- Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480081568
感想・レビュー・書評
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「暇と退屈の倫理学」に出てきた本。
疎外論にマルクスとヘーゲルとパッヘンハイムとテンニーズ「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」が出てきてそのまとめとしてこの本が挙げられてる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
500頁を超え、さまざまなテーマやアイデアが布置されているこの著書をレヴューするのは難しい。
観照(理論)と対照させながら、〈活動的生活〉内の、労働、仕事、活動の推移を見るというのが概略。
第1、2章の読みにくさを通り越せば、いくらかアレントの言いたいことが視えてくる。
神を利用する必要のなくなったあとの哲学書は、別のところに人間の行動の根拠や目的、担保を求めなければならず、
アレントのそれへの応答が〈約束〉や〈許し〉なんだろうけど、代置された概念は、なんと脆くみえることだろうか。
それが人間のもつ困難だ。
そのことからか、アレントは仕事に依拠した科学への関心を示しているんだろう。
活動、とくに言論に価値を見出そうとする彼女の筆。
テーブルである公的空間と活動のかけあわせによる論筋は、さすがオオモノ現象学者のもとにいただけはある。
ただ、言論に何をどう見出そうとしたのかは具体的にはわからない。
公的〈場〉の設定をした後は?
〈最大多数の幸福〉という語が散見され、ベンサムが最後に登場しているように、
おそらくこういうところに、彼女の政治の目的が見えるんだけれども、
どう政治‐言論と、生の幸福を結びつけるのかという部分は、
『革命』『暴力』に持越しかな、というところ。 -
人間は始めるために生まれてきた
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1958年、ユダヤ系ドイツ人であるハンナ・アレントによって出版された政治理論を扱う英語版の訳書。彼女自身、ユダヤ人であるという偶然性によってナツィによる迫害を受けた経験をもつため、人間は先天的な要素ではなく後天的で自発的な行動が見止められる存在であろうと説かれている。
アレント思想のその後の軸ともなる用語-例えば「労働labor」「仕事work」「活動action」-はたくさん出てくる。けれども、ここで強調されるのは、人間が、有機体として種の生命を担うと同時に、個人として独自的な生も担い、誰一人として同じ人間などいないということ。『人間の条件』では、そのような人びとが、それぞれの独自性を保ちながらも、他の人びとと共生してゆく政治について論じられている。
※アレント自身の英語が整理されきれていないせいか、時に誤訳があるの。例えば27ページ「アウグスティヌスは、少なくとも市民であることが以前は何を意味していたかと言うことを知る最後の人物」など。
またアレントの著書の多くがドイツ語と英語で残されているため、訳語の統一が未だに不完全。 -
つまり、人間であるということは、私的領域を満足させた上で、公的領域に向かっていくこと。
公的領域というものは、他者の理解があって初めて成立するものであって、人間の自己表現の本能なんかにも結びついていくのではないだろうか。
また、他者との共有を深めることで、「リアル」を生み出していく。
客観性の基盤としての金銭は、公分母として働くけれども、それは公的領域のリアリティとは相反するもの。
金銭は公分母になるけれども、公的領域のリアリティは、ないし人間は、それぞれ異なった存在であって、それぞれ異なった場所を占めていて、それが同時に存在することによって成立している。
けれども、近代では金銭が公的賞賛とイコールになってきているし、そうなることによって、それが個人の虚栄によって消費されていく。
そうなってくると、今度は「社会的領域」というものが出現してくる。
すべての触知できる物が消費の対象になり、私的な所有物は消費されるものになり、切迫して必要とされる。
公的賞賛は、金銭になり、また消費される。
近代以前の富の概念は、社会全体の年収に対する分け前。
そして、財産の概念は、世界の特定の部分に自分の場所を占めること。(家、地位とかもそう)
けれども、財産の概念は、人間自身の中にある、労働力に変わりつつある。
このようにして、人間は自分の居場所みたいなものを失いつつあると同時に、それでもなお新しく探している。
それが、現代の社会化された世界。
もっともっと色んなことが書いてあったけど、消化しきれない。
もっと根源的な意味での人間でいたい。 -
『人間の条件』のなかでアーレントは、イエスは宗教的指導者として語ったけれども、彼の思考は根本的な人間の経験と結びついていたために、政治的であり、大きな政治的意味をもっていた、と書きとめている。アーレントの主張によれば、許しというイエスの概念は、ローマの公的権威にいどむ「小さな結束した共同体」の経験を反映しており、本来的には政治的であった。それは、神によって許されることを願う前に、許しは人びとのあいだで実践されなければならないとイエスが教えた事実によって、裏づけられている。許しが必要である理由は、人びとが「自分たちが何を行っているかを知らないということである。すなわち、日常の行いは許し、あるいは解消を必要とする。知らずに行ったことから人びとを絶えず解き放つことによって、生き続けることを可能にするために」。後で見るように、この〈解き放つ〉という言葉は、〈とり消す〉とか〈くつがえす〉という言葉よりも彼女の目的にずっと適している。というのも、〈解き放つ〉というこの言葉は、行いが何らかのかたちで忘れられたり消滅したりするというような意味合いをもたないからである。(ブルーエル)
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2008年はこれに出会えた為に無事生き延びられた、的な。
M時代の1冊を選べといわれれば、コレ。 -
アレントはドイツ人ですが,本書は1956年にシカゴ大学で行われた講義がもとになっているようで,1958年に英語で発表されたもの。彼女の肩書きは政治学者とされることが多いが,半世紀を経た今日においても読み注がれる彼女の研究の関心は多岐に及んでいる。
数ある著作のなかから初めて読む彼女の著作として本書を選んだのは古書店で比較的安く売られていたという偶然によるものだが,この1冊を読んだだけでも,その知見の広さと論理展開の確かさに感服する。本書は目次を見ただけでは面白みに欠けていて読書のモチベーションは上らない。しかし,読み始めるとどんどん引き込まれていく。本書は確かに難しいのだが,けっしてストレスを感じるような難解さではない。
文体に男性的とか女性的とかいうのは避けたいところだが,柔らかすぎてついていけないデリダや,堅すぎて面白くないハーバマスとは違っていて,しっかりしているんだけど退屈ではなく刺激的な文章はやはりクリステヴァに近いものがある。というより,クリステヴァがアーレントの本を書いているくらいだから影響を受けているのだが。
本書のタイトルはあまりにも漠然としたテーマである。本書を読んでいると,時折書名を忘れてしまう。本書は「人間の条件」というテーマを設定して,そこから派生的にさまざまなトピックに発展していくようなものではなく,いくつかの事柄についての議論が,どこを切ってもこのテーマに結びついている,そんな構成になっている。
そして,本書には「近代」への問いがあると思う。本書のベースにはプラトンとアリストテレスがいて,本格的に検討されるべく存在としてのデカルトがいる。人間は何をする動物か。そのことを考察するために,第3章から第5章までの表題につけられた3つの概念を丹念に検討するのだ。その3つの概念とは,「労働」と「仕事」と「活動」だ。そして,もちろんデカルト以降の時代の重要な著者としてのマルクスも検討される。
今回も,傍線を引いた箇所の引用でお茶を濁そうか。
「人間の条件は,人間が条件づけられた存在であるという点にある。いいかえると,人間とは,自然のものであれ,人工的なものであれ,すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。」(p.163) -
[第7刷]1998年12月15日