- Amazon.co.jp ・本 (299ページ)
- / ISBN・EAN: 9784778315559
感想・レビュー・書評
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久々にハードカバーの本を一気に読みました。
最後まで悲しく苦しかった。
特に母親との確執は自分とも重なり胸が痛んだ。
悪気なく人を傷つける人は一番キツイ。
互いに傷つけるしかないのであれば離れるのも大切なこと。
でも少し母親の気持ちも聞いてみたくなった。
実家のちらし寿司、本当はみんなで食べたくて待っていたのでは?とか。私も「お手伝いじゃない」と叫んだことがあるので。
ご主人のことは病の恐ろしさとそれを受け入れるしかない家族の気持ちが赤裸々に書かれていて親の病を思い出していた。大切な人が病んでいるのを見るのは本当に辛い。
シッターの村上さんとの心の行き違いは似たもの同士だから起こる行き違いのようでこれまた苦しかった。著者は本質的にとても私と違う方なのだけれど、共感する部分も多くまた驚くことも沢山あり、一つの映画を観たような気持ちになりました。
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親のトラウマを抱える身として、タイトルに惹かれる。作者の切実さが自身にも堪える。
自分にしか分からない・自分が引き受けなければならない哀しみ。
家族からの自立。家族を持って始めて分かること、未だに分からないこと。価値観のスクリーニング。それでも夜は明ける。 -
実家でのシーンなんかは辛くて辛くてしかたなかった。
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一気に読み終わった。
前作 かなわない より、一子さんが家族としっかり向き合っていることを感じた。
あまりにも現実で、自分自身も体のどこかがおかしくなるかもと暗くなった。
でも、前回なかった写真も多く、私はこの人の生き方に励まされる部分も多く、いつかお会いできたらと強くも思う。
ただものではない、日記である。
子どもたちの様子、日々の食事、仕事の方々との関わりも、面白いのである -
実家と折り合い悪い(どころの騒ぎじゃない)っての…しんどいな…
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生々しいというかなんというか
読んでて気持ち悪くなった。
半分近く読んだけど
これ以上は無理。もっと楽しい話を読みたい。 -
2017年刊行。おそらく2016年の出来事が書かれている。夫である石田さんの章は、これまでの本と同様に日記形式である。著者がこの章で書こうとしたことと日記形式は合っていたと感じた。石田さんがいなくなってしまうことがうっすらとわかったことで、石田さんにスポットが当たる。日々何があったという記録としてもそうだし、大上段に構えてではないけれど石田さんの存在は一体著者にとって何なのか、そんなことが書かれている。
写真が掲載されているこの本のような場合、まずは写真を見てしまう。じっくりとではないけど一通り見た後に、やおら本文を読み始める。その本文の描写と前に見た写真がうまい具合にリンクするので、いい。写真家でもある著者だからこそ、そこにズレがない。 -
読後、SNS時代の子育てというのに思いを馳せた。
この本は私小説としては成功していると思う。子どもたちの名称が統一されなかったり、夫であるECDのことを読者は知っている前提で書かれているというような(小説としての)歪さも私小説的な表現として孔を制している功を奏しているし、自分がという"私"の小説としてありだと思う。
しかし太宰治にしても、西村賢太にしても「これは自分のことなのだろうな」とは読ませるが、小説と私生活には一定の距離がある。体面だけでも"小説"として書かれている。
『家族最後の日』は想定に著者の娘ふたりの写真が用いられている。著者は写真家であるし、中綴じにも収められている写真は素晴らしい写真だと思う。
その写真は本文に描かれたリアルをより鮮明に彩る。実在する人物を実名で描いている上に写真までついているのだから、これでもかというほどにリアルだ。
なるほど、その過剰なまでのリアルさはラップ(特にN.W.A.以降のギャングスタ・ラップ)を初めて歌詞対訳を読みながら聞いた時のショックに近い、のかもしれない。
著者の夫であるECDはかつてメジャーから出した楽曲で現住所を歌い込んだり、「今日の残高」と題してMyspace上で預金残高を晒していたりと、そういったリアルさのショックを打ち出しているところがある。
それは表現としてありだと思うし、真似できるかといわれたら出来ないけれど、支持したい表現方法だ(蛇足ながら書き加えると評者は新作が出たのなら買って聞くようなECDファンである)。
が、それに付き合わされる家族のキモチはどうか…と余計なお世話だと思いながら、考えてしまう。いや夫婦間の話であればお互い同意の上だろうから、それでよい。受け手として支持する・しないだけの話だ。
でも、子どもたちにはその判断はつかないのでは? そりゃお母さんがカメラを向ければ嬉しいだろうし、本になっても無邪気に喜んでいるのだろうが、ここまで赤裸々な心境の吐露を彼女たちは受け止められるのだろうか?
自分自身のことを思い返してみると、両親もまた自分と同じように恋をしたりという自分が生まれる前のひとりの人間としての物語を知るというのはこそばゆい思いがしたものだ。ある程度の年齢を越してからだったからよかったものの、思春期の多感な時期にこの本にあるような赤裸々な母親の思いを受け止められただろうか。
そんなこともあるので、もう少し小説よりの表現 ―つまりは著者=植本一子と重なるけれどあくまで架空のお話という体―で出来なかっただろうか。 -
かなわない、よりずっと気持ちが楽に読めた。
石田さんの病気のその後を知っていて読むのはつらい。