チャパーエフと空虚

  • 群像社
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  • Amazon.co.jp ・本 (459ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903619040

感想・レビュー・書評

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  • 最も「神秘的な」現代作家ヴィクトル・ペレーヴィン - ロシア・ビヨンド
    https://jp.rbth.com/arts/85661-roshia-sakka-viktor-pelevin

    チャパエーフと空虚 | 群像社
    http://www.gunzosha.com/books/ISBN4-903619-04-0.html

  • チャパーエフやピョートルは、ロシアのアネクドート(小話)ではお決まりの登場人物ということで、同じく日本の小話を魔改造したサイケデリック・コミック『真夜中の弥次さん喜多さん』が何度となくクロスオーバーした。
    叡智と野蛮を併せ持った色彩は、クレムリンのように鮮烈で眩しい。雪雲に閉ざされたロシアのイメージが大いに覆された。

  • 私はかれこれ5年以上ロシア語と関わってきたが、数あるロシア語単語のなかでも"пустота"は大のお気に入りである。なぜか。なぜなら、この語は「空虚」なんていう深遠で哲学的な意味を持っているにもかかわらず、発音が「プスタター」と、まるで屁のようにまぬけだからである。このギャップが大好きなのだ。

    そして原題にこの「プスタター」(注:邦訳の本文中では、日本語転写の慣例で「プストタ」と表記されている)が含まれているのが本書(原題:Чапаев и Пустота チャパーエフ イ プスタター)。ということで、期待を胸に読み始めたのである。

    物語の舞台は「2つ」ある。ロシア革命直後の1918年のロシアと、現代ロシアである。語り手は「ピョートル・空虚(プスタター)」という奇妙な名字の持ち主で、彼の語りの中で、夢とも現実ともつかない「2つ」の世界が入れ替わり立ち替わり現れる。ピョートル・空虚は、1918年の世界ではチャパーエフという赤軍の指揮官との奇妙な行軍を繰り広げ、現代ロシアの世界では精神病院の患者として他の入院患者の妄想に飲み込まれ(?)ながら生活している。この2つの世界は相互に関連している、ということが徐々に明かされ、最終的には大カタルシスへ向かう。

    以上が、私がまとめられる精一杯のあらすじである。
    上を読む限り、何か深刻で鬱々とし、難解な小説なのでは、と思われるかもしれない。確かに、ロシア文学特有の(いわばドストエフスキー的な)そういった雰囲気はベースにはあるが、本書の場合はそれを逆手にとるかのように絶妙に、ユーモラスでもあるのだ。そう、まさに私が単語「プスタター」に対して抱いていたイメージと、ぴったり重なるのである。

    具体的にどういったところが、と聞かれても答えられないし、答えるべきでもないだろう。訳者の三浦氏も、巻末の解説では具体的な物語の説明については「知らない方が楽しめるようになっているので、未読の方は本文にお進みいただければ幸い」と匙を投げているわけだし。まずは、そう、読んでみましょう(笑)。その手のものに抵抗の無い読者であれば、ドラッグ的なイメージの連鎖に、ぐいぐいと引きつけられて読み進めてしまうと思う。

    本書を読んだからといって、別に教養がつくわけでも、感動や生きる力を得られるわけでもない。読書にそういったものを求める人には向かない一冊かも。

    じゃあ、お前は?ああ、私は満足ですよ。少なくとも「空虚(プスタター)」さんと少し仲良くなれた気がしますから。

    (ちなみに、一番最初の英文の元ネタは、Simon&Garfunkle の名曲 The Sound of Silence の歌詞ね)

  • ボルヘスとマルケス好きならおすすめ。ロシアにまだまだこんな作家が!!色々な読み方が出来るし、どんな話?と言われても説明しづらいけど(笑)ただある程度哲学の素養がないとつらいのかもしれない。そして笑える。トンデモ小説と言ってもいいくらい!

  • 良い。が、村上春樹では全然ない。小説内小説。プトスタは空虚。

  • チャパーエフと空虚
     トヴェーリ並木通りは、最後に見た二年前の光景とほとんど変わりがなかった-またしても二月、雪の吹き溜まり、昼の光のなかにまで広がるあの独特の暗闇。ベンチにはやはりじっと固まった老婆たちの姿。その頭上に広がる木の枝の黒い網目には、睡眠中の神の重みでずっしりと垂れてきたおんぼろマットレスのような灰色の空が相変わらずのしかかっている。
    (p11)
    なんかモンゴルの僧院で書かれたっぽいプロローグはちょっと一時飛ばして、とりあえず本文から少し読んでみよう。書き出しはゾクゾクしていい感じ。ロシア革命時とソ連崩壊時、それを二重映しあるいは交差させて作品世界を作り上げていく、ようだ。チャパーエフというのは実在のロシア革命時の軍人。でも今のロシア人にとっては、熱血漢のイメージとしてアネクドートによく登場する、そういう人物…
    もう一方の「空虚」とは…
     バルコニーは並木通りに面してはいたが、下には冷たく暗い虚無の空間が二十メートルほど広がり、雪が吹き荒れていた。
    (p25)
    なんだか作品冒頭から語り手あるいは焦点人物が、元友人?にゆすられてその友人を殺害する。誰もいない(なんだか接収された元貴族の家みたい)この友人の部屋にまだいる時に、誰か来訪者が…という場面でこの文章が出てくる。空虚(または虚無)という表現の、多分初出。この虚無空間がなんらかの節足点になるのであろう。
    (2020 10/14)

    上記p25のところから、なんだかよくわからない同志二人と、運転席だけ無蓋でずっと雪が積もりっぱなしの運転手とで場末の文学キャバレーへ行く。中では「罪と罰」のパロディ寸劇やっている。それが終わると語り手がステージへ。
     僕はそこに片足を載せると、静まりかえった客席をにらみつけた。目に見えるすべての顔がひとつに溶け合うような錯覚が起こる-媚びるようでふてぶてしく、卑屈な自己満足の渋面がはりついた表情。これは間違いなく、肉体を奪われてもなお生きている金貸しの老婆の顔だ。
    (p44)
    ここで語り手は革命詩を朗読し、同志二人は銃撃し、雪の中待っていた運転手のとこに戻る。途中で語り手を除き降りて、向かった先は…
    刑務所、あるいは精神病院…

    というところで第2章へ(ちょっと筋書いておかないと見失ってしまう)。読んでいる最中は気づかなかったけれど、どうやら時代も飛び越えそこは1993年ソ連崩壊後らしいのだ。語り手はそこでチムール・チムーロヴィッチ(しかし、なんて名だ…)という医師?に面会し、変な薬打たれ、グループセラピーが始まる。グループといってもどうやら語り手内部に内包する様々な可能性の、いろいろな表出。
     目はほとんど見えず、体は感覚を失い、意識は重く鈍い無関心の闇に沈みつづけている。もっとも不快なのは、そうした感覚をおぼえているのが、自分ではなく、薬が生んだほかの人格であるかのように感じられることだ。
    (p62)
    ここから、その可能性の一つ「ただのマリア」の筋が、活字も変えて割り込んでくる…の、手前で今日はストップ。
    (これについていければ、ギブソンやウルフ(SFの方)もいけるかな…プロローグも読んだ…あとボルヘスやナボコフやブロークなど、文学ネタも多数…)
    (2020 10/19)

    マリアの夢(あるいは語り手の夢)から
     飛行機が小さく傾斜した。マリアには、それが明らかにアンテナに触れたことに関係していることがわかった。それはとても生々しい揺れ方だった。まるでアンテナが飛行機のいちばん敏感な部分ででもあるかのようだ。マリアはそっと鋼鉄の軸をなで、先端部分を掌で包んだ。〈ハリアー〉はびくりと翼を震わせ、数メートル上昇した。ベットに縛られた男の人みたい、とマリアは思った。
    (p82-83)
    ここでは語り手がベットに縛られているわけだが、ここまで直裁的に書かれると、ここから導き出される性的イメージが安易な落とし穴の一つなのではないだろうか。という気もしてくる。チムール・チムーロヴィッチもそんなこと言ってた。
    あとは、この都市上空を飛翔するというシーンが、「巨匠とマルガリータ」でマルガリータが箒に乗ってモスクワを飛ぶのを想起した。これはたぶん作者も意識してるのでは、と思うのだが。
    これで、第2章終わり。

    第3章
     いまと関係ないことに頭を痛める必要はない。あなたのいう『このさき』に行くのは、これからだ。あるいはフールマノフなどどこにもいない『このさき』に行きつくかもしれん。でなけりゃ、あなた自身存在しない『このさき』に行きつく可能性だってある。
    (p111)
    補足…フールマノフとは、小説「チャパーエフ」(1923)の作者。この戦記小説が評判となり、映画化までされた。第3章に出てくるアンナは、映画版のみのキャラクター。
    東洋の刀身に映るレーニン(チェーホフ絡みのセリフを言う)。ロシア革命後の混乱の冬に、動員された民衆を前に演説するところの臨場感。そして、民衆の望むものをその空気から取り入れるチャパーエフ。ここでも、ちょっと前の箇所でも、個人内に閉じ籠もった自我なるものを否定し、相手と意識が流れ合う(ここら辺、「テルレス」のムージルにも通底するのかな)
    (2020 10/20)

    第4章
    ソ連崩壊直後編。奇数章がロシア革命時、偶数章がソ連崩壊直後、という割り振りなのか。
    今度はアートセラピーなるもの。彼以外の三人の絵(マリアの絵は先述の飛行機の夢、他の絵もこの後の夢として出てくるみたい)の描写のあと、語り手…「空虚」という名前らしい…の絵に移る。
     それよりも、絵をひと目見たときに感じた、この絵は未完成だという印象が気にかかっていた。僕は絵に向きなおると、何がいちばん気になるのか少し考えてみた。どうやらそれは、会戦の図と列車のあいだの、空があるべき場所が原因のようだった。そこにはほとんど何の色も塗られてなかったため、空にぽかんとした空虚感が生じていた。僕は机に近づくとちらかったがらくたを手探りして、適当に赤のチョークと木炭の芯のようなものをつかんだ。
    (p135)
    そして、彼はこの空に戦闘を描く。真空を嫌うのは真理だったか心理だったかなんだったか。空虚に耐えきれず何かを付け加えてしまうことが人間の歴史の歩みそのものなのではなかろうか。大半は陰惨な歩みとなってしまうけれど。
    この章の最後は、アリストテレスの石膏の胸像で何度も殴られるところで終わる。実体というものを生み出したとか、ボリシェリズムの先祖であるとか、いろいろ言われてるけど…これも何かの鍵?プラトンの像だった場合では比較してどうなのか?
    (2020 10/21)

    第5章…ということは。ロシア革命後のターン。
     それにくらべてあなたのうわごとはすごくいきいきしてた。じつはそれでときどき聞きに行ってたの、純粋に退屈しのぎとして。いまのあなたなら、うわごとのほうが遥かに面白かったわ
    (p169)
    となるとうわごとは、第4章の内容か。

     もちろん、世界は僕のなかに存在しつつ、僕も世界に存在すると言い返すこともできたかもしれない、これはたんにひとつの意味の磁石の両極に過ぎないと。だが問題はこの磁石、この弁証法のダイアドは、ひっかけられる場所がどこにもない。
     存在するための場所がないのだ!
    (p204)
    チャパーエフと語り手との禅問答(公案)を通して。
    (2020 10/22)

    第6章、セルジュークの物語(と言っていいのかな)。
     もっとも、ここで大事なのはポートワインでも鉄柵でもない。一瞬ひらめいて、悲しみを呼びさましたもの-裏道を囲む柵の外に三六〇度広がった世界がはらんでいたはずの無限の可能性と選択肢だ。
     かつては柵の向こう側にあった空間は、もうかなり以前から、人生経験が眠る無数の棺桶で埋めつくされてしまっているのだから。
    (p210)
    セルジュークというと、ロシアの名前というよりセルジューク朝とのイメージとのつながりが思い出される。けど、ここでの物語というか妄想は、日本の妙な商社…
     その者は、その後いかなる門を通ろうとも、帝の宮殿に入ることはない。いつまでも元の同じ中庭にもどってくることになる!
    (p243)
    「元の中庭」とは、この小説の場合、精神病院のことになるのか。この作品の粗筋的には(モンゴルの僧院で書かれたというはしがきを除くと)ソ連崩壊直後の精神病院から、チャパーエフの時代とか「ただのマリア」とか「タイラ商事のカワバタ」とかを夢見ている、ということになりそう…なんだけど、どういうわけか現実的なのはチャパーエフの時代で、精神病院他が夢見られているようなそういう気が、読んでいてしてくる。あとはこの文章、クラスナホルカイにもあった、というか同一水源ではあるまいか。
     本物の生というものは、本質的に長時間持続するものではない。
    (p273)
    ベルクソンみたいな(本当か)、持続の側に立つ時間と、そこから屹立している生との対比。次のp275の「固定的な核」云々のところは、落語「天狗裁き」の八五郎、またノーテボームの作品の語り手に、読ませたらどうだろう。
    既に、第7章に入っている。
    (2020 10/24)

    現前化と第四の男
     いったいどう表現すればいいだろう、ある舞台装置が移動されたにもかかわらず、もうひとつのセットを置くのが間に合わず、ふたつのセットのすきまが垣間見えたというような感覚-その瞬間僕は、これまでつねに現実と見なしてきたものの裏のからくり、世界というものの単純でくだらない構造を悟った。
    (p302)
    この作品でずっと追求されている「誰でもない、どこでもない、なにか」はこうしたところにあるのか。
     われわれが住む世界もたんに、人々が生まれたときからそう見るように教えこまれてきたものの共同的ヴィジュアライゼーションにすぎない。実際これは、ひとつの世代から次の世代へと引き継がれる唯一のものだ。
    (p313)
    ヴィジュアライゼーション…現前化?宗教で大勢の信者が祈りを捧げるとその対象が姿を現すこと。

    第8章、ヴォロジンの章。
     だがそのとき、だれにも捕まることのない、検事でも被告でも弁護士でもなお、第四の男が残っている。
    (p334)
    内面の(第7章では、ユンゲルン男爵が「内モンゴル」だと言っていた)そこにいる検事とか被告だとか弁護士だとかその他もろもろ、その誰でもない第四の男なるもの。
     要するに、スターリン時代の死後は反宗教的なもんだったが、現代には宗教が復活した…だが宗教のあるいま、今度は死後がスターリン時代みてえになってる。
     それで彼は国民を家族のように愛してて、国民のほうは腹の底からびびりつつ、心底彼を愛してるってことにしとかなくちゃならなかった。宗教みてえなもんだ。
    (p343)
    …引用したかったとこがまだ残っているような…

    カラスと雪と多彩な色取り
    第9章
     じつは僕自身それらの本を書いたとき、必死にその男を探そうとしていたということを。そして新しい詩ができるたびに彼を見つけるのは不可能だと僕は確信する。なぜなら、はじめからそんな男などどこにもいはしなかったからだ。
    (p380)
    これは先の「第四の男」と同一のものか。
     夢の奔流に押し流されると、その瞬間、おまえは流れの一部になる。なぜならその奔流のなかじゃすべてが相対的で、すべてが動いていて、拠り所になる場所がどこにもないからだ。渦に巻かれても気づくことはない。渦とともに本人も動いているから、何も動いていないように感じられる。そうして夢のなかに現実感が生まれる。だが一点、ほかのものと比較して動かないだけじゃなく、絶対的に不動のものがある。それが『知らない』だ。人は夢のなかでそこにようやくたどりついたときに目が覚める。
    (p392)
    p302に書いてあったこと、それからこの作品の構成全般に、この内容が絡んでくる。
    小説「チャパーエフ」もこの「チャパーエフと空虚」もウラル川を渡ろうとして彼らは死ぬ。でも、70年以上を経て意味するところ、効果はまるで違っている。
    (2020 10/25)

    最終、第10章
     窓外には、雪をかぶったポプラの枝にカラスがいた。カラスは枝から枝に飛び移っている。カラスに止まられた枝がぱらぱらと雪を落とす。
    (p426)
     外へのドアはある種の失望すら覚えたほど、あっさりとひらいた。コンクリート壁に囲まれた空虚な中庭一面に、雪がどっさり積もっていた。
    (p428)
    枝から枝へと飛び移るカラスは、今までの夢から夢へと飛び移っていた語り手自身のようだ。では落とした雪とは何だろう。次の文ではその雪が、空虚な中庭に積もっていた。
    空虚な中庭というのは、冒頭p25の空虚を思い出させる。
    ここからの記述はその冒頭第1章に立ち戻っているかのようだ。文学キャバレーも、マルメラードフも、客の顔から一つの金貸しの老婆が合わさるところも。
    最後は、チャパーエフとその装甲車が現れて、乗り込む。
     相矛盾する多彩な色にいろどられた内面世界の渦を理解することは困難ですから
    (p446)
    先のカラスと雪のモノクロームの世界から、そこに到達する。物語が終わる。
    (2020 10/26)

  • 既存のイメージを連結させながら、自然発生的に綴られる禅問答のようなやりとりが延々と続く。それに飽きないのは、不意に現れる奇怪な、しばしばパロディックなオブジェクトの存在であったり、おそらく作者が飽きた瞬間に放棄される状況の変化などがあるからだ。

    チャパーエフというのは実在した人物だそうだ。それどころか、ピョートルやアンナ、その他の重要な登場人物も、人々の間で語られたり、アネクドートとして定着していたりするものらしい。つまりペレーヴィンはロシアに用意された整った材料を使って、明確な方法論をもって小説を書いたということだ。実に面白い仕事だっただろうと思われる。

    そういう土壌があるロシアという土地が、この一面だけとってみれば羨ましくもある。

  • 一般的に「ポストモダン」「哲学的」と紹介される場合、読者の購買欲をそそるとは思えない。本書はまさにその罠にはまって遠ざけられる一冊ではないかと思われる。惜しい。

    ポストモダン云々というよりも、ロシア的混沌を映し出す様が圧巻。散漫にならず、意外なほど章と章の連環が小気味よく、全体を通しても伏線を巧みに回収している。小説の技巧的には丁寧なのに、全体を俯瞰したときには胸焼けするほどロシア的混沌にやられる。

  • 恐怖の兜からの二冊目。これまたくそおもしろい。

  • ここであって、ここでない場所。夢であって、夢でない夢。自分という存在のあやしさに気付くことから湧き上がる問題は、多感な年代を過ごす者には誰にでも襲いかかる問題だろうけれど、それはまた、いつの間にか問題でなくなる(あるは問題であることを忘れてしまう)問題でもある。

    それは、問い、に対して答えが与えられるからではなく、明確な答えが存在しないことが解ってしまうからであるのだが、問題が忘れ去られてしまうのは、問いだけを立て続けることが困難であることを端的に表している。そこを超えて行くとどうなるのか。ここに描かれているのは、そんな困難な問いをどこまでも追い続けていくと何が見えてくるのか、ということに対する一つの提示であるように思う。

    但し、それはやっぱりそれは、答え、ではない。そもそも、ありとあらゆる答えというものは、たかだかplausibleであることがせいぜいなのであるから、この「自分という存在のあやしさ」についての答えだけが明確でないと声高に言うことでもないのかも知れないが、自らの存在の不確実性に目をつぶることができたとしても、他人という存在が実在のものであるのかどうか、という次の問いが既に見えている。それはとても厄介で、できれば避けて通りたい問題であり、問いをそもそも最初からなかったことにしてしまいたいという気持ちになったとしても仕方がないだろうとも思う。

    例えば、誰しも一度は、他人の存在が自分の妄想ではないか、という疑問と向き合ったことがあるだろう。自分が認識している他人は(この際、そもそも全ての現実はそれが脳という空間の中で再構築されている像であるのだから実在は確認しようがない、という線での疑問はひとまず置くとしても)本当に自分の妄想ではないと言いきれるかどうか。そこで立ち止まってしまうと、あたかも真っ暗な空間の中で、わずかに自分の足元を照らすだけの懐中電灯を抱えて途方に暮れている存在であるように、自分が見えてくる。それはとてつもない恐怖と寄る辺なさを伴う感覚である。

    それだけでも既に十分怖いのに、本書はその恐怖を更に凌駕する恐怖を読む者に突きつける。それは、自分の足元を照らしているものと、暗闇の中にあるものとの間はどれだけ地続きであるのか、と疑うことによって生じる恐怖である。それはエキサイティングであり、かつ、猛烈な敗北感にも苛まれる、恐怖である。

    本書のラストで提示されるもの、それはそんな気分から読者を多少なりとも吸い出す光明のようにも見えるのだが、それは決して問題が問題でなくなったことを意味しない。恐怖はどこまでも続く。

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著者プロフィール

1962年生まれ。現代ロシアを代表する作家。『ジェネレーション〈P〉』『汝はTなり』『チャパーエフと空虚』『虫の生活』などが訳されている。

「2018年 『iPhuck10』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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