暇と退屈の倫理学

著者 :
  • 朝日出版社
4.20
  • (324)
  • (236)
  • (126)
  • (24)
  • (3)
本棚登録 : 3052
感想 : 314
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • やりたいことをやりたいようにやる。
    つまり、これしかないよな。後は、運任せぐらいだもんな。

  • お勧め棚から手に取った1冊が忘れられない1冊になる。内容が至高。これはネタバレなしに読むべき。つべこべ言わず読め!ここではこの本のわかりやすさを推したい。論理的思考が苦手な私が理論だてて考えることを教わった。もう今すぐ復習したい

  • 「フォーディズムの革新性」
    ・労働者を使って暴利を貪りたいのであれば実は労働者に無理を強いることは不都合。適度に余暇を与え、最高の状態で働かせることが最も都合よい
    →生産体制を一新したフォーディズム。発売当初(1908年)850ドル→1924年には290ドル
    →①組み立てライン化②高賃金③8時間労働制と余暇の承認
    →だけどそれは労働としての休暇すべては生産性向上のため。その証拠にフォードは労働者が休暇中に何をしているのかスパイに調査させている。
    →余暇は資本の外部ではない。19世紀の資本主義は肉体を資本に転化するすべを見出した。

    「20世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出した」
    ・レジャー産業は人々の要求や欲望にこたえるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。


    「これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動は二をもたず、どこでもすきな部門で自分の腕をみがくことができる~~朝に狩猟を、昼に魚とりを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかもけっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである」
    …職業としていることが必ずしも一緒じゃない社会


    ・生き延び成長すること=安定した環世界を獲得/創造する過程
    →絶え間なく変化を受け入れ、習慣化し、その習慣を更新しながらつかの間の平穏を得る。

    「ドゥルーズにおける考える事」
    ・考える事は仕方なく強制されてのことである。考えようという気持ちが高まってものを考えるのではなくむしろ何かショックをうけて考える。ドゥルーズはそのショックのことを不法侵入と呼んでいる。

    「スピノザにおける分かるとううこと」
    ・人は何かが分かった時、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。人は自分なりの理解の仕方を見つけていかなければならない。こうした過程の重要性を無視したとき、人は与えられた情報の単なる奴隷になってしまう。
    ・本を読むとは論述との付き合い方をそれぞれが発見していく過程である

    ・第二形式の退屈を楽しめる人生を。楽しむためには訓練が必要だ。崇高な趣味でなくたって日常の楽しみ(食事とか)にもより深く受け取れる可能性がある。人類は気晴らしという楽しみを想像する術を持っている。
    ・ここでも、モリスが出てくる。ウィリアムモリスは革命後の豊かな生活について考えを巡らせて芸術が民衆の中に入っていかなければならないと考えた。
    ・「決断」して、奴隷状態に陥ってはならない。退屈を時折感じつつもものを享受する生活には安定と均整がある。楽しむことも試行することもどちらも受け取ること。余裕がなければできない。

    「人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになる」
    「ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている」

  • 定住によって退屈がもたらしたというのはその通りだと思う。が、いまノマド生活を送っても退屈は消えない。安全に旅ができて衣食住に困らない。ネットで何でも調べられるから。

    ハイデッカーは人間だけが退屈すると言うが、犬も白熊も退屈すると思う。

    人間は退屈と気晴らしとの混じり合いのなかで生きている。
    なんとなく退屈だ→資格をとっておけば安心という世間の声→資格試験の奴隷。
    資格の勉強をしたりするのも退屈から逃れるため。

    新しいものに出会うことは大変なエネルギーを必要とする。
    習慣はその煩雑な手続きから人間を開放する。

    人間はなるべく考えたくない。→習慣化→退屈→気晴らしを試みる。

    結論1
    自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間は何かが変わる。大切なのは理解する過程。

    結論2
    贅沢を取り戻す。
    消費ではなく浪費をする。

    結論3
    人間が人間らしく生きることは退屈とは切り離せない。
    余裕があると退屈する。

    楽しむことは思考することにつながる。
    どちらも受け取ること。

    例えば衣食住を楽しむ。芸術、芸能、娯楽を楽しむ。
    楽しむためには訓練が必要。
    訓練で受け取る能力が拡張する。

    ギリシャ語が読めなければ古典文学が楽しめない。
    漢文が読めなければ漢詩は楽しめない。


    まとめ
    人間であることを楽しみ、動物になることを待ち構える。

  • 暇と退屈に対して、最後の結論は、いろんな本で見たことある乗り越え方だったけども、そこの過程が充実してて面白かった。

    労働と余暇の客観視した関係性は、いち労働者として騙されないように生きていきたい。

    忘れずに定住生活への納得感

  • おもしろかった!
    浪費と贅沢とか、消費者会がモノではなく記号、概念の消費をさせているという主張とか。
    あと、退屈の第一第三形式は「決断」の奴隷であることで、それは何かに熱中している状態と同義で、思えば受験期とかそうだったなーとか。
    でも基本的に人生は第二形式で、習慣でできた毎日を退屈と気晴らしで生きてる。人間が産んだ気晴らしという知恵を生かして、訓練で楽しめる能力を身につけて豊かな人生を送りたいと思った。

  • 暇と退屈にかかる考察

    古今東西様々な思考、哲学家を引き合いに書かれており、少し論文チック

    個人的には浪費と消費の違いをしっかり受け止める所から始めようと再認識。

    楽しむこと、感じること、もっと深いインプット力を持っていきたい限り。

  • 新しい発想、というか今まで深く考えたことのなかったテーマだからこそ新鮮で納得感のあるものだった。
    よく考えると、仕事にやりがいを求める(求めなければならない)のも、退屈を作らないように、退屈から逃げるためのような気がしてくる。
    仕事にはやりがいがなければいけない、どこかにやりがいを見出さなければいけない、というのが当然のようになっているのは、日本がある程度豊かな証拠なのかも。

  • 暇と退屈について哲学的に考察したもの。暇と退屈のマトリックスで四形式に分類したハイデッガーの分析をベースとした展開になっている。結論は「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない」「贅沢を取り戻すこと」「動物になること」の三点。ただし、結論だけを読むことに意味はなく、思考過程を辿る必要がある。

    まぁ、わざわざ考察しなくても、うっすらと自明な感はあるかなぁ。

  • 非常に知能がくすぐられる。今の自分にとどまらず世界の一つ一つを楽しめたら、とそう思う。
    勉強の素晴らしさをさいかくにん

  • 熱意、自然、疎外、消費と浪費などのキーワード。哲学とはこうやって紐解いていくのかというダイナミズム。面白い。

  • 暇とは何もすることがない時間を指し、退屈とは暇な時間に対して不快な感情を抱いている状態。

  • 「やることはたくさんあるのに暇で退屈」という矛盾した状況で手に取った。様々な学問分野、視点から「暇」と「退屈」について切り込んでいて、後半、終盤になるにつれ引き込まれるように読むことができた。知らなかった概念、知識と共に自分の状態を再認識できる。

  • 読了に意味があるとの指摘は正しいと思う。公園でボーとしていても、今は第一形式、第二形式など考えいることが、いとをかし。


  • 感想
    初めて本で感動したかもしれない。なんか泣きそうだ。自分がなぜ勉強するのか、夢に向かうのか、この路線でいいのかを言葉にできなかったけどそれを言語化してくれた気がする。気晴らしの為に勉強したり、時に退屈したりするのは人間なのだから当たり前のことであって没頭していない訳ではない。夢に向かう為に、その事象をもっと楽しむ為に訓練を沢山して、高次元の快楽を得る。
    今の若者は大量生産・消費社会を生きた親に育てられて、それが当たり前の社会だと思っている人が多いが、世の中の流れの中で違和感を感じている人も多いのだと思う。その課題のヒントとする為に、退屈と気晴らしの混ざり合った世界の認識や贅沢を取り戻す動きを知ることは大いに役立つし、生きやすくなる。
    動物になるため、待ち構えるため、真に生を楽しむため。楽しむ為には訓練が必要だということはわかっていたが、もっと贅沢をする為に訓練しているのだとよくわかった。また読み直したい。

    以下メモ
    没頭することも大事だが、本当に大事なのはその人らしい生き方を見つけること。
    序章 好きなこととは何か
    暇の中でどう生きるか、退屈とどう向き合うかを問うのが目的。時間的金銭的余裕を獲得した時に好きなことを与えられるだけでいいのか?
    モリスは暇な時間をどう飾るべきか考え、暇な時間の中で自分の生活を芸術的に飾ることのできる世界が豊かな社会だと考えた。
    1章 暇と退屈の原理論
    人は欲望の対象と原因を取り違える。多くの原因は部屋でじっとしていられないから。
    人は退屈から逃れる為に興奮を求める。快楽ではない。
    2章 暇と退屈の系譜学
    住むとはどういうことなのか。人は住む意味、定住する意味を未だにわかっていない。遊動ではなく定住すれば時間が生まれる。一方で頭を使わなくなり刺激の少なさ、退屈さを感じる。この課題を解決しなければならない。
    3章 暇と退屈の経済史
    ・消費と浪費の違い
    ・消費と退屈の悪循環
    ウィリアムモリスの考え方に共感する。文化や芸術こそが人々に幸福をもたらす。労働は必要だが、それだけに縛られてはならない。
    レジャー産業は人々の欲望をつくる仕事。
    第4章 暇と退屈の疎外論
    ・贅沢とは何か。豊かに生きるためには贅沢がなければいけない。
    ・浪費と消費の違い。浪費は物を対象とするため限界があるが消費は記号や観念を対象とするためない。消費は承認欲求と結びつきが強い。労働も消費化している。15時間働いている、生き甲斐にしているなど。今の人はメディアに騙されずもっとものを見る力を身につけた方がいい。
    ・本来性に基づく疎外について議論するのは無意味。過去に執着しているだけ。
    ・暇は労働、消費社会と深く結びついている。
    ・労働による疎外は劣悪な環境での強制によって生まれるが、消費による疎外は自分で自分を蝕む、追い詰めるサイクルを回し続けることによって発生する。
    ・利己愛(社会状態)と自己愛(自然状態)の違い。利己愛は他人を媒介としていて否定的。ダメとは思わないが使い所が重要。
    ・ルソーの自然状態は自然に帰れという意味ではなく、社会状態を客観的に捉える、文明社会が人より優位に立ちたいという気持ちを生んでいて本能ではないんだなと相対的に捉えるための概念。
    ・労働と仕事。消費と創造。
    第5章 暇と退屈の哲学 退屈とは何か
    ・空虚放置、引き留め、気晴らし。(退屈の第一形態。何かに退屈させられている。ex.駅)埋め合わせの為の気晴らし。
    ・ハイデッカー、退屈の第二形式の発見。暇でないが退屈している。(何かの際に退屈している。ex.招待)パーティー自体が気晴らし。
    ・なんとなく退屈。(第三形式)つまり自由。これに人は怯えていてこれを避けるために仕事の奴隷になったり、第一形態の退屈を感じたりする。
    ・退屈から逃げる為労働の奴隷になるか、退屈に耳を塞ぐか
    自分と向き合うと退屈が見えてくる。
    第6章 暇と退屈の人間学 トカゲの世界を覗くことは可能か
    ・動物によって異なる世界(空間)が存在し、異なる時間が流れている(ユクスキュル環世界論)。これは森で散歩する人、猟師、植物学者が見る世界が違うように人によっても多少異なる。
    ・人間だけが環世界を形成することができる。区別することができる。動物は一種の麻痺状態にいて、囚われているだけ。だからこそ人は退屈する。(ハイデッカー)しかし、非常に困難であるが盲導犬のように動物も形成は可能。ただ、人は比較的容易に移動できる、それも1日の間にも行なっている(ex.家族、学校、自分)点で動物と異なる。環世界移動能力が極めて高い。つまり、人は環世界を相当な自由度を持って移動でき、一つの環世界にとどまれないから退屈を感じる。(俺は人より一つにとどまれる時間が短い気がする)
    ・本論とはズレるけど、動物のように心地いいなと思うフィーリングは敏感でいたいな。感覚を閉じてしまう空間には長い間いたくないね。
    7章 暇と退屈の倫理学ー決断することは人間の証か?
    ・人間は概ね第二形式の構造を生きている。時折第一形式や第三形式を生きる。つまり、気晴らしと退屈が混じり合った生を生き、習慣なくしては生きていけない世界を生きている。習慣があるから考える余裕が生まれる。人は考えつつ、動物になる(シグナル化された環世界を生きる)ことができる。
    ・決断が必要な時もあるが、それは狂気でもある。苦しさから逃れるための決断ではなく吟味した上での決断が大事。
    ・初めて出会うもの、やることには相当なエネルギーを使うから習慣化する。その為に人は考える。しかし、考える目的はものを考えないですむ生活を目指して生きているから。ここ重要
    ・環世界の形成→余裕が生まれる→何らかの不法侵入→考える→新しい環世界を創る→…
    ・倫理学とはどう生きるかを問う学問である
    ・物事を理解することの過程が大事である。そうでなければ情報の奴隷になるだけ。
    ・贅沢を取り戻す。消費ではなく浪費する。その為に日々を楽しむ。日常的な楽しみにより深い享受の可能性がある。そしてそれを真に楽しむためには相当の訓練をしなければならない。
    ・贅沢を取り戻せ。第二形式の気晴らしを存分に楽しめ。人間であることを楽しめ。人はパンのみにて生きるにあらず。パンをも味わおう。そして、パンだけでなくバラも求めよう。人の生活はバラで飾られてなければならない。
    ・楽しむことを学び、思考の強制を体感することによって人は思考を享受できる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができる。思考が「とりさらわれ」を生み出す。

  • 本来、人間は移動する生き物。定住により余剰の能力が生まれ、退屈するようになった。
    退屈に苦しさを感じるのは人類共通の感覚らしいと分かって安心した。ずっと芸術の存在意義についてモヤモヤしていたが、人類にとって「余剰」を解消するための行為は「正しい行為」だと理解でき、肩の力が抜ける思いがした。

    <アンダーライン>
    ・うさぎ狩りをする人々にうさぎを与えても喜ばない。うさぎを求めているわけではないからだ。
    ・教育とは楽しむための訓練(ラッセル)
    ・環世界(ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念 )

  • 長い。読むの疲れる。
    だけれども、様々な学問分野から「暇と退屈」について考察されていて面白い。
    何より読みながら色々思うところがあったのでそういうきっかけとしてとても良かった。

    1つ思ったのはいろんな人がいろんな理論を述べてきたけど、結局それはみんな自分の主義思想を補強するための理論じゃないの?ということ
    どれか1つに偏るのではなく、こういう考えもあるよねって捉えたほうがいいと思った

  • 本書の結論について、《本書を通読するという過程を経てはじめて意味をもつ》(p.342)というところが感動的だなあと思う。

  • 『暇と退屈の倫理学』国分功一朗 朝日出版社 2011.10
    記録:2020.2.2

    「この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである」

    序章 「好きなことはなにか」
    バートランド・ラッセル
    『ライプニッツの哲学』や『哲学史」などの哲学史研究、『数学原理』などの数理哲学まで幅広い分野をカバー。またベトナム反戦争・反核運動などで知らており、ノーベル平和賞を受賞。
    『幸福論』には今の西洋諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないため不幸になりがちであると述べる。
    20世紀のヨーロッパでは様々なものが成し遂げられていてやることがないのだと。
    人類は豊かさを目指してきたのになぜ、その豊かさを喜べないのか
    ラッセルとハイデガーは犬猿の仲であり、その思想の対立は今日にも続いている。しかし不自由のない生活のなかに巣くう不幸に二人はおなじ危機感を持った。
    ラッセルは退屈は事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものであるという。
    事件を望む気持ちは他人の不幸はもちろんだが、わが身に降りかかる不幸にすら及ぶだろう。
    退屈の反対は快楽でなく興奮である。今日を昨日と区別してくれる事件の内容は不幸であっても構わないのである。
    国分は『幸福論』読後はすっきりしないという。ラッセルの結論が単純すぎると。ラッセルの答えは「熱意」だ。
    ラッセルの結論の欠陥。ヨーロッパの青年は才能を発揮できる仕事がないから不幸になりがち。対してロシアの青年は革命後の新世界をつくる運動の中で生きるから幸福だと。
    ミッションを外側から与えれることを幸福と言っていいのだろうか。
    若者のエネルギーが余っているなら課題を作って使い切ってもらえばいい。社会が停滞したら戦争すればいい。
    発展途上国で必死に働く若者の方が幸せだというのは、不幸への憧れだ。不幸にあこがれてはならない。と国分。

    経済学者ジョン・ガルブレイス
    『ゆたかな社会』(1958)
    現代人は自分でなにをしたいのか自分で意識することができなくなっている。
    広告やセールスマンの言葉で自分の欲望がはっきりすると。
    「消費者主権」という考え、消費者の欲望を生産者が感知してモノをつくる考えが経済の基礎と考えられていたが、
    ガルブレイス曰くそれは経済学者の思い込みにすぎない。
    生産は生産によって満たされるべき欲望を作り出す。
    彼は新しい階級で仕事こそが生きがいだと感じる人を説明する。
    ガルブレイスの提案には残酷な側面がある。仕事が充実すべきだという主張は強迫観念を生む。「新しい階級」に入ろうとして過酷な競争を強いられよう。
    彼個人の差別感情が主張にある。医師を目指すこどもがガレージの職工になったら哀れみの目で見られるだろうという主張は偏見である。

    マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』(1947)
    彼らはカントを利用する。カントは人間の認識がどうして可能なのかを考えた。
    「炎は熱いからそれに近づくと熱い」という型(概念)を人間はもっており原因と結果を結びつける。
    この概念がなければ燃えている知覚と熱いという感覚を結び付けられない。
    アドルノ&ホルクハイマーはカントの考えを今や当然のことではなくなったと述べる。人間に期待されていた主体性は人間によってでなく、産業によって予め準備されるようになった。
    産業は主体が何をどう受け取るかを先取りして、あらかじめ受け取られ方に決められたものを主体に差し出している。
    例えば「熱い」を「楽しい」に置き換える。

    資本主義の全面展開で先進国の人は裕福になりそして暇を得た。何が楽しいのかわからない。そこに資本主義がつけこむ。
    暇が搾取されるのは人が退屈を嫌うからである。

    イギリスの社会主義者ウィリアム・モリス
    イギリスに斜愛主義を導入した最初期の思想家のひとり。革命後の生活のことを考えた。
    革命が来れば自由と暇を得る。そのとき大切なのは生活をどうやって飾るかと。
    アーツアンドクラフツという運動を始める。

    哲学者アレンカ・ジュパンチッチ
    近代は様々な価値観がどれも根拠薄弱であることを指摘してきた。なんでも疑いえる。
    その結果 生命ほど尊いものはないという原理しか提出できなくなった。
    正しいゆえに誰も反論できないし、原理に過ぎない。人を奮い立たせない。
    そのため国家や民族といった伝統的な価値への回帰が魅力を持つようになってしまった。
    それだけでない。人を奮い立たせる力は世間で通用する原理にはない。だから突き動かされている人間がうらやましく思うようになる。
    過激派や狂信者をうらやましいと思うようになる。大義の為なら命も惜しまない者たちがうらやましい。
    この本は9.11の前年に出版されている。出版が遅れて居たら出版が許されなかったに違いない。
    人は打ち込むこと没頭することを渇望する。

    暇と退屈を考察した人物として国分が最初に取り上げるのは17世紀のフランスの思想家ブレーズ・パスカル
    16歳に「円錐曲線試論」を発表した早熟の天才数学者。2度の回心を経て信仰を志した宗教思想家。
    『パンセ』で人間は弱い葦だが考える葦である。との名言。ヒューマニズムのイメージがあるが相当の皮肉屋だという。
    「人間の不幸は部屋でじっとできないために起こる。自分で不幸を招く」
    愚かな人間は自分が追い求めるもののなかに本当の幸福があると思い込んでいる。とパスカル。
    ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではない。
    「欲望の原因」と「欲望の対象」の取り違えを指摘しているだけの君のような人こそ、もっとも愚かなものだ」
    人間のみじめな運命に対するパスカルの解決策は神への信仰だ p41
    パスカルのいう気晴らしを求める人間は苦しみを求める人間のことに他ならない。

    ニーチェの『悦ばしき知識』1882
    「若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らは何かに苦しみたいという欲望を持っている」
    なぜなら彼らは苦しみの中から自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ。
    ニーチェにとってパスカルはお気に入りだったらしい。著作の中でパスカルが121回も引用されているという。

    人類の歴史の中で退屈は比較的新しい現象として取り扱われる。
    西田正規の『定住革命』
    大昔の遊動生活者は本当にできることなら定住したいと考えていたのか?
    人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は遊動生活が適しているのではないか。我々は定住中心主義とでもいえる視点から
    人類史を眺めてしまう。
    遊動生活を維持することが困難になったから、やむをえず定住をしたのだ。
    1万年前に中緯度帯で定住がはじまったのは氷河期が終わり、温暖化が進み森林化すると、大型獣の狩りが難しくなった。
    貯蔵の必要に迫られた人類が定住を余儀なくされたことが想像される。

    暇と退屈はどうちがうか
    暇とは何もすることがない時間を指す。暇は客観的な条件がそろっている。
    退屈はなにかをしたいのにできない感情や気分を指している。主観的な状態だ。

    暇とは馬鹿にされる状態だが、逆説を唱える経済学者ソースティン・ヴェブレン
    著作の『有閑階級の理論』1899である。
    有閑階級はいわば暇であることを許された階級だと。
    顕示的閑暇:有閑階級は自分の暇をみせびらかそうとすること。これは本の鍵だ。
    見せびらかしたい欲求を叶えるのが使用人。彼らは暇を代行してくれる存在だ。
    やがて有閑階級の凋落がはじまる。暇の見せびらかしが有効性を失う。
    代わりにステータスシンボルとしての消費である。
    無駄を嫌う心理が人間にはあるという。これは製作者本能としてヴェブレンが提唱する。
    だがこれがヴェブレンが無駄を嫌う本能が人間に会ってほしいとする願望がにじむものであるとして
    アドルノが否定する。ヴェブレンは有閑階級をねたんでいるのだと。
    芸術をムダととらえるヴェブレンとアドルノやモリスは相性が悪い。

    社会主義者ポール・ラファルグ
    マルクスの次女ラウラと結婚したことで知られる。マルクスは反対していた。
    『怠ける権利』という政治文書を発表する。労働者階級は労働を信奉する狂気に陥っているというものだ。
    資本主義が嫌いで、資本の論理に労働階級が取り込まれるのが許せない。余暇をもとめることが資本の論理の外にでることだと信じている。
    だが勘違いだと国分は言う。余暇は資本の外部ではない。
    労働者を使って暴利を貪りたいなら労働者に適度に余暇を与えて最高の状態で働かせることが資本にとって都合がいい。

    それに気づいて生産体制を一新したのがアメリカの自動車王ヘンリー・フォード。
    大衆車フォードT型車を低価格で売る。自動車の組み立てラインに初めてベルトコンベアを導入した。
    8時間の労働、作業者の都合に合わせたラインづくり。
    思いやりがあるが、労働者へのケアが生産性の向上という経済原理に基づいていることを忘れてはならない。
    生産性を低下させる要素があれば断固として排除するだろう。
    労働者の休暇中の行動もスパイさせている。
    急かは労働の一部であることを示す。
    余暇は資本の外部ではない。
    余暇を消費するレジャー産業が現れる。レジャーは人々の欲望そのものを作り出す。
    モデルチェンジを強いられる現代ではフォーディズムは通用しない。
    現代はモデルチェンジよってでしか消費者の目を引けない。この生産体制が必死に維持されている。

    ボードリヤールはいう
    消費社会ではモノがありすぎるのでなくなさすぎると。消費社会は人が浪費をするのを妨げる社会である。
    ある意味我々は我慢させられている。消費は浪費と贅沢を奪っている。満足の欠如が感じられるようになる。
    労働は今や忙しさという価値を消費する行為になっているとボードリヤール。
    ガルブレイスの問題点が見えてくる。「生きがい」という観念を消費することになる。

    ファイトクラブのタイラーは彼が何か本来ていな生があるかのように語るが、それがなにかは少しも明らかにならない。

    ルソーによれば自然状態において人間たちは全量に暮らしている。人間に不幸をもたらしのは文明社会
    であり、文明社会が人間に疎外をもたらしたと彼は主張する。
    ルソーの考える自然状態と社会状態とを特徴づける概念がある。自己愛と利己愛という対概念。自己愛が現れるのは自分だけ。利己愛においては他者があられる。

    ホッブズは自然状態を戦争状態として描いた。人間は平等である。あれをあいつが持っているなら俺も持っていいはずだという考え。
    これを希望の平等という。これは奪われるかもしれないという不安を引き起こす。
    不安を除くために徒労を組んでときに攻撃する。闘争状態と無秩序が生まれる。これがホッブズの戦争状態だ。
    なんでもしていいという自然権を手放し法の支配を打ち立てるこれを第2の自然法則という。

    ハンナ・アレント
    『人間の条件』のなかでマルクスの労働の概念は間違っていると述べている。マルクスは労働は必要だというが同時に労働者階級は労働から解放されなければならないという。
    言い換えればマルクスは労働を肯定し、同時に否定している。

    ハイデガーの退屈論『形而上学の根本諸概念』。
    ハイデガーは哲学の概念をノヴァーリスという18世紀ドイツロマン派の思想家から引用する。
    ノヴァーリスによれば哲学とは郷愁。さまざまな場所にいながら家にいるようにいたい、そう願う気持ちが哲学なのだと。
    ハイデガーは哲学の事を扱っても感動しなければ理解できないと述べている。つまりノヴァーリスに感動したのだ。

    退屈の第1形式:なにかによって退屈させられていること。気晴らしでかき消そうとする。
    退屈の第2形式:何がその人を退屈させているのか明確でないということ。自分で自分に時間をとっておいて、パーティーに行ける。安定と正気がある。退屈に浸っている。
    退屈の第3形式:なんとなく退屈だ。その声を聞くことであり、声そのものである。自由に気づく。それを決断で獲得する。
    結論は決断すること。国分の意見では今度は決断をしたいと願う人間が現れる。
    決断はモノや人とのかかわりが不可能になったところで現れる。決断を欲する者はそうした関りを不可能にする。
    ハイデガーの退屈してるなら決断しろは、何も見るな聞くなと言っている。
    決断は苦しさから逃避させてくれる。心地よい奴隷状態のことだ。

    ユクスキュル。エストニア生まれの理論生物学者。環世界の概念をつくる。
    すべての生物は別々の時間と空間を生きている。
    ダニは獲物に飛びつくのに3つのシグナルで動く。誤作動させることができるが、ダニ指針は誤作動を理解しない。3つのシグナルだけで出来た世界を生きている。
    ユクスキュルは18年間絶食したまま生きているダニが保存されてる例を紹介する。
    人間にはできない。だがダニにとって当然なのならば、ダニと人間では時間も異なっているかもしれない。
    人間にとっての瞬間は18分の1秒でこれより小さのは知覚できない。動物ごとに近くする1秒が異なる。

    ドゥルーズは人間は滅多に考えないと言っている。
    ショックを受けて考え始める。ドゥルーズはこれを「不法侵入」という。

  • ウィリアムモリスについて勉強していたなかで手に取った一冊。
    倫理学という表現がぴったり。
    暇、退屈という一見なんてことない事柄から今の人々にみられる思考の傾向を説き、なぜそうなったか、どんな危険をはらんでいるか。そしてどうやってこの暇や退屈とつきあっていったらよいのか。
    筋の通った考えが展開される。
    個人的には定住革命の話が面白かった。
    たくさんの人に読んでもらうため平易な書き方をしているようですいすい読めるので、厚いけど大丈夫。

  • 第7章が痛快です。哲学書というジャンルを超えた良著だと思います。「仕事も趣味もそれなりに充実してる」という人にも、「仕事に追われる生活で、これでいいのだろうか」という人にも考え直すヒントになります。
    ただ、一気に通読する用に書かれているような気がしたのでまとまった時間が取れる時に読むといいと思います。

  • 『しかし、ここに不可解な逆説が現れる。人類が目指してきたはずの豊かさ、それか達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説である』―『序章「好きなこと」とは何か?』

    「中動態の世界」がかなり面白かったのでこちらも手に取る。暇や退屈にどんな倫理があるというのか。タイトルからいきなり頭がぐるぐると回転するのを感じる。冒頭展開する歴史観は「サピエンス全史」にも通じる世界観。便利になる筈の新しいガジェットはみるみる内に陳腐化し、新たな問題を生みだす。問題は、問題を作り出しているのがガジェットそのものではなく、それを使っているようで使われている構図。サピエンス全史は、その視点の逆転を鮮やかに描いてみせた。しかし、当然のことながら真の問題は構図にあるのではなく、その構図に甘んじている(あるいは甘んじさせている)者の内側にある。故に、倫理学、が登場するという訳だ。

    『気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要があるのである」』―『第一章 暇と退屈の原理論』

    誰しもがうすうす気付いていた筈に違いない。何かに忙しく熱中することができれば退屈などしない、というのは一見正しそうだが何か違和感のようなものが残る、と。その状態を「心を亡くす」と記号化した先人の知恵を思う。その上で、作者がマルクスの資本論の本質的な誤謬を暇と退屈の倫理学の視点から指摘する様は見事である。確かに、労働者の置かれた貧乏暇無しの状態を崇高と見る視点は、結局のところ資本家を益々肥えさせ、労働者の解放という革命の命題は自己矛盾をきたす。かつて学生運動とは若者のエネルギーを消費する行為である、と誰かに言われたことを思い出した。それを、ずっと「浪費」だと理解していたが、本書の指摘するボードリヤールの定義によれば、やはりそれは「(浪費とは)必要を超えて物を受け取る」行為ではなく「ものに付与された観念や意味を吸収する(=「消費」)行為、であるとの説明の方が腑に落ちる。あれはまさしく「消費」であった為、活動の最中であっても実は退屈していたのだ。

    『とてもすばらしかった。今晩の招待において退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。帰宅すると、夕方中断しておいた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる――するとそのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と』―『第五章 暇と退屈の哲学』

    ハイデガーの退屈論を巡る話の展開はとても示唆的。もちろんハイデガーの退屈の定義も卓見ではあるが、そこに無意識の内に偉大な哲学者が埋め込んだ人間に対する優越的立場をえぐり出し、環世界、という概念から新しい展開を導き出す議論の進め方に嵌まる。それは是非著者の言葉で辿ってもらいたい。第一形式、第二形式、そして理解し難い第三形式。それを著者は、結論ありきの循環論法であると解きほぐして見せてくれる。

    もちろん本書を読み終えたからと言って自身の中にくすぶるもやもやとした小さな衝動(退屈の反動)が収まる訳ではないけれど、何かが少しだけ落ち着いたような気分になる。

  • 退屈の第二形態とは、気晴らしと退屈が混ざり合っている状態。これこそ、人間生活の大部分の活動とも言える。

    じぶんがたまに陥る虚無感、退屈感とは、これのことだと思う。何か気晴らしになることを探している。でも、それも100%やりたいことなのか分からない。ふと、自分はこんな時間の使い方でいいのかと感じる。何か熱中できること、時間を忘れて没頭できる何かがあればいいのにと感じる。そんな時、何か目標設定をして、何かを頑張らないとという強迫観念に襲われる。

  • Rの先輩が読んでたので。

    んー、あまり面白くなかった。
    豊かになるほど、むしろ暇を持て余して活力がなくなるってのはあるけども、まあそうだよねーって程度。
    起源を紐解くときに歴史ではなく人類学の視点で考えてたのは面白かったかな。

  • 「退屈こそは人間の可能性の現れである」
    こんな人がいるとしよう。「GW何もやることがなくて暇だ、そうだ資格の勉強でもしよう!」これはまさに最近の自分にありがちな思考であった。
    そんな人は多かれ少なかれ奴隷になってしまっている。この場合は資格の奴隷だ。奴隷になることで人は日々訪れる「なんとなく退屈だ」という不安に苛まれなくて済む。しかし、強制的にやらされている仕事であろうが、自分で決断した物事であろうが奴隷なってしまうと新しい物事を受け入れにくくなってしまう。自分を見つめる時間が減り、やがて自分で決断したはずなのに退屈になるという負のループに陥ってしまう。
    暇であることは何も悪いことではなく、自由であるがゆえに新しい刺激(この本では不法侵入と述べている)を受け取ることができ、新しい考え方(この本では環世界)を形成することができる。暇であること、そして人間であることを楽しもうと思える1冊。

  • 単純に読み終わったあと、読んで良かったと思えた作品。
    ただ単に、暇と退屈について語ってるのではなく、過去の哲学者を引き出し文献について語る。
    動物との本能のお話や暇が誕生した経緯、退屈と暇の関係性とありすぎてパンクするほど。

    僕の中では、退屈=不幸せであり、何かに奴隷となってる状況が幸せと結論にいたった。

    そこには決断が関わっており、決断することによって世界が移動できる。

    半年後にもう一度読むとどういう風に感じるんだろう。。

  • こういう内容を読んでいると、福岡伸一の本に書いてあったこととかをちょっと思い出す。「すべての原子は(ためている風をよそおっていても)生命体の中を流れて通り抜けている」みたいなのとか。
    人間もずっと動き続けるようになってるだけなんじゃないかなとか。
    定住革命っていよいよ人間がガン化したということで、手塚治虫の火の鳥の未来編みたいに核と電子頭脳でドカーンとなるまでが人間のターンなんじゃないかなとか。

  • ジュンク堂で見て

  • 哲学

  • とかく難解になりがちな哲学の話を出来るだけ読者に分かってもらおうという著者の真摯な態度が出ている一冊。

    <blockquote>「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ」</blockquote>

    かつて人類が定住を始めたとき、それまでフル活用していた能力が行き場をなくし、暇が生じた。
    暇が出来た時、人は興奮を覚えない。
    退屈とは興奮していない状態である。

    そして退屈に抗うため仕事、学業、工業や政治経済や宗教、芸能・・・といった「気晴らし」を行う。

    この件はスチャダラパーの名曲「ヒマの過ごし方」を想起した。

全314件中 31 - 60件を表示

著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

國分功一郎の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
國分 功一郎
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×