数は想像を超えていた。

    日本に住んでいる限り、自然災害からは逃れられない。
    今の時代、改めて読まれるべき本だと思う。

  • 冒頭を読んでいるときは、地震学の説についての学者の争いが中心?と思ってしまいましたが、ページの多くが大震災後の流言について触れられていた。
    陸軍省被服廠跡での火災。
    自主的な消火によって延焼を防いだ地域。
    何の根拠もなく内なる不安を流言、そして暴力へと発展させてしまった事実。
    立憲労働党総理山口正憲を主謀者とする集団強盗事件。

  • 昭和40年代後半に刊行された本だけれど、今でもいろいろ通用することが多い。私が子どもの頃の地震対策避難訓練は、この関東大震災を教訓に考えられたものだった。あれから2回大きな震災を経験しているけれど、実は首都圏では起きてない。いくら備えても大きな自然災害の前には万全ではいられない。それは仕方ない。直面した時に自分はどんな行動ができるのか。現代の知識で読んで当時の情報がない中のおろかとも言える行動を非難できない。

  • 地震、火災の凄惨さは正に想像を絶したものだった。そして人間の恐ろしさも。
    情報網が発達した現代においては、流言で社会が大混乱に陥ることは考えにくいが、生死に直面した時人はどうなるか分からないということは肝に銘じておきたい。

  •  東日本大震災の後、吉村昭著「三陸海岸大津波」を読んで、吉村氏に限らず寺田寅彦氏らが、地震と津波の再来を警告していたことに改めて気づいた。何十年かおきに発生している災害の警告を、私たちは忘れ無視したのである。そのような反省をしながら、詳しく知らない大正12年の関東大震災について知識を得ようと本書を読むことにした。

     これは地震そのものの考察・レポートではなく、地震のために引き起こされた、その後の火災や人心の乱れについて詳しく書かれている。地震後発生した火災により、多くの人々が逃げ場を失い焼死した。また、流言飛語が飛び交い、全く罪のない人々が、噂に惑わされた一般市民の手によって殺害されるということが起こった。

     そんな中でも救われる思いがするのは、ある外国人脚本家が当時の様子を見た記録である。
    「日本人の群衆は驚くべき沈着さをもっていた。庭に集まった者の大半は女と子供であったが、だれ一人騒ぐ者もなく、高い声さえあげず、涙も流さず、ヒステリーの発作も起こさなかった。」
     このように驚かれるほど当時の日本人は冷静に対応した。東日本大震災の時にも同様の賞賛を受けたことは記憶に新しい。

     吉村氏は両親から関東大震災の話を時々聞かされていたそうである。それにより、災害時の人間の心理というものは異常になることを子どもの頃から思っていたという。もちろん物理的に地震や津波は怖いが、それにもまして災害時の人心の混乱に戦慄したという。幸いにして東日本大震災の時には、そんなことは起こらなかったが、心しておきたい。

  • 『史実を歩く』、『私の好きな悪い癖』を読んで、まずこの記録小説を読んでみようと買ってきた。これが書かれたのは昭和47年~48年(1972年~73年)で、ほぼ40年前のことである。

    「あとがき」に吉村はこう記す。
    ▼私の両親は、東京で関東大震災に遭い、幼児から両親の体験談になじんだ。殊に私は、両親の口からもれる人心の混乱に戦慄した。そうした災害時の人間に対する恐怖感が、私に筆をとらせた最大の動機である。(後略) (p.346)

    9月1日の発災から5日間は報道機関が壊滅に近く(1社がようやく5日の夕刊発行に漕ぎつけている)、情報を得る手段がほとんど失われたなかで、流言の伝わるすさまじい速さの記述に怖気がした。

    ▼その速度はきわめて早く、九月二日午前中には横浜市内をおおった流言が、その日のうちに東京市内から千葉、群馬、栃木、茨城の関東一円の各県に及び、翌三日には早くも福島県にまで達している。交通機関をはじめ電信、電話が壊滅していることから考えると、それは口から口に伝わったものだがその速度は驚異的な早さであった。(p.172)

    関東大震災というと、本所被服廠跡の火災とそこで亡くなった人数の凄さ、そして大杉栄と伊藤野枝が麹町の憲兵分隊で殺されたこともあって、私のなかでは「東京」という印象が非常に強かったのだが、震源は相模湾で、地震の被害が大きかったのはむしろ横浜なのだった。

    ▼東京の全壊戸数2231戸に比して1万8149戸という倒壊家屋を出した横浜市では、大激震に襲われると同時に火災も派生して、全市の総面積の約80パーセントが焼失した。被害は東京を上廻っていたため、死者は多く、辛うじて生きることができた避難者の苦しみも大きかった。
     港湾都市である横浜市には、官庁以外に外国人関係の建物も多かったが、官庁関係建物43のうち33が焼失、残りの10の建物も半壊状態であった。また外国領事館26はすべて全焼、326の銀行諸会社もわずかに17残っただけで、約3000の工場も90パーセントにあたる2700が焼失した。
     丘陵にかこまれた地形をもつ市内では、大崖崩れが50カ所も起って人家を埋没させ、橋は墜落又は焼失し、海に面した岸壁はその40パーセントが崩壊した。
     人々は火にまかれて焼死し、川に入って溺死した。(pp134-135)

    そして、本の半ば以降は、「第二の悲劇─人心の錯乱」の記述である。

    東京、横浜の住民たちは、「一種の錯乱状態にあった」(p.140)。
    ▼大激震に襲われた後、家屋の倒壊にともなう多数の圧死者を目撃し、さらに各所で起った火災によっておびただしい焼死者や溺死者を見、大旋風に巻き上げられる人々の姿も見た。しかも大地は絶え間なく揺れつづけ、火災は逞しい流れになって波浪のように押し寄せてくる。そうした現象は、人間の精神状態を平静にさせておくことはできなかったのだ。(pp.140-141)

    平静でいられぬ状況に加え、震災によって電信電話は壊滅、複数の新聞社も崩壊し、確実な情報を得る道が完全に断たれていた。「警察、官庁も情報の入手方法を断たれて、指令を受けることも報告することも出来ず右往左往するばかりであった。」(p.142)

    ▼いずれにしても、9月1日から5日の夕方まで一切の新聞は発行されず、東京市民は報道による情報の入手ができなかったのである。
     災害の中心となった東京府と横浜市の人口は約450万名であったが、知る手がかりを失ったかれらの間に不気味な混乱が起りはじめた。かれらは、正確なことを知りたがったが、知ることのできるものと言えば、それは他人の口にする話のみにかぎられた。
     根本的に、そうした情報は不確かな性格をもつものであるが、死への恐怖と激しい飢餓におびえた人々にとってはなんの抵抗もなく素直に受け入れられがちであった。そして、人の口から口に伝わる間に、憶測が確実なものであるかのように変形して、しかも突風にあおられた野火のような素早い速さでひろがっていった。(p.144)

    ・地震の直後に人々の間に広がったのは「大津波が来た」または「大津波がくる」という流言だった。
    →津波の被害は、大島、伊豆半島、房総半島、三浦半島、鎌倉の地域に限定されていた。東京には津波来襲の事実はなかったが、それは確実な情報として人々の間に伝わった。
    →流言の内容が、地方新聞には確報として報道されている(大地震そのものの概要にもかなりの混乱がみられ、静岡県の東海道が最大の震災地と報じられたり、中部地方の濃尾平野が震源と推測するものもあった)。
    →東京、横浜が最大の災害地であると報道がはじまった後も、「富士山爆発」「秩父連山の噴火」という流言を事実のように報道する傾向があった

    ・津波襲来に次いで、市民を襲ったのは「強震が再来する」という流言だった。
    →これが誰の口からもれた流言かは分からなかったが、「流言を追及した結果、一人の男が治安維持令違反者として処罰されている」(p.151、東京区裁判所で大正12年11月13日に判決)。

    ・地震再来説が交叉している頃から、流言の中には社会性を帯びるものが混入しはじめた。
    →「政友会首脳者の死亡説」「山本権兵衛暗殺説」
    →囚人に関する流言「市ヶ谷刑務所から解放された囚人は、焼け残った山の手及び郡部に潜入し、夜に入るのを待って放火する計画を立てている」「巣鴨刑務所は倒壊し、囚人が集団脱走し、婦女強姦と掠奪を繰り返している」等

    ▼囚人に関する流言は、数日間にわたって各方面に流れていたが、大震災の起った9月1日午後から湧きはじめた一流言は、時間の経過とともに恐るべき規模となって膨張していた。それは、他の多くの流言を押し流すほどの強烈さで、東京、横浜をまたたく間におおいつくすと同時に、日本全国に伝わっていった。
     大地震が起ってからわずか三時間ほど経過した頃、すでにその奇怪な流言は他のさまざまな流言にまじって人々の口から口に伝わっていった。それは、
     「社会主義者が朝鮮人と協力し放火している」
     という内容であった。
     その流言は、日本の社会が内蔵していた重要な課題を反映したものであった。(p.160)

    →しかし、東京市内で湧いたこの流言は大規模なものに発展することはなかった。余震と火災の中で、大地震再来説、大津波襲来説などの自然現象に関する流言のほうがはるかに勢いが強く、社会主義者と朝鮮人による放火説はその中にほとんど埋れてしまっていた。

    ▼大地震の起った日の夜七時頃、横浜市本牧町附近で、
     「朝鮮人放火す」
     という声がいずこからともなく起った。それは、東京市内でささやかれていた社会主義者と朝鮮人放火説とは異なって、純然と朝鮮人のみを加害者とした流言だった。
     (中略)日本人の朝鮮人に対する後ろ暗さが、そのような流言としてあらわれたことはまちがいなかった。(p.164)

    →その流言は横浜市の一地域にひろがっただけで、自然現象に関する流言とは比較にならぬほど微弱なものだった。その夜流布された範囲も同地域に限られていた。

    ▼…が、翌二日の夜明け頃から急激に無気味なものに変形していった。
     流言は「朝鮮人放火す」という単純なものであったのに、夜の間に「朝鮮人強盗す」「朝鮮人強姦す」という内容のものとなり、さらには殺人をおかし、井戸その他の飲水に劇薬を投じているという流言にまで発展した。(p.165)

    →その日の正午頃までには横浜市内にたちまち拡がり、鶴見、川崎方面にまで達してしまった。
    →日没近くになると、横浜市西戸部町藤棚附近から、「保土ケ谷の朝鮮人土木関係労働者三百名が襲ってくる」という風説に続き「戸塚の朝鮮人土木関係労働者二、三百名が現場のダイナマイトを携帯して来襲してくる」という流言すら起った 

    ▼このような朝鮮人に関する風説については、後に横浜地方裁判所検事局で徹底した追跡調査がおこなわれた。それによると検事局では、初めその風説を裏づける事実があったのではないかという判断のもとに、流言の発生地を中心に一般人、警官、軍人等から事情を聴取したという。
     しかし、調査の結果それらの風説は全く根拠のないもので、朝鮮人による放火、強盗、殺人、投毒の事実は皆無で、保土ケ谷、戸塚の土木関係労働者の集団行動もなかった。(p.166)

    事実ではないこれらの風説、流言は、ものすごい勢いで広まった。ひとつには、被害の甚だしかった横浜市の住民が東京方面に群をなして避難したため、かれらの口から。横浜市内から東京市内に流れこんだ流言は、3つのコースをたどった。
    1) 川崎町を経由して六郷川を渡り蒲田町、大森町から東京市品川方面へ
    2) 鶴見町、御幸村、中原町を東上して丸子渡船場を越え、調布村、大崎町を経て東京市内へ
    3) 横浜市近郊の神奈川町から西進して長津田村に達し、東北方向に進んで二子渡船場を渡り玉川村から世田ヶ谷町と三軒茶屋、渋谷方面に二分して東京市内へ

    ▼東京府下から東京市に侵入した流言は、横浜市内で発生した頃のものとくらべると、はるかに複雑な様相を呈していた。流言は流言と合流し、さらに恐怖におののく庶民の憶測によって変形し巨大な歯車のように各町々を廻転していった。(p.174)

    このあとに吉村は、
    「9月2日午前10時頃流布せる流言」
    「同日午後2時5分頃流布せる流言」
    「同日午後3時40分頃に流布せる流言」
    「同日午後4時頃流布せる流言」
    「同日午後4時30分頃に流布せる流言」
    「同日午後5時頃流布せし流言」
    「同日午後5時30分頃流布せる流言」
    「同日午後6時頃流布せる流言」
    と時間を追って、いかに多くの流言が入り乱れて広がったかを示している。

    ▼これらのおびただしい流言は、当時警察でも調査し、後に裁判所検事局でも徹底的に追及した。
     その結果、これらの流言のすべてが事実無根で、一つとして朝鮮人の来襲等を裏づけるものはなかった。
     流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上って口から口に伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。このことは、当時の官憲の調査によっても確認されているが、大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない。そして、その異常心理から、各町村で朝鮮人来襲にそなえる自警団という組織が自然発生的に生れたのだ。(p.178)

    吉村はさらに調べをすすめ、横浜から湧いた根拠のない流言が一般民衆の間で巨大な流言と化したこと、それが軍と官憲によって事実と断定され、しかも全国に伝えられていったこと、さらにこの大流言が新聞によっても事実として報道されたこと、これらがために朝鮮人に対する虐殺事件が続発したことを記している。

    こうした流言が、当時の唯一の報道機関である新聞によって広い範囲に流布され、新聞記事を読んだ人びとがまたそれを事実だと信じこむという事態をうんだ。新聞報道が人心の動揺をうながすことを恐れ、内務省は流言の調査に全力を傾け、ようやく九月三日にそれが事実無根の風説と気づいて警告書を新聞各社に発した。これとともに、東京府と神奈川県全域に拡大された戒厳令下で、「時勢に妨害ありと認むる新聞、雑誌、広告を停止すること」(p.231)という報道に対する発禁命令も出された。

    それでもなお、新聞には類似の記事が出て、発禁処分を受ける新聞社も出た。9月7日に「治安維持罰則勅令」公布、9月16日には新聞雑誌等の原稿を漏れなく検閲する命令が内務省から発せらた。

    →これらの厳しい処置により、朝鮮人についての流言を事実であるかのように報道する新聞記事は消えたという
    →流言におびえて殺傷を繰り返していた自警団らの狂暴な行為も鎮まり、世情は平穏をとりもどした

    新聞は、こうした流言掲載によって人心の混乱をまねいた結果、記事原稿の検閲を受けねばならなくなった。これは「報道の自由」に関わることである。それが「治安維持を見出す恐れのあるものは発禁」としてしまえる武器を政府に与えたようなことになってしまった。吉村の書くように、まさに「政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。」(p.233)

    新聞という報道機関がやられてしまったのは横浜事件が大きかったのだと私は思っていたが、それ以前の、この関東大震災のときに、記事検閲の先鞭が着けられていたのだと知る。

    実際に、内務省は、亀戸警察署内で起った大量殺害事件が知られることを恐れ、厳重な箝口令を敷いていた。とはいえ、人の口に戸は建てられず、事実を隠すことができなくなった内務省と警視庁、ついで陸軍省も、事件について発表した。だが、それは一方的なもので、事実とは遠かった。

    この本のかなりの部分を占める「人心の錯乱」についての記述を読んだ衝撃は大きかった。あらましは知っているようなつもりでいたが、私が知ったつもりでいたのは震災のごく一断面だけなのだと改めて認識した。

    末尾の「復興へ」に記されている死体処理の問題、排泄物処理の問題、がれき処理の問題、そこから起こる衛生問題、またバラック街という今でいえば仮設住居の問題、犯罪多発の問題は、現代に通じるもので、人間の営みが大きくは変わらない以上、震災後の対処としては100年近く経とうと、そう変わらないものなのだと思えた。

    ほかに強く印象に残ったのは、「最大の発火原因になったのは、薬品だった」(p.72)という指摘だ。震災時の火事は、昼どきであったことがその一因のように言われていて、私もなんとなくそうだろうと思っていたが、火災はむしろ学校や試験所、研究所、工場、薬局などにあった薬品類が棚から落ちて発火して起こったのだ。とくに学校では多かったという。

    あとで読んだ『吉村昭が伝えたかったこと』に収録されている文章によれば(武村雅之「警告の書『関東大震災』」)、その後の研究によって、吉村があげた被害の数字は改められている部分もあるそうだが、それはあるにしても、被害の実相、人心の動揺、復興への道のりと、大災害の経験がこまかく書かれていて、やはりこの大震災は一つの画期だったのだと思った。

    (6/6了)

    *読んでいた途中で、『広辞苑』第六版を引いてみた
    ・風評 世間の評判。うわさ。とりざた。風説。「とかくの―がある」
    ・風説 世間のうわさ。とりざた。風評。日葡辞書「フウセッ、また、フウゼッ」。「―に惑わされる」
    ・流言 根拠のない風説。うわさ。浮言。流説るせつ。「―にまどわされるな」
    ・流言蜚語 根拠のないのに言いふらされる、無責任なうわさ。デマ。
    ・蜚語・飛語 根拠のないうわさ。無責任な評判。飛言。「流言―」

  • 震災の悲惨さを余すことなく描いた力作。本所被服廠跡っていう大きな広場に避難した3万人以上が亡くなったのは知らなかった。荷物を積んだ大八車に火が燃え移ったんですね。朝鮮人虐殺についてもきちっと書かれており、この「流言飛語」を取り締まるために官憲によるメディア操作が行われ、震災の2年後に「治安維持法」ができたってのが、「特定秘密保護法」とダブってぞっとします。ここから昭和の初期の陸軍と内務省の増長が始まり、戦争に行き着いた訳だし。日本が今後そうならないという確証が持てません。聞き書きが多いので、臨場感もあって、ちょっと読むのに覚悟がいりますが、お薦めです。

  • これを読むだけでかなり関東大震災のことがわかるであろう。ただし表現は誇張がある。

  •  関東大震災による死者は家屋倒壊による圧死より、火災による焼死、窒息死が圧倒的に多い。

     とくに大惨事の場となったのが両国駅近くにあった陸軍被服廠跡だ。火災から逃れた避難民が吸い寄せられるようにこの空き地に集まった。その数4万人以上。四方の市街地は方々で火災が発生していたが、この空地は火除け地として十分な敷地を持ち、火が燃え移るようなものがなかったため、避難してきた人々は、やっと安堵のため息をつくことができた。緊張から解放され、休息をとるもの、食事をとるもの、暇を持て余し将棋を指すものまでいた。


     しかし、火災の熱により生まれる上昇気流が、燃焼に要する酸素を延焼をまぬがれていたこの空き地からぐんぐんと吸いとり、火炎を伴う巨大な竜巻を発生させた。火災旋風だ。


     密集していて逃げ場のない人々は成す術なく旋風の火柱に吸いあげられ、焼かれながら遠くに飛ばされ、上空からたたき落とされた。大八車に山積みされた家財道具に火は燃え移り、一面火の海となった。この火災旋風によって避難していた人のほとんどが亡くなった。その数は3万8000人。ほぼ全滅と言っていい。奇跡的に助かった人というのは死体がクッション代わりになって落下の衝撃を吸収してくれたから、とか、死体の下に潜り込んだため火と熱から逃れられたとか、そんな話ばかりだ。
     酸鼻を極めた描写が続くのでもう書かないが、火炎地獄というものがあるなら、まさにこのことを言うのだろう。


     余震や火災がおさまったあとの人心の混乱も恐ろしいものがある。
     朝鮮人への虐待、虐殺は有名だ。井戸に毒を放り込んだとか、武装して大挙して押し寄せてくるなどのデマが飛び交ったために、やられるまえにやってしまえ、ということで始まった。その根底には半ば強引に日本統治にしてしまった朝鮮に対して、日本人の心中に引け目と、いつかやり返されるという恐怖心があったことが関係している。


     ひどいのは、これらのデマを新聞が取り上げ、あたかも事実のよう報道していることだ。人々が得る情報のほとんどが新聞報道だった時代に、真偽を確かめずに憶測記事を出す。それを人々が「新聞だから間違いない」と判断し、朝鮮人の暴動が実際に起きていると信じ込んだ。新聞報道が拍車をかけたと言っていい。全くひどい。


     避難民の衣食住の問題も深刻だった。物資が足りず、略奪が横行した。人身売買も行われた。
    屎尿糞便の処理は追いつかず、人々は野で用をたすため疫病の発生が懸念された。遺体の腐敗は進み、身元の確認ができぬまま多くの人々が野焼きで荼毘に付された。


     この本を読んで、数日間分の水と食料と簡易トイレは個人で用意したほうがいいと思ったが、停電で通信端末がことごとくつながらなくなった場合は、情報をどこから得ればいいのかわからなくなった。やっぱり新聞なのだろうか。警察や自衛隊によるアナウンスなのだろうか。地域の特定避難場所に行けばいいのか? もっと勉強しておかなければいけないと思った。


     火災旋風だけは個人の力ではどうにもならない。街づくりの段階から行政と住民が危険を想定して防ぐ手立てを考えなければいけない。

  •  東日本大震災の後、著者の「三陸海岸大津波」(文春文庫)を読んだ。まるで今起こっている大震災、大津波が記録されているような、そう感じられるくらい、その状況は同じであった。であれば、近い将来必ず起こる関東の大震災についても、すでにこの「関東大震災」に記録されているのでは・・・と思うのは、たぶん間違いではないと思う。
     阪神大震災でも地震に続く大火災の発生は抑えることが出来なかった。関東大震災の時の朝鮮人大虐殺や社会主義者の虐殺のように犯罪は、阪神や東日本大震災ではおこらなった。でも、被災地での略奪行為なんかはなくならなかった。SNSが過剰に発達した今、当時の口コミによるデマの広がりと同じことが起こらないと限らないし、パニックもきっと起こるだろう。「関東大震災」が予言の書とならないように、ぜひ一読を。

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著者プロフィール

一九二七(昭和二)年、東京・日暮里生まれ。学習院大学中退。五八年、短篇集『青い骨』を自費出版。六六年、『星への旅』で太宰治賞を受賞、本格的な作家活動に入る。七三年『戦艦武蔵』『関東大震災』で菊池寛賞、七九年『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞、八四年『破獄』で読売文学賞を受賞。二〇〇六(平成一八)年没。そのほかの作品に『高熱隧道』『桜田門外ノ変』『黒船』『私の文学漂流』などがある。

「2021年 『花火 吉村昭後期短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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