暇と退屈の倫理学

著者 :
  • 朝日出版社
4.20
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  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

感想・レビュー・書評

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  • 本書の結論にあるように、読まねば語れない本。
    考えさせられ、痛快であり、深刻である。

    いま出会えて良かった本。
    さまざまな哲学者思想家を「暇」と「退屈」を軸に参照しながら、生きることを考える本。
    本が考えるのではない。僕自身が考える。

    以下メモとして、
    「定住革命」が退屈と文明と文化をもたらした。

    ハイデッガーによる退屈の3つの形式。
    1.何かによって退屈させられること。
    2.何かにさいして退屈すること。
    3.なんとなく退屈だ。
    第三形式は「決断」を迫るが、決断後の人間は第一形式を生きる。奴隷として。
    第二形式とは気晴らしと退屈の混じった状態。つまり、生きると言うこと。

    「動物」とは事態に「とりさらわれ」思考を余儀なくされているものである。この時人は第三形式と第一形式に囚われてしまう。
    「人間」は「習慣」となったさまざまな「環世界」を行き来しながら生きていくもの。
    そして「本来の人間」などは存在しない。
    人間とは「人間」と「動物」の間を行き来でき、行き来しなければならないものである。

    以上、絶賛しかない。

  • とてもざっくりと読んだ。

    難しかったけど、興味深い。

    人は、暇を得るために生きてきて、
    気づくと退屈を消費するために生きるようになった。

  • 最高。文句なし。全て俺が思った通りだった。(って思える読書って最高よね)

  • 暇と退屈にどう向き合うかという観点から繰り広げられる哲学書。

    現代は何かに忙しくしているのが常なのに、一方でなんとなく退屈を感じる。

    それはこの社会性が引き起こしたものであるし、人間の本質が引き起こした結果である。

    そのことを理解した上で、自分と向き合い退屈を乗り越えることこそ本書が述べる自分らしさということにつながるのではないだろうか。

  • なるほど。
    哲学ってのは、結論をバーンと出すとありきたりのことである場合が多いように思えるが、大事なのはむしろそこに至るまでにああだこうだ考えたことそのものなのであるなあ。
    結論の手前、ちょっと雑にまとめた印象(爆撃機が飛来する日常でも、習慣化すればやっぱり退屈は生じるだろうし、余裕があっても自分のことしか考えてない人はかなり多いんではないか?)。でもこの本を読んだ人同士でああだこうだ議論できたら有益だと思う。平易な言葉で書かれているし、様々な分野からのアプローチがあるのが良い。

  • 定住生活と退屈の関係がおもしろかった。

  • 「消費するな浪費せよ」というのはやや言葉遊びかな?という気がしないでもないし、バブル時代に流行ったボードリヤール的記号消費批判の域を脱してはいない。全体には古臭く、少々冗長ではある。中心部分はハイデッガーの3形式の関係性だろう。決断の奴隷になる事で結果的には第3形式≒第1形式というのは気がつかなかった視点ではある。だからと言って、消費社会の罠に嵌らずに、第2形式を享受せよという著者の主張はある種の諦観であり、高等テクニックかな?とは思う。まあそんな事はお構いなしに、ネット社会の隆盛において、退屈する暇もなく、新たな衒示的消費が蔓延っているわけだが。

  • 取り敢えず死ぬまで本棚に置いておこうと思います。そして10年ごとに読もうと思います。そう思わせてくださる稀有な価値の本です。心から感謝します。

  • 紀伊國屋じんぶん大賞獲得作

  • 暇を退屈だと思うのはそう思えるだけの自由な環境に自分が置かれているから…妙に納得。
    暇だからといって何もしないのが落ち着かず、何かやることを探すのは、元々移動しながら生活していた人間の生活スタイルから端を発しているのではないかっていうのもおもしろかった!
    あとあと、動物はそれぞれ別の時間軸を持っていて全く別の世界を生きているってのも興味深かった。

    暇だからって何か時間潰しになることを探すより、この暇っていう時間を楽しめばいいのに〜って思ってたけどその考えが強くなった。
    動物って同じ世界に生きてるのにそれぞれ感じてる時間の流れが違うなんて、なんて愛おしい!これからは虫や鳥を見る度に、この子はどんな時間を感じてるのかなって考えてみよーっと。

  • 資本主義の展開によって裕福になり暇を得た日本人。しかし同時にその暇の使い方が分からない。その暇の中でいかに生き、退屈とどう向き合うべきかを論じた思想書です。とても面白かったです。バートランド・ラッセルやウイリアム・モリスの言葉で始まり、原理論、系譜学、経済史など多面的な視点から“暇と退屈”を論じていく本書は、思想書とは思えないほど読み易く、哲学というものの面白さを改めて実感しました。中心となるのはマルティン・ハイデッガーの退屈に関する論旨ですが、非常に読み難いとされているハイデッガーがすごく身近に感じられて、良い意味で深く考えさせてくれる本でした。一般的に思想書なるものは敷居が高く、読破するには相当な気力が必要とされるイメージですが、本書はそう言った意味では入門書的な位置づけでも手に取り易いと思います。東浩紀著「一般意志2.0」などもそうですが、読み易く且つ壮大なテーマを扱った思想書が期せずして同時期に上梓されたというのは良いことですね。こういった本が今後も沢山出てくると、一般人にも哲学の世界がすごく身近になるのではないかと思います。

  • いろいろ目からうろこだった。
    飽きっぽい性格なのも仕方ないよね☆と思った。
    本能に逆らわず、もっと楽に生きれる世の中になればいいなと思う。

  • 宮台は「自由」というものを、根源から湧き出る力に導かれるある種不自由なものと規定した。それを踏まえこの本における「退屈」を考えると、そこにある価値の転倒が明確になる。

  • 平易でよい暇つぶしになった。

  • お堅い本かと思って読み始めましたが、なかなかに面白かったです。暇と退屈について、よくぞここまで考え抜いたもんだと感嘆しました。話は哲学してるんだけど、どこかユーモラスで退屈しない。読んでて笑ってしまう。ちょっと強引な展開もユニークです。「環世界移動能力」、私も持ってるんですね?知らなかったですw 動物的にならないように気をつけなきゃw 読み終わった瞬間から、再読しようと決めました。私の大切な時間をこの本で"浪費"して大変よかったです♪

  • 本当に今の若者は不幸なのか?というフレーズにピンと来て購入。なかなか勉強になります。今まで哲学書は読んだことなかったけど、これはおもしろい。考えるのが好きな人にはおすすめかも。

  • なかなかの野心作であった。

     人間は、遊動生活から農耕などの「定住革命」により、「暇と退屈」を獲得する。そこに、他の動物にはない「行動に対する思考」が介入する。ハイデッガーの退屈論によると、
    1.主体の時間と、その場の時間のズレによりもたらされる「ぐずつく時間による引きとめ」
     例:来ない電車を待っている
     その結果、自分の心や体、周囲に無関心となり、何か(仕事など)に打ち込むことになる。=外からやってくる退屈
    2.時間に引き止められることはないが、場の設定そのものが「気晴らし」の要素を含むもの
     例:パーティーに行ってタバコを吸う。パーティーそのものが、暇つぶし⇒気晴らしの要素を含んでいる。
      ほとんどの趣味、文化。 安定を含む、内からわき上がる退屈
    3.. なんとなく退屈である状態  
      この状態を避けるために、1や2の状態がある。自由を得るために、人間は決断を下さなければならない。

    に分けられる。
     ここから筆者が導きだした結論は、こうである。
    「人間は普段、退屈の第二形式(2.) がもたらす安定と均整の状態を生きている。しかし、何かのきっかけに、「なんとなく退屈だ=第三形式(3.)の声が大きくなり、何かに打ち込むこと(第一形式)でその声から逃れる(決断)。この人間の生の本質から生まれたのが、芸術や文化やパーティーである。さらに習慣的な行動は、退屈の声を消去するための創造である。人間は本来考えないで済むような生活を送ろうとしている。しかし、退屈の第二形式は、人間に考える契機を与えてくれる。重要なのは、退屈の中で考え、思考する過程である。日常的な楽しみ=贅沢を取り戻すことがより深い享受となる。消費ではなく浪費すること、楽しむことは訓練を要することである。」

     人間は、動物的な生としての日常性(第一形式)に加え、第二形式の安定と均整の中で思考することができる。訓練の中で「贅沢」を楽しむことができる余裕があると、思考する過程を通して「退屈とどう向き合うか」という自分に関わる問いから、他人に関われる事柄を思考することが出来るようになる。

     多くの論を引用しながら、最後は至極真っ当な結論となっていて、さらに読破して前向きな気持ちにさせてくれる。

  • 今年一発目に読んだ本。
    内容はタイトルからだいたい予想がつく。
    もう一度読もうとはあまり思わないが、一つのことを考え抜きたいという猛者にはお勧めの本。
    慣れていないと結構根気のいる本です。

  • タイトルにあるように、「退屈と暇」という問題について考察したのが本書。キャッチーなテーマでありながら、骨太な内容で「人はいかに生きるべきか」という哲学の根本問題について論じている。哲学的な話題だかりでなく、人類史的視点、労働問題的視点など広範なトピックを扱っている。

  • ~欠乏の充足から欲望の創出へ~「あなた、こんなものが欲しかったんでしょ」と言われて「あーそうか」と思ってしまう。これが現代の消費社会の正体だ。雑誌の流行も、車やカメラのモデルチェンジも、生きるために必須だから行われるのではなく、「差異の連鎖」を維持していくための装置なのである。「消費社会」が生みだす「有効需要」なのである。差異を消費するというような過剰が成り立つためには、生活に暇がなくてはならない。明日の我が身を知れぬ状態であったら、どうして、ワインの生産年にこだわる必要があろうか。筆者は暇の起源を、人類の定住生活の開始に見出している。個人的には、これは極めて重要な視点であった。私の思考に、定住はアプリオリなものとしてこびりついてしまっていたからである。定住生活が始まったことによって、食料の貯蔵が可能になった。端的にいって、明日の飯のタネを心配することがなくなった。脳に余裕が生まれたわけである。その時代から、うん千年。脳は余裕過剰である。

  • 暇と退屈で、こんなに深い話になるとは思っても見なかったので、とてもいい刺激になりました。

    しかし、退屈ってやつは厄介だね( ・´ω・`)

    この本を読んでいること自体、俺にとって気晴らしだったのかもしれない。

  • 退屈だった。
    衒学的にならず、主張がもろに出ているからわかりやすく、読みやすいんだけれど、結局この議論は何が目的なんだろう? という一番根っこの疑問が残ったままなのでピンと来ない。哲学って難しくてわからない、というより、何が目的なんだかわからない、というぼくみたいのに効く薬があったら飲んでみたい。

  • 何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい...。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。p帯

    「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られなければならない」(ウィリアム・モリス)p27

    パスカルの言うみじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしを求めてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことに他ならない。p43

    (ラッセルにおいて)「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。p53

    【定住革命的な人類史観】
    遊動生活→定住生活の開始→食料生産の開始 p78

    定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。

    【「文明」の発生】
    「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であると共に、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである」p88

    【有閑階級】
    有閑階級とは、いわば、暇であることを許された階級である。p103
    →(顕示的閑暇)

    【資本主義において】
    余暇は資本の論理のなかにがっちりと組み込まれている。Cf. フォーディズム p121

    【レジャー産業】
    は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲求そのものをつくり出す。p125

    20世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのである。p125

    ボードリヤール「消費とは観念的な行為である」p146

    「疎外」と「本来性」p165

    ホッブズとルソーの「自然状態」の対照的な捉え方。p169

    「本来性なき疎外」p180

    【環世界】
    すべての生物は別々の時間と空間を生きている。p253

    人間にとって18分の1秒とは、それ以上分割できない最小の時間の器である。p265

    【ハイデッガーの動物観】
    動物は「世界貧乏的」であるのに対し、人間は「世界形成的」である。p277

    環世界論から見出される人間と動物との差異とは何か?それは人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力を持っているということである。人間は動物に比べて、比較的用容易に環世界を移動する。p285

  • 人間の特権でもあり欠陥でもある能力。我々は何と引き換えに何を手に入れたのだったか。絶望と希望とを両方感じた。

  • 正直わからない部分もあったが、環世界の部分はとてもわかりやすく納得
    。(人間は動物より環世界間の移動能力が高いが故に、つらいことが多い、容易に退屈してしまう。、等々)

    あとは「考えること」についての記述も面白い。理解する過程が重要であることを改めて感じた。

  • non-believerとしての筆者が自身の苦悩と逡巡を経て編み上げた独自のフィロソフィーを一般読者に向けて分かりやすく表明している。学びの本質に迫りそれを動機付ける読み物でもある。本書が社会総体の変革を目指しているという言は決してブラフではない。暇と退屈の倫理に関する人々の考察は社会の真の成熟へと至る要件だろう。

  • @nisiguntarotaro さん(書評なし)

    @wakkyhr 暇と退屈の倫理学...+http://t.co/lAEct12O が私の今年読み切った本です。 本書の表紙(ぼんやりとした空と街) に惹かれて購入を決めました。 内容に対する感想はうまく言葉にできません。「語り得ぬことには沈黙しなければならない」ということで。


    bookbinegerさん


    http://www.bookvinegar.jp/book/11773/
    以下、書評サイト

    人間の本質

    人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求める。さらに人間は気晴らしの対象が手に入れば、幸福になれると思い込んでいる。退屈というのは、人間が振り払うことができない「病」である。この病は賭け事のように熱中できるものがあれば、簡単に避けられるが、これは自分をだましているに過ぎない。

    退屈の反対は、快楽ではなく興奮である。人間が求めているのは楽しいことではなく、興奮できることである。人は退屈ゆえに興奮を求めてしまう。つまり、幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなく、楽しみ・快楽を求めることができる人である。

    退屈とは何か

    退屈の形式は3つに分けられる。

    ①何かによって退屈させられること
    物が言う事を聴いてくれないため、空虚放置され、そこにぐずつく時間による引き止めが発生する。
    ②何かに際して退屈すること
    本来、退屈を払いのける「気晴らし」そのものから退屈が発生する。
    ③なんとなく退屈すること

    ①の退屈を感じるのは、③の「なんとなく退屈だ」という声から逃れるため、何かやるべき仕事を探そうとして発生する。②も同様に③から逃れるための「気晴らし」そのものが発端となる。人間は概ね②の退屈を生きている。時折、何らかの理由で①の構造に逃げ込む。それが人間の生である。

    人間は1万年前に定住生活するまで、遊動生活を送っており、環境変化に対応するように脳が発達してきた。しかし、定住生活をするに至り、新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなると、能力が余ってしまった。この能力の余りは文明の発展をもたらしたが、同時に退屈の可能性を与えた。
    人が「なんとなく退屈だ」と感じるのは、人間の能力が発達してきた証である。

    結論〜いかに生きるべきか〜

    ①こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない
    暇や退屈がなぜ人を苦しめるのかを理解し、自分を悩ませるものについて認識を得ることで、既に何事かを成している。

    ②贅沢を取り戻す
    贅沢とは浪費することで、必要以上に物を受け取ることである。現代社会では浪費ではなく、消費を強いられている。物の受け取りには限界があり、満足がある。しかし、消費は観念を対象としているので、いつまでも終わらない。満足を求めて、消費すればするほど、満足が遠のき退屈が現れる。物を受け取ることが、贅沢への道を開く。
    物を受け取ることとは、その物を楽しむことである。衣食住や芸術、芸能、娯楽を楽しむことである。そして、物を楽しむには訓練が必要である。

    ③思考する
    思考することによって、人は思考の対象にとりさらわれる。(没頭する)人は楽しみ、楽しむことを学ぶことで、物を考えることができるようになる。

  • 著者はデリダ、ドゥルーズ、ガタリ、フーコーなどフランス現代思想の翻訳に多数関わっている哲学者。各誌の書評で好評、紀伊国屋書店では特集コーナーも組まれていたので購読した。

    横軸に暇がある/暇がない。縦軸に退屈している/退屈していないをとると、4つの座標ができるという。

    <第一象限>暇がある、退屈している
    ・暇を楽しむ術がない大衆
    ・いつも気晴らしを求めている人(パスカルの解釈)
    ・時間をいつでも有効に使いたいという強迫観念に囚われている人、俗物、自己喪失の状態。(ハイデッガーによる解釈。退屈の第一形式)

    <第二象限>暇がある、退屈していない
    ・暇を生きる術を持っている優雅な人
    ・有閑階級
    ・労働する必要のない階級
    ・高等遊民

    <第三象限>暇がない、退屈していない
    ・労働を余儀なくされている人
    ・労働階級

    <第四象限>暇がない、退屈している
    ・気晴らししているはずなのに、何だか退屈な気分に囚われる人。(ハイデッガーによる解釈。退屈の第二形式)

    ハイデッガーは、暇と退屈の第四象限(暇がないけれど、退屈な状態)は、人間独自のあり方だと定義する。人間は選択し、自己決定する自由意志を持っているからこそ、暇と退屈な状態にさらされる。退屈な生を生きることは、人間の条件でもある。

    第四象限=退屈の第二形式にある人間が時々、退屈の第三形式に落ち込むことがあるという。退屈の第三形式とは、ハイデッガーによると、「なんとなく退屈」な状態。人間は、「なんとなく退屈だ」という根源的迷いに到達するからこそ、今のままじゃいけないのではないか、何か決断する必要があるのではないかと思い悩むという。

    ハイデッガーは、なんとなく退屈な状態を脱する為に、決断することをすすめている。しかし、ハイデッガーの決断主義は、ナチスドイツのファシズム的熱狂とも一致し得る。何かにとことん熱中することは、自己喪失の状態、熱中する対象に奴隷となる状態をさす。著者は、何らかの対象の奴隷となることなく、自己を保ったまま=人間の自由を保ったまま、なんとなく退屈な状態を脱するオルタナティブな方法を見定めようとする。

    その方法とは、「暇がないけど退屈だ」という第四象限の状態=人間的な生の状態を維持しつつ、時々動物化することだ。

    動物化とは何か。それは目の前のものそのものを受取り、享受する力。一つのことをとことん思考することとなる。

    「動物化」というキーワードが評価されているようだが、結論はそれほどぴんとこず。思考の過程に出てくる様々な思想家の考えの羅列が面白かった。

    著者は暇がある/暇がない、退屈している/退屈していないと肯定表現/否定表現で区分しているけれど、暇だ/忙しい、退屈だ/充実していると肯定表現同士で区分してみることにする。なお「退屈」の反対を「充実」とするのは、退屈ではない状態の解釈になるので、厳密には著者のように「退屈していない」と表現するのが正しい。


    <第一象限>暇で退屈な人
    ・暇人
    <第二象限>暇がある、退屈していない→暇があるけど充実している人
    ・セミリタイア
    <第三象限>暇がない、退屈していない→忙しくて充実している人
    ・カルロス・ゴーン
    <第四象限>暇がない、退屈している→忙しくて退屈な人
    ・現代人

    「暇がない、退屈している」を「忙しくて退屈」と言い換えると、日本社会に生きる現代人だと思える。第二象限を「暇があるけど充実している人」有閑階級なんてセミリタイアした富豪くらいしかいないのではないだろうか。第三象限を「忙しくて充実している人」と言い換えると、そんな風になりたいなと思ってしまう。しかし、20世紀以前の哲学は、暇がないし、退屈もしていない第三象限の人間を労働を余儀なくされている人と定義しているのだから、皮肉だ。

    労働を余儀なくされているなら、それは自己を労働の奴隷にしていると言える。奴隷としてでなく、自らすすんで動物的に労働を楽しんでいるのなら、それはカルロス・ゴーンみたいな人と言えるのだろうか。動物化した経営者の時代。

  • 意外に面白い、じっくり読むつもりが・・・

  • あまりに長くなったのでこっちに。最高の読書体験。
    http://d.hatena.ne.jp/pespace/20120109

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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