- Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
- / ISBN・EAN: 9784255006130
感想・レビュー・書評
-
やりたいことをやりたいようにやる。
つまり、これしかないよな。後は、運任せぐらいだもんな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
お勧め棚から手に取った1冊が忘れられない1冊になる。内容が至高。これはネタバレなしに読むべき。つべこべ言わず読め!ここではこの本のわかりやすさを推したい。論理的思考が苦手な私が理論だてて考えることを教わった。もう今すぐ復習したい
-
「フォーディズムの革新性」
・労働者を使って暴利を貪りたいのであれば実は労働者に無理を強いることは不都合。適度に余暇を与え、最高の状態で働かせることが最も都合よい
→生産体制を一新したフォーディズム。発売当初(1908年)850ドル→1924年には290ドル
→①組み立てライン化②高賃金③8時間労働制と余暇の承認
→だけどそれは労働としての休暇すべては生産性向上のため。その証拠にフォードは労働者が休暇中に何をしているのかスパイに調査させている。
→余暇は資本の外部ではない。19世紀の資本主義は肉体を資本に転化するすべを見出した。
「20世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出した」
・レジャー産業は人々の要求や欲望にこたえるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。
「これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動は二をもたず、どこでもすきな部門で自分の腕をみがくことができる~~朝に狩猟を、昼に魚とりを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかもけっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである」
…職業としていることが必ずしも一緒じゃない社会
・生き延び成長すること=安定した環世界を獲得/創造する過程
→絶え間なく変化を受け入れ、習慣化し、その習慣を更新しながらつかの間の平穏を得る。
「ドゥルーズにおける考える事」
・考える事は仕方なく強制されてのことである。考えようという気持ちが高まってものを考えるのではなくむしろ何かショックをうけて考える。ドゥルーズはそのショックのことを不法侵入と呼んでいる。
「スピノザにおける分かるとううこと」
・人は何かが分かった時、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。人は自分なりの理解の仕方を見つけていかなければならない。こうした過程の重要性を無視したとき、人は与えられた情報の単なる奴隷になってしまう。
・本を読むとは論述との付き合い方をそれぞれが発見していく過程である
・第二形式の退屈を楽しめる人生を。楽しむためには訓練が必要だ。崇高な趣味でなくたって日常の楽しみ(食事とか)にもより深く受け取れる可能性がある。人類は気晴らしという楽しみを想像する術を持っている。
・ここでも、モリスが出てくる。ウィリアムモリスは革命後の豊かな生活について考えを巡らせて芸術が民衆の中に入っていかなければならないと考えた。
・「決断」して、奴隷状態に陥ってはならない。退屈を時折感じつつもものを享受する生活には安定と均整がある。楽しむことも試行することもどちらも受け取ること。余裕がなければできない。
「人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになる」
「ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている」 -
暇と退屈に対して、最後の結論は、いろんな本で見たことある乗り越え方だったけども、そこの過程が充実してて面白かった。
労働と余暇の客観視した関係性は、いち労働者として騙されないように生きていきたい。
忘れずに定住生活への納得感 -
おもしろかった!
浪費と贅沢とか、消費者会がモノではなく記号、概念の消費をさせているという主張とか。
あと、退屈の第一第三形式は「決断」の奴隷であることで、それは何かに熱中している状態と同義で、思えば受験期とかそうだったなーとか。
でも基本的に人生は第二形式で、習慣でできた毎日を退屈と気晴らしで生きてる。人間が産んだ気晴らしという知恵を生かして、訓練で楽しめる能力を身につけて豊かな人生を送りたいと思った。 -
暇と退屈にかかる考察
古今東西様々な思考、哲学家を引き合いに書かれており、少し論文チック
個人的には浪費と消費の違いをしっかり受け止める所から始めようと再認識。
楽しむこと、感じること、もっと深いインプット力を持っていきたい限り。 -
新しい発想、というか今まで深く考えたことのなかったテーマだからこそ新鮮で納得感のあるものだった。
よく考えると、仕事にやりがいを求める(求めなければならない)のも、退屈を作らないように、退屈から逃げるためのような気がしてくる。
仕事にはやりがいがなければいけない、どこかにやりがいを見出さなければいけない、というのが当然のようになっているのは、日本がある程度豊かな証拠なのかも。 -
暇と退屈について哲学的に考察したもの。暇と退屈のマトリックスで四形式に分類したハイデッガーの分析をベースとした展開になっている。結論は「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない」「贅沢を取り戻すこと」「動物になること」の三点。ただし、結論だけを読むことに意味はなく、思考過程を辿る必要がある。
まぁ、わざわざ考察しなくても、うっすらと自明な感はあるかなぁ。 -
非常に知能がくすぐられる。今の自分にとどまらず世界の一つ一つを楽しめたら、とそう思う。
勉強の素晴らしさをさいかくにん -
熱意、自然、疎外、消費と浪費などのキーワード。哲学とはこうやって紐解いていくのかというダイナミズム。面白い。
-
暇とは何もすることがない時間を指し、退屈とは暇な時間に対して不快な感情を抱いている状態。
-
「やることはたくさんあるのに暇で退屈」という矛盾した状況で手に取った。様々な学問分野、視点から「暇」と「退屈」について切り込んでいて、後半、終盤になるにつれ引き込まれるように読むことができた。知らなかった概念、知識と共に自分の状態を再認識できる。
-
読了に意味があるとの指摘は正しいと思う。公園でボーとしていても、今は第一形式、第二形式など考えいることが、いとをかし。
-
感想
初めて本で感動したかもしれない。なんか泣きそうだ。自分がなぜ勉強するのか、夢に向かうのか、この路線でいいのかを言葉にできなかったけどそれを言語化してくれた気がする。気晴らしの為に勉強したり、時に退屈したりするのは人間なのだから当たり前のことであって没頭していない訳ではない。夢に向かう為に、その事象をもっと楽しむ為に訓練を沢山して、高次元の快楽を得る。
今の若者は大量生産・消費社会を生きた親に育てられて、それが当たり前の社会だと思っている人が多いが、世の中の流れの中で違和感を感じている人も多いのだと思う。その課題のヒントとする為に、退屈と気晴らしの混ざり合った世界の認識や贅沢を取り戻す動きを知ることは大いに役立つし、生きやすくなる。
動物になるため、待ち構えるため、真に生を楽しむため。楽しむ為には訓練が必要だということはわかっていたが、もっと贅沢をする為に訓練しているのだとよくわかった。また読み直したい。
以下メモ
没頭することも大事だが、本当に大事なのはその人らしい生き方を見つけること。
序章 好きなこととは何か
暇の中でどう生きるか、退屈とどう向き合うかを問うのが目的。時間的金銭的余裕を獲得した時に好きなことを与えられるだけでいいのか?
モリスは暇な時間をどう飾るべきか考え、暇な時間の中で自分の生活を芸術的に飾ることのできる世界が豊かな社会だと考えた。
1章 暇と退屈の原理論
人は欲望の対象と原因を取り違える。多くの原因は部屋でじっとしていられないから。
人は退屈から逃れる為に興奮を求める。快楽ではない。
2章 暇と退屈の系譜学
住むとはどういうことなのか。人は住む意味、定住する意味を未だにわかっていない。遊動ではなく定住すれば時間が生まれる。一方で頭を使わなくなり刺激の少なさ、退屈さを感じる。この課題を解決しなければならない。
3章 暇と退屈の経済史
・消費と浪費の違い
・消費と退屈の悪循環
ウィリアムモリスの考え方に共感する。文化や芸術こそが人々に幸福をもたらす。労働は必要だが、それだけに縛られてはならない。
レジャー産業は人々の欲望をつくる仕事。
第4章 暇と退屈の疎外論
・贅沢とは何か。豊かに生きるためには贅沢がなければいけない。
・浪費と消費の違い。浪費は物を対象とするため限界があるが消費は記号や観念を対象とするためない。消費は承認欲求と結びつきが強い。労働も消費化している。15時間働いている、生き甲斐にしているなど。今の人はメディアに騙されずもっとものを見る力を身につけた方がいい。
・本来性に基づく疎外について議論するのは無意味。過去に執着しているだけ。
・暇は労働、消費社会と深く結びついている。
・労働による疎外は劣悪な環境での強制によって生まれるが、消費による疎外は自分で自分を蝕む、追い詰めるサイクルを回し続けることによって発生する。
・利己愛(社会状態)と自己愛(自然状態)の違い。利己愛は他人を媒介としていて否定的。ダメとは思わないが使い所が重要。
・ルソーの自然状態は自然に帰れという意味ではなく、社会状態を客観的に捉える、文明社会が人より優位に立ちたいという気持ちを生んでいて本能ではないんだなと相対的に捉えるための概念。
・労働と仕事。消費と創造。
第5章 暇と退屈の哲学 退屈とは何か
・空虚放置、引き留め、気晴らし。(退屈の第一形態。何かに退屈させられている。ex.駅)埋め合わせの為の気晴らし。
・ハイデッカー、退屈の第二形式の発見。暇でないが退屈している。(何かの際に退屈している。ex.招待)パーティー自体が気晴らし。
・なんとなく退屈。(第三形式)つまり自由。これに人は怯えていてこれを避けるために仕事の奴隷になったり、第一形態の退屈を感じたりする。
・退屈から逃げる為労働の奴隷になるか、退屈に耳を塞ぐか
自分と向き合うと退屈が見えてくる。
第6章 暇と退屈の人間学 トカゲの世界を覗くことは可能か
・動物によって異なる世界(空間)が存在し、異なる時間が流れている(ユクスキュル環世界論)。これは森で散歩する人、猟師、植物学者が見る世界が違うように人によっても多少異なる。
・人間だけが環世界を形成することができる。区別することができる。動物は一種の麻痺状態にいて、囚われているだけ。だからこそ人は退屈する。(ハイデッカー)しかし、非常に困難であるが盲導犬のように動物も形成は可能。ただ、人は比較的容易に移動できる、それも1日の間にも行なっている(ex.家族、学校、自分)点で動物と異なる。環世界移動能力が極めて高い。つまり、人は環世界を相当な自由度を持って移動でき、一つの環世界にとどまれないから退屈を感じる。(俺は人より一つにとどまれる時間が短い気がする)
・本論とはズレるけど、動物のように心地いいなと思うフィーリングは敏感でいたいな。感覚を閉じてしまう空間には長い間いたくないね。
7章 暇と退屈の倫理学ー決断することは人間の証か?
・人間は概ね第二形式の構造を生きている。時折第一形式や第三形式を生きる。つまり、気晴らしと退屈が混じり合った生を生き、習慣なくしては生きていけない世界を生きている。習慣があるから考える余裕が生まれる。人は考えつつ、動物になる(シグナル化された環世界を生きる)ことができる。
・決断が必要な時もあるが、それは狂気でもある。苦しさから逃れるための決断ではなく吟味した上での決断が大事。
・初めて出会うもの、やることには相当なエネルギーを使うから習慣化する。その為に人は考える。しかし、考える目的はものを考えないですむ生活を目指して生きているから。ここ重要
・環世界の形成→余裕が生まれる→何らかの不法侵入→考える→新しい環世界を創る→…
・倫理学とはどう生きるかを問う学問である
・物事を理解することの過程が大事である。そうでなければ情報の奴隷になるだけ。
・贅沢を取り戻す。消費ではなく浪費する。その為に日々を楽しむ。日常的な楽しみにより深い享受の可能性がある。そしてそれを真に楽しむためには相当の訓練をしなければならない。
・贅沢を取り戻せ。第二形式の気晴らしを存分に楽しめ。人間であることを楽しめ。人はパンのみにて生きるにあらず。パンをも味わおう。そして、パンだけでなくバラも求めよう。人の生活はバラで飾られてなければならない。
・楽しむことを学び、思考の強制を体感することによって人は思考を享受できる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができる。思考が「とりさらわれ」を生み出す。 -
本来、人間は移動する生き物。定住により余剰の能力が生まれ、退屈するようになった。
退屈に苦しさを感じるのは人類共通の感覚らしいと分かって安心した。ずっと芸術の存在意義についてモヤモヤしていたが、人類にとって「余剰」を解消するための行為は「正しい行為」だと理解でき、肩の力が抜ける思いがした。
<アンダーライン>
・うさぎ狩りをする人々にうさぎを与えても喜ばない。うさぎを求めているわけではないからだ。
・教育とは楽しむための訓練(ラッセル)
・環世界(ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念 ) -
長い。読むの疲れる。
だけれども、様々な学問分野から「暇と退屈」について考察されていて面白い。
何より読みながら色々思うところがあったのでそういうきっかけとしてとても良かった。
1つ思ったのはいろんな人がいろんな理論を述べてきたけど、結局それはみんな自分の主義思想を補強するための理論じゃないの?ということ
どれか1つに偏るのではなく、こういう考えもあるよねって捉えたほうがいいと思った -
本書の結論について、《本書を通読するという過程を経てはじめて意味をもつ》(p.342)というところが感動的だなあと思う。
-
ウィリアムモリスについて勉強していたなかで手に取った一冊。
倫理学という表現がぴったり。
暇、退屈という一見なんてことない事柄から今の人々にみられる思考の傾向を説き、なぜそうなったか、どんな危険をはらんでいるか。そしてどうやってこの暇や退屈とつきあっていったらよいのか。
筋の通った考えが展開される。
個人的には定住革命の話が面白かった。
たくさんの人に読んでもらうため平易な書き方をしているようですいすい読めるので、厚いけど大丈夫。 -
第7章が痛快です。哲学書というジャンルを超えた良著だと思います。「仕事も趣味もそれなりに充実してる」という人にも、「仕事に追われる生活で、これでいいのだろうか」という人にも考え直すヒントになります。
ただ、一気に通読する用に書かれているような気がしたのでまとまった時間が取れる時に読むといいと思います。 -
『しかし、ここに不可解な逆説が現れる。人類が目指してきたはずの豊かさ、それか達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説である』―『序章「好きなこと」とは何か?』
「中動態の世界」がかなり面白かったのでこちらも手に取る。暇や退屈にどんな倫理があるというのか。タイトルからいきなり頭がぐるぐると回転するのを感じる。冒頭展開する歴史観は「サピエンス全史」にも通じる世界観。便利になる筈の新しいガジェットはみるみる内に陳腐化し、新たな問題を生みだす。問題は、問題を作り出しているのがガジェットそのものではなく、それを使っているようで使われている構図。サピエンス全史は、その視点の逆転を鮮やかに描いてみせた。しかし、当然のことながら真の問題は構図にあるのではなく、その構図に甘んじている(あるいは甘んじさせている)者の内側にある。故に、倫理学、が登場するという訳だ。
『気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要があるのである」』―『第一章 暇と退屈の原理論』
誰しもがうすうす気付いていた筈に違いない。何かに忙しく熱中することができれば退屈などしない、というのは一見正しそうだが何か違和感のようなものが残る、と。その状態を「心を亡くす」と記号化した先人の知恵を思う。その上で、作者がマルクスの資本論の本質的な誤謬を暇と退屈の倫理学の視点から指摘する様は見事である。確かに、労働者の置かれた貧乏暇無しの状態を崇高と見る視点は、結局のところ資本家を益々肥えさせ、労働者の解放という革命の命題は自己矛盾をきたす。かつて学生運動とは若者のエネルギーを消費する行為である、と誰かに言われたことを思い出した。それを、ずっと「浪費」だと理解していたが、本書の指摘するボードリヤールの定義によれば、やはりそれは「(浪費とは)必要を超えて物を受け取る」行為ではなく「ものに付与された観念や意味を吸収する(=「消費」)行為、であるとの説明の方が腑に落ちる。あれはまさしく「消費」であった為、活動の最中であっても実は退屈していたのだ。
『とてもすばらしかった。今晩の招待において退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。帰宅すると、夕方中断しておいた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる――するとそのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と』―『第五章 暇と退屈の哲学』
ハイデガーの退屈論を巡る話の展開はとても示唆的。もちろんハイデガーの退屈の定義も卓見ではあるが、そこに無意識の内に偉大な哲学者が埋め込んだ人間に対する優越的立場をえぐり出し、環世界、という概念から新しい展開を導き出す議論の進め方に嵌まる。それは是非著者の言葉で辿ってもらいたい。第一形式、第二形式、そして理解し難い第三形式。それを著者は、結論ありきの循環論法であると解きほぐして見せてくれる。
もちろん本書を読み終えたからと言って自身の中にくすぶるもやもやとした小さな衝動(退屈の反動)が収まる訳ではないけれど、何かが少しだけ落ち着いたような気分になる。 -
退屈の第二形態とは、気晴らしと退屈が混ざり合っている状態。これこそ、人間生活の大部分の活動とも言える。
じぶんがたまに陥る虚無感、退屈感とは、これのことだと思う。何か気晴らしになることを探している。でも、それも100%やりたいことなのか分からない。ふと、自分はこんな時間の使い方でいいのかと感じる。何か熱中できること、時間を忘れて没頭できる何かがあればいいのにと感じる。そんな時、何か目標設定をして、何かを頑張らないとという強迫観念に襲われる。 -
Rの先輩が読んでたので。
んー、あまり面白くなかった。
豊かになるほど、むしろ暇を持て余して活力がなくなるってのはあるけども、まあそうだよねーって程度。
起源を紐解くときに歴史ではなく人類学の視点で考えてたのは面白かったかな。 -
「退屈こそは人間の可能性の現れである」
こんな人がいるとしよう。「GW何もやることがなくて暇だ、そうだ資格の勉強でもしよう!」これはまさに最近の自分にありがちな思考であった。
そんな人は多かれ少なかれ奴隷になってしまっている。この場合は資格の奴隷だ。奴隷になることで人は日々訪れる「なんとなく退屈だ」という不安に苛まれなくて済む。しかし、強制的にやらされている仕事であろうが、自分で決断した物事であろうが奴隷なってしまうと新しい物事を受け入れにくくなってしまう。自分を見つめる時間が減り、やがて自分で決断したはずなのに退屈になるという負のループに陥ってしまう。
暇であることは何も悪いことではなく、自由であるがゆえに新しい刺激(この本では不法侵入と述べている)を受け取ることができ、新しい考え方(この本では環世界)を形成することができる。暇であること、そして人間であることを楽しもうと思える1冊。 -
単純に読み終わったあと、読んで良かったと思えた作品。
ただ単に、暇と退屈について語ってるのではなく、過去の哲学者を引き出し文献について語る。
動物との本能のお話や暇が誕生した経緯、退屈と暇の関係性とありすぎてパンクするほど。
僕の中では、退屈=不幸せであり、何かに奴隷となってる状況が幸せと結論にいたった。
そこには決断が関わっており、決断することによって世界が移動できる。
半年後にもう一度読むとどういう風に感じるんだろう。。 -
こういう内容を読んでいると、福岡伸一の本に書いてあったこととかをちょっと思い出す。「すべての原子は(ためている風をよそおっていても)生命体の中を流れて通り抜けている」みたいなのとか。
人間もずっと動き続けるようになってるだけなんじゃないかなとか。
定住革命っていよいよ人間がガン化したということで、手塚治虫の火の鳥の未来編みたいに核と電子頭脳でドカーンとなるまでが人間のターンなんじゃないかなとか。 -
ジュンク堂で見て
-
哲学
-
とかく難解になりがちな哲学の話を出来るだけ読者に分かってもらおうという著者の真摯な態度が出ている一冊。
<blockquote>「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ」</blockquote>
かつて人類が定住を始めたとき、それまでフル活用していた能力が行き場をなくし、暇が生じた。
暇が出来た時、人は興奮を覚えない。
退屈とは興奮していない状態である。
そして退屈に抗うため仕事、学業、工業や政治経済や宗教、芸能・・・といった「気晴らし」を行う。
この件はスチャダラパーの名曲「ヒマの過ごし方」を想起した。