人間の条件 (ちくま学芸文庫 ア-7-1)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480081568

感想・レビュー・書評

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  • 311

  • 労働、仕事、活動

    公的、私的

    "人間とは,自然のものであれ,人工的なものであれ,すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。"

    示唆深い

  • ハンナ・アーレントの代表作の一つ。vita activaの三類型として、労働、仕事、活動が提示され、その各々の領分が、古代ギリシャ以来の思想や歴史を参照することによって、画定されていく。極めて多くの素材が取り込まれており、『全体主義の起原』や『革命について』など他の彼女の作品との関連も匂わせる記述が多々見られる。そういう意味で、彼女の代表作と呼ばれてしかるべき一冊だろう。

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    人間の条件を読むにあたり、仲正氏による論文「「公共性」と「共通感覚」:ハンナアーレントの「政治=演劇」モデル」をめぐってを読む、以下はその論文からの以下引用
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    ・「利害」の社会的基礎が崩壊する時、当然、諸個人は「何」が自己にとっての「利害」に当たるのか分からなくなる。大衆人たちは自分にとっての目標を見失い、「世界への関心=利害」の喪失と、「自己」の喪失が表裏一体になっているのが、大衆社会である

    ・全体主義の罠の核心は、失われた「世界」のイメージを再建するように見せながら、実際には、人々の「政治」への「主体」的な関与の余地を消去し、「世界」の崩壊を促進していくことにある。

    アーレントの言う「共通世界」とは、人々の共同体の「全体」としての連続性を保持すると同時に、「個体」としての新しい「始まり」と「終り=目的」を両立させる機能を担っている

    「政治=ポリス」は、新しい「個」が参入して来るごとに更新される、「個」と「全体」を繋ぎ止める蝶番の役割を果たしているのである

    「全体主義」は、「政治」的なコミュニケーションを停止させて、「個」を「全体」の中に全面的に吸収する。それによって、「政治的共同体」の中での「個」と「全体」の弁証法によって「人類」が変化していく可能性が閉ざされてしまう。

    ★「個」と「個」が接近し過ぎて、「一つ」に統合されてしまった時、人々は「世界」を客観的に認識する能力を失う。アーレントは、我々の全ての感性的知覚を最終的に統御すしする統覚的な作用として伝統的に「共通感覚=常識」と呼ばれてきたものの本質は、人が「一人one」ではなく、「複数plural」として、「ポリス=政治体」の中に存在していることにあるという基本的見解を示している。

    「人間」としての固有性を脱ぎ捨てた「ヒト」はあらゆる面において、無自覚のままに、平均・平準化志向になり、まさに「人のする様に」享楽や娯楽を求め、文学や芸術を鑑賞し、感嘆する。

    ハイデガーは、各「現存在」が「ヒト」に全面的に支配され続ける状態を脱して、「世界」の中での「自己の本来的存在」(=「世界内存在」)を見出す必要性を強調する。

    ハイデッガーによれば、他者の視点を反映する「公共性」をフィルターにして「物」を見ている限り、「現存在」は日常的な「ヒト」へと頽落している状態から抜け出せない。

    人々が相互に異なった意見を闘わせることのできる「公共性」こそが、「人間性」の最も重要な条件である「活動」にとって不可欠であるという全く正反対の見解を示している。

    ★ハイデガーにとって意味のある言葉は、「存在」それ自体からー「詩人」を介してー贈り届けられてくる「存在を樹立する」力を持った本来的な言語である。そうした本来的な「言語」を志向するハイデガーの道は、「社会」的コミュニケーションという面から見れば、「公共性」から身を引き離し、(孤独なる)「思考」へと引きこもっていくことに他ならない。

    より本来的なものを求めて、「公共性」から孤独な「思考空間」に引きこもっていくハイデガーとは対照的に、アーレントのアプローチは、「公共性」の中で、「対話」を回復することに主眼を置くものである。「他者」の視点を自己に取り込まない限り、「共通感覚ー共通世界」に基づく「活動」を回復することはできない。アーレントは形而上学的な意味合いの強い「本来的自己」という次元を廃して、「公共性」というコミュニケーション的に開かれた空間の中で「人間性」を定義しようとする。

    自己の「個体性」と共同体の「連続性」を媒介する「共通世界」を維持していくには、一定のゲームのルールを備えた「ポリス-政治的なもの」という特殊な仕組みが必要である


    ★アーレントの「共通世界ー公的領域」は、人間の手によって創り出された「事物の世界」を中心にして、人々が一定のルール、様式に基づいて関係しあう場としてイメージされている。

    ★人にとって自分が物理的にいかなる存在=「何」であるかということは、かなりの程度自らの意志によって制御可能であるが、自分が「公的領域」の「光」の中でそのような「人格」=「誰」として「現われ」るかは、自分の意志だけで意のままになるわけではない。

    ★「公的領域」の中で暴露される「現われ」というのは、「私」の内にアプリオリに備わっている「本性=本質」を「再・現前化」したものではなく、他者との関係性(間主観性)の中で産出されているわけであるから、「私」の主観性を離れている。むしろ、「私」の活動を見ている「他者」たちが、私を「誰」であるかを規定しているというべきだろう。「私」は、自らの「活動」を通して、他者の前に「行為主体」として「現れる」私自身の「正体=誰」を、反射的に知ることになる

    ★「公的領域」の中で自らを暴露する「活動」に従事することで、人は、身体同一性に還元されることのない人格=個人的同一性を獲得する


    ★アーレントの「政治」の領域で「活動」する「人間」たちにとては、他者の前に「現れること」、言い換えれば、行為主体としての自己の「暴露」こそが、人間として生活していくうえで、最も中心的な意味を持つ。ただし暴露されるべき「本来の自己」が、「暴露」に先立って「予め存在」しているということではない。その逆に、その都度の公的な光の下での「暴露」「現れ」を通して、「暴露されている自己」「現れている自己」が形成されるのである。

    ★自分なりの仕方「暴露」しても、他者の前に「現れた」ことにはならず、間主観的なリアリティーを身にまとうことはできない。「公的領域」の中で通用している一定のルールに即した現われをしなければならない。そのルールの体系を、アーレントは「物語」として捉えている。「ポリス」の創設以来、その来歴について語り伝えられてきた大きな(公的)「物語」の中に、「私」の生誕から死に至るまでの小さな人格=個人的「物語」を組み込むことによって、「私」の活動は、共に「ポリス」を構成している他の市民たちに認められ、間主観的なリアリティーを付与される。

    ★新参者の生活の物語は、ユニークな仕方で、彼と接触を持つ全ての人の生の物語にユニークな仕方で影響を与えるようになるのである。まさにこうしたー無数の相互に対立し合う意志と意図を含んだ-既存の人間関係の網の目のおかげで、活動がその目的を達成することはほとんどないのである。

    ★誰もが、言論と活動を通して自らを人間的な世界に挿入することによって自らの人生を始めるわけだが、誰も自分の人生の物語の著者=創造主ではない。別の言い方をすれば、活動と言論の結果である物語は、行為主体を暴露するが、行為主体は著者=創造主でも生産者でもない。誰かがそれを初め、二重の意味において、つまり活動=能動者かつ受苦=受動者として、その「主体」となるが、誰もその著者=創造者ではないのだ

    ★「私」がその中で、「主体」としての役割を演じている「物語=歴史」が、その基盤となっている「共同体」の帯びている歴史性と密接に結びついていることが強調されるようになった。「私」は、特定の歴史=物語的文脈の中で、自己のアイデンティティーを獲得しているのであって、そうした物語の網の目の「外部」は、私にとって存在しないのである。

    ★「歴史」を、「大いなる物語」と見做したうえで、その内には、(それぞれ自らのポリスの「物語」に参与している)無数の活動者や言論者が含まれているとしている。アーレントの「活動主体」にとって、事物の「客観性」は、彼の属する「歴史=物語」の外部にではなく、「物語」を構成する「網の目」の間に有るのである。主体と客体の「関係」それ自体が、ポリスの「物語」のネットワークの中で間主観的に「生産」されている。言い換えれば、「活動者」たちは、自分が参加している「物語=歴史」を共産出する「主体」であると同時に、「物語=歴史」によって産出される「客体」でも有るのである

    ★個人のアイデンティティーを共同体の中で保持していく「物語」を復権しようとした

    対他関係による制約(=活動形式)を受け入れることで、「私」は、放っておけばすぐに忘却され、消滅していく自らの言論や実績を、「偉大な光り輝くもの」としてポリスを構成する共同体の記憶に留められる可能性を得るのである。

    ★「私の生活の物語」は、「ポリスの歴史」に組み込まれることを通して、ポリスが続く限り永続することになる。「公的領域」での活動を介して、「個人」の有限な生を、無数の「歴史」に向かって開かれたもの、個体の生命を超えたものにすることが、アーレントの「自由」なんおである。

    ★生産と交換を基準に思考する「工作人」的な生き方が、「自然」であり、かつ「自由」であると見なされるようになれば、むしろ「生産物=商品」のように意のままに制御できない「他者」との関係(=「活動」)の方が、極めて「不自由」に思えてくる。

    ★アーレントは、我々が人間らしく公的に生きるには、自らの行為がいかなる帰結を生み出すか確実に予測することのできない、「始まり」も「終り」も未確定の「物語=歴史」へと敢えて踏み出す「勇気」が必要であることを強調する。自らの把握能力を超えた、他者たちが語る「物語」の中に敢えて踏み込んでいく時に、私は公的な光に照らされて、自由な「人格」となるのである。

    ★自らの私的な隠れ場を離れ、自分が誰であるか示し、自己を暴露し、身を曝すことの内に、既に勇気が、更には大胆さが現前している。

    本来な意味での「ヒーロー」とは、いわゆる、勇猛果敢に敵に立ち向かうような資質を備えた特別な者などではなくて、自らの生命の安全が保証された「私的領域=家」の敷居を乗り越えて、ポリスの公的な「物語」の中で自己の「正体」を暴露しようとする者たちである。たとえ、本人たちにその自覚がなくとも、公的領域において、その自事績が記憶に残された時、彼らは「英雄」の名前を与えられ、公的「歴史=物語」の一部となる


    「活動者=役者」「物語」「主人公」「英雄」といったタームからもわかるように、アーレントは、「公的領域」での「活動」を記述するにあたって、文学的、とりわけ、「演劇」的なメタファーにかなり依拠している

    彼女のイメージする「政治」が、演劇の舞台をモデルにメタファー化されるのは、その基本的概念装置からして当然のことだと言える。

    公的領域の中でのみ通用する「仮面=人格」を付けて、他の市民たちの前で「演技=活動」し続けることが、「政治」なのである

    意味というのは、物語それ自体というよりも、物語の中で自己を暴露する「主人公=英雄」の意味である。ギリシア悲劇で言えば、このことは、物語の直接的かつ普遍的意味がロゴス=合唱隊によって露呈されることを意味する。

    ★行為主体たちは、あらゆる一般化を、そして、それに伴ってあらゆる物化を回避するので、物語の中での彼らの触れることのできないアイデンティティは、彼らの活動の模倣を通してしか伝達できない。

    ★その場合の「模倣」というのは、「オリジナル」を機械的に「複製」することではなく、各模倣者が、「オリジナル」に含まれている「意味」を自分なりに解釈しつつ、再構築する営みを指している。

    ★役者たちは、英雄=へロスとしてポリスの「歴史」に記憶されている人物の「行為」を再現=模倣する形で「演技=活動」するわけであるが、それは演じている自分の特性を単にそのまま複製するということではなく、記憶に残されているその自分の様々な「行為」を解釈しながら再現前化=表象し、他の人々の「行為」との連関の中で「意味」を付与することである

    各演技者は、その人物の「仮面=人格」になりきって舞台に「登場し=現れて」いるように見せかけるわけだが、そうした彼の「演技」は、劇のプロットを進行させる上での固有の「意味」を与えられているわけである


    ★「演劇」の中での個々の「へロス」と全体の「物語」の関係は、一つの公的物語によって産出されている。「共通世界=公的領域」と「個人の生」の関係をモデルにして構成されていると見ることができる。固有のアイデンティティーを付与された「人格」たちが、他の「人格」たちと関わりながら、自らの母体となる「物語」を産出するという形式をとる演劇は、すぐれてポリス=政治的な芸術様式なのである。そうした政治的な性質を帯びた「演劇」には、舞台の周りに集まった人々を、「公的領域」での「活動」に向けて訓練する機能がある

    悲劇の英雄は、受苦という形で為されてしまったことを再経験することを通して、人々に知られるようになる。そしてこのパトスにおいて、過去を再受苦することを通して、個人的活動のネットワークが一つの出来事、意味のある全体へと変換される。

    実行された行動の意味は、行動自体が終焉し、終わりの中に許容される物語になった時にのみ、露呈されるのである

    ★悲劇には。個人が受けた堪えがたい苦しみー受苦を劇的に「再経験化」することを通して、ポリス全体の「歴史」の中で、「意識」を与える機能がある。理不尽で理解不能な運命に遇った個人の内に起こってきた、どうしても制御できない「情念」は、「悲劇」という形式を媒介にして、共同主観的な意味の体系として「物語」の中に組み込まれることによって、耐えられるものとなるのである

    ★言い換えれば、「生の経験」についての「記憶」が、共同体の「記憶」の一部となることで、「私」の受苦はひとりのものではなく、全市民に共有されるところのものになり、それによって「私」は自らの運命を「歴史」的な文脈の中で受け止められるようになるのである。他者と経験を分かち合うことによって、「私」は、理解しがたい「運命」の猛威から守られ、自己のアイデンティティーを「ポリスという枠の中で」保持できるのである

    ★合唱隊や観客の方も、登場人物の「受苦」が「ポリス」の物語の中で意味を与えられるものを共体験することで、それとのアナロジーで、自らの個人的苦しみに対しても、公的意味が付与される可能性を予感することができる。それが、アリストテレスの悲劇論の核心部とされる「浄化(カタルシス)」効果である。

    ★こうした角度から見れば、「悲劇」という形式は、理解不能な、強い苦しみを受けもだいている「個人」が、自己の「受苦」を、ポリスの空間の中で「物語」的に再現することで、耐えられるものに変換する媒介装置の役割を果たしていると言える

    ★「ポリス」とは、人知を超えた運命(=自然)に翻弄され、崩壊してしまうかもしれない諸「個人」を、共同主観的な「記憶」のネットワークの中で救うべく人為的に構築された「物語」空間なのである。各「人格」は、この舞台の上で「演じ=活動し」続けることで、(ポリスの中での)自己の「同一性」を保っているのである

    ★アーレント的な公的領域で「人間」で有るには、単にメディアを通して伝えられる情報を評価・判断するだけではなく、自ら主体的に「活動」し、他者たちの間で、「記憶」されるように、人格=仮面を「演じ」切らねばならない

    ★ポリスは死すべき活動者=演技者に、彼の過ぎ去り行く存在と流れ行く偉大さが決してリアリティーを欠くことがないよう保証してくれるのである。リアリティーというのは、見られ、開かれること、より一般的に言えば、同胞の人々から成る聴衆の前に現れることに由来するものである。

    ★アーレントは、「ポリス」を、「記憶の共同体」として規定している。ポリスは、限られた命しか持たず、いつか地上から過ぎ去っていく人間たちが、自らの言葉や事績に「記憶」の中での永続性を与えるために組織化された、人工的建築物である。

    ★ポリスの構成員たちは、「記憶」を共有化することによって、生物学的な生の限界を超えて、自らの痕跡を歴史に残せるのである。従って、ポリスの構成員として他の市民から認められるには、この<記憶>を共有している必要があるわけであるが、これが外部からやってくる新参者が、「ポリス」に参加するうえでの一つのハードルになると考えられる

    「物語」を十分に共有していない人間が、公的演劇への参加の意志を表明したとしても、既成のストーリーを演じている市民の前に「現れる」ことができるとは考えにくい。そのような人々が、何らかの理由でポリスの空間に入って来た場合、彼らは「記憶の共同体」から実質的に排除され、忘却の中に取り残されてしまう

    市民たちの間で公的に通用している「記憶」は、ポリスの「外部」にある他者たちを異分子として排除することに拠って成立する

    ★公共圏における仮想的な「他者」の存在が、「思考する私」の自己反省能力を支えている

    「仮面=人格」を被った「役者=活動者」たちの「演技=活動」は、「観客」たちのまなざしによって制約されている

    ★アーレントの<共通世界>とは、全員がお互いに対して「演技」しながら、「観客」として相互に「注視」し合う「演劇」的に構造化された「世界」である。

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    あの年末の神山での忘年会は、まさに自分が「演技者」であって、しかもその空間というのは、全く「まつり(政)」の場であったと思う。その連関から、アーレントが、「政治(ポリス)」を「演劇」との関連させているのは興味深く思い、今後しばらく掘り下げていきたいテーマに浮上してきた。

    アーレントの言う「活動」が、共同体の「物語」において「演技」することであるとすれば、やはり一人の個人の生と言うのはまったくその存在は「不自由」であって、自由意志でどうこうなるものでは決してないことが容易に想像できる。

    その「不自由」な中で、個人が出来ることといえば、おそらく空間(ポリス)において、「求められる役割」を「演じ切る」ことくらいなものなのだろう。

    リアリティーは、結局、残酷な「世界」の動きと共に、あり、それを「受苦」してなお、世界の網の中で「演じる」役目を、更新し続けていくことでしか、保てないのかもしれない。「世界」は個人の意志などとは関係なしに、いつも「動いている」。

    それはおそらくポリス(記憶の共同体)においても同様で、「世界」からポリスが更新されることを望まれている。

  •  
    ── アーレント/志水 速雄・訳《人間の条件 19941001 ちくま学芸文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480081569
     
    ── 《The Human Condition 1958‥‥ America 1973‥‥ 中央公論社》
    ── 《イエルサレムのアイヒマン ~ 悪の陳腐さについての報告
    1963‥‥ ニューヨーカー誌》
     
    ♀Arendt, Hannah 19061014 Germany America 19751204 69 /1933 亡命
     
    (20151106)
     

  • 出口治明著『ビジネスに効く最強の「読書」』で紹介

    「労働」「仕事」「活動」の3側面から人の活動を考察、「公」と「私」の領域を探る。

  • サウス一押しの本.
    前半は難しすぎて断片的にしか理解できず.ある程度の知識が要求される.公的領域,私的領域の境界が崩れるって部分も難解.一番最後の章は慣れてきたからか比較的読み進めやすかった.自然科学におけるガリレオの地動説証明が哲学におけるデカルトの懐疑「われ思うゆえにわれあり」に繋がり,〈活動的生活〉(労働,仕事,活動)のヒエラルキーの逆転が起こったって部分はなんとなく理解できたしおもしろかったかな.
    評価できる程理解できてないので評価はナシで.しかしロジカルな文章なのである程度知識があったら読めるんやろなと思った.
    たまには哲学書も読むと気分が変わりますな.

  • 挫折
    もう一回挫折
    哲学のベースを身につけたら再チャレンジ

  • 第1章 人間の条件

    [要旨]

    〈活動的生活〉は人間の3つの基本的な人間の条件である、労働・仕事・活動を示すものである。その中核は、不死への努力である。一方で、それと本性上矛盾する形であるのが、〈観照的生活〉である。これは、絶対的な「静」を理想としており、永遠なるものの経験をその中核にもつ。そして、ローマ帝国の没落や永遠なる個体の生命を説くキリスト教の福音が、西洋人の排他的な地位を占めるようになったという2つの事件を通して、不死への努力が空虚なものとなったことで、前者は後者の侍女となり下がってしまった。近代がこうした伝統と訣別し、ヒエラルキーの転倒がマルクスとニーチェによって行われたが、〈活動的生活〉の中核である不死への努力が忘れられたままであったので本質的な違いは生まれなかった。

    第2章 私的領域と公的領域

  • 読み直したさ:★★★
    労働・仕事・活動。世界性。多数性。マルクス。第六章にて「最大多数の最大幸福」についての指摘あり(その点に関して、功利主義の失敗などにも他箇所で言及あり)。
    〈感想〉
    たしかに、しかし、〜だからである、と分かりやすく文章が続くので読みやすい。最初のうちは諸概念の理解に苦労したが、考えて読んでいれば後半は楽になる。自分のもつ視点によって得られるものが違うと思うので、また読み返したい。

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著者プロフィール

1906-75年。ドイツに生まれ、アメリカで活躍した哲学者・政治思想家。主な著書に、本書(1958年)のほか、『全体主義の起源』(1951年)、『革命について』(1963年)など。

「2023年 『人間の条件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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